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悲しき十周年 [自分史]

 2003年の1月25日というと、その日は土曜日だった。香港は春節(旧正月)をちょうど一週間後に控え、それでなくても賑やかな街中は、彩り豊かなデコレーションが溢れかえっている。私が二泊したホテルの階下にある大型のショッピング・モールにも、同様だ。そして、この時期には固有の四文字熟語が掲げられる。赤地に金色の文字だから、そのインパクトは強烈である。

「恭喜發財」、「財源廣進」、「招財進宝」、「生意興隆(=商売繁盛)」、「萬事如意」・・・。中華民族のお願い事は新年早々やけに現実的だが、それがあのチャイナ・パワーの源泉でもあるのだろう。

 前々日に、長年暮らしたフラットを引き払い、このホテルに投宿。前日はオフィスの内外で帰国の挨拶をして一日が過ぎた。そしてその日の夜は、これまで私のチームで一緒に仕事をしてきた香港人のスタッフたちが、とある広東料理のレストランで私の送別会を開いてくれた。住み慣れた愛すべき街・香港とも、これでいよいよお別れである。
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 ‘90年代の後半から今世紀の初頭にかけて、香港から南のアジア地域では、新たな発電所、天然ガスの液化設備、ガス・パイプライン、海底通信ケーブルなど、いわゆるインフラ関連の建設プロジェクトが多数走っていた。どの国も経済成長が著しく、新たなインフラを必要としていたのだが、技術面でも資金面でも外国勢の力を借りなければならない。香港に赴任した私の役目は、そうした数々のプロジェクトを吟味しつつ、実現可能と判断されるものについて私の会社のフィールドから参画していくことだった。

 香港という場所は、そうしたアジア各国の開発の現場に近いから情報も多く、同業他社が多数集まっていたから、他社とチーム・アップすることも容易だ。その点、期待される役割が東京の本社とは違い、日本人だけで群れていても意味がない。商売の相手も、プロジェクトに参画する関係者も、殆どが非日系の会社であった。

 普段のデスクワークは香港で出来ても、実際にプロジェクトの現場を見たり、そこに近い都市でミーティングが行われたりすることもある。そもそもプロジェクトを成功させるためには、机の上で数字を弾き、理屈を積み上げるだけではなく、現地の様子を自分の目で見てみることが大切なのだ。そのたびに香港から飛行機に乗って出かけて行くのが私の仕事だった。
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(長年暮らした香港のフラットからは、ヴィクトリア海峡が見えた)

 そうしたプロジェクトの現場は、特に資源開発プロジェクトになると、都会からはずっと離れた僻地にあることが多い。東南アジアだから砂漠のど真ん中ということはないにせよ、熱帯・亜熱帯に属する高温・湿潤な気候が支配しているから、ハードシップは高い地域だ。しかし、そこで出会った関係者の人たち、それは事業主体である欧米のオイル・メジャー、建設工事を請け負うコントラクターをはじめとする人たちだったのだが、母国を遠く離れた場所でそうした仕事に取り組む彼らに-人種や国籍を問わず-共通していたのは、事業への真摯な取組み姿勢と士気の高さ、強い使命感であった。

 私が香港に駐在していた間、’97年にアジア通貨危機が起こり、それに続いて大手の銀行・証券会社が破綻するという深刻な金融危機が日本で発生。その影響がアジア地域にも及ぶなど、ビジネスの環境がアゲンストに大きく振れた時期もあった。そして20世紀が終わろうとする頃には私の会社が他社と合併することになり、それに伴って、今思い出してもばかばかしい限りの「後ろ向き」の仕事が社内に溢れるようになった。

 だが、そうしたことには極力手を染めず、ともかくもアジアの各国で新しく立ち上がるプロジェクトに参画する役回り、東京の本社にいたら出会えなかったであろう「前向き」な仕事を経験できたのは、当時の私にとっては何ともありがたいことだった。

 大勢の人間が参画する或るプロジェクトによって、具体的に大きなモノが建ち上がり、それが稼動を始めるというのは、実際にそれに接してみると解かるのだが、実に凄いことだ。そして、そうした事例の数々は、明確な意志があれば人間は夢中になれること、目的を共有しその実現に向かって皆が力を合わせれば、それが実現出来た時の喜びは、人種も国籍も関係なく皆で分かち合えることを、私に教えてくれたように思う。

 その広東料理のレストランは、きっと香港の銅羅湾あたりのどこかにあったのだろうけれど、正確な場所はもう覚えていない。ともかくも、アジアの各地を一緒に飛び回って苦楽を共にした香港人のスタッフたちと夜遅くまで賑やかに過ごし、ホテルに戻った。結果的に6年と8ヶ月にわたった私の香港生活の、それが名実共に最後の夜になった。
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 明けて1月25日の土曜日。朝早くホテルをチェックアウトして、地下鉄で空港に向かう。朝9時のキャセイパシフィック航空のフライトで、私は帰国の途についた。東京の自宅には夕方に着き、翌日の日曜日は、これからの生活に必要だからと、ともかくも携帯電話の契約をしに家内とドコモショップへ行った記憶がある。そして、翌日の月曜日からは東京の本社での新しい仕事がフルスロットルで始まった。

 あれから10年。今年の1月25日は金曜日だ。いつものように朝食を終えて出かける支度をしていた時、朝7時のNHK「おはよう日本」がトップ・ニュースとして映し出したのは、羽田空港に着陸したばかりの飛行機の姿だった。アルジェリアの天然ガス設備で起きた人質事件の犠牲者の遺体と生還者を載せた、政府専用機の到着。それは、何とも痛ましい結末である。

 海外で資源開発をはじめとするプラントの建設工事を請け負うエンジニアリング会社の人々とは、香港時代を含めた私のこれまでのキャリアの中で接点があった。家族と遠く離れた海外の建設の現場で、彼らが士気高く仕事に取り組む様子も、実体験を通じて理解をしているつもりだ。それだけに、今回の事件で不幸にも命を落とされた方々や、生還はされたものの心に深い傷を負ってしまわれたに違いない方々のことを思うと、胸が痛むばかりだ。

 「経済のグローバル化」によって、ヒト・モノ・カネが国境を越えて蜘蛛の巣のように繋がり合った今の時代。そこでは、反政府勢力を一掃するためにフランスがマリへの軍事介入を行ったことが、今回のアルジェリアでの人質事件の発生につながったように、テロ活動もが国境を越えたグローバルなものになっている。そして、今回のような事件が起きてしまうと、その被害者・犠牲者は世界の多数の国々に及ぶことになる。私たちは今、そういう時代に生きているのだ。

 かつて海の向こうで各種プロジェクトの実現に係わったささやかな経験を持つ一人の人間として、国籍を問わず、今回の事件で命を落とされた方々のご冥福と、生還された方々が一日も早く心の健康を取り戻されることを、衷心よりお祈りしたい。

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