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一の酉 [季節]

 三連休二日目の日曜日。朝から曇で、時折薄日が差している。雨が降ることはなさそうだが、「文化の日」にしては少し気温と湿度が高い。

 昼前から家内と二人で都内の実家に顔を出し、年老いた母の相手をして二時間ほどの時を過ごす。先月に82歳の誕生日を迎え、何をするにもゆっくりゆっくりだが、まずは穏やかに暮らしているようで、何よりだ。

 母と家内が和服の整理に取り掛かっていた間、私は庭掃除や垣根の様子を見て回ったが、庭の花水木の紅葉が始まり出していた。少し郊外にある分だけ、都心のそれよりも色付きが進んでいるようだった。
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 この日は、今年の暦では「一の酉」にあたる。二の酉は15日、三の酉は27日でいずれも平日だから、祝日の今日、この後にでも行ってみようか。

 開運招福・商売繁盛を願うお祭で、江戸時代から続く年中行事の一つ、酉の市。海外赴任から帰ってきて、この十年、家内と二人でなぜか毎年足を運ぶようになった。この日だけ買うことができるシンプルな熊手のお守りは、我家の玄関先に置かれるインテリアの一つである。

 埼京線に乗って恵比寿で降り、メトロに乗り変えて一駅東へ行くと、広尾だ。午後4時少し前。地上に出て有栖川記念公園の方向に歩いて行くと、周辺の店のオープン・テラスは多くの外国人たちで賑わっている。近くには大使館も多いから、その関係者もいるのだろうか。私たちに比べればだいぶ薄着で、欧米人にとって東京の11月は温暖なものなのだろう。

 有栖川記念公園を左手に見ながら、道は上り坂になった。南部坂という名前のつく坂道である。

 「今は港区とひとくくりにされているが、昭和22年(1947)に現在のかたちとなるまで、港区の区域は芝区、麻布区、赤坂区の三区に分かれていた。この旧三区の地形は対照的である。いちばん東に位置する芝区は、おもに台地の縁から東の低地沿岸部を占め、いちばん西側の赤坂区は大部分が台地上なのである。
 芝区と赤坂区にはさまれた麻布区は、台地の中に深い谷がいくつも入り組み、都心部で一番複雑な地形を呈していた。現地を訪ねると、たしかに麻布は坂だらけの町だと実感する。」
(『地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇』 竹内正浩 著、中公新書)

 その通りで、家内と二人で歩き始めた南部坂は、広尾側からみた麻布の入口である。

 国土地理院のHPには1/25,000の「デジタル標高地形図」が掲載されており、5mメッシュの標高データが色分けされているので、地表の地形をビジュアルに理解することができる。それを使って麻布の界隈を眺めてみよう。
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(麻布の高台を上り下りする散歩道)

 ♪春の小川はさらさらいくよ♪ という唱歌のモデルになったという渋谷川。今では暗渠になっている箇所も多いので、その流れを意識することもないのだが、明治通りに沿って、渋谷橋のあたりからはほぼ真東に流れている。それが、古川橋で90度左に曲がって北を向き、麻布十番に近い一の橋で90度右に曲がって再び東を向く。要するに、渋谷から広尾や麻布の高台の南側・東側をぐるっと回るようにして、東京湾へと流れ出ているのだ。広尾と麻布の間を北に向う谷、今では外苑西通りが西麻布交差点を経て青山墓地の西側へと走るその谷も、渋谷川の支流が刻んだ地形であるように見える。

 さて、その麻布の高台に取りかかる南部坂。この地名は、現在は有栖川記念公園になっている場所が、江戸時代には南部藩(陸奥盛岡藩)の下屋敷だったことから来ているという。公園の名前の由来は、言うまでもなく有栖川宮だ。元々は皇女和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁(たるひと)親王が、維新の際に「官軍」の江戸進撃の「東征大総督」に自ら願い出て就任。その御殿が威仁(たけひと)親王の時にこの地に移転となったという。要は、「賊軍」の屋敷が明治政府によって取り上げられ、後に御用地になったということだろう。
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 坂道を登りきり、しばらく道なりに進むと、程なく「仙台坂上」という信号のある不規則な形の四つ角に出る。そこからは下り坂だ。この仙台坂も、同様に仙台藩の下屋敷が坂の途中にあったから名がついたものだ。今ではその場所は韓国大使館になっているので、坂のあちこちに警察官が待機している。
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 文久元年(=1861年)に作成された『東都麻布絵図』という古地図がある。そしてその地図上には、仙台藩下屋敷から坂を隔てて北側にある善福寺の境内が大きく描かれている。「麻布山入口」という交差点で仙台坂を左に折れると、その善福寺の参道が左手にある。
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(筑波大学付属図書館のHPよりDBを利用)

 弘法大師によって開かれ、後の時代には親鸞とも所縁があるという善福寺は、幕末の開国時には境内に米国公使館が置かれたことがあり、公使のタウンゼント・ハリスもここに住んでいたという。福沢諭吉の墓があることでも有名だ。先ほどの5mメッシュの標高地形図でその場所を確認すると、ちょうど麻布の高台の縁に境内が広がっており、ビルが立ち並ぶ以前の景観をそこから想像すれば、「麻布山」善福寺という山号も、それほど大袈裟でもないのかもしれない。

 その善福寺の前を通り過ぎると、程なく麻布十番の商店街が現れる。東側が緩やかに下がった地形になっていて、それを下って行けば、東京メトロ南北線の麻布十番駅のある一の橋付近だ。幕末の「策士」清河八郎が幕府の刺客によって討たれたのが、渋谷川の流れが大きく変わるこの場所である。(将軍上洛の警護のために幕府が集めた浪士隊を、清河は尊王攘夷の挙兵に使おうとした。)

 今日はそこには寄らずに北へ向かって進もう。やがて、新一の橋から来る広い道路を渡ったところが十番稲荷神社である。午後の4時半を過ぎて周囲はもう薄暗くなったから、酉の市を示す提灯がよく目立つ。が、神社そのものは小ぶりなものである。
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 鳥居のある短い階段を上り、家内と並んで二礼二拍手一礼。今の会社を巡る環境はなかなか厳しいので、私は祭神の日本武尊に「難局打開」をお祈りする。家族の安寧を願う家内の祈りに耳を傾けて下さるのは、もう一体の祭神である倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)であろうか。前者は第12代景行天皇の皇子であり、第14代仲哀天皇の父でもあるというから、皇族だ。そして後者は、この神社が十番「稲荷」神社であるように、いわゆる稲荷神のことである。
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 戦後になって二つの稲荷神社が「合併」して出来たという十番稲荷神社。場所もその時に現在の地になったというから、古地図には見られないものだ。本来は大鳥神社で行われる酉の市がここでも開かれるようになったのは、大正13年からだそうだ。そして、昭和8年からはお正月の「港七福神」のスポットにもなっていて、ここは「宝船のお社」なのだそうである。

 元よりお稲荷さんと日本武尊を祀っていたというから、新たに神様を勧請して来た訳ではなく、酉の市や七福神などの行事を後から呼び込んだことになる。それが大正以降のことだとしても、今こうしてこの神社の年中行事として根付いているのは、日本人にとって、季節感というものが何よりも大事なものだからではないだろうか。それによって季節を感じるイベントが、きっと何か欲しいのだ。

 「春を待つ ことのはじめや 酉の市」 (宝井 其角)

 一の酉にしては何やらまだ暖かく、関東では「木枯らし一号」もまだ吹いていないが、今年の残り時間と「今年中にやるべきこと」のリストとを見比べる時期が、いよいよやって来た。

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