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「群衆」が壊した9月 [歴史]

 9月に入っても、東京では厳しい残暑が続いている。

 インターネットで今年8月一ヶ月の気象データを調べてみたら、日々の最高気温の平均が、シンガポールでは31℃だったのに対して東京は33℃。同様に日々の最低気温の平均が、シンガポールの25℃に対して東京では26℃。要するに一ヶ月を通じて東京は赤道直下のシンガポールよりも2度ほど気温が高かったのだ。

 この暑さだから、他の季節なら休みの日に好んで行う公園での散歩も、私はすっかり足が遠のいてしまっている。どんなに緑が好きでも、熱中症の心配をせねばならないような炎暑の中では、さすがに公園を歩く気がしない。早く秋風が吹いてくれないだろうか。

 私はあまり足を向ける機会がないのだが、都心の公園といえばその代表は日比谷公園だろう。

 東京の都市公園は、明治の初年に上野の寛永寺や芝の増上寺など寺社の境内だった場所を公園化したものから始まっている。日比谷公園がオープンしたのはそれよりもだいぶ遅い明治36(1903)年。その一帯は江戸時代には大名家の上屋敷が並ぶ土地だったのだが、元々が入江だったので地盤が緩く、官庁の建物を建てられなかったそうだ。そこで、この場所は東京では初めてゼロから作る都市公園になった。

 有名な松本楼は開園当初からあり、2年後の明治38(1905)年8月には野外音楽堂が完成。当時の地図を見ると、公園の南東側は大きな運動場になっていた。都心にはそのようなスペースが他にあまりなかったから、そこは様々な集会場にも使われていたようだ。
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(現在の日比谷公園。中央のイベント広場が開園当初は運動場だった)

 明治38年の夏というと、日露戦争の講和を目指し、8月10日から米ポーツマスで講和会議が始まっていた。これについては、国立公文書館アジア歴史資料センターのHPにかなり詳しい資料が載っていて、同時の様子を窺い知ることが出来る。

 それによると、ポーツマスでは前日の8月9日に行われた1時間半の非正式予備会談に始まり、全部で10回の本会議と4回の秘密会談が日露間で行われ、交渉時間は延べ3775分(=2日と14時間55分)に及んだという。そして8月29日に行われた4回目の秘密会議と第10回本会議の場で、講和の内容に両国が合意に至り、その後4回の非公式会見を経て、9月5日の講和条約の調印に漕ぎつけたそうである。
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(ポーツマス条約交渉の様子)

 8月29日にポーツマスで両国が講和条件の最終合意に至ったというニュースは、続々と日本にも届く。だがその内容は、多くの国民を落胆させるものだった。日本政府が当初に要求した講和条件でさえ過小なものに見えたのに、それから更に大幅な譲歩を余儀なくされたことは、国民の怒りを増幅させた。賠償金は一銭も取れず、樺太の領有も南半分だけになったのだ。

 「戦争で失ったものは、莫大だった。動員された兵力は108万8,996名、そのうち戦死4万6,423、病気、負傷のため兵役免除となった者約7万、俘虜となった者約2千であった。その他、馬3万8,350頭が死に、91隻の艦船が沈没または破壊された。費消された軍費は、陸軍12億8,328万円、海軍2億3,993万円 計15億2,321万円であった。」
(『ポーツマスの旗』 吉村 昭 著、新潮社)

 戦争による人的・物的な損害に加え、軍費を賄うために国民は公債を購入し、非常特別税を負担してきた。それなのにロシアとの講和条件がこれでは、「平和の代償」が安過ぎる、という訳である。奉天でコサック騎兵に勝利し、対馬海峡でバルチック艦隊を撃滅した、そういうニュースは届いても、軍事力・財政力の両面で戦争の継続は困難だったことは国民に知らされていなかったのだから、無理もなかった。

 「その理由は、ただ一つであった、もしも、憂うべき実情を公表すれば、ロシアの主戦派は勢いを強め、講和会議に応ずるはずがない。たとえ講和会議が開催されたとしても、ロシア側は日本の要求を拒否し、逆に不当な提案を押しつけてくるにちがいなかった。
 そうした内情を知らぬ国民は、講和条約を締結した小村全権とそれを支持した元老、閣僚に怒りをいだいたのだ。」
(前掲書)

 そして、国民のそうした憤懣を、朝野の新聞が煽り立てた。(マス・メディアというものは、いつもそうだ。)

 何しろ相手は帝政の下にあり、「民意」によるチェックがかからない国だから、皇帝が和戦どちらを選ぶかが全てである。そういう国を相手に講和条件を交渉する時に、こちらだけが国民向けのディスクロージャーをしてしまうと交渉そのものが不利になる。議会制民主主義の国がそうでない国と対決する時の難しさがそこにある訳で、これは21世紀の日本にも通じることだろう。(相手が誰とは言わないが。)
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(ポーツマス条約締結の場所に残るプレート)

 そして、日露講和条約の調印式が9月5日と決まる。1905年のその日は火曜日だった。講和の内容に憤激する国民の声を背景に、東京では元衆議院議長・河野広中を会長とする「講和問題同志連合会」が午後1時から日比谷公園の運動場で大会の開催を予定していた。この連合会はそれ以前にも、
「閣下ノ議定セル講和条件ハ、君国ノ大事ヲ誤リタルモノト認ム。速ニ処決シテ罪ヲ上下ニ謝セヨ」
という電報を小村全権に打ち、宮内省に対しても
「閣臣全権委員は、実に陛下の罪人にして又実に国民の罪人なり」
とする天皇宛の上奏文を提出している。

 当時は東京駅がまだなく、新橋駅は汐留の旧駅だったから、今の新橋にも有楽町にも鉄道は通っていない。日比谷の通りには市電が走っていたが、二年前にオープンしたばかりの日比谷公園には、あの公会堂もまだ建っていなかった。今では緑の深い公園だが、日露戦争の勝利を祝う献木が多かったというから、この時点では背の高い木はあまりなかったのかもしれない。ともあれ、この時代、平日の午後一時に日比谷公園での講和反対の集会に参加することができたのは、いったいどのような人々だったのだろう。

 日比谷公園一帯には大会への参加者が朝から続々と集まり、事前に公園入口を閉鎖していた警察との間で小競り合いが始まる。やがて、多勢に無勢で群衆に抗しきれなくなった警察は、止むを得ず公園入口を開放。河野らの大会は午後から予定通り行われ、「講和条約破棄」と「満州派遣軍の総進撃」をねがう決議文を朗読して気勢を上げた。

 大会終了後、群衆の一部は二重橋前で警官隊を襲い始めた。そして京橋の新富座でやはり警官隊と衝突し、当時「御用新聞」と呼ばれた国民新聞社を襲って設備を破壊した。また、或る一隊は日比谷公園に近い内務大臣官邸を襲撃。全権小村寿太郎の官邸も襲われて、火のついた俵が投げ込まれた。

 夕方には東京市内で群衆による警察署や派出所の襲撃が相次ぎ、日比谷の一帯だけでなく、新橋、京橋、神田、上野、築地、深川、本所、浅草へと波及。山の手では小川町、九段坂、市ヶ谷、神楽坂、小石川方面にも及んだ。その他に市電16両が焼かれたという。いわゆる「日比谷焼打ち事件」がこれで、その名前から私たちが想像するよりもずっと広い範囲で、群衆による、「講和反対」にかこつけた破壊活動が行われたのである。翌9月6日には、政府が東京市とその隣接地に戒厳令の一部を施行、それは11月29日まで続いた。もちろん、騒ぎが起きたのは東京だけではない。

 この時の群衆による襲撃の対象は、実は警察だけではなかった。講和会議を斡旋した米ルーズベルト大統領を罵倒しながら米国公使館に押し掛けた人々がいた他、たまたま来日中だった米国の「鉄道王」ハリマン一行が乗った人力車が投石を受けている。更には、あろうことか、米国人牧師のいる教会までもが襲撃の対象になった。

 「(中略)アメリカ人を憤激させたのは、十三ヵ所の教会に対する放火と破壊で、類のない不祥事として激しい非難に終始した論説が連日のように掲載されていた。

 『日本は異教徒の国であるが、たとえ宗教が異なっているとしても、神に祈りを捧げる神聖な場所を焼き払い破壊するのは、人間でないことをしめすなによりの証拠である。』

 『日本人は、戦争中、見事な秩序と団結で輝かしい勝利を得た。かれらは、人道と文明のために戦い、講和会議の締結にもそれを我々に感じさせた。しかし、東京騒擾事件では、かれらが常に口にしていた人道と文明のためという言葉が偽りであることを明らかにした。かれらは、黄色い野蛮人にすぎない。』

 さらに新聞は、米国人牧師のいる教会を襲い、米国公使館、米国人を襲撃したことを重大視し、
『ルーズベルト大統領の厚意あふれる斡旋に対し、日本人は、感謝とは全く逆の暴言と暴行によって応えた。今後数年間、わが国と日本との関係が好転することはないだろう。』
と、攻撃していた。」
(前掲書)

 これが、108年前のちょうど今頃、首都東京で日本の群衆が起こしたことである。

 国の実情を知らされていなかったという背景は確かにある。長く続いた重税へ怨嗟も強かったことだろう。そして、まだ制限選挙の時代だったから、政治に不満があっても投票すら出来ず、やりきれない思いの人々も多かったに違いない。

 だが、そうした理由や背景があったにせよ、ナショナリズムの持って行き方を取り違え、マスコミに煽られて、日頃の鬱憤晴らしに公安を襲い、私有財産を破壊し、外国人を襲撃した。それがこの当時の日本の「群衆」だったのである。21世紀の今、東シナ海を隔てた隣国で起きていることを、私たちは批判的に捉えることが多いのだが、108年前の日本も実はそうだった。そのことは、きちんと踏まえておくべきだろう。

 今は世界中で「ネット世論」が始末に負えない存在に躍り出て、どこの国でも安っぽいナショナリズムに火が着きやすくなっている。世の中に氾濫している、いわゆる「ヘイト・スピーチ」の類は見るに堪えないものばかり。だが、そんな時代だからこそ、私たちは理性をもって行動したいものだ。そしてこんな時代だからこそ、マス・メディアの責任は、極めて重い。安っぽい「世論」にただ迎合するだけであるならば、今度こそ彼らに未来はないだろう。


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