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その高みに - 北ア・柏原新道~針ノ木岳 (3) [山歩き]


 8月7日(金)、朝5時少し前に新越山荘を出発し、鳴沢岳(2641m)、赤沢岳(2678m)、スバリ岳(2752m)、針ノ木岳(2821m)と4つのピークを越えてきたH氏と私は、針ノ木峠(2541m)にある山小屋に11:20に到着。そこでジョッキ2杯ずつの生ビールを飲んですっかりリラックスしている。もう宿泊の手続きも済ませてしまったから気楽なものだ。

 この峠は北側・南側それぞれに展望が良いから、小屋の外のベンチでそれを眺めているだけでも楽しい。真昼になってあちこちから盛んにガスが上がり、色々な山が見え隠れするのも、それはそれでいかにも夏山の気分である。

 気がつくと、丸太を積み上げた場所をベンチ代わりにして、H氏は昼寝を決め込んでいる。私は南の方角をただぼんやりと眺めていた。槍や穂高、野口五郎岳などは色々な山の上から展望したことがあるのだが、ここから見るとその手前で大きなアップダウンを続ける、しかし些か地味な山々を一つ一つ目にすることは今回が初めてだった。北葛岳(2551m)、七倉岳(2509m)、船窪岳(2303m)、不動岳(2595m)、南沢岳(2625m)、そして烏帽子岳(2628m)といった山々のことである。
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(針ノ木峠から南方向の眺め)

 白馬岳(2932m)の周辺から爺ヶ岳(2670m)にかけて、北アルプスの主稜線は概ね南北方向に走っているのだが、その爺ヶ岳から針ノ木峠を経て前述の烏帽子岳あたりまでの区間、北アの主稜はS字のような形に屈曲している。そして烏帽子岳を過ぎると、野口五郎岳(2924m)を経て三俣蓮華岳(2841m)までの区間は主稜があまり大きく屈曲することなく、概ね南西方向に尾根が走っている。
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(S字状に屈曲した北アルプスの主稜線)

 私たちが今立っている針ノ木峠はちょうどそのS字の中央部分だから、昨日から私たちはそのS字の上半分をなぞって来たことになる。北アの主稜が黒部峡谷側に大きく突き出した箇所で、それが針ノ木岳で東へ大きく向きを変える。だから今日は立山・剱の眺めが抜群に良かったし、針ノ木岳以降はそれまでとは異なる山々が見えている。となれば、今回は歩かないS字の下半分のことも、ちょっぴり気になるところだ。何しろ北アルプスの中でも最もローカル線の部分で、登山者も少ない山域なのである。

 針ノ木峠の東側に聳える蓮華岳(2799m)のピークは、ここからは直接見えてはいないのだが、その蓮華岳から南へ、次のピークの北葛岳までは標高差500m以上を下り、そして250mほどを登り返さなければならない。「蓮華の大下り」と呼ばれている箇所で、北アの主稜の中では屈指の標高差である。そこから先もアップダウンの連続で、野口五郎岳までのルート(沿面距離にして約21km)の断面図を眺めてみると、北アルプスの主稜の中では最も標高が低い区間ではあるものの、登ったり降りたりという有様が本当に鋸の歯のようだ。
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 七倉岳から少し下ったところにある船窪小屋は、不便な場所にあるのに食事が素晴らしいということで、一部の登山者には根強い人気があるそうだが、そこから先は下山後の交通が極めて不便な地域なので、登山者も少なく、また高瀬川に連なる沢の崩壊が激しいために道も荒れていると聞く。(この針ノ木峠から見ても、不動岳の手前で東側の谷が崩壊している様子は何とも痛々しい。)

 こんな風に、針ノ木峠の前後は北アルプスの中で最も奇妙な地形になっているのだが、それを敢えて利用して厳冬期の山越えを敢行した武将が戦国時代に現れた。言うまでもなく佐々成政(1536~88)のことである。

 信長に仕えて越中の一国守護となった成政は、信長が本能寺に斃れた後、清洲会議では柴田勝家に与し、賤ヶ岳でその勝家が敗死すると、一旦は頭を丸めて秀吉に降伏したものの、小牧長久手で秀吉・家康間の合戦が始まると、今度は家康方について加賀の前田領を攻撃。ところが、家康・織田信雄が秀吉と和睦してしまったために孤立無援となった成政は、家康に再起を促すべく、越中富山から浜松へと自ら出向くことになった。時は天正12(1584)年の11月下旬、今の暦なら12月の下旬にあたる。

 西は前田利家、東は上杉景勝とそれぞれ敵対していた以上、富山から浜松へと向かうのに通常の交通路は使えない。成政が選んだのは、厳冬期の北アルプスを越えて信州に出ることだった。成政の「さらさら越え」と呼ばれる山越えは、越中の常願寺川の上流・立山温泉からザラ峠を越えて五色ヶ原に至り、それから黒部峡谷に降りて針ノ木谷を遡るというものだったという。それを12月の下旬から始めたというのだから、暮も正月もあったものではない。察するべきは家臣たちが味わった艱難辛苦であろう。
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(佐々成政の「さらさら越え」の想定ルート)

 成政らが針ノ木谷から信州に出たルートには二説あるようだ。針ノ木峠に上がって大雪渓を降りたというものと、それよりも標高差の少ない蓮華岳・北葛岳間の鞍部を経て北葛沢を降りたという説だ。(但し、後者のルートについては、現在は山道が存在しない。)

 地図を眺めながら考えてみれば、富山県側から歩いて黒部渓谷を横断するとしたら、それは現在の黒部湖よりも上流側の、いわゆる「上ノ廊下」でなければ渡河は不可能だ。そして針ノ木峠以南は、北アルプスの主稜の中では最も標高が低い部分である。今の感覚からすれば無謀にしか見えない成政の「さらさら越え」も、戦国時代に冬の北アルプスを越えるとしたら、たとえ僅かでも可能性のある殆ど唯一のルートであったに違いない。

 それにしても、針ノ木峠から大雪渓を見下ろすと、相当な急斜面だ。(明日は私たちもそこを下るのだが。) 今は真夏だから上部雪渓はもう消えているが、12月末なら峠に至るまでこの斜面には全て積雪があったはずである。アイゼンもピッケルもなしに、成政の一行はどうやってそれを降りたのだろうか。
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 時計は午後の2時半を回っていた。午睡から目覚めたH氏は、何だか所在なさげだ。私もそうだが、ジョッキ2杯の生ビール(及びその後の休憩)は、水分補給と同時に疲労回復にも効果があったようだ。アップダウンが続いた午前中の縦走で疲労感の大きかった脚も、すっかり軽くなっている。それならば、水と雨具だけ持って蓮華岳を往復して来ようか。

 私たちは、針ノ木峠から東へ、砂礫の斜面を登り始めた。スバリ岳や針ノ木岳周辺の岩稜とは異なり、ここは山全体がザラザラとした地質で、山の形ものっぺりとしている。体内からアルコールが全部抜けた訳ではないから私の歩みはゆっくりだが、ともかくも蓮華岳まで行ってみようという気力が戻って来たのは幸いだ。計画した以上は全てのピークに登り、その高みに立って周囲を見回してみたい。やっぱり私たちは猿に似ているのかなあ・・・。
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 それまでの起伏に富んだコースに比べて、蓮華岳に向かってはとりとめのない登りが続くのだが、地図上で2754mの三角点があるピークに達すると傾斜が緩くなって、最終的な蓮華岳のピークが明確に見えてくる。そして、砂礫の山道には次第にコマクサの花が姿を見せ始めた。
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 それから歩みを進めること更に30分。午後4時少し前に蓮華岳の誰もいない山頂に私たちは着いた。ガスに覆われているので遠くの山の展望はない。ここから再び立山・剱が見えれば・・・とも思ったが、それはまたの機会にしよう。それにしても、昨日の入山時には、「このところ毎日、正午を過ぎると雷が鳴るので注意するように。」と言われたのに、結果的に昨日も今日も午後の雷雨はなく、今も上空はよく晴れている。
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(ひっそりとした蓮華岳東尾根)

 登りは1時間ほどだった道を40分足らずで駆け下って、私たちは針ノ木小屋に戻った。それは、午後5時から始まる夕食にちょうど良いタイミングだった。
(To be continued)

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H氏(北京現人)

コマクサの群落は「密集」という感じではなかったですが数は多くて見ごたえがありました。あの天気だったので雷鳥でも現れないかと期待したのですがそこまで都合よくはいかないですね。
結果的に計画していた山すべてに行けて良かったです。
by H氏(北京現人) (2015-08-16 11:32) 

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