SSブログ

五色の輪 [自分史]

 「今日からこのクラスに入るK君です。」

 二年何組だったかは覚えていないが、教卓の横に立つ私をクラスの面々に紹介して下さったのは、その日から担任になるT先生という小柄な女性の先生だった。場所は東京・渋谷の区立の小学校。二学期の開始日だから、その年の9月1日だったはずである。今から49年も前のことだ。

 私は一応東京生まれではあるものの、幼稚園に上がる年に父の仕事で静岡県に引っ越し、その次は大阪で暮らしていたから、物心ついてからの東京というのは、この小学校に転校してきた二年生の秋が初めてである。それは場所の移転に伴って新校舎が建てられたばかりの学校で、鉄筋コンクリート三階建てで校庭もアスファルト舗装という、当時の東京でさえまだ非常に珍しい姿をしていた。
primary school.jpg
(ビルの谷間に今も残る小学校の校舎。校庭はこんなに綺麗ではなかったが。)

 その時代は、小学生の男の子というと、ほぼ例外なく野球帽を被っていた。クラスの中は当然ジャイアンツ一色。そんな中にあって、二年間の大阪暮らしを経てやってきた私だけが南海ホークスの緑の帽子で、しばらくの間「村八分」に遭ったことは、以前にも書いたことがある。まあそれでも、子供なんてすぐに友達が出来るもので、まだ周辺の地理には明るくないうちから、放課後になると何人かで連れ立って近くの空き地に入り込み、日が暮れるまで遊ぶようになった。(今でも、小学校時代の記憶というと、学校の中でのことよりも、放課後に外で遊んだことばかりである。)

 当時の渋谷の宇田川町あたりは、大規模な建設・再開発が進む傍らで昔ながらの東京が残っていて、今の東急ハンズのあたりから井の頭通り沿いの一帯には民家と商店と町工場がモザイクのように入り混じっていた。そんな環境の中て私たちが放課後によく遊んだのは、或る町工場の跡地で、その廃墟っぽい光景を利用して戦争ごっこをしたものだった。

 その頃、ガキ共の間では2B弾という花火が流行っていた。(「にーびー」と呼ぶのが普通だった。) 爆竹の一種だが、マッチ箱のヤスリ面でこすると簡単に火がつき、煙が白いうちにどこかへ投げるものだ。爆発時には案外大きな音がした。工場跡の、継手も外されてむき出しになったパイプの中にそれを放り込むと、ドカンという音と共に煙が噴き出す。たわいもない遊びだが、ガキ共はそれでサンダース軍曹になったつもりだったのかもしれない。(その後、世の中では暴発事故があったようで、程なく「にーびー」は小学校では禁止になった。)

 戦争ごっこでなくて草野球をやるのなら、他にいい場所があった。現在のNHK放送センターの北側に隣接する「代々木公園陸上競技場」。日本人初のオリンピック・ゴールドメダリストとして知られる三段跳びの織田幹雄に因んで「織田フィールド」と呼ばれていた場所だ。当時は観客席もなく、ただフィールドがあるだけだったように記憶している。平日の午後などは正規の利用者もいないから、私たちは好き勝手に使うことができた。

 その更に北隣の、今は代々木公園になっている一角には、「日本航空発始の地記念碑」が建っている。明治43年に徳川好敏大尉が日本人として初の飛行(但し4分間)を行った場所で、要するにこのあたりは明治時代から陸軍の練兵場だったのだ。それが戦後は在日米軍用の施設になった。私が渋谷に転校してきた、ちょうどその年になってその一帯は日本に返還されたばかりだったから、当時のクラスメートの中には、あのあたりのことをまだ「ワシントン・ハイツ」と呼んでいた子もいたものだった。
yoyogi park.jpg
(代々木公園一帯の変遷)

 それやこれやで、転校してから早くも一ヶ月。東京も秋を迎えていた。

 前日の昼まで雨が降り、天気が心配されていたのだが、土曜日になると、朝から見事な青空が広がった。当時の日本はこの日のために頑張ってきた、それが見事なほどの快晴の日に当たったのである。昭和39年10月10日(土)、第18回オリンピック東京大会がいよいよ始まることになった。
October 1964.jpg
(昭和39年の気象データ)

 この日が「体育の日」として国民の祝日になったのは2年後のことで、東京オリンピックの開会式当日は、まだ普通の土曜日だった。だから、開会式が始まったのは午後の1時50分である。もちろん小学校は午前中で終わっていて、私は家で昼飯を食べた後、テレビ中継を見ていたのだろう。オリンピック序曲の演奏、参加国の国旗と五輪旗の掲揚、選手入場、天皇陛下による開会宣言、そして聖歌の入場・・・。「オリンピックをカラーで見よう」という電器メーカーの盛んな宣伝にもかかわらず、我家のテレビはまだ白黒だったが、そこに映し出された開会式の様子は、私にとっての同時代史の一つとして、今もかなり鮮明に覚えている。

 そのうちに、空の上から大きな爆音が聞こえてきたので、私は庭に飛び出した。航空自衛隊のブルーインパルスだ。千駄ヶ谷の国立競技場の上空に五色の煙で描かれたオリンピックのマーク。そこと渋谷の我家は直線距離で2.5kmほどのものだったから、テレビに映っているのと同じ光景がリアルタイムに我家の庭からも見える。子供の私はそのことに随分と興奮したものだった。
blue impuls.jpg

 あれから49年。先週末にブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、2020年の第32回オリンピック大会の開催都市が東京に決まった。

 今から7年後、2020年の日本というと、国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、総人口は124百万人。その内65歳以上の人口は36百万人になるそうで、これは総人口の29%にあたる。人口の年齢別構成がきれいなピラミッド型をしていた1960年代とは違って、国民のほぼ三人に一人が65歳以上という姿になる。前回は小学二年生として東京オリンピックを迎えた私も、生きていれば7年後は64歳だから、いわゆる生産年齢人口の一番上の世代になってしまう訳だ。
population in 2020.jpg
(国立社会保障・人口問題研究所のHPより拝借)

 そうであれば、これからのオリンピックの準備の仕方も、7年後の本番の迎え方も、更にはこのイベントがもたらす経済・社会への波及効果の内容も、1964年の時のそれとは大きく異なるはずである。だから、競技場と交通インフラを作っておしまい、ということにならないようにしたい。むしろ、社会のハード・ソフトの両面(とりわけ後者)で我国が抱えてきた積年の課題に取り組むためのきっかけにしたいところだ。そして、外国人にとってもわかりやすい日本を目指すべきだろう。そのあたり、個人的にも何か役に立てることはないか、考えていきたい。

 ともあれ、これからの7年という限られた時間を、大切に使っていきたいものである。

opening ceremony.jpg


【追記】
 ついでながら、東京オリンピックの開会式が行われた昭和39年10月10日(土)。この日の夜に、阪神甲子園球場では日本シリーズの第七戦、南海ホークス対阪神タイガースの試合が行われた。

 秋にオリンピックがあるから、春先に例年よりも早く公式戦をスタートさせたプロ野球だったが、ドーム球場がなかった頃だから雨天中止などでペナント・レースの終了が遅れた上に、「なにわ対決」となった日本シリーズも、よりによって第七戦までもつれ込んでしまったのだ。

 千駄ヶ谷の国立競技場に日本中の目が向いていたこの日。甲子園のナイトゲームに集まった観客は15,172人。前日にタイガースを完封したばかりの南海のエース、ジョー・スタンカが、何とこの日も先発。そして二試合連続で完封をやってのけ、3対0で南海が勝ってシリーズ優勝を果たした。(この好投でスタンカは外国人選手初のMVPを受賞している。)

 だが、そもそも「なにわ対決」だったから、東京では殆どニュースにならない。オリンピックの開会式の陰に隠れたようなこの寂しい日本シリーズが、私が応援していた南海ホークスにとって、球団史上最後の日本一。それは、自らを「月見草」に譬えた現役時代のノムさんの野球人生を象徴するような試合だった。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。