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明神さまの片隅で [歴史]


 初詣に訪れた人々で賑わう、年初の東京・神田明神。我家でもそこへの参拝が新春の恒例になっているので、今年も家族四人で訪れたが、元日の朝の晴れやかな境内の様子は、今年も相変わらずだ。風が穏やかで朝日が暖かく、2013年の年明けは、東京の天候に限って言えば、まずは穏やかなスタートになった。

 神田明神の祭神は、一ノ宮に大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の別名)、一ノ宮に少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして三ノ宮に平将門命の三柱である。大国主命は七福神の大黒天と習合し、少彦名命は大己貴命とセットで祀られる時は恵比須神のことだとされることが多いから、「だいこく様」と「えびす様」が揃う神田明神には、商売繁盛を願う参拝客が集まることになる。しかも、平将門は「勝負に勝つ」神様ときているから、私が以前にいた会社でも、一月四日の仕事始めといえば、半ドンの帰りに皆で神田明神を訪れたものだった。
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 拝殿の右側には明治7年に明治天皇の御親拝が行われたことを示す碑が立っているが、天皇が直々にお越しになるのに、かつての朝敵であった平将門が祀られているのは具合が悪いとして祭神から外され、代わりに少彦名命が外から勧請されてきたという。その将門が三ノ宮として本殿に戻されたのは1984年のことだというから、現代の我々の社会にも我国の古代の歴史はまだまだ生きていると言うべきなのだろう。

 江戸の総鎮守として人々に崇められた神田明神。境内の一角には江戸の街のヒーローだった銭形平次の墓もあるのだが、その隣にいささか地味な石碑が一つ。普段は目に止まることもまずないのだが、よく見てみると、「国学発祥之地」と書いてある。京都・伏見稲荷の社家の出身で歌人、神道家、国学者であった荷田春満(かだのあずままろ、1669~1736年)が、1700(元禄13)年から1713(正徳3)年までの間、神田明神の神主の屋敷を借りて国学の講義を行ったことを記念しての石碑であるという。
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 「国学は、和歌を中心とした文学の革新運動から起こった。それまでの和歌の鑑賞や解釈は、堂上(昇殿を許された貴族。ここでは古今伝授を受けた歌学の流派)の秘伝として伝えられ、その権威は有職故実の学問によって守られていた。こういう伝統的な学問に対して、知識の公開性と相互批判(師弟であれ同輩であれ)を重んじながら、立ち戻るべきものとしての日本の『古(いにしえ)』を、文献の正確な解読によって明らかにしようとするのが国学である。」
(『江戸の思想史』 田尻祐一郎 著、中公新書)

 国学の先駆者というと、真言宗の僧侶・契沖(1640~1701)の名前がまず挙がる。当時、『大日本史』の編纂準備の関係からか、水戸光圀からの依頼を受けて『万葉集』の注釈に取り組んだ。(当初は歌人・下河辺長流(しもこうべ ながる)にその依頼があったところ、長流は病のためにその使命を果たせず、学問仲間の契沖が代役を引き受けたという。) そして契沖が完成させた作業が『万葉代匠記』という書物になった。なぜ注釈書が必要だったのかというと、いわゆる万葉仮名で書かれた『万葉集』を読める人がいなくなっていたからだそうである。契沖はその『万葉集』を私的に研究していた稀有な人材だったのだ。

 この『万葉代匠記』を書き写して学び、契沖の作業から影響を受けたのが前述の荷田春満だった。神官の子として育った神道家・春満は、朝廷の勅使として江戸に派遣された公卿・大炊御門経光(おおいのみかど つねみつ)に随行。経光が役目を終えた後も江戸に留まって幕府に仕え、武士たちを相手に神道や古典から古き日本の姿を説いたという。神田明神に立てられた「国学発祥之地」の碑はそのことを指しているのだ。

 「古語通ぜずんば、則ち古義明かならず、古義明かならずんば、則ち古学復さず。」
 荷田春満が残した名言であるが、それぐらい、万葉時代の古典と江戸時代の人々の間には、言葉の上での大きな断絶があったということなのだろう。
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(荷田春満)

 この春満の門下生で、『万葉集』の研究を通じて和歌における万葉主義を掲げたのが、上賀茂神社の神職に連なる家の出自である賀茂真淵(1697~1769年)だった。浜松に生まれ、京都で春満に学んだが、春満の死後は江戸に出て国学を教え、田安徳川家に召抱えられて和学御用掛を務めた。

 「『ことに人の心の悪(あし)き国』である中国に対して、事々しい教えがなくとも自然に穏やかに治まっている国、『天つちのおのずからなるいつらの音(五十音)』が美しく伝わる『言霊(ことだま)の幸わう国』としての日本を称える真淵は、『万葉集』の素朴率直で力強い『ますらおの手ぶり』を、日本人の精神として賛美した。」
(前掲書)
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(賀茂真淵)

 そして、賀茂真淵とはただ一度しか会ったことがなく、それ以外は文通によって真淵から学んだという本居宣長(1730~1801年)の登場によって、国学は大成される。その宣長のライフワークは、よく知られているように『古事記』の研究だった。

 荷田春満もその研究に後半生を費やした『古事記』は、完全な漢文体で書かれた『日本書紀』とは異なり、日本独自の一字一音表記を交えたものだった。そしてその表記方法が伝承されなかったために、『万葉集』と同様に江戸時代には読める人がいない古典になっていたという。その『古事記』を今の私たちが現代語訳などで読めるのは、宣長のライフワーク『古事記伝』が残されたからなのである。

 仏教や儒教という外来の思想(「漢心(からごころ)」と呼ばれた)に染まる以前の、『古事記』や『万葉集』に残された古(いにしえ)の日本人の無垢で大らかな心を、原典への綿密な注釈によって解明し、オープンに議論をしていこう・・・。荷田春満や賀茂真淵から引き継がれた国学の精神は、本居宣長において『源氏物語』や『新古今和歌集』などにおける「もののあはれ」論へと展開する一方で、神道における「古道」論へと昇華していく。

 特に後者において、「古代の日本人は不可思議で大らかな神々と繋がっていた」という解釈は、「徳川将軍の権力がアマテラスの計らいとして、朝廷から委任されたことで成り立っている」という思想になった。それが、宣長の没後2年に「夢の中で宣長に弟子入りを許された」という平田篤胤(1776~1843年)によって神道としての更なる理論化が行われ、幕末の尊皇攘夷思想へと繋がっていったことはよく知られている。
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 契沖が生まれた4年後の1644年、中国大陸では明王朝が滅び、女真族の清朝が全土を統一した。荷田春満が神田明神の神主の屋敷を借りて国学の講義をしていた1701~1713年というと、その明の滅亡から60~70年の時が経っている。徳川幕府が統治のイデオロギーとして奨励した朱子学は、かつて漢民族の王朝であった宋の正統性を理屈にしたものだが、その宋はおろか、同じ漢民族の明までもが異民族によって滅ぼされてしまった。理屈が既に現実と合っていない。

 儒学の論理にとらわれず、民族の古典を考証的な手法で読み込み、古の日本の「人間らしさ」を再認識しようという国学が18世紀に入って勃興したのは、当時の時代なりの時間をかけて、明の滅亡という事実を日本人が同時代史として消化した、そのことの一つの証でもあるのだろうか。
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 ともあれ国学というのは、島原の乱(1637年)から大塩平八郎の乱(1837年)までの間、国内で大砲を撃ち合うような内乱が一つもなかった200年の平和な時代に磨き上げられた。忘れられていた日本古来の良さを幾つも発掘した学問だったが、時代が動乱期に入った幕末以降は極めて可燃性の強い思想に繋がったことも事実である。

 「日本を取り戻す」というキャッチ・フレーズを掲げた政党が昨年末の衆院選に大勝して政権に復帰した、今の日本。国学が辿った歴史の教訓を活かすことが出来るかどうかは、ひとえに私たち次第である。

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