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神話と史実 [読書]


 1970年代の中頃に受験生だった私たちの世代。私は受験科目として日本史と世界史を選んだが、それは今では(記憶しなければならないことが沢山あり過ぎて)不利な組み合わせであるらしい。

 とりわけ日本史は「深い」ところまで記憶しないといけないので、その負担が大きく、受験生からは敬遠されがちな科目だという。高等教育を受けている若者たちが、自国の歴史を大学の受験科目に選ぶと不利になるから敬遠するというのはいかがなものかと、私などは思ってしまうが、それはともかくとして、私が高校生の頃の日本史の教科書には、この国の始まりについてこんな風に書いてあった。

 「大陸では280年に魏にかわって晋が中国を統一したが、その国力は弱く、4世紀初めには、北方の匈奴をはじめとする諸民族の侵入をうけて江南にうつり、やがて南北朝時代がはじまった。この時期に東アジアの諸民族はつぎつぎと中国の支配をはなれて独立し、国家統一の傾向を示した。(中略)
 この間の倭人の社会について、文献でははっきりしたことがわからない。しかし大陸の情勢を背景にして、おそくとも4世紀前半には、大和朝廷によって、西は九州北部から東は中部地方におよぶ地域に政治的な統一体がつくりあげられていたと考えられる。」
(昭和49年3月5日発行 『詳説日本史』 山川出版社)

 西暦266年に倭の女王の使者が西晋に朝貢した、という『晋書』の記述を最後に、5世紀の『宋書』に「倭の五王」が登場するまでの約150年間については、中国に残された書物にも倭国に関する記載はなく、その間の日本列島の様子は今もなお謎である。

 私の受験生時代に、先に述べたように大和朝廷の成立時期が「遅くとも4世紀前半」とされていたのは、大和地方で誕生した前方後円墳が、西日本はおろか東北地方南部まで広がったのがその時代であったからだった。だが、教科書がそういう記載に留まっていたのと同時期の1970年代に、大和の纏向(まきむく)遺跡の発掘調査が進められ、とりわけその中の箸墓(はしはか)古墳の調査によってヤマト建国の時期は繰り上がり、今ではそれは3世紀半ばから後半ということになっている。

 ということは、『魏志倭人伝』に残された卑弥呼の時代(その記載によれば西暦248年に卑弥呼は没したとされる)と、ヤマト建国の時期は非常に近いことになる。然らば、「邪馬台国」と大和朝廷とは同じものなのか、違うのか。
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 その答えに困るのは、我が国に残された『日本書紀』や『古事記』には、邪馬台国や卑弥呼に関する記載がないからだ。従って、邪馬台国と大和朝廷の関係、つまり両者が同じものなのか違うのかについては、今もなお決着がついていない。それどころか、そもそも記紀の存在自体が、戦前の「皇国史観」への反省から疎んじられ、戦後日本の学問の世界では甚だ軽視されてきたようだ。歴史学がそうだったから、この国の起源の解明はもっぱら考古学からのアプローチになった。

 そんな中で、私が大学生活を終えて社会に出た後の1984年の夏に、島根県出雲市で荒神谷遺跡が発掘されて、そこから300本を超える銅剣、そして銅鐸と銅鉾が出土することになった。それによって、「銅剣は北九州、銅鐸は大和」というそれまでの定説が覆され、ヤマト建国に至る以前の時代における「出雲」の存在が想像以上に大きなものであることが解ってきた。

 更に1990年代には妻木晩田遺跡(島根県安来市)の調査が進み、出雲から北陸にかけての日本海側に分布する、方形の四隅がアメーバのように伸びた「四隅突出型墳丘墓」に注目が集まるようになった。ここでも一つの文化圏としての「出雲」の存在がクローズアップされることになる。とすれば、我国に古来伝わる「出雲神話」を、作り話だとして遠ざけてばかりもいられないのではないか。
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(宮山4号遺跡の四隅突出型墳丘墓)

 「神話伝承の世界とはなんであろう。古今東西これをもたない民族も地域もない。だとすれば神話伝承を避けて通る古代史というものはありえないだろう。それどころか文字のない口承でものごとが伝えられていた時代、神話伝承が歴史そのものであったこと、しかも古代人の伝承力は現代人よりも遥かに強かったことを忘れてはなるまい。」

 そのようなスタンスから、大国主神や出雲系の神々を求めて夥しい数の神社や遺跡に足を運び、「これまでの通説にこだわらず自由に発想」し、「しばしば神話の世界にも分け入り、古代人の思惟や行動について考え」た歴史研究者の手によって、一冊の本が上梓された。『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて』 (村井康彦 著、岩波新書)である。
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 それが専門の仕事であるとはいえ、著者は実に多くの「現場」を訪れて古代人と向き合っている。そして、そこから導き出されたこの国の起源についての推論は、実に興味深いものである。例えば・・・

 『魏志倭人伝』に記された「邪馬台国への経路」について、「投馬国から南へ水行十日、陸行一月」とあるのを、これは南ではなく東で、しかも瀬戸内海(風が凪ぎ潮目が変わる難路)ではなく、対馬海流に乗って日本海を東へ向かったと考えれば、邪馬台国の所在地は大和になる。

 『日本書紀』や『古事記』に卑弥呼や邪馬台国の記載がないのは、邪馬台国が大和朝廷とは異なる王朝であり、卑弥呼は皇統の系譜として記載されるべき人物でなかったことの証拠である。

 その邪馬台国は、かねてより不和であった男王の狗奴国と交戦状態に入る。その最中に卑弥呼が死去し、やがて邪馬台国自体も滅びるのだが、外部から大和に侵入し、後に大和朝廷と呼ばれる政権を打ち立てたのはどんな勢力だったのか。それこそ、「神武東征」ではないのか。

 神武東征は大和の長髄彦の抵抗に遭って散々苦労したが、最後は饒速日命(にぎはやひのみこと、物部氏の始祖とされる)が娘婿の長髄彦を殺して神武側に帰順。そして、神武天皇は大物主神の娘を娶ったが、その大物主神は大和の三輪山に祀られる出雲系の神である。新たに成立した神武の政権は、大和に既に存在していた勢力、とりわけ出雲の勢力との融和をはかりながらのものであった。言い換えれば、邪馬台国は出雲が作ったクニではなかったか・・・。 等々
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(昔の教科書に載っていた大和の地図)

 我国にまだ文字がない時代。茫漠たる古代というべき時代の話だが、著者が行ったように、各地の神社や遺跡が語るものと神話の世界を、アタマを丸くしてつないでみると、おぼろげながらそこに浮かび上がってくるものには、興味が尽きない。

 私はまだ出雲を訪れたことがない上に、大和の地は仏教の寺しか見ておらず、古代遺跡や三輪山などに足を運ぶ機会はこれまでにはなかった。いつか時間ができたら、これらの地域をゆっくりと訪ね歩き、この国の黎明期と向き合ってみたいと思う。

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