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鉄路が生んだ伝統 [読書]


 6月5日(木)に関東地方が梅雨入り。以来、この週末も含めて傘が手放せない天候が続いている。手放せないどころか、平年の6月一ヶ月分の雨量を既に超えた地域が幾つもあって、早くも水害の懸念が高まっている。何事も忙しい世の中を反映してか、今年はずいぶんとせっかちな梅雨入りとなった。

 6月の季語といえば、6月1日の衣替え。それは明治6年1月1日(=旧暦の明治5年12月3日)から太陽暦が採用されて以降のことだ。官吏が洋服を着用し、軍人や警官に制服が導入された時代、夏服と冬服の着用時期を定めることが必要だった。以来、これが学校にも適用され、世の中一般も年二回の衣替えに従うようになった。

 それでは、江戸時代はどうだったのかというと、幕府が制定した衣替えは年4回であったそうだ。旧暦の9月9日から翌年3月末日までが「綿入れ」、4月1日から5月4日までが「袷(あわせ)」、5月5日から8月末日までが「帷子(かたびら)」、そして9月1日から8日までが再び「袷」であったという。明治の洋服導入以前は、この国の気候に合わせたきめ細かな衣替えが行われていたことになる。
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 江戸時代以前からの伝統的な習慣だと私たちが思い込んでいることが、実は明治以降に始まったものであったということは、他にも案外とあるものだ。

 「初詣は正月の伝統的な行事のように思われるが、それが定着するのは、意外にも鉄道が開通してからであった。初詣は、鉄道が生み出した正月三ヶ日の行事なのである。」
(引用書後述)

 現代の私たちの習慣からは完全に失われているが、新年を迎えるにあたり、大晦日の夜から元日の朝にかけて、家長が氏神の社に籠って来る年の安寧を祈願する「年籠り(としごもり)」が、古来の習慣であったそうだ。やがて、それが「除夜詣」と「元日詣」に分かれ、家長だけでなくその他の人々も参詣を行うようになっていったという。そして参詣の対象が氏神様だけでなく、自分の家から見て恵方にある寺社にも広がっていった(「恵方詣」という)。それが初詣の原型なのだが、いずれにしても参詣の対象は家から歩いて行ける範囲内の寺社だったようだ。

 しかも、参詣に行く日は初縁日の日であったという。寺社の初縁日は正月の三ヶ日とは限らず、寺社によって日が異なる。更に言えば恵方は年によって異なるから、どの寺社に詣でるかはその年の恵方次第だ。だから、地域ごとに色々な日に色々な寺社へお参りが行われていたことになる。歩いて行ける範囲での人々の暮らしとは、そういうものだったのだろう。

 「川崎大師の初縁日(初大師)は正月の21日で、人びとは江戸市中から川崎大師に徒歩で出かけていた。しかし1872(明治5)年5月に日本で最初の鉄道が品川~横浜間に開通し、翌6月に川崎停車場が開設されると、川崎大師への参詣が格段に便利となった。そのため毎年1月21日の初大師は、汽車を利用して参詣する人びとでにぎわうようになった。また川崎大師も恵方詣の対象となり、元日に恵方詣をする人が増えた。鉄道の開通によって恵方詣が広域化したといえる。」
(引用書後述)

 開通したばかりの日本初の鉄道。新橋~横浜間の旅客運賃は、上等1円2銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘で、当時の物価と比べればかなり高いものだったようだが、物珍しさと便利さとから、乗客は増加の一途であったという。こういう物見高さは我が民族の伝統なのだろうか。
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(三代目広重が描いた『東京高輪海岸蒸機車鉄道』)

 「そのうちに、恵方にあたっている年もあたっていない年も、川崎大師は毎年元日に大勢の参詣客でにぎわうようになった。そして、この川崎大師の新しい参詣慣習がいつしか『初詣』とよばれるようになったのである。1885年1月2日付の『東京日日新聞』は『昨日より三ヶ日は川崎大師へ初詣の人も多かるべき』ため、新橋~横浜間の急行列車を臨時に川崎駅に停車させたと報じている。」
(引用書後述)

 現在のJR川崎駅から川崎大師までは、直線距離にして2kmほどだから、当時の人々の感覚からすれば、歩くには何の問題もなかったのだろう。その川崎大師詣ではよほどのビジネスになったようで、前述の『東京日日新聞』の記事が書かれた14年後には、この川崎大師詣でを当て込んだ路面電車が開通することになった。川崎~大師間を結ぶ、その名も大師電気鉄道。現在の京浜急行電鉄・大師線の前身で、日本初の標準軌(軌間1435mm)の鉄道だった。京急のオリジンはこの路線なのである。しかも、開業日は1899(明治32)年の1月21日。つまり川崎大師の初縁日の日に当てたのだった。
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 大師電気鉄道のこの時点での起点・川崎駅は、国道15号(第一京浜)が六郷橋を渡って現在の京急大師線をオーバーパスしたあたり(=昔の川崎宿の入口)に設けられた。開業の3年後には官設鉄道の川崎駅の近くまで線路が伸びたので、そこは駅名が「六郷橋」に変わっている。
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(川崎大師と大師電気鉄道)

 そして、大師電気鉄道の大師駅から先には、大正14年に「鶴見臨港鉄道」という別の路面電車が開業している。大師駅から東へ行って、現在の産業道路に沿うように南西へ進み、やがて北上して鶴見の総持寺までの10km足らず。起点と終点が共に寺の門前というのも実に珍しい鉄道だが、寺社への参詣というのがそれぐらい大きなビジネスであった時代なのだろう。(この路面電車は昭和12年に廃線になっている。)

 同様に、鉄道の開通で参詣が飛躍的に便利になったのが、成田山新勝寺だという。江戸の町中から一部区間を船利用でも片道一泊二日だったのが、1894(明治27)年12月に総武鉄道の本所(現在の錦糸町)~佐倉間が開業し、更に1897(明治30)年1月に成田鉄道の佐倉~成田間が開業すると、新勝寺は完全に東京からの日帰り圏になった。(現在の京成電鉄も、もちろんこの成田山詣でをビジネスに取り込もうとした鉄道なのだが、1912(大正元)年に押上~市川間で開業したものの、鉄路が成田にまで届いたのは意外に遅く、1930(昭和5)年のことである。)

 1857(嘉永7)年2月、ペリーの黒船が前年に引き続いて来航した時、献上品として彼が持参したのが、実際に走る蒸気機関車の模型だった。そこから紐解いて、1908(明治39)年の鉄道国有化までの凡そ半世紀。それは、僅か50年で我が国の鉄道にはこんなに多くのことが、と思わざるを得ないほど中身の濃い歴史なのだが、それを決して専門用語に頼らず、極めて平易にまとめた『日本鉄道史 幕末・明治篇』(老川慶喜 著、中公新書)は好著である。普段から「鉄分」の濃い人はともかく、そうでない人にとっても、これは敷居がなくて間口の広い本ではないだろうか。
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 上に例を挙げたように、鉄道の敷設をめぐる話題だけでなく、鉄道の登場によって世の中がどのように変わったのか、そこにも目を向けて光も影もとらえていることに好感が持てる。

 「鉄道の開業は、日本人の時間感覚を大きく変えることになった。それまでの江戸時代の不定時法では地域によって時刻が異なっており、もっとも小さい時間の単位は小半時(30分)であった。しかし、鉄道を規則正しく運行するためには、まず時間を全国的に統一しなければならず、また列車時刻表を見ればわかるように、鉄道の利用者には分単位の行動が求められた。鉄道の開業にともなって、西欧で使われていた定時法が日本全国一律に採用され、人々は分単位の時間を意識しながら生活せざるをえなくなったのである。」
(引用前掲書)

 そのようにして突然やって来たライフスタイルの大変化にも、極めて短時間で順応し、結果的には交通機関の運行ダイヤが世界で最も正確な国になったのだから、日本というのは何とも不思議な国である。

 そういえば、今朝の通勤電車もダイヤ通りだった。新幹線の線路がすぐ横を併走する区間では、いつもと同じ場所で下りの「やまびこ125号」に追い抜かれ、いつもと同じ場所で上りの「あさま508号」とすれ違った。明治の初年の新橋・横浜間の鉄道建設に深く係わったが、その開通を待たず僅か30歳で横浜に没した英国人技師エドモンド・モレルがもしここにいたら、その様子をどんな風に眺めたことだろう。

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