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文明をつなぐ料理 [世界]


 例年にも増して猛暑日が続く今年の夏。朝晩の食卓には、自然体でいけば、さっぱりとした味わいの食べ物が並ぶことが、どうしても多くなる。素麺や焼き茄子、散らし寿司などは代表的なものだろう。

 そんな中、暑い夏になると我家では条件反射のように体が欲するものがある。それは、トルコ料理の幾つかのメニューである。4年前の夏、久しぶりに家族四人で7泊8日の旅に出たのが、トルコだった。現地でも夏の暑い時期だったが、そこで食べた料理の数々がどれも実に美味しく、イスタンブールのエキゾティックな雰囲気と相俟って、私たちはすっかりトルコのファンになってしまったのである。

 先週は息子が夏休みで帰省していたこともあり、8月17日(土)の夕方は、エズメサラダ(様々な野菜を微塵切りにしたトマト・ベースのサラダ)、キョフテ(クミン・パウダーを効かせた挽肉料理)、パトルジャンサラタス(焼いて微塵に叩いた茄子とヨーグルトのサラダ)などを家内と二人で作ることになった。当然のことながら、4年前の旅の思い出話にも花が咲いた。
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(イスタンブールにて 2009年8月16日撮影)

 「世界三大料理」の一つに数えられるトルコ料理。強大なオスマン帝国の時代の宮廷料理として発展していったものとされるが、フランス料理や中華料理に比べると、より広い地域の食文化を緩やかにつないだような印象がある。強烈な個性というよりも、中央アジア・中東からエーゲ海地方、そして西欧の一部までも含めた各地・各民族の伝統的な料理を多彩なスパイスによって包み込んだ、おおらかな料理文化というべきだろうか。それは、東西の文明の通り道だった小アジア地方、とりわけイスタンブールの歴史を象徴するようでもあり、また異教徒に対して比較的寛容だったイスラムの文化の賜物であったのかもしれない。
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(バザールに並ぶスパイス類 2009年8月16日撮影)

 一家でのトルコ旅行の更に4年ほど前のある日、家内と二人で『タッチ・オブ・スパイス』という映画を観る機会があった。2003年にギリシャで制作されたもので、現在のアテネと1950年代のイスタンブールを舞台にしたストーリーだった。(以下ネタバレあり。)

 主人公のファニスはギリシャ人だ。今はアテネの大学の天文学者だが、彼がまだ子供だった1950年代に一家はイスタンブールに住んでいて、ファニス少年はスパイス商を営む祖父からスパイスの効用や天文の話を聞いて育った。その街で温かい家族に囲まれ、幼友達と遊んだ思い出は、ファニスの大切な宝物。だが、その後にギリシャとトルコとの関係が悪化し、一家はイスタンブールからの退去を余儀なくされる。ファニスは両親と共にギリシャに移住するのだが、祖父は「後から行く。」と言ったまま、結局来ることはなかった。
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 時は流れ、若い頃は腕の良い料理人だったファニスも、いつしかアテネで天文学者に。そしてその彼にある日お祖父さんからの連絡があった。ついにイスタンブールを出てアテネにやって来るという。だが、歓迎の料理を作って待っていたファニスに届いたのは、そのお祖父さんが重病で倒れてしまったとの報せだった。矢も楯もたまらず、思い出の街イスタンブールに飛んだファニスは、そこで昏睡状態に陥っていたお祖父さんを看取る。そして、葬儀の席で出会ったのは、子供の頃の初恋の相手・サイメだった・・・。

 ギリシャ版の『ニュー・シネマ・パラダイス』とも評されたこの映画は、封切後にギリシャで記録的な数の観客を集めたそうである。私たちにも大いに楽しめた映画だった。イスタンブールの街中の様子がふんだんに出てきて、しかもテーブルに並ぶトルコ料理の数々が実に美味しそうだ。後に一家四人でトルコへ行くことになったのは、きっとこの時の「刷り込み」が大きかったからだろう。
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 「イスタンブールに住むギリシャ人」だったファニス少年の一家が、政治に翻弄されてギリシャへの退去を余儀なくされた、このストーリーのキーワードの一つは、ギリシャ・トルコ間で行われた「住民交換」という史実である。

 ナポレオン戦争後の1830年に、ギリシャはオスマン帝国からの独立を達成。だがその時点で線引きされたギリシャの領土はペロポネソス半島とその北のごく一部であり、ギリシャ人には不満だった。その後も、「歴史的、民族的見地からギリシャ的と見なされる土地」をオスマン帝国から奪回すべく、北方のマケドニアに向かって対トルコの「解放戦争」が続く。その時に叫ばれたのは、「コンスタンティノープルを取り戻せ」というスローガンであったというから、かつてのビザンティン帝国の版図をギリシャは目指したのだろうか。

(青字部分は『物語 近現代ギリシャの歴史』 村田奈々子 著、中公新書 より引用)

 一方のオスマン・トルコは、第一次世界大戦でドイツに与して敗戦。西欧列強国によって更に領土を狙われる。この機に乗じてギリシャも領土拡大を図り、イズミールに侵攻してきた(1920~22年)。そして、国全体が瀕死の状態にある中でこれに決然と立ち向かい、ギリシャ軍を見事に打ち破ったのが、「トルコ建国の父」ムスタファ・ケマルだった。

 1923年、新生トルコ共和国は西欧各国との講和を定めたローザンヌ条約を締結。そこでギリシャとの間で取り決められたのが「住民交換」だった。

 「これによって、トルコ共和国内に住んでいた150万人のギリシャ正教徒(ギリシャ人)がギリシャに移住し、ギリシャ領土内に住んでいた50万人のイスラム教徒(トルコ人)がトルコへ移住することになった。例外として、イスタンブールに住んでいたギリシャ人と、ギリシャ領トラキアに住んでいたトルコ人はそのまま住みつづけることを許された。」
(『だから、イスタンブールはおもしろい』 澁澤幸子 著、藤原書店)

 「住民交換」とは何とも荒っぽい話だ。しかも、この地域では遥かな過去から混血が繰り返されてきたから、人種的にギリシャ人とトルコ人を区別するのは無理だろう。だから宗教で切り分けた、というのもいささか強引なのだが、それ以外に方法もなかったのだろう。ともかくも、映画に登場するファニス少年のお祖父さんは、こんな時代にイスタンブールに住み続けたギリシャ人の一人だったことになる。
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 だが、ギリシャ・トルコ間の政治的な緊張は、第二次大戦後に再びやってきた。今度はトルコの南、地中海に浮かぶキプロス島を巡ってのことだった。

 「1925年以来、キプロスは英国の植民地になっていたが、第二次世界大戦後、ギリシャ系キプロス人の右翼が、ギリシャ本土の軍事政権にそそのかされ、キプロスをギリシャ本土に併合しようという運動を再燃させた。トルコ系住民は、当然、これに反対したが、ギリシャ人ナショナリストは、トルコ系住民を力ずくで鎮圧しようとした。 ギリシャがキプロスに対する自決権を国連に要求したことが引き金になって、1955年9月、イスタンブールで事件が起こった。」
(前掲書)

 「(中略) キプロスや西トラキアのトルコ人がギリシャ人ナショナリストの暴力に曝されているとき、われ関せずという顔で、イスタンブールで安閑と暮らしているギリシャ人や総主教座に、トルコ人市民の怒りが爆発したのだ。有力紙も、『ギリシャがわが同胞を傷つけるなら、イスタンブールのギリシャ人がその報復を受けるだろう』などと民衆を煽った。」
(前掲書)

 イスタンブール市内でギリシャ人の商店やオフィスが若者たちによる襲撃を受け、ギリシャ人12名が死亡。この騒動に前途を悲観して、イスタンブールから退去するギリシャ人が多かったという。ファニス少年の父親の世代が、まさにそれである。

 隣の国との仲が悪い地域というのは、今も地球上のあちこちにあるものだ。ギリシャとトルコの関係は、その代表的な例だろう。(私たちも他人のことは言えないが。) 火種の一つのキプロス問題は今も未解決で、あの小さな島は1974年以来二つに分かれ、北半分はトルコ系住民の「北キプロス・トルコ共和国」という、世界中でトルコだけが承認している国だ。キプロス共和国との国境には国連の平和維持軍が今も駐屯している。

 映画『タッチ・オブ・スパイス』の終章で、子供の頃の初恋の相手・サイメと再会した主人公ファニス。彼女はやはり幼なじみで後にトルコの軍人となった男と結婚していて、娘もいたが、その結婚生活は破綻しかけていた。長い年月を経て思いがけずも再会し、互いに心揺れる二人。だがサイメは夫と共にイスタンブールを離れねばならない。
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 ファニスが彼女をイスタンブールの鉄道駅で見送るシーンが秀逸だ。それはボスフォラス海峡の東側、つまりアジア側にあるハイダルパシャ駅で、アナトリア方面への列車が出るたいそう立派な駅なのだが、ファニスの住むギリシャ方面への列車は、ここからは出ない。(それは海峡の反対側、つまりヨーロッパ側のシルケジ駅へ行かねばならない。) 再会を果たしたばかりなのに、改めて別々の人生を歩むことになる二人を隔てるものがボスフォラス海峡であるところが、いかにもイスタンブールだ。
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(Google Earthでも俯瞰することができるハイダルパシャ駅)

 実際にトルコへ行ってみると、一口にトルコ人といっても、実に多彩だ。空港の国内線ロビーや鉄道の駅に立っていると、往来する人々の髪の色、瞳の色、肌の色、そして背格好などが様々で、「平均的な顔」というものがない。どう見ても中央アジアから出てきたようなルックスのお婆さんが抱いている孫が、金髪の西洋人顔だったりする。だが、トルコ人の祖先はかつて中央アジアから移動してきたという意識が共通してあるのか、非常に親日的な人々だ。

 我家でトルコ料理を度々作るようなところまでのめり込んでしまうとは思っていなかったが、トルコはいつかまた訪れてみたい国である。

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