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太陽の復活 [季節]


 12月25日、午前6時過ぎ。窓の外では南東寄りの空にようやく赤味が射し始めた。朝が早いビジネスマンはもう動き出している時間だが、東京都心部の道路はまだかなり薄暗い。
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 天文データによれば、皇居の吹上御殿の位置から見た今朝の日の出は午前6時48分だそうだ。不思議なもので、12月22日の冬至を過ぎても、朝の日の出の時刻は更に遅くなり続ける。(今日は冬至の日よりも2分遅い。)元日にはこれが6時50分になり、1月13日までそれが続く。日の出が再び早くなり始めるのは翌14日からだ。

 一方で、日の入りの時刻はそれとはサイクルが少しずれていて、11月29日から12月13日までの15日間が16時26分と一番早く、冬至の日の日没はそれより4分遅い。要するに、冬至は「日の出の最も遅い日」でもなければ、「日の入りの最も早い日」でもないのだが、日の出から日の入りまでの「昼の時間」が一番短くなるのは(=9時間44分)結果的に12月18日から26日までの9日間になり、冬至はその期間のちょうど真ん中の日に当たる。
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 「暖冬傾向」という三ヶ月予報とは裏腹に、今年は12月に入ってから全国的に寒い日が続いた。宮城県にある我社の工場に出張する機会もあったが、私が訪れた日の前々日が吹雪だったようで、工場周辺にはこの時期にしては珍しく雪が残っていた。

 冬の寒さがやって来ると、外に出るのは億劫になるものだ。そのために、最近は私もいささか運動不足を感じている。現代の生活においてすらそうなのだから、住居も衣類も粗末で暖房の手立ても極めて限られていた昔の人々にとっては、冬の寒さはさぞかし身に凍みたことだろう。ところが、それにもかかわらず暮も正月も戦が続いた年が、今から700年近く前にあった。西暦1335年。「武」という字が不吉だからという周囲の反対を押し切って後醍醐天皇が改元した「建武」の2年目の年である。

 足利尊氏らが京都の六波羅探題を、新田義貞らが鎌倉を攻めて北条の世が潰えた1333(元弘3)年の初夏からちょうど2年。後醍醐帝の親政が早くも破綻をきたし、各地で武士の不満が渦巻く中で、北条高時の遺児・時行が7月に信濃で反乱の火の手を上げて鎌倉を目指した。世に言う「中先代の乱」である。

 尊氏の名代として急ぎ駆けつけた弟・足利直義の軍は破れ、鎌倉は反乱軍の手に落ちる。この危機を座視してはいられない尊氏は、後醍醐帝の許可を得ないまま鎌倉に進軍し、速やかにこれを奪回。時行を信濃へ敗走させるのだが、直ちに京都へ帰還せよという天皇の命令に尊氏はもはや従わず、鎌倉に居座って独自に恩賞を与え始めた。建武の新政への明らかな反逆である。これが旧暦の10月15日。今の暦に直せば11月1日のことだ。
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 この年の暦には閏10月があったので、11月というと今の暦からは1月半ほどずれることになる。後醍醐帝から足利尊氏・直義の追討令を新田義貞が賜ったのは11月19日。ユリウス暦では年が明けて1336年の1月2日だから、季節は真冬だ。当初は鎌倉の寺に隠遁していた尊氏だったが、新田軍が箱根に迫ると俄かに陣頭指揮を取り、義貞の実弟・脇屋義助率いる主力部隊を足柄峠付近の竹ノ下で撃退。これが12月11日、新暦では1月24日になる。

 足柄峠は標高759m。両軍が激突したのは寒さの厳しい頃である。まして、新田軍は京都からはるばる進軍して来たのだから、兵卒たちは厳冬期に野宿の毎日だったのだろう。暖かい食事もどれほど口にすることが出来たのだろうか。今月(12月)の13日に、私は同じ箱根の三国山(1,102m)近辺の尾根をかつての山仲間たちと歩くことがあったのだが、その日は強い寒気が入り込んで尾根の上は風が強く、寒さに震えた半日だった。そのことから想像を巡らせれば、箱根竹ノ下の戦はさぞかし過酷な環境下にあったことだろう。
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(寒かった今年12月13日の箱根)

 足柄峠で総崩れとなった新田軍は西へと敗走。その報せを受けて、足利軍を背後から追うべく、鎮守府将軍・北畠顕家が軍勢を率いて陸奥国・多賀城を発ったのが12月22日。すなわち新暦の2月4日である。彼らが南下した奥州街道は厳寒で、雪の蔵王や安達太良山を見ながらの行軍だったはずである。

 そして、箱根・竹ノ下の戦いから20日後の建武3年春正月、当時の暦のまさに元旦の日に、朝廷軍の名和長年・結城親光らが、近江国の勢多で足利直義・高師泰の軍勢と合戦に及んだ。足利軍は箱根から進撃を続け、主戦場がいよいよ京に近くなった訳だ。そして10日後の1月11日(新暦では2月23日)に、尊氏は一旦入京を果たしている。
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 「兵農分離」などが行われる遥か以前の時代。戦は農閑期に行うものだという事情があったとしても、当時の暦での暮も正月もなく大規模な戦闘が続いたというのは何とも異様なことだ。しかも、上記の尊氏入京で戦乱が収まった訳では全くなく、むしろそれから半年間は北九州までの地域をも巻き込んでの戦乱が、ジェットコースターのようなスピード感で展開していくことになる。そうまでしても争いに決着をつけ、時代の歯車を前に回さねばならなかったところが、まさに乱世なのだろう。

 そんなことを考えながら、昨日のクリスマスイブは、私も息子もそれぞれ早めに仕事を切り上げて帰宅。娘は休暇を取っているので、平日では久しぶりに夜の食卓に一家四人が揃った。丸鶏をシンプルに焼いたものをメインにして、飲み物はお手軽なロゼのCAVA。ささやかなご馳走を楽しみながら、色々な話題に花が咲いた。やはり一家団欒はいいものだ。
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 あと二日で私も年内の御用納めを迎える。そしてそれが終わると、翌27日からは、先に述べたように昼間の時間がボトムを脱して、毎日少しずつだが長くなり始めることになる。寒さの季節はまだまだ続くけれど、太陽の復活がようやく始まるのだ。そのことを励みに、この冬を元気に生きていこう。

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