SSブログ

彼我の距離 [歴史]


 東京メトロ南北線の白銀高輪駅から外に出て、桜田通りを北東方向へ歩くと、魚籃坂下の交差点の先に長松寺という寺院がある。

 境内へは坂道を登っていくのだが、桜田通りとその坂道の分岐のところに、何とも素っ気ない墓石が建っていて、「史跡 荻生徂徠墓」とだけ書いてある。言うまでもなく、江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠(1666~1728年)の墓を示すもので、国指定の史跡なのだそうである。
sorai ogyu (1).JPG

 江戸に生まれた徂徠。父は将軍綱吉の侍医だった。朱子学の権威である林家に早くから学んだが、父が綱吉の怒りを買って江戸から追放されために、徂徠は14歳の時に母の故郷(現在の千葉県茂原市)に移り住む。そこで読書三昧の独学の日々を重ね、27歳の時に父がようやく許されて江戸に戻った。貧しいながらも塾を開いていたが、31歳で将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の目にとまる。抜擢を受けて吉保の屋敷で講座を持ち、様々な政治上の諮問にも応えたというから、現在の駒込の六義園に暮らしていたのだろうか。

 この徂徠の墓から数百メートルほど南西へ行くと、高松宮の大きな屋敷の西隣に「大石内蔵助良雄以下16名切腹の場」という史跡が鬱蒼とした緑の中にある。ここはかつて細川家の屋敷があった場所で、四大名家に分かれてお預けとなった赤穂義士たちは、それぞれの地で名誉の切腹を遂げたのだった。

 徂徠と赤穂義士。実は歴史の上でもこの二つは繋がっている。吉良邸討ち入りを果たした後、義士たちに対しては庶民ばかりでなく儒家の数々からも助命の声が上がったのだが、これに対して徂徠が示した見解は、義士切腹論だった。
 「大石等の行動は主君に対する義を貫いたとはいえ、許可なく討ち入りに及んだのは法の上では許されない。ここは有罪と定めた上、侍の礼をもって切腹に処すべきである。」
『忠臣蔵』をテレビドラマ化した場合には、必ず出て来るシーンの一つなのだろう。
akou gishi.JPG
(大石内蔵助良雄以下16名切腹の場)

 江戸時代の「官学」は、言うまでもなく朱子学だった。

 漢民族の王朝であった宋が、異民族・金の侵攻によって華北を失った12世紀。そんな時代に登場した朱熹(1122~1200)が体系化した儒教が朱子学と呼ばれるもので、英語では「新儒教」(Neo Confucianism)と言うそうだ。形而上学的な要素が大きく加わり、南宋滅亡後の元朝以降も、中国の歴代王朝の統治のイデオロギーになった。そして、朝鮮半島では高麗王朝がそれまでの仏教に代わって朱子学を国教とし、その姿勢は李氏朝鮮によって引き継がれた。

「日本の場合は、異なる。
 徳川幕府が明や朝鮮をならって朱子学を正学としたことまでは、同じである。
 ただし、科挙の制を用いなかった。
 さらには、習俗まで儒教化しなかった。
 また幕府は朱子学を正学としつつも、江戸中期までは強制をしなかった。
 もう一つ加えると、識字率が高かったため、『論語』などを読む層が庶民にまでおよんだ。
 また科挙の制という規範的なたががなかったため、日本の儒学は本場とくらべて自由──あるいは形態として不定形──だったといえる。」
(『この国のかたち』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 日本史上で初の学問(儒学)の専業者と言われる藤原惺窩(せいか、1561~1619)の頃は、やはり朱子学がそのまま崇められていた。先祖代々の土地を武士によって奪われた経験のある惺窩は、いつしか日本全体を恨むようになり、武威を嫌い、自分が中国に生まれなかったことを嘆いたほどだったという。だが、惺窩は明の滅亡が現実のものとなる前にこの世を去った。

 惺窩の弟子で早くから頭角を現したのは、23歳の若さで徳川家康のブレーンになった林羅山(1583~1657年)だ。彼によって朱子学の官学化が進み、昌平坂学問所の前身が作られたりもした。また、惺窩の死後には山崎闇斎(1619~82年)が出て、朱子学の宇宙観を日本の神道にも当てはめた「神儒一致説」を唱えるなどした。

興味深いのは、この三人(惺窩・羅山・闇斎)がいずれも儒学者になる前は禅僧であったことだ。

 「仏教が築いてきた厚みはやはり圧倒的に偉大なものであり、江戸時代の初期においても、<人間とは何か>という根源的な問題に突き当たった時、人々は、禅をはじめとする仏教から学ぶことで自らの思索を深めようとした。日本の儒教もまた、禅の伝統の中から、禅に対抗することによって生まれたという出自をもっている。(中略)

 この三人はいずれも、かつて学んだ禅を離れ、人倫の道としての儒教を選んでいくのであり、江戸期の朱子学はこの三人から発展してくことになる。」
(『江戸の思想史』 田尻 祐一郎 著、中公新書)

 司馬遼太郎が述べた江戸の学問の自由かつ不定形さ。そして田尻が指摘する禅との切磋琢磨。日本の側にあったこのような背景が、朱子学発祥の地・中国、その朱子学をそのままの形で受け入れた朝鮮半島とは異なる歴史を日本が辿ったことの、大きな理由の一つなのだろう。

 その後の江戸時代には、理論よりも実践を重んじるとされる陽明学に傾注した中江藤樹(1608~1648年)、熊沢蕃山(1619~1691年)らの儒家が出た。この陽明学は、エスタブリッシュメントたる朱子学に対して反体制的な思想に結びつくところが少なからずあって、幕末期の大塩平八郎、吉田松陰、佐久間象山、西郷隆盛などに影響を与えたことも注目すべき事柄だと思う。
Japanese Confucianists.jpg
(江戸期の儒学者たち)

 そして、儒学者の中では、早くも朱子学を批判的に見るような動きが始まる。京都の伊藤仁斎(1627~1705)は、朱熹による古典への注釈に疑問を持ち、朱熹以前の古い注を重んじる「古学」を唱えた。また、冒頭に述べた江戸の荻生徂徠は、朱子学を「憶測に基づく虚妄の説」と痛烈に批判。その上で、古典の訓読(日本語読み)を排し、残されている古典を可能な限り集めて(朱熹の注に依らず)直接その文辞から意味を読み込む「古文辞学」を主張したという。

 「仁斎と同様、朱子を否定して古学を重んじた者に、荻生徂徠(1666~1728年)がいる。
 徂徠の思考法は後世の人文科学にややちかかった。この両者についてさらにいうと、徂徠の儒学が政治学的であったのに対し、仁斎のそれは民衆道徳的な教えだったともいえる。
 この両人の学問は、『西の仁斎、東の徂徠』といわれたほどに世評が高く、決して異端のあつかいはうけていなかった。」
(『この国のかたち』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 朱子学自体は19世紀の日本にも生き残り、尊王攘夷思想へと結びつくなど、日本なりの「副作用」を起こすことにはなるのだが、それでもこのような江戸中期の学問のしなやかさによって、朱子学というイデオロギーから日本が一定の距離を置くことが出来た、そのことの意義は現代の私たちも改めて認識する必要があるのではないだろうか。
sorai ogyu (2).jpg
(荻生徂徠)

 参議院選挙は大方の下馬評通り、自民党の圧勝という結果になった。

 これを受けて中国や韓国のマスコミは早速、「衆参ねじれを解消した安倍政権の長期化によって、日本が東アジアの更なる不安定化の要因となることが懸念される」という論評を伝えている。問題を起こしているのは常に日本だ、と言わんばかりである。

 振り返ってみれば、小泉政権の頃は、中・韓と日本との間の対立は首相や閣僚の靖国神社参拝などに限られていて、そのことによる「政冷」はあるものの、商売は引き続きどんどんやって行こう(「経熱」)という雰囲気がまだあった。それが、民主党政権の間に領土問題に火がついて、特に中国で「反日」を叫ぶ破壊行為が進出先の日系企業に対して行われる事態を経験した今では、もう必ずしも「経熱」とは言っていられなくなっている。

 その中国は、自らが内面に抱えた社会構造の歪みによって、数々の深刻な社会問題に直面し始めており、もはや高度経済成長一辺倒ではやって行けそうにない。だが、共産党の一党支配だから、国の舵取りの方法は私たちから見て極めて異質なものであり、価値観を共有できないことが多い。そして、そんな中国にこのタイミングで急接近を図り、「歴史認識」などを巡って日本への批判を繰り返す韓国の朴槿恵大統領。その姿は、日清戦争以前の冊封体制が甦ったかのようだ。そしてそこに、華夷の秩序でモノを考える朱子学の匂いが漂うからこそ、私たちは「経熱」どころか、出来ることなら中・韓とはもっと距離を置きたいと思い始めているのではないだろうか。

 徳川二百年の平和の中で、様々な学問が花開いた江戸時代。そこで先人たちが吟味し、導き出した朱子学との距離感というものは、民族の知恵として、案外今の私たちの体内にも埋め込まれているのかもしれない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

夏を涼しく一周10km (1) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。