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中世の足跡 - 箱根・明神ヶ岳 [山歩き]


 日曜日の朝から多くの乗降客が行き交う小田原駅。北から順に東海道新幹線、小田急線・箱根登山鉄道、そしてJR東海道線の線路が並行し、次々に電車がやって来る。そんな中にあって、駅の一番南側の東寄りに、目立たない乗り場が一つ。1面2線の頭端式ホームに3両編成の電車が停まっている。

 伊豆箱根鉄道大雄山線。大正14年に大雄山鉄道として開業した全長9.6kmのこの路線は、今も全線が単線で、開業当時の面影をそのまま残したような、のんびりとした鉄道だ。小田原駅を出た後、東海道線、小田急線、そして東海道新幹線をアンダークロスして、住宅地の中を北に向かってトコトコと走り続けると、左の窓には今日これから登る明神ヶ岳(1169m)が、青空の下に大きな山体を見せている。今日は本当にいいお天気だ。
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(大雄山駅の佇まい)

 ローカル線の終着駅のような、終点の大雄山駅。その駅前ロータリーからタクシーに乗ると、大雄山最乗寺までは10分足らずだ。箱根の東側の外輪山にあたる明神ヶ岳や明星ヶ岳。そこから東へと降りて来る山の緑にそのまま包まれたような最乗寺は、市街地からも近いのに深山幽谷の風情がある。曹洞宗の禅僧・了庵慧明(りょうあんえみょう、1337~1411)によって応永元(1394)年に開かれたというこの寺は、全国に4千余りの門流を持つというから、日本曹洞宗の中でも枢要な寺である。
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(最乗寺の参道)

 了庵は相州・伊勢原の人で、能登の総持寺などで住職を務めた後、南足柄のこの地への寺院造営を決意。その時に、相模房道了尊者と呼ばれた修験道の行者がこの話を聞き、近江の園城寺(三井寺)から「空を飛んで」この地に駆けつたという。そして「五百人分」の力を発揮して土木工事に協力し、最乗寺の開創は約1年で完成。後に道了が75歳で他界する時には、
「以後も山中にあって大雄山を護り、衆生を救済せん」
として、
「火焔を背負い、右手に柱杖、左手には綱を持ち、白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身を隠した」
というから、何とも凄まじい遷化である。

 このエピソードのために、道了は後に道了大薩埵(どうりょうだいさった)と呼ばれるようになった。そして、大雄山最乗寺自体も、「道了尊」がその別名になっている。

 私たち7人の山仲間は、深い杉の森が続く境内を歩いて、まずは本堂へお参り。今日一日の登山の安全を祈願して、この寺の名物の「和合下駄」の前から始まる登山道へと向かった。
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09:20 登山道入口 → 10:10 見晴小屋

 森の中をゆっくりと登り始めると、あちこちで杉の木の枝が折れ、緑の葉が登山道に落ちていた。それはきっと一ヶ月前の「バレンタイン豪雪」の時の影響なのだろう。
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 最初の一時間近くは、ずっと杉の森の中を黙々と登って行く道だ。尾根に取りつくと南西方向へと登っていくので、朝日が左手から森の中に差し込んでくる。その感じが悪くない。
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 そして、登り始めてから50分で見晴小屋が現れた。(今は使われていない。) 小屋の前のベンチに座ると、そこは北東方向だけ展望が開けていて、丹沢の表尾根から蛭ヶ岳までの山並みを眺めることが出来る。下に掲げた写真は画像のコントラストを調整したもので、実際にはもっと霞んで見えていたのだが、それにしても稜線上に雪を抱いた丹沢主脈は、北アルプス級と言ってもいいほどの堂々たる山容である。
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10:15 見晴小屋 → 10:38 神明水 → 11:20 山道の屈曲点
 見晴小屋で5分休憩の後、再び森の中を登り続けると、15分ほどで赤く錆びたリフトの鉄塔の跡が右手に現れる。その昔、最乗寺から明神ヶ岳を経て箱根の宮城野まで、今日まさに我々が歩こうとしているコースを結ぶロープウェイまたは観光リフトを某観光会社が建設する計画があったそうだ。だが、最乗寺側から始まった工事が明神ヶ岳に至らないまま計画は中断し、牽索機や鉄塔はそのまま放置されたという。その最初の鉄塔が現れたあたりから、山道には残雪があった。

 そこから一登りすると、山道はガラッと様相を変え、展望の開けた草原状の緩やかな登りになる。これは防火帯として人工的に作られたものだろうか。朝の太陽をいっぱいに浴びながら、この緩やかな登りを楽しみたいところだが、地形が開けているだけに風が強い。今朝のポカポカ陽気に誘われて山シャツ一枚で歩いていた私は、そこでウィンドブレーカーを着込むことにする。そして、見晴小屋から30分足らずで、神明水という湧水の出る場所に着いた。
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 神明水から先は、登りが少し急になる。その分だけ後方の展望が良くなって、足柄の平地や相模湾の海岸線もうっすらと見えている。15分ほど頑張ってそこをやり過ごすと、再び緩やかな草原状の地形に出る。そのあたりからは山道に明瞭に雪が残るようになった。
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 この雪原のどこかに、次の水場である明神水があるはずなのだが、それがわからないまま私たちは登り続ける。そして、山道が右から来る小さな沢を渡って大きく左カーブを切ったところで、靴底に滑り止めを装着することにした。

11:25 山道の屈曲点 → 12:05 明神ヶ岳

 ここから先は足元の雪が締まっていて、滑り止めのスパイクがよく利く。ちょっとした雪山気分を楽しめるコースだ。そして、山道が時計回りに南から西を向くと、明星ヶ岳へと続く道との分岐に出る。そこからが明神ヶ岳への最後の登りでちょっとした急斜面だ。おまけに、その斜面が南東向きだから陽当りがよく、残雪が融けかかって山道は相当なぬかるみだ。明神ヶ岳から下って来たパーティーとのすれ違いにも一苦労しながら、最後の登りを頑張る。
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 すると、明神ヶ岳から明星ヶ岳へと続く稜線の直下から、俄かに風が強くなった。そして息せき切って稜線の上に立つと、それまでは見えなかった西側の眺め、箱根の中央火山である神山や駒ケ岳の姿が突然目の中に飛び込んで来た。
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 12:05 明神ヶ岳の山頂に到着。それにしても凄まじい風だ。今日は移動性高気圧が日本列島の南にやって来るので強い南風が吹き、気温が高くなるとの天気予報だったのだが、標高1169mの山の上ではじっと立っていられないほどの風で、とにかく寒い。背の低いタケの生い茂る風下側で風をよけ、ともかくも昼食にしよう。

 今日は大雄山最乗寺の境内からここまで登ってきた。応永元(1394)年にその寺を開いた了庵慧明(1337~1411)は、日本曹洞宗の開祖・道元(1200~1253)から数えて7代目ぐらいの世代にあたる人である。

 「国王大臣に近づくことなく、ただ深山幽谷に居して一箇半箇を接得し(=少ない人数でもいいから本当の弟子を育て)、吾が宗をして断絶せしめることなかれ。」

 宋の天童山で生涯の師・如浄と出会った道元は、帰国後もこうした師の教えを固く守ったために、弟子の数は極めて少なく、道元没後は教団断絶の危機を迎えることもあったそうだ。

 それが、永平寺三世の徹通義介(てっつうぎかい、1219~1309)の頃になると、密教的な加持祈祷を取り入れ、仏殿を建てて仏像を拝むなど、仏教の他宗派にも見られるような「わかりやすさ」を取り入れたために、そのことがが道元の教えに反するか否かを巡って教団の中で対立が起きたという(いわゆる「三代相論」)。

 四代目の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん、1268~1325)は、そうした義介の路線を更に推し進めることで、下級武士層や商人階級に対しても禅宗の門戸を広げた。その結果、曹洞宗は教団として一気に拡大。永平寺と総持寺の二つを本山とする体制が出来上がる。その瑩山の後、峨山韶碩(がざんじょうせき、1275~1366)、通幻寂霊(つうげんじゃくれい、1322~1391)の系譜を受け継いだのが、最乗寺の開祖・了庵慧明になる。
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(日本曹洞宗の系譜)

 最乗寺が開かれた1394年といえば、足利義満が権力をふるっていた頃で、京都の将軍と鎌倉の関東公方との対立が顕在化していくのは、もう少し先のことだ。関東はまだ「薄墨色の中世」とも言うべき時代の中にあったのだろう。

 当時は今のように登山道が整備されていた訳でもないから、最乗寺から山の尾根に沿って明神ヶ岳までは、もっと険しい登山であったはずである。そして、それを乗り越えて明神ヶ岳の稜線に立つと、箱根の神山・駒ケ岳の神々しい姿があり、大涌谷からは水蒸気が上がり、彼方には霊峰富士が大きく聳えている。そんな光景に、人々は大いなる神仏の威光を感じたに違いない。そう思うと、この明神ヶ岳の山麓に道了大薩埵のような修験道の行者たちが集まったとしても、不思議はないのだろう。

 そして、「関東の覇者」北条早雲が伊豆から小田原を攻め取ったのは、最乗寺の開山からちょうど100年後のことになる。自らも熱心な曹洞宗の信者で、その質素なライフ・スタイルを生涯貫いて領地の中をくまなく歩き回ったという早雲。時にはこの最乗寺にも足を運んだのだろうか。
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(明神ヶ岳山頂からの富士。その下は金時山)

 風をよけて暖かいものを食べ、エネルギーを補給した40分。今日は概ね計画よりも15分ほど早く行動が進んでいる。さあ、この後は箱根の宮城野まで、頑張って下りよう。
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12:45 明神ヶ岳 → 13:15 明星ヶ岳との分岐点 → 14:10 宮城野・勘太郎の湯

 強風の中、尾根を南へ。陽当りのよいこの尾根道は、大雪の名残がぬかるみになっていて、さながら融けたチョコレートのようだ。右に箱根の神山を見ながらの稜線歩きは気分がいいのだが、足元のコンディションは今日のコースの中では最悪の箇所である。私たちの山靴は泥まみれだが、まあこの時期は仕方がない。
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 足元を気にしながら尾根を下る。明星ヶ岳の穏やかな山体を行く手に眺め下ろすようになると、やがて宮城野へ降りる山道との分岐に出た。明神ヶ岳から下り始めて、ちょうど30分ぐらいの場所だ。もう残雪もないから、靴底の滑り止めは外すことにした。
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(明星ヶ岳へと続く稜線)

 分岐からは展望のない淡々とした下りで、30分ほどで別荘地の上部に出る。その別荘地を右手に見ながら更に15分ほど山道を下ると舗装道路に出て、道標に従って下っていけば10分ほどで宮城野バス停に着く。そこから道路を渡れば、向かい側は日帰り温泉の「勘太郎の湯」だ。洗い場で山靴の泥を落し、それからゆっくりと湯につかって、私たちは路線バスと登山電車で小田原に向かった。後は美味しい酒と肴が待っている。

 明神ヶ岳の山麓に最乗寺が開かれた時代に思いを馳せながら山を越えた半日。自分の中で、箱根の山がまた一つ身近なものになった日曜日だった。
 
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コメント 4

H氏(北京現人)

お疲れ様でした。
相変わらず格調の高い記事、じっくり読ませていただきました。
我家の菩提寺も曹洞宗なのですが自分自身はキリスト教で育ったため、こういう歴史は知りませんでした。
せっかく、こういう寺に行くのですから事前に勉強していけば良かった、と改めて思いました。
今回は見晴台から見た丹沢が印象的でした。
1300m前後の山々なのに秦野からせり上がる様は迫力ありますね。
特にバレンタイン豪雪の名残で雪を纏うと、ちょっと惚れ惚れする山容になります。
神奈川県民として、しょっちゅうあの山域をうろついているのか、と思うと意味もなく誇らしかったです(笑)。
しかし今回、明神ケ岳山頂の風はひどかったですね。その分、温泉がありがたかったですし、その後のビールも格別でしたが。
もうすぐ三連休。さて、どこへ行こうか。。。
by H氏(北京現人) (2014-03-18 08:58) 

RK

ご参加ありがとうございました。

ご指摘の通り、この日に見えた丹沢は本当に立派でしたね。見直してしまいました。

蛭ヶ岳は、(檜洞丸まで歩くかどうかは別として)もう一度行ってみたいですね。

by RK (2014-03-18 12:32) 

H氏(北京現人)

実は私もまた蛭ケ岳、行きたいなぁと思いました。
今度は逆から行く、というのはどうでしょう。
最後の登りでガツンとやられそうですが…。
或いは鍋割から上がって姫次へ降りる、というのもいいですね。
シロヤシオやトウゴクミツバツツジが咲く5月下旬あたり、如何?
by H氏(北京現人) (2014-03-19 10:53) 

RK

檜洞丸からの蛭ヶ岳は、最後の登りがしんどそうですね。
あの下りを登り返すところを想像しただけでも、ちょっと・・・。

姫次の方に降りると交通機関がどうなるのか、あまり詳しくはないですが。(クルマで行って姫次往復みたいな方がいいのかも。)

但し、前回はガスで景色がよく見えなかったので、丹沢山・蛭ヶ岳間も天気のいい時にもう一度歩いてみたいと思います。
by RK (2014-03-19 12:25) 

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