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年末 [自分史]


 2014年が暮れていく。会社が12月26日(金)で仕事納めになったので、年末年始は1月4日(日)までの九連休だ。これだけ休みが続くとかなりのことが出来そうなものだが、実際には家の中のあれこれがあるし、時間があると思って無為に過ごしてしまうことも多いから、結果的にはたいしたこともせずに終わってしまいがちである。

 考えてみれば九連休というのは、月曜から金曜まで5営業日連続の休暇を取り、両方の土日を合わせたのと同じ長さの休みである。4年前の4月に今の会社に来てから、そういう休暇を取れたことはなかったから、自分にとっては今回の年末年始は貴重なものであるはずだ。それをどう過ごしたか、自己への反省も含めて、年末部分について手短に記録しておこう。

 因みに、今年は12月に入ってから気温が平年を下回る日が多くなり、全国的に寒い12月になった。それも、「強い冬型の気圧配置」というよりは、寒気が妙に南へ下りている感じだ。北海道全域や本州の日本海側では降雪が続き、四国の山間部や名古屋などでも大雪に見舞われた日があった。
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【12/27(土)】
 九連休の初日。前夜の会社の納会で少々酒を飲み過ぎていたが、ともかくも早起きをして奥高尾の山を半日歩いた。京王線の高尾山口から稲荷山コースで高尾山 → 小仏城山 → 景信山 → 小仏バス停という、歩行時間3時間半ほどのいつものコースだ。今年の12月は、東京では雨、山では雪という日が何日かあったから、年末年始のよく晴れた日に奥高尾に上がり、遠くの山々の冠雪の様子を眺めてみたいと思っていたのだった。

 朝の9:20頃に高尾山頂に到着。期待していた通りに、そこでは見事な富士の眺めが待っていた。
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 そして、10:30前に着いた小仏城山の頂上からは、南アルプス中部の真っ白な稜線がよく見えていて、蝙蝠岳(2895m)と塩見岳(3047m)のそれぞれのピークが強く印象に残った。
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(遠景左が蝙蝠岳、中央が塩見岳、右端が農鳥岳)

 続く景信山では、山頂の茶店で特大の零余子(ムカゴ、山芋の芽)を売っていたので買い求めた。ムカゴというと、普通は直径が1㎝程度のものだが、今回売っていたのはそれが2㎝以上もある、文字通り特大サイズだ。塩茹でしたものを胡麻油で軽く炒めるとビールのつまみには最高なので、それを楽しみに持って帰ることにした。

 これが年内の登り納め。寒い季節ながらも、奥高尾の山々は今日も優しかった。

【12/28(日)】
 放射冷却で朝の冷え込みが厳しく、東京都心でも最低気温が今月2度目の氷点下を記録。とにかく寒い朝だった。

 朝食もそこそこに、まずは家内と二人で義父母の墓参り。続いて西の郊外にある私の父の墓へとクルマを飛ばす。奥高尾の山の上から富士山や南アルプスがよく見えた前日に比べると、この日は晴天ながらも遠くが霞んでいた。山へ行くのを昨日にしたのは正解だったかな。

 朝は寒かったが、父の墓に着いた頃には太陽の光が暖かく、風のない穏やかな天候になった。墓地の隣にクヌギ林が広がっているので、あたりには落葉が多い。家内と二人でそれを掃き集め、家内が選んでくれた花一輪を捧げる。仏花というよりも、お正月らしい色彩の組み合わせ。父もそれを眺めながら、穏やかに年の瀬を迎えてくれるだろうか。
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 午後はそのままクルマで都内の実家に向かい、母の様子を見る。前日に景信山の山頂で買い求めたムカゴを今朝調理したので、それも持って行った。こんなに大きなものは見たことがないと、母は驚いていた。

 元日の夕方には妹の一家と我家の四人が実家に集まり、孫たちも全員揃う予定だから、母もそれを楽しみにしている。当日はどんな食べ物を持ち寄るか、そんな話をしていた時、私の携帯電話に一通のメールが届いた。それは、私が社会人になって最初の任地となった北陸の富山に住む、同期入社の女性のNさんからのものだった。入社以来、お互いにもう34年目になる。私は4年前からセカンド・キャリアに入っているが、彼女は富山の同じ支店で今も頑張っている。

 メールのタイトルは「久しぶりの晴天」、そして本文は「山が綺麗に見えました!」という、いかにも彼女らしい簡潔なものだが、そのメールに添付されていた画像を開いた次の瞬間に、私は歓喜の声を上げてしまった。
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 爽やかな青空の下、白銀に輝く剱岳と立山連峰の勇姿。そして、それを背景に鉄橋を渡っていく富山地方鉄道の電車まで画面に入れてくれている。山も鉄道も、そして何よりも富山の自然が大好きな私にとって、これは本当にお宝のような画像である。

 このところ強い寒気が入り込み、北陸地方は雪の日が続いていたのだが、冬型の気圧配置が緩み、移動性高気圧に東から緩やかに覆われた今日の富山は、メールのタイトルの通り、本当に久しぶりの青空で、彼女も嬉しくなって山に目を向けたのだろう。撮影場所は彼女の家に近い常願寺川の土手に違いない。立山のカルデラを水源とする、日本有数の急流河川である。

 実家で午後の一時を過ごした後、クルマで都心に向かい、家内と二人でもう一件用事をこなしてから帰宅。この日もあっという間に夕方を迎えたような気がする。

【12/29(月)】
 気圧の谷に入り、この日は朝から小雨になった。私は午前中に息子と一緒に外で用事を一つこなし、彼とは別行動になって買い物をしていた時、胸ポケットの中の携帯電話が鳴った。それは、旧友のA君からのものだった。

 A君とは中学・高校の6年間同級で、特に高校では山岳部で一緒に活動をした間柄だ。だが、社会に出た後、彼はずっと海外で暮らしている。今からちょうど10年前に大学卒業以来の再会を果たしたが、それからはまだ会えていない。それが、今月の半ばになって彼から連絡があり、年末年始の三週間を日本で過ごすという。それならば、昔の山岳部仲間で是非会おうと、この日の夜に時間をもらっていたのである。

 携帯電話を通して耳に飛び込んで来たA君の声は、聞き覚えのある、というよりも昔とちっとも変わっていない。だが、彼が伝えて来たのは私が思わず声を上げてしまうようなことだった。前日に、彼のご兄弟に予期せぬご不幸があったのだという。

 「頭の中が真っ白になる」というのは、こんな時を指すのだろう。あまりに突然のことで、私は彼にどんな言葉を返したらいいのかわからない。何より彼自身が、その報せに接してからまだどれほどの時間も経っていない様子だった。

 身内に不幸があった時、それはどんな家庭でも同じなのだろうが、悲しみに暮れている暇もなく、兎にも角にも実務的に対応して行かねばならないことが、葬儀も含めて次々にやって来るものだ。しかし、彼はあくまでも一時帰国の最中というステータスなのだから、わからないことも多々あるだろうし、手を尽くそうにも限りがあることだろう。それでも悲しみをこらえつつ、そうした目の前のことに一つ一つ立ち向かい始めたA君の様子が、電話を通して痛いほど伝わって来た。

 「そんなことなので、今夜は大変申し訳ないが・・・。」と言うA君。いやいや、それはどうか気にしないで欲しい。今はご兄弟のことが最優先だ。再会はまた次の機会に回すとして、今何か手伝えることがあったら遠慮なく言って欲しい・・・。私はそのようなことを返したつもりだが、私自身が動転している中でどこまで的確に伝えることが出来ただろうか。

 A君と予定していたこの日の夜は、その代わりにいつもの山仲間を数人集めて、俄か仕立ての忘年会になった。

【12/30(火)】
 今年も残すところあと二日。お正月に向けて、いよいよ台所仕事の手伝いだ。朝から自家製の燻製作りに取りかかり、続いて圧力鍋で二本の叉焼を作った。燻製器も圧力鍋も、美味しいものを手軽に作れる便利な道具で、私は気に入っている。
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 夕方からは、以前に長く勤めた会社の同期生たち20人ほどが集まって、賑やかな会合。幹事の発案で、忘年会ではなく望年会と呼ぶことになったが、確かにその方が前向きな響きがあって好ましいように思う。私も含めて、今はセカンド・キャリア(人によってはサード・キャリア以上)でそれぞれの持ち場を務めているが、社会に出てから34年目の今もなお同期の絆を保ち、お互いの姿に励まし合えるのは何ともありがたいことだ。来年もまたそれぞれのスタイルで頑張って、また再び元気に集まりたいものである。

【12/31(水)】
 いよいよ大晦日を迎えた。

 2008年10月に発生し、世界を震撼させたあのリーマン・ショックから丸6年が既に経過している。その前年の夏に、米国の不動産価格の下落とサブプライム・ローンの破綻増加に伴って発生したパリバ・ショック以来、あの一連の出来事は「金融村」の世界の話だと当初は思われていたが、やがてそれは実物の世界にも大きな影響を与えた。考えてみれば当たり前の話で、モノを動かすにはカネがいる。だから、金融恐慌でカネが動かなくなればモノも動かなくなるのだ。リーマン・ショックから一四半期程度遅れて、日本でも鉱工業生産指数がかつて例を見ないほどの幅で下落した。

 リーマン・ショック後は世界各国が景気回復に躍起になり、中央銀行による過去に例を見ない規模での金融緩和が行われた他、中国政府による4兆元の財政支出が行われた。結果として、その後の世界はどうなったのか。

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 世界がリーマン・ショック後のどん底にあった2009年1月を100とすると、世界の主要な株価指数は総じて回復基調を続けた。とりわけ2014年はその傾向が一段とはっきりしている。日本の株価はだいぶ出遅れていたが、この2年間のアベノミクスで急速に欧米に追い付いた。直近ではニューヨークのダウ平均が史上最高値を更新し、頭一つ抜けた感じだ。

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 それに対して、モノの世界はどうだろう。原油、鉄鉱石、銅、ニッケルといった代表的なエネルギー資源や工業用原材料の価格の推移を、同じように2009年1月を100として見てみると、2010年までは世界の株価指数と同様に右肩上がりであったが、2012~2013年は足踏みを繰り返し、2014年の年央からはいずれも明確に下落傾向に入っている。(直近では原油価格の下落が特に顕著だ。)カネとモノの価格のベクトルがここまで明確に異なったのは、この6年間で初めてのことである。

 工業の生産活動において、単位当たりの原材料の使用量を削減しながら今まで以上の利益をあげることが、全世界で出来るようになったのであれば、モノの値段は下がるが株価は上がるという現象も説明がつくかもしれない。だが、現実は決してそういうことではないだろう。個々に見れば、例えば原油価格の下落は、中東の地政学リスクの低下やオイルシェール・ガスの登場による供給能力過剰という背景があるのだろう。また、鉄鉱石の価格下落は中国の粗鋼生産能力の大幅な過剰に主な原因があるのだろう。

 だが、そうした個別事情もさることながら、銅やニッケルなども含めて主要な工業用原材料の価格が揃って下落していることは、やはり従来型の工業製品の大量生産・大量消費を通じた経済成長というものが、新興国を含めても最早長続きするものではない、そのことを示唆していると考えることはできないだろうか。それに対して、各国の経済政策は金融緩和を通じた株価浮揚策、つまり資産効果による景気回復策に終始してきたように見える。だとすれば、長い目で見れば現在の価格のベクトルに今後コレクションが入るのは、モノの世界ではなくてカネの方ではないだろうか。

 私は今、モノ作りの会社に勤めている。以前はカネの世界に長くいたから、ここへ来て両者の違いを痛切に感じることが多い。そして、今にして違和感があるのは、むしろカネの世界の動向である。近代以降の世界を支えてきた工業化社会の在り方が大きく問われ始めている時代に、株価だけが独り歩きを続けることはあり得ないのではないだろうか。

 私が勤めている会社も、従来型の工業化社会の後にやって来るものを見据え、そこに貢献できる品質の良い素材を安定的に供給することに、企業の存在価値を賭けて行かねばならないだろう。そこに向かって目を見開き、感性を研ぎ澄ませていくような、新たな年を迎えたいと思う。

 大晦日の夕刻、空に月齢8.06日の月が昇った。

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 皆さんも、どうぞ良いお年を。

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