SSブログ

春は「あけぼの」 [鉄道]


 あれは私が大学1年の時だから、1977(昭和52)年のことになる。

 高校時代に山岳部で一緒だった同期生のT君と二人で、8月の後半に東北の飯豊(いいで)連峰を目指すことになった。福島・新潟・山形の三県にまたがって雄大な山々がどこまでも続く、その懐の深さがいかにも東北らしい山域だ。

 東京からの交通手段は、上野発の夜行列車だった。当時の時刻表をめくってみた限りでは、23:50発の急行「ばんだい5号」か23:54発の「ばんだい6号」のいずれかに乗ったのだと思う。前者は山形行の急行「ざおう3号」、後者は仙台行の「あづま2号」に併結されていて、いずれも郡山で切り離され、磐越西線で会津若松まで行く列車だ。夏休みの時期とはいえ、会津若松行の二本の夜行急行が僅か4分間隔で運行されていたのだから、今となっては驚くばかりだが、それぐらい夜行列車にはニーズがあったということなのだろうか。

 会津若松には朝の5時過ぎに着き、そこで接続する下りの普通列車に乗り換えて、7つ目の山都という駅で降りた。駅前からは登山口までは、それに合わせたバスが出ていたはずだ。要するに、夜行列車に乗って人々がやって来ることを前提に、色々な物事が成り立っていた時代だったのである。

 1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて東海道新幹線が開業し、その5年後には東名高速道路が全線開通したのに対して、私が飯豊山を登りに出かけた1977(昭和52)年の夏の時点で、東北地方はまだ交通インフラの整備途上だった。1972(昭和47)年に岩槻IC~宇都宮IC間で開業した東北自動車道が、この年にやっと宮城県の古川ICまで伸びた程度だ。東北新幹線にいたっては、開業まで更に5年を待たねばならなかった。東北では依然として国鉄の在来線が大動脈だったのだ。

 とはいえ、陸奥(みちのく)は長い。当時、昼間の電車で上野から青森までは、東北本線経由の特急「はつかり」で約8時間20分、常磐線経由の「みちのく」では殆ど9時間を要した。これでは昼間の時間が殆どつぶれてしまうから、この長い距離を夜間に移動することは理に適っていたのだ。1972(昭和47)年夏の列車ダイヤを見ると、上野から東北方面へは実に多くの夜行の特急・急行が走っていたことがわかる。
midnight trains to Tohoku.jpg
(昭和47年8月の上野発青森行き夜行列車。太線が特急、細線が急行。星マークは寝台列車)

 寝台特急だけ見ても、青森行きは東北本線を走る「はくつる」が1本、奥羽本線経由の「あけぼの」が1本、そして常磐線経由の「ゆうづる」が4本の計6本もあった。(この内、いわゆるブルートレインは「あけぼの」と「ゆうづる4号」で、残りの4本は寝台電車583系。) 急行では東北本線経由の「八甲田」が1本、奥羽本線経由の「津軽」が2本、そして常磐線経由の「十和田」が5本だ。「十和田」のうち2本は寝台列車だった。

 常磐線経由の列車が多くを担っているのは、東北本線の首都圏区間が混雑していたからだろう。また、元々石炭の運送用に作られた常磐線は規格が上だったこと、勾配や急カーブが少ないこともあったようだ。

 それにしても、上野発青森行きの夜行の特急・急行が毎晩14本とは凄い。それはやはり、青函連絡船で北海道へと渡る人たちを見込んでのことだったのだろうか。
the way to Sapporo.jpg
(札幌までの当時の乗り継ぎ)

 青森や函館での乗り継ぎを調べてみると、やはり寝台特急の青森到着時刻は、最も効率的に青函連絡船と接続するように設定されている。特に、青森到着時刻が早い最初の2本(常磐線経由の特急「ゆうづる1号」と「ゆうづる2号」)なら、上野発がそれぞれ19:50と20:00で、札幌着は13:45だから、午後は現地で時間を使えることになる。

 もちろん当時も羽田・千歳間の航空路線はあって、朝の7時台から1時間おきにフライトが出ていた。航空料金は片道13,900円だった。飛んでいる時間は1時間15分だが、フライトの場合は前後に何かと時間を見込まなければならないから、朝の便で飛んで午前中に札幌でアポ、というのは案外難しかったのではないだろうか。

 それに対して、「ゆうづる2号」のB寝台・下段、青函連絡船の寝台、そして函館からの特急を利用すると、上野・札幌間の鉄道・連絡船料金の合計は7,910円(乗継割引料金)だった。それでともかくも13:45に札幌駅に着くのだったら、寝台特急の利用は意外と悪くない選択肢であったのかもしれない。(長旅で疲れそうではあるが。)

 そんな中で、上野発22:00のブルートレイン「あけぼの」は、青森行きとしてはちょっと不思議な時間設定の寝台特急だった。
sleeper train Akebono.jpg

 奥羽本線経由だから、青森到着が10:19と、実に12時間19分もかかり、上野発の寝台特急の中では青森到着時刻が最も遅い。しかも、青森到着の4分前に青函連絡船が出てしまうから、次の船まで1時間50分も待たねばならず、北海道を目指す旅行者には向いてない。

 上野と大宮で首都圏の乗客を乗せた後は福島でも山形でも客扱いをせず、その代り4:36に到着する新庄以降の駅をかなり丁寧にフォローしている。秋田着が7:17だから、このあたりに朝一番に到着する上野発の夜行列車、というのが狙いだったのだろうか。

 そう思って調べてみると、やはりこの列車は上野・秋田間の臨時の寝台特急としてスタートしたらしい。そして1970(昭和45)年10月に定期列車に昇格した時から、上野・青森間になったという。その後、上野・秋田間が一往復増え、東北新幹線開業時のダイヤ改正(1982年11月)で東京・青森間が更に一往復の増便になった。つまり、最盛期は「あけぼの3号」まであったわけだ。

 それが、1988(昭和63)年に一往復が減り、1992(平成4)年に山形新幹線の建設工事が始まった時にルートが変更になった。

 山形新幹線は、奥羽本線の福島・新庄間を狭軌(1067mm)から標準軌(1435mm)に改軌したものだが、これによって在来線の列車はこの区間を走れなくなった。そのために、二往復あった「あけぼの」は一つが「鳥海」に改名されて、上越線回りで日本海沿いに青森へ行く寝台特急へと姿を変え、残る一本は東北本線の小牛田から陸羽東線経由で新庄へ行き、そこから奥羽本線を北上するようルートが変更されたそうである。(陸羽東線は電化していないから、この区間だけはディーゼル機関車が牽引したのだろう。)

 更に、1997(平成9)年に秋田新幹線が開業すると、陸羽東線周りの「あけぼの」は廃止になり、日本海ルートの「鳥海」が再び「あけぼの」へと改名された。これが現在の「あけぼの」の姿である。

 山形新幹線や秋田新幹線の登場によって、外に押し出されるようにその姿形を変えた「あけぼの」。だが、一日に16往復の秋田新幹線が運行され、更には2010(平成22)年12月に東北新幹線が新青森まで延伸されると、日本海回りで上野と秋田・青森を結ぶ「あけぼの」の守備範囲は益々狭くなっていった。
northern bound.jpg
sourthern bound.jpg

 そして、今年3月14日(金)を最後に、「あけぼの」は定期列車としては姿を消すことになった。

 日曜日の朝6時55分、JR日暮里駅のすぐ北側にある陸橋から線路を眺め下ろしていると、上りの「あけぼの」がやってきた。北日本に強い寒気が居座り、日本海側で風雪が続く中、今朝も立派に定時運行だ。
Akebono 01.jpg

 6時58分に上野に着いた「あけぼの」は、7時11分に折り返しで上野駅を離れ、尾久の車両基地へ向けて、来た道を戻る。上野まで寝台車を牽引してきた機関車が今度は最後尾にある訳で、尾久までの間は機関車が後ろから客車を押して前に進む。この「推進運転」が見られるのも、あと一週間だけになった。
Akebono 02.jpg
Akebono 03.jpg
(推進運転で上野駅から戻ってきた「あけぼの」)

 最後の上り「あけぼの」が3月15日の朝に上野に着くと、その26分後に東京駅の23番ホームでは、来年春に開業予定の北陸新幹線用に作られた新型車両E7系が先行デビューする。その両方が見られる日暮里駅前の陸橋には、今日にも増してカメラの列が出来ることだろう。

 「あけぼの」の姿が見られなくなるこの春。これで、定期列車のブルートレインは上野・札幌間の「北斗星」だけになる。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。