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その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (2) [山歩き]


 山小屋の朝は早い。夜明けを待たずに行動を開始するパーティーもいるので、まだ暗いうちから部屋の中では動きが始まる。そんな物音に私たちが目を覚ましたのは、8月7日(金)の午前4時を少し回った頃だった。

 今日は蓮華岳を越えて船窪小屋を目指すと昨日言っていた、私たちより2歳年上の登山者は予定通り朝4時に小屋を出発したのか、彼が寝ていた場所はきれいに布団が畳まれていた。私たちも起き出して出発の準備を始めよう。朝食を口に入れながら談話室の窓を開けると、黒部の谷を埋める雲海の向こうに、まだ目覚めぬ剱岳の大きな姿があった。
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 荷物をまとめて小屋の外に出ると、昨日の午後はガスに覆われていた針ノ木大雪渓がすっきりと見えている。まだ日の出の時刻を迎えたばかりだが、空は快晴。これなら今日一日、多くの山々の眺めを楽しめそうだ。

04:56 新越山荘 → 05:46 鳴沢岳

 体を軽くほぐしてから、午前5時少し前に私たちは出発。今日はここ新越山荘から、名前の付いているものだけでも4つのピークを越えて針ノ木峠まで行き、そこから空身でもう1つのピークを往復してくる予定。長い一日になりそうだ。
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 歩き始めてから幾らも経たないうちに、針ノ木峠の向こうに槍ヶ岳がひょっこりとその頭を見せ始めた。振り返れば、白馬岳から鹿島槍ヶ岳までの山々が朝の光の中にある。幾多の山が刻々とその表情を変えていく、一日の中で最も素晴らしい時間帯である。
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 更に尾根道を登り、少し黒部側に巻いた所で、ハイマツの上に朝焼けの剱岳が姿を現した!
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 これが見たくて、私はここにやって来た。日本で一番好きな剱岳をこの方向からじっくり眺めたくて、このコースを一度歩いてみたいと若い頃から思い続けてきた。それが、還暦一歩手前の今年、同行してくれているH氏のおかげもあって遂に実現したのだ。私はただ息を飲んで、剱岳のモルゲン・ロートを見つめていた。

 立山と剱岳が見え始めてからは、尾根道の両側の景色がどんどんと広がっていく。順調に高度を稼ぎ、出発から50分ほどで鳴沢岳(2641m)の山頂に到着。そこには北アルプスのありとあらゆる山々を眺める360度の大展望が待っていた。
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 私たちと同様に新越山荘に泊まっていた2~3のパーティーも順次この山頂に上がってきて、この素晴らしい眺めを共に喜び合った。本当に、これ以上ないような快晴の夏の朝である。そして、ここから眺める剱岳はまた一段と堂々たる姿で、まさに岩の殿堂というべき風格を見せている。
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 南を向くと、今日これから歩く針ノ木峠までの縦走路が見えている。先はまだまだ長いが、ともかくも頑張って歩くことにしよう。
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05:56 鳴沢岳 → 06:53 赤沢岳(~07:13) → 09:08 スバリ岳

 鳴沢岳から次のピークの赤沢岳(2648m)までは、今日のルートの中ではアップダウンが比較的穏やかな区間だ。それでいて両側の眺めは抜群に良いから、まさに稜線漫歩といった感じである。新越山荘では真正面に見えていた剱岳に代わって、立山が次第に主役に踊り出て来るようになる。立山というと、室道から見上げた台形の衝立のような姿をポスターなどでよく見かけるが、こうして信州側から眺めた立山は実にいい。内蔵助谷の豊富な雪が実に涼しそうだ。山肌をよく眺めてみると、アルペンルートのロープウェイの駅が上下共に見えている。
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 1時間ほどで到着した赤沢岳も同様に眺めが良く、ここからは黒部湖の湖面が見え始める。20分ほどの休憩を取って展望を楽しんだ後、私たちは再び出発。いよいよ今日の縦走路の核心部へと進んで行くことになった。
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 私たちは今、長野・富山両県の境になる尾根に立っている。白馬岳から延々と南に伸びる北アルプスの主脈。その内、針ノ木岳あたりまでは後立山(うしろたてやま)連峰と呼ばれるのだが、江戸時代になって、そうした山々に加賀藩が黒部奥山廻りという見廻り役を置いたことはよく知られている。

 「黒部奥山廻りは、加賀藩がその領地である北アルプス山中の木材討伐や鉱物、動植物などの違法採取を取り締まったものである。石油が燃料としても資材としても世界を席巻する以前は、その役割のほとんどを木材が担っていた。燃料であり資材でもある木材を提供する『山』とはそのまま藩の財産であり、人々が生活の糧を得る場でもあったのである。」
(『百年前の山を旅する』 服部文祥 著、新潮社)

 江戸時代の初期、幕府は各藩に対して領地の絵図を作成して提出させたという。幕府が各藩の石高や交通経路などを把握するためのものではあったが、それは逆に各藩にとっては自国領の範囲を幕府に認めてもらうチャンスでもあったようだ。特に山深い地域では隣の藩との境も山の中だから、空の上から地形を俯瞰する手段のない時代に国境は明確ではなく、「言った者勝ち」になりやすい。

 「加賀藩は立山山頂から見える範囲を領地と主張し、絵図にして江戸幕府に申請するため、積極的に奥山の把握行動を開始する。絵図提出開始の翌年、慶安元年(1648年)には、芦峅寺(あしくらじ)の三右衛門親子に黒部奥山の状況を聞き、藩の役人を遣わして調査をさせている。これが奥山廻りの事始めである。」
(引用前掲書)

 考えてみれば、「後立山」というネーミング自体が加賀藩の目線に立っている。今では前述のように白馬岳周辺から針ノ木岳あたりまでが「後立山」だが、元々は鹿島槍ヶ岳のことを指す山名であったそうだ。(同様に白馬岳は「大蓮華」と呼ばれていたそうで、これも加賀藩の側からの呼び方であるという。)

 「ともあれ、加賀藩が精力的におこなった黒部奥山廻りが功を奏して、立山の山頂から見える黒部川の流域は加賀藩領になる。元禄十年(1697年)の奥山廻役宗兵衛記録内、正徳二年(1712年)内山村平三郎手記には『はりの木谷峯を境信州越中御境』(針ノ木岳を信州と越中の境目とする)とわざわざ明記されている。」
(引用前掲書)

 定期的に役人に奥山廻りをさせることで、加賀藩は今でいう「実効支配」を狙ったのだろうか。いずれにしても、山の尾根を歩くことが隣の藩との国境争いに結びついていたのだとすれば、奥山廻りの仕事も相応に緊張感を伴うものであったのだろう。それに比べれば、近代登山の時代になって、ただ展望を楽しむために県境の尾根を歩いている私たちは何ともお気楽なものである。
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(黒部湖を見下ろす縦走路)

 縦走路を進むにつれて、立山の南方に続く薬師岳の姿が少しずつ大きくなっていく。氷河による浸食で造られたという、スプーンですくった跡のような谷の形が印象的な、とても雄大な山である。
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 このあたりからは、尾根の西側(富山県側)は緩斜面であるのに対して、東側(長野県側)は切り立った地形になって、左手の谷の崩落が進む箇所が多くなる。
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 それにしても、この赤沢岳~スバリ岳(2752m)間は2ピッチの距離と高低差があり、登りが意外としんどい。一時間ほど歩いた所で一度休憩を取り、歩いてきた道を振り返ると、昨日から幾つものピークを越えて来たことが改めてわかる。
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(越えてきた山々)

 これぞ縦走の醍醐味なのだが、それにしても私たちはなぜ好き好んでこのようにアップダウンを繰り返すルートを選んだのだろう。

 それは、自分でもわからない。理屈は抜きにして、ただシンプルに、あの高みに登ってヒョイと景色を見回してみたいという、猿のような物見高さが先天的に自分のどこかにあるからではないか。そんな風に考えるより他はないのだが、年を取るにつれてその物見高さに体がついて行かなくなり始めていることは、残念ながら認めざるを得ない。今日のコースも若い頃だったら涼しい顔してガンガン登り続けたのだろうけれど、今は針ノ木岳がなかなか近づいて来ないことに、正直なところ一抹の焦りすらある。まあ、還暦の一歩手前なのだから仕方がないか。
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 そんな風にちょっと弱気になりながら、私たちはスバリ岳への最後の登りを詰める。そして、赤沢岳から2時間近くをかけて、ようやくスバリ岳の山頂に立った。黒部湖を見下ろすこのピークは、今日のコースの中では恐らく眺めは一番ではないかと思う。
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 信州側から涼しい風が吹き上げて来るのは助かるのだが、私たちはずいぶんと喉の渇きを覚えた。朝から太陽の光を浴び続けてきたことも疲労につながっているかもしれない。これから針ノ木岳を越えて針ノ木峠に着いた後、果たして蓮華岳に登り返す元気が残っているだろうか。

09:20 スバリ岳 → 10:20 針ノ木岳(~10:30) → 11:20 針ノ木小屋

 丘に上がり過ぎて頭の上の皿が乾いてしまった河童のようになりながら、私たちは本日4番目のピーク、針ノ木岳(2821m)を目指す。早朝からピーカンが続いてきたが、午前9時を過ぎるとあちこちの山肌からガスが湧くようになった。縦走路の先に続く針ノ木岳のピークもそうしたガスに見え隠れしている。針ノ木谷の東側では特にそれが顕著で、蓮華岳は完全に雲に覆われてしまった。
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(針ノ木岳にガスがかかる)

 そうなると、針ノ木峠から蓮華岳を往復してくるインセンティヴが、私たちからは更に失われていくことになる。何よりも、針ノ木小屋では生ビールを売っているそうだ。既に結構消耗しているのに、その生ビールを振り切ってまで蓮華岳を目指すというのは、もはや選択肢としてはあり得ないのではないか。針ノ木岳への最後の登りを頑張りつつ、私たちの頭の中はそうした方向へ急速に傾いていった。

 標高差120mを下り、そして標高差200mを登り返す行程に約1時間を要して、私たちは遂に針ノ木岳に到着。盛んにガスが上がる中、槍ヶ岳と穂高の山々が辛うじて見えていた。
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 登山計画書ではこのピークで30分の昼食休憩を予定していたのだが、陽に照らされて暑いし、1時間足らずで針ノ木小屋へ降りられるならその方がいい。私たちは小休止に留めることにした。その一方で、朝からずっと眺め続けてきた立山・剱岳の眺めとも、ここでお別れになる。名残惜しいが、今一度その雄姿を自分の目に焼き付けておこう。(剱岳に向けて、私は朝からいったい何十回シャッターを切ったのだろう。)
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(剱よ、さらば)

 針ノ木岳からの下りでは、岩稜というよりも砂礫のザラザラとした斜面が待っていた。滑らないよう足元に気をつけながらぐんぐんと下っていくと、やがて直下に針ノ木小屋が見えるようになった。かなりの急角度だ。
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 そして11:20に針ノ木小屋に到着。宿泊の手続きを済ませた私たちは、小屋の食堂に上がってお目当ての生ビールにありつく。それが喉元を過ぎた時の至福感に、私たちはもう気絶寸前だ。大変申し訳ないが、その時点で蓮華岳のことは、私たちの間ではどこかへ行ってしまっていた。
(To be continued)

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H (北京現人)

前日の劔岳・立山三山も震えましたがこの日の展望は、もう、何をどう表現すれば良いのかわからない程の圧倒感がありました。
今回、ソロであれば思いもつかないルートの山行でした。
文字通り、お陰さま、で楽しい山行ができました。ありがとうございます。
by H (北京現人) (2015-08-13 23:48) 

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