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鉄路は神田へ [鉄道]

 
「江戸っ子だってねえ。」 「神田の生まれよ。」 「そうだってねえ。」

 浪花節に出て来る幕末期の侠客・森の石松が、舟の中で乗り合わせた江戸っ子との間でやり取りする有名なセリフである。石松の生年は不詳で、没年は桜田門外の変が起きた1860(安政7・文政元)年だそうだが、その当時、神田といえば江戸の本家本元のような町だったのだろう。

 東京に住むようになったのは父の代からだから、私は江戸っ子とは言えないが、一応「神田の生まれ」ではある。正確に言えば、神田駿河台にあった産院で昭和30年代の初めに生まれた。そして、その後も神田に住んだことはないものの、神田・御茶ノ水・神保町の三駅を結んで出来るトライアングルの中、つまり広義の神田は、子供の頃から何かと縁のあった地域だった。今でも我家の毎年の初詣先は、何はさておき神田明神と湯島天神になっている。

 今はオジサンになったから、神田というと用事があるのは駅周辺の飲み屋街ばかりだが、私にとっての神田というと、まずは万世橋である。かつてそこにあった交通博物館には何度も通ったので、万世橋の交差点で電車のガードを眺めると、今でも条件反射のように子供の頃のことを思い出す。当時は東京の街中にまだ都電があって、万世橋の一つ隣の須田町の交差点などは、色々な路線を走る都電が集まっていたものだった。
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(都電が残っていた昭和43年の神田界隈)

 よく知られているように、JR中央本線の前身は私鉄の甲武鉄道だった。明治22年に新宿を起点にして八王子までの鉄道路線を開業。それが新宿から東京の中心部へとレールを伸ばし、飯田町(現・飯田橋)までやって来たのが明治28年だった。更に明治37年には御茶ノ水駅が開業。それは、甲武鉄道がその先も鉄路を伸ばして、後の山手線となる官設鉄道と接続することが条件であったという。

 その甲武鉄道は2年後に国有化され、御茶ノ水駅からの延伸は工事が滞る。その間、昌平橋駅という仮設の駅が作られたそうだが、明治45年になって万世橋駅がやっと開業。中央本線の起点の駅になったという。万世橋駅のプラットフォームの跡は、煉瓦造りの高架橋と共に今も残っている。
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(旧万世橋駅の跡)

 このプラットフォーム跡を含む高架橋の南側に建つ真新しいJR神田万世橋ビル。ここが旧・万世橋駅の駅舎があった土地だという。ビルの前にはそのことを示す大きな写真が展示されていて、それによれば万世橋駅の駅舎は東京駅と同じ辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの重厚な様式建築だったそうだ。鉄道の終着駅があり、すぐ隣は市電の集まる須田町だから、全盛期の万世橋は神田界隈では最も賑やかな場所だったのではないだろうか。
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(JR神田万世橋ビル前に立つ旧万世橋駅の写真。手前の銅像は日露戦争のヒーロー、広瀬武夫中佐)

 だが、2年後の大正3年には東京駅が開業。中央本線の線路は万世橋から更に東に延びて、大正8年には万世橋・東京間が開通。万世橋駅は終着駅としての使命を終えた。(なお、同じ年に現在の神田駅が開業している。)
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(大正時代に建設された万世橋・神田間の高架橋)

 「普通の駅」に格下げとなった万世橋駅は、4年後(大正12年)の関東大震災で駅舎を消失。昭和11年には東京駅の一角にあった交通博物館がこの場所に移転することになった。そう、私が子供の頃に通った交通博物館は、この場所にあったのだ。
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(交通博物館。確かに新幹線0系とデコイチが並んでいた)

 万世橋交差点から神田川沿いに昌平橋へと歩いていくと、右側の頭の上に総武線の大きな鉄橋が現れる。秋葉原方面からやって来た黄色い帯の電車が音をたててその松住町架道橋を渡り、続いて川を跨ぐ珍しい形の橋脚を持つ神田川橋梁で神田川を越えていく。その左の中央線電車は万世橋駅跡につながる煉瓦造りの高架を走る。そして神田川の上流方向に見えるコンクリート製のアーチ橋は聖橋だ。このあたり、東京の都心にありながらちょっとレトロな風景である。
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(総武線 秋葉原・御茶ノ水間の松住町架道橋)

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(橋脚の独特な形が印象的な神田川橋梁)

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(聖橋と地下鉄丸ノ内線)

 総武本線の終着駅だった両国駅から、その線路が御茶ノ水まで延伸されたのは、昭和7年のことだ。震災復興計画の一環としてその建設が進められたそうで、隅田川を渡る鉄橋、浅草橋以西の高架橋、先ほど見た松住町架道橋や神田川橋梁など、一連のものはみなこの時に建設されている。また、神田川に架かる聖橋も昭和2年に、やはり震災復興橋梁の一つとして建設されたものだ。関東大震災というのは、やはり東京の景色を大きく変えた出来事であったのだ。
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 昌平橋から神田川沿いに緩い坂道を登り、聖橋の下をくぐると、御茶ノ水橋の手前に東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅がある。ここは駅が神田川の左岸の縁にあるので、池袋方面行きの乗り場に下りる入口は、川岸の急斜面に駅舎が体半分を露出したような恰好になっている。開業は昭和29年。池袋・御茶ノ水間は、東京で戦後新たに開業した最初の地下鉄区間である。
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(神田川の縁に立つ東京メトロの御茶ノ水駅)

 学生の頃からこの駅は数えきれないほど使ってきたのに、つい最近まで知らなかったのだが、この駅舎を設計した人物は、戦前にあのル・コルビュジェのアトリエに学んだことがあるそうで、この駅舎もル・コルビュジェのモダニズムを受け継いだ建物なのだという。そう言われてみれば、四角い箱に窓が整然と並んでいる様子や、地上の高さの部分がガラス張りになっている箇所などが、確かにモダニズムと言えるのだろう。

 しかもこの設計者は、戦前の旧万世橋駅舎の跡地に移転してきた、あの交通博物館の設計も手掛けたという。戦前は万世橋に、そして戦後は御茶ノ水に建てられたモダニズム建築。広義の神田というのは、古くて新しい不思議なエリアである。

 なお、新刊書『東京鉄道遺産』 (小野田 滋 著、講談社ブルーバックス)は、東京に残るこうした各種の鉄道遺産の何たるかを知るために大変有益な本である。
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