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半世紀前の鉄路 [鉄道]

 10月14日は「鉄道の日」である。言うまでもなく、明治5年のこの日に新橋・横浜間で我国初の鉄道が開業した、そのことに因んでのものだ。ちょうどその頃は体育の日の三連休が近いので、いつもその三連休の内の土日を使って、東京の日比谷公園では「鉄道フェスティバル」が行われている。今年はそれが11日(土)と12日(日)になった。

 台風19号の足取りが遅く、当初言われていたよりは好天になった11日(土)、午前11時頃に日比谷公園へ足を運ぶと、鉄道フェスティバルの会場のあちこちで、もう既に長い列が出来ている。鉄道会社や色々な団体がテントを出して、それぞれに広報活動を行っているのだが、長い列の殆どは、いわゆる鉄道グッズを買い求める人々の列だ。特に今年は東海道新幹線の開業から50周年にあたるので、「新幹線グッズ」にはとりわけ人気があるようだ。

 そんな中で、私はある物に目がとまり、次の瞬間にはそれを手に取ってレジの前に並んでいた。東海道新幹線の開業に伴う昭和39年10月1日の国鉄ダイヤ大改正。その内容を掲載した弘済出版社の「大時刻表」昭和39年10月号の復刻版を、期間限定で発売していたのである。
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 列車ダイヤというのは、それ自体は列車の運行スケジュール表に過ぎないのだが、その当時どんな路線でどんな列車がどのように走っていたのかというデータは、ある角度からその時代を写したスナップショットのようなものである。しかも今回手に入れたのは、今からちょうど半世紀前、東京オリンピックが開催された当時の日本の姿が描かれたものである。私はこの復刻版「大時刻表」を宝物のように持ち帰って、この三連休の間はヒマがあれば眺めていた。

 全600ページのこの時刻表。当時の販売価格は180円だ。国電の初乗り料金(1~3km)が10円、国鉄の食堂車のメニューの中で、和定食の並が150円、上が200円となっていた時代に、時刻表一冊180円というのは結構いい値段だったはずである。眺めていると本当にキリがないのだが、取りあえず気がついたことを幾つか、忘れないうちに記載しておこう。

(1) 開業時の新幹線

 五輪大会の開会に先駆けてこの年の10月1日に開業した東海道新幹線。50年も前のことだから、もうすっかり忘れてしまったことばかりだが、開業当初の姿は以下のようなものだ。
● 東京発(下り)、新大阪発(上り)共に、朝6:00より定時が「ひかり」、毎時30分が「こだま」の発車時刻で、それぞれ一時間に一本が運行されていた。
● 在来線とは異なり、新幹線の列車番号は当初から下りが奇数、上りが偶数になっていた。
● 東京・新大阪間の所要時間は、「ひかり」が4時間、「こだま」が5時間。前者は「超特急」、後者は「特急」と区分され、いずれも特別急行料金は在来線のそれとは異なっていた。

 なお当時の国鉄は、一等車を利用するか二等車かで、運賃そのものが異なっていた。それに加えて特別急行料金や急行準急料金も一等と二等では料金が違うので、運賃も含めて一等は二等の約2倍というのが相場だった。また、同じ東京・新大阪間の移動も、新幹線だけでなく在来線の急行や準急を使う手もあったから、旅の所要時間と値段とを縦横にした大きなマトリックスがあったのだ。
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(東京・新大阪間の料金比較)

 この当時から4年半後に国鉄は等級別の運賃を廃止し、代わりに「グリーン料金」を導入している。普通車とグリーン車では、運賃を含めた価格差は略1.5倍程度になったが、今となっては、東京・新大阪間の列車利用は新幹線以外にはあり得なくなっているから、格差は縮まったが全員が値段の高い手段を利用するしかない時代になったともいえる。

(2) 在来線の存在感・・・東海道本線

 以上、東海道新幹線については見ての通りだが、これで東京・新大阪間の移動が全て新幹線にシフトした訳ではなかった。朝の6時前から午後4時頃までの間、東海道本線の下りは、定時列車だけも9本の急行と13本の準急が走っている、行先は修善寺、下田、静岡、名古屋、大垣などが中心だ。
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(東京駅発 東海道本線下りの優等列車(16時以降))

 そして、16:35に長崎行きの寝台と急「さくら」が出発して以降は、九州・山陽・山陰方面行の寝台車を伴う夜行列車が15本も設定されている。圧巻は16:35から19:05までに5本の九州行き寝台特急が出発することと、21:30から22:00までの僅か30分間に大阪行きの夜行列車3本が立て続けに出発することだ。東京・大阪間は新幹線による高速移動の時代が始まったが、それでもなお多くの人々が在来線で長距離の移動を行っていたのである。

(3) 電化の足音・・・東北本線

 「大時刻表」の後ろの方に、宮城県・鳴子温泉の或るホテルの広告が載っていた。この年の5月に新規開業したホテルだそうだが、その広告の中にあった東京からのアクセス図を見て驚いてしまった。鳴子温泉へ行くのに東京から鉄道利用だと、東北本線の小牛田(こごた)まで来て陸羽東線に乗り換えるのだが、その小牛田までが東北本線で「東京から急行で7時間」と書いてあったのだ。
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 本当にそんなにかかるのかと思って「大時刻表」を繰ってみると、朝のうちに上野を出て夕方前に小牛田に着くための行き方として、次の4パターンがヒットした。
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(上野から小牛田への行き方)

 昭和39年10月当時、東北本線の電化は上野から仙台までだった(上野・黒磯間が直流、黒磯以北が交流)。だから、上野からの電車急行「まつしま」は仙台止まりで、そこから先の非電化区間は気動車に乗り換えなければならない。

 一方、列車ダイヤの過密な東北本線の迂回路として、常磐線経由で仙台以北へ向かう列車が、当時も数多く設定されていたのだが、その常磐線の電化も、この時点では平(現在のいわき)止まりだった(上野・取手間が直流、取手以北が交流)。従って、常磐線の長距離列車は最初から気動車だった。小牛田へ行くケースでも、この常磐線経由の方が所要時間が多少短かったようだ。

 輸送力増強とスピードアップを目指して、東北本線全線の電化と複線化が完了したのは昭和43年の秋で、いわゆる「ヨン/サン・トオ」の全国ダイヤ白紙大改正の時だ。今回手にした「大時刻表」は、それ以前の東北地方の交通の姿を私たちに教えてくれている。

 それにしても、鳴子温泉まで東京から8時間もかけて旅をした当時の皆さん、お疲れさまでした。

(4) 急勾配との闘い・・・中央本線

 東北本線とは対照的に、戦前の時代も含めて比較的早くから電化が進んでいたのが、中央本線(中央東線)だった。然しながら、中央本線が抱えた困難は、その急峻な地形ゆえに急勾配が連続することと、複線化の場所の確保、そして明治時代に造られた狭小トンネルの取り扱いなどであったといえるだろう。

 今回の「大時刻表」が示す昭和39年10月と、それから約8年が経過した昭和47年8月、そして現在の中央本線について、朝7時に新宿を出る下りの優等列車のダイヤを比較してみよう。
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(新宿発 朝7時 松本行き優等列車の比較)

 昭和39年10月は、松本行きのディーゼル急行「第1アルプス」だ。大月から河口湖へ行く車両と、小淵沢から小海線経由で小諸へ行く車両とを併結している。この列車の新宿・松本間の所要時間は4時間50分だ。ラップタイムを見ると、大月・甲府間に57分、甲府・小淵沢間に55分を要しており、このあたりがネックになっている。

 おそらくこれは、この区間にスイッチバックが幾つも残っていたことが原因なのだろう。大月・甲府間では、初狩、笹子、勝沼の各駅、そして甲府・小淵沢間では韮崎、新府、穴山、長坂の各駅がスイッチバックになっていて、列車はそのたびに進行方向を変えながら急勾配を上り下りしていたのである。(本線と名のつく路線でこれほどの急勾配が連続するのは、他にはないだろう。)

 真ん中に示した昭和47年8月のダイヤを見ると、下りの急行「アルプス1号」は165系の電車急行である。大月・甲府間で15分、そして甲府・小淵沢間で20分もラップタイムを短縮し、松本までの所要時間は4時間12分になった。これは明らかに、昭和40年代の前半に複線化と同区間のスイッチバックの解消が進んだことの成果である。

 なお、現在は特急「スーパーあずさ1号」に乗れば新宿・松本間は2時間39分である。車体の振り子構造によってカーブ上での高速走行を実現したE351系だったが、デビューから既に四半世紀が経過し、来年度には新型車両に置き換えられるそうである。

(5) ローカル線の見本市・・・北海道

 「大時刻表」の冒頭には、全国の鉄道地図が載っている。それを眺めているのも興味が尽きない。今では姿を消してしまった路線がまたたくさん載っているからである。北海道などはその典型だろう。特に目につくのは、オホーツク海沿岸を走る鉄道がたくさんあったことだ。(今では釧網本線の網走・斜里間だけである。)
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 旭川と稚内を結ぶ宗谷本線。その途中の音威子府(おといねっぷ)という駅から、オホーツク海沿岸を経由して稚内へと向かう天北線(てんぽくせん)という、名前からして最果てムードたっぷりのローカル線がかつてあった。宗谷本線の元々のルートは、実はこの天北線だったそうだ。そして、この路線の途中にある浜頓別(はまとんべつ)からは、オホーツク海沿いに更に南東へと進み、北見枝幸(きたみえさし)へと至る興浜北線(こうひんほくせん)という更なるローカル線があった。

 そしてもう一つ、音威子府の南にある美深(びふか)という駅から盲腸線が仁宇布(にうぶ)という駅まで建設されていた。美幸線(びこうせん)である。

 昭和39年10月号の「大時刻表」で天北線のページを繰ってみると、何とも溜息が出るような列車ダイヤがそこに示されていた。
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 音威子府発、天北線の稚内方面駅の列車は、始発が03:44(エラく早い!)、その次が05:59なのだが、その次の10:08発の列車まで、4時間9分もの間は列車が一本もないのだ。そして、これら3本の列車にそれぞれ接続しているのだろう。浜頓別から興浜北線の下り列車が05:02、7:50そして11:42にそれぞれ出ている。

 こんな調子だから、天北線の稚内行は午後も4本、興浜北線の北見枝幸行きも3本のみだ。そして天北線の不思議なところは、午後の4本の内の一つが小樽発・稚内行の急行「天北」という優等列車だったことだ。午前中に列車の走らない時間帯が4時間もあるようなローカル線で、急行列車を利用するニーズがどれほどあったのだろうか。

 前述した美幸線は、この「大時刻表」が出版された昭和39年10月1日時点ではまだ開業していない。10月5日に開業したので、この「大時刻表」には路線名はあっても列車ダイヤは載っていないのだ。この時点でまだこんな盲腸線を新たに建設していたことには驚くばかりだが、この美幸線には、終点の仁宇布から興浜北線の北見枝幸を結ぶ延伸がなおも計画されていたというのだから、恐れ入ってしまう。(深と北見枝を結ぶから美幸線という訳だ。)

 私が学生の頃、国鉄の営業係数のワースト路線がこの美幸線だとされていたが、それは無理もないことだろう。興浜北線と美幸線は、まだ国鉄が存続していた昭和60年に廃止。そして天北線はJR発足後の平成元年に廃止となった。急行列車が走る路線が段階を経ずにいきなり廃止になったのは、天北線が全国で初めてだそうである。

 昭和39年は、東海道新幹線開業の年であるが、皮肉なことに国鉄の財政が赤字に転落した最初の年でもあった。当時の「大時刻表」に残された赤字ローカル線の数々は、そうした国鉄の姿が必然であったことを物語っているのだろう。


 この三連休が終わると、14日(火)が本当の鉄道記念日だ。台風19号が東日本を通り抜けて行くようだが、各地の鉄道路線に大きな被害が出ないことを祈りたい。

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