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江戸の正月 [季節]


 年が明けた。

 元日の朝、我家では朝食前に神田明神と湯島天神へ初詣に行くのが恒例になっている。朝8時頃に家からクルマを飛ばせば、蔵前橋通りの神田明神裏参道下までは10分ほどだ。両方にお参りして9時過ぎには家に戻って来られる。今年はアベノミクスへの期待が大きいのか、神田明神は朝早くから大賑わいだったが、それとは対照的に湯島天神が拍子抜けするぐらい空いていた。少子化で受験生が減っているのだろうか、などとつい考えてしまう。

 前日の大晦日の夜、食事が終わってから私は迂闊にも眠り込んでしまって、今回は除夜の鐘を聞きそびれてしまった。(一度目が覚めたのは午前2時前だった。) 昔だったら、そんなことは決して許されなかっただろう。

 「昔は一年のケジメとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出かけて、寝ないで新年を迎えるのが習わしでした。そのころ、家族は主として自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお参りしていました。」
(『日本人のしきたり』 飯倉晴武 編著、青春出版社)

 大晦日の徹夜だけではない。世帯主は年男として正月の行事の一切を取り仕切らねばならなかったのである。

 「年男は、室町幕府や江戸幕府では、古い儀礼に通じた人が任じられましたが、一般の家では、主として家長がその任に当たり、しだいに長男や奉公人、若い男性が当たるようになっていきました。

 年男は正月が近づいた暮れの大掃除をはじめ、正月の飾りつけをしたり、元旦の水汲みをしたり、年神様に供え物をしたり、おせち料理を作るなど一切を務めました。とにかく年男にとって正月は、猛烈に忙しい時期でした。」
(引用前掲書)

 そう、年神様という概念も、今では殆ど失われてしまったものの一つだろう。新年の神様で、一年の幸せをもたらすために、初日の出と共に降臨されるという。その際に神様への目印として玄関前や門前に木を立てたのが、門松の始まりなのだそうである。

 現代の都市生活では、こうしたお正月のしきたりも年々風化して、我家のおせち料理も極く象徴的なものだけを用意するようになっている。まあ、年に一度しかご馳走が食べられない時代でもないから、そのあたりは合理的に考えていいのかもしれないが、例えば江戸時代に人々はどのような正月飾りをして新年を迎えたのだろうか。

 我家の最寄り駅から都営地下鉄の大江戸線に乗って、清澄白河駅で下車。外に出て2~3分歩くと、深川江戸資料館という施設がある。江戸時代の深川の町並みを再現したセットが有名で、年末年始の今の時期は「江戸庶民の年中行事再現『正月飾り』」という催し物が行われている。正月の2日・3日もオープンなので、家内と二人で行ってみることにした。和服を着ていくと入場料が100円引きになるというので、今日の家内は着物姿である。
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(深川江戸資料館に再現された深川の町並み)

 館内を進むと、地下に下りていく階段があり、再現された昔の町並みをそこから見下ろすことができる。三フロア分ぐらいの高さの中に作られた、結構広い空間だ。
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 その階段を下りた所にあるのが、この界隈では大店(おおだな)になる肥料問屋である。正面の軒先に注連縄(しめなわ)が張られ、一対の立派な門松が立てられている。その門松が今の物とはいささか様子が違っているのに、まず驚く。
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 斜めに切った三本の竹筒の周りを松の枝で囲み、下部を藁で覆ったのが現在の門松のイメージだが、江戸時代のものは枝をつけた背の高い竹が中心に立てられている。(写真のように立派なものは、裕福な家に限られたそうだが。)

 「松が飾られるようになったのは平安時代からで、それまでは杉なども用いられていたといいます。松に限られるようになったのは、松は古くから神が宿る木と考えられていたたためで、この時代の末期には、農村でも正月に松を飾るようになったといわれます。さらにここに、まっすぐに筋を伸ばす竹が、長寿を招く縁起ものとして添えられました。」
(引用前掲書)

 肥料問屋を過ぎて、船着場に近い船宿を除いてみると、今度は酒樽にたいそう立派な正月飾りが施されている。伊勢海老の飾りと大きな昆布が印象的だ。
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 一方、庶民が住む長屋の様子を見てみると、狭くて質素ながら、どの住居にも神棚があって、注連縄と繭玉が飾られている。お札はこの近くの富岡八幡宮のものだ。
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 そして、座敷には雑煮の用意が。お正月といってもいたって質素なものである。
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 長屋と長屋の間の路地には共用の井戸。そこにも注連縄が張られていて、昔は神様をお迎えする場所が生活上のいたる所にあったことがわかる。
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 それにしても、しばし江戸時代にタイムスリップしたような感覚を楽しめるこの施設は面白い。そこに正月飾りの数々を加えた今の時期は、そうやって年神様をお迎えしていた時代の体温のようなものを感じることが出来るのでなおさらだ。着物姿の家内は時代劇のヒロインにでもなった気分なのか、ご機嫌である。
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(お正月には凧を売る露店があちこちに出ていたという)

 1657年の1月18日(ユリウス暦では3月2日)に発生してから3日間で江戸の街の大半を焼き尽くしたという明暦の大火(いわゆる振袖火事)。その後、隅田川の東側への新市街の形成を促すために、1659年(または1661年)に両国橋が架けられた。これよりも先に、隅田川と行徳を結ぶ運河として家康の時代から小名木川の開削が進められていた。この小名木川の北側に深川村が誕生したのは1596年のことだそうである。

 以後、干拓による新市街地の形成が南に向かって進み、「深川」も南へと広がっていく。その工事の無事を祈願してのことなのだろう。永代島と呼ばれていた場所に1627年に勧請されてきたのが富岡八幡宮だ。その周辺は文字通りの門前町になり、門前仲町の名前が今も残っている。幕末期の文久年間に作られた絵地図でも、この富岡八幡宮のすぐ南、現在の永代通りがほぼ海岸線のようになっているから、深川の南端が八幡さまであった訳だ。

 時代は進み、元禄時代になると、隅田川には新大橋(1694年)と永代橋(1698年)が相次いで架けられた。深川は江戸・日本橋エリアへのアクセスが格段に良くなり、栄えて行くことになる。
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(歌川広重が描いた新大橋(左)と永代橋(右))

 因みに、江戸城松の廊下で刃傷沙汰となった赤穂事件が起きたのが1701年の3月14日。そしてその年の8月13日に、吉良義央は本所への屋敷替えを幕府から命じられた。現在の両国駅の南側で、本所といっても深川と隣接するような所だ。そして、吉良邸討ち入りを図る赤穂浪士たちは、富岡八幡宮の近くの店に出入りして密議を重ねていたというから、深川もなかなかホットな場所だった訳だ。
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 更にそれから約80年後、吉原で出版業に成功していた蔦屋重三郎が、1783年に日本橋への進出を果たした。その場所は現在の小伝馬町のあたりだ。深川出身の山東京伝滝沢馬琴の作品は、その蔦重の耕書堂を通じて世に出された。新大橋や永代橋を渡って、彼らは耕書堂との間を足繁く往復していたことだろう。

 深川江戸資料館を出て南方向へ歩いて行けば、門前仲町の交差点まではいくらの距離でもない。1月3日の今日、いわゆる「モンナカ」は大変な人出だ。歩道には無数の屋台が並び、富岡八幡宮も深川不動尊も参詣者の長蛇の列が出来ている。

 よく晴れて日差しは暖かく、風のない穏やかな午後。山東京伝や滝沢馬琴のことを思った訳ではないが、まだ散歩を続けたかった家内と私は、永代橋を渡って日本橋まで歩いてみることにした。自分の足を使うことで、江戸の街の距離感も解ろうというものだ。
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(永代橋を渡って中央区へ)

 今も庶民的な門前仲町界隈とは対照的に、隅田川を越えて中央区に入ると、永代通りの両側には無機質なオフィス・ビルが立ち並び、正面には日本橋COREDOが見えてくる。今から1時間ほど前には、その隣の大手町では箱根駅伝の10区を走る選手たちが次々にゴールインしていた筈である。青山学院大学の初優勝に、沿道は大いに盛り上がっていたことだろう。

 昔も今も、江戸は正月から賑やかな街である。

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