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海が見える山道 - 沼津アルプス [山歩き]


 日曜日の朝8時15分。沼津の駅前から乗った伊豆長岡駅行きの路線バスは、私たち5人の山仲間の他に2・3人を乗せて、のんびりと走り始めた。

 市街地を抜けて狩野川を渡り、のどかな道を南に向かって走っていくと、ポコポコとした里山の連なりが左手に見え始めた。バスが走るにつれて、山は近づいてくる。その主稜線は道路に沿うように延々と続いているのだが、まるで住宅地の裏手から急に沸いて出たかと思うほど、その山肌は急傾斜だ。そのうちに沼津御用邸記念公園の緑が右手の家々の後ろに見え始め、それを過ぎると明るい海が広がった。

 小さな漁港の前のバス停で、釣竿を持った一人の乗客が下車。窓から右を眺めると、海に向かった堤防の上に結構な数の太公望たちが座っている。山へ行くためのバスに釣り人と一緒に乗ったのは、考えてみれば初めてのことだろう。やがてバスは東に向きを変え、右手の海と左手の山の間が一段と狭まったところで多比(たび)というバス停に着いた。
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 私たちがこれから歩く「沼津アルプス」。その名前は以前から聞いたことがあった。主だった五つの山の連なりで、その最高峰ですら標高400mに満たない低山。それらの集合を「アルプス」と呼ぶのはさすがに大袈裟だろうと思っていたのだが、調べてみると案外と骨のありそうなコースであることがわかった。全部歩けば沿面距離が約12km、累積標高差は上り下り共に1,140mほどになるという。とにかく急なアップダウンの繰り返しなのだ。今回は元々別のコースを予定していたのだが、ちょっとした経緯があって、沼津アルプスにトライしてみることが直前になって決まった。さて、今日はどんな山旅になるのだろうか。
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08:40 多比バス停 → 09:15 多比口峠(3分休憩) → 09:27 大平山(5分休憩)

 バス停から山を背にした住宅地に入っていくと登山道の道標があり、民家の間の急坂を上っていくと、あたりはミカン畑になった。これから歩く山の稜線が間近に見え始めるのだが、低山なのにこれがなかなか立派な風格である。
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 あたりにはミカン、夏ミカン、カキなどが実り、藪ではカラスウリが鮮やかな色彩を見せている。人々の暮らしのすぐ背後にある里山の風情が、何だかとても懐かしい。

 バス停から歩き始めて20分余り。ミカン山の間を急傾斜で登って来た舗装道が終わり、この日初めての沼津アルプス仕様の道標が現れた。ここから先はいよいよ山道である。
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 山道が始まっても、傾斜のきつさは変わらない。せっせと上っていくと、10分ほどで多比口峠に着いた。水を飲み、呼吸を整えてから大平山(356m)への上りに取りかかるのだが、これがまたきつい。それでも山のご褒美はあるもので、峠の少し上では愛鷹山(あしたかやま)の向こうに頭を出した大きな富士山を眺めることができた。私たちはいつも甲斐の山に行くことが多いから、宝永火口を真正面にした駿河の富士を見上げるのは、本当に久しぶりである。
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 そこから更に10分ほどきつい上りを辛抱すると、樹林に覆われた大平山の山頂に到着。この山が沼津アルプスの南端と私は認識していたのだが、山頂には地元の山岳会の手によるものと思われる道標があって、それによればこの先にまだ「奥アルプス」と呼ばれる山域があるという。そして実際に、私たちが山頂で小休止を取っている間にも、その奥アルプス側から何人かの登山者が上がって来た。沼津アルプスも意外と奥が深いのだろうか。
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09:32 大平山 → 10:02 多比峠 → 10:15 鷲頭山(15分休憩)

 先ほどの急な上りを今度は下って再び多比口峠へ。この先もこんな上り下りが続くことになるのだが、この時点での私たちにはまだ元気があった。
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 多比口峠から先は痩せた稜線が小刻みなアップダウンを繰り返す山道となり、これが結構面白い。岩の上から展望が開ける箇所もあって、箱根の山々がよく見えている。
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 そして、多比峠に着くと、そこから先に強烈な急登が待っていた。急斜面を殆ど直登するようなコースで、タイガー・ロープが張られている。つらい登りだが、ひたすら我慢。その代わりというべきか、振り返れば先ほど登った大平山がなかなか立派だ。
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 10分少々の我慢で、山道の先の空が明るくなり始めた。そこからもう一登りで小さな草地のピークに到着。それが鷲頭山(392m)だ。今日のコースで初めて、山の上から海が見えた。しかも駿河湾の向こうには白銀の南アルプスが見えている。とりわけ、聖岳から赤石岳、悪沢岳に至る南アルプス南部の3,000m峰の堂々とした山容が素晴らしい。予定よりも30分ほど早く着いたので、私たちは眺めの良いこのピークで少しのんびりすることにした。
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10:30 鷲頭山 → 小鷲頭山 → 11:12 馬込峠 → 11:05 志下山 → 11:50 徳倉山(40分休憩)

 鷲頭山を下り始めるとすぐに、小鷲頭山というピークがある。果たして山と言えるかどうかもわからない、稜線の途中の小さな盛り上がりなのだが、ここが鷲頭山よりも更に眺めが良い。綺麗な円弧を描く駿河湾の向こうに富士山と南アルプスが勢ぞろい。先ほどバスで通った沼津御用邸記念公園の緑も眼下に見えている。
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 ここからもアップダウンが続き、しかもその一つ一つの傾斜がきつい。自分一人だとメゲてしまいそうだが、今日は仲間たちと来ているから何かと気が紛れる。そのうちに現れた馬込峠を過ぎて、またしばらくきつい上りを我慢すると、志下山(しげやま、214m)という小さなピークに到着。そこから先は海の景色が一気に広がり、山道の傾斜も緩くなって、海を眺めるプロムナードのようになった。

 何しろ標高200m程度まで下りて来ているので、海との距離が近い。初冬の穏やかな日曜日。のどかな海を見下ろしながら山道を歩くとは、何と幸せなことだろう。「奥駿河パノラマ」という看板が掲げられた場所からの眺めは、この世の楽園かとも思えるほどだ。
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 志下坂峠からはもう一度我慢の上りがあり、富士山が正面に見えるようになる。振り返れば、鷲頭山からアップダウンを繰り返してきたコースが実際の標高以上に立派に見えている。
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 いつしか海の眺めと別れて再び森の中へ。緩やかに下り続けた後に再び急登があり、それを上りきると草地の山頂に出た。私たちが昼食を予定していた徳倉山(256m)だ。今日は朝が晴れでゆっくりと下り坂になる天候。私たちがこの徳倉山に着くまで、富士山はどうにかその姿を見せ続けてくれていた。
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 強烈なアップダウンが続く道を3時間も歩けば、私たちもさすがに空腹になる。スープを温めて昼食にしよう。この徳倉山は、ここだけ登りに来る人々も多いようで、家族連れなどで山頂は賑わっていた。

 富士の高嶺と箱根の山々、駿河湾、そして背後には伊豆半島となると、私がどうしても連想してしまうのは、「国を盗んだ男」北条早雲(1432 or 1456~1519)のことである。

 今川家の若き嫡男・竜王丸(後の氏親)の伯父として駿河にやって来た早雲が拠点とした興国寺城は、現在のJR東海道本線・原駅の北方になる。沼津から見れば西の方角だ。

 領地では税を四公六民という低率に留め、地頭として国人・地侍層を直接掌握した早雲。それが、足利将軍家の盲腸のような存在だった伊豆・韮山の堀越公方を攻め滅ぼしたのが1493(明応2)年のことだ。守護でもない男が伊豆一国の事実上の支配者となったこの事件が、東国における戦国時代の嚆矢とされている。その堀越公方の「御所」があったのは、私たちが今朝登った大平山から南東方向へ僅か3kmほどの場所である。
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 5代目の鎌倉公方・足利成氏が関東管領(上杉家)と激しく対立してその拠点を古河に移し、約30年にわたって関東を二分する争乱となった「享徳の乱」。京都の将軍・義政は成氏に代わる鎌倉公方として、自らの異母兄になる政知を送り込むのだが、東国は依然として成氏と関東管領の勢力が強く、政知は鎌倉に入れない。やむなく彼は韮山の堀越に留まるのだが、そのうちに成氏と関東管領は和睦をしてしまい、政知は伊豆一国を支配するだけの「公方」となった。それが堀越公方である。

 それにしても、さしたる手勢も持たず、韮山の小高い丘に僅かばかりの御所があるだけだった堀越公方が、なぜ伊豆一国を支配出来たのか。更に言えば、堀越公方家で起きた内紛の制圧を理由にそれを急襲し、公方家を滅ぼしてしまった余所者の早雲が、なぜその後の伊豆国を支配することが出来たのか。

「早雲は、伊豆を一朝にして得た。
 得た、といっても、
『領土』
といえるのかどうか。かれが戦国の幕を切っておとしたとしても、まだ室町の体制はつづいている。京の将軍、関東(古河)の公方、関東の両管領(山内上杉氏と扇谷上杉氏)、守護といった体制のなかで、一私人が一国を『領土』にするという思想はこの世には存在しない。
(中略)
 伊豆は本来、山内上杉氏が守護であった。ただ山内上杉氏が伊豆に対して守護らしい民政はせず、堀越に足利氏がくると、それに伊豆を譲ったかのようにして、いわば捨てていただけである。
 守護でなければ、国主ではない。守護でもない早雲が、伊豆の国主としてはふるまえないのである。」
(『箱根の坂』 司馬遼太郎 著、講談社文庫)

 早雲は甥にあたる今川氏親に被官していた。氏親は駿河の守護であり、今川家は足利家の分家のそのまた分家だ。その氏親が、内紛で正当な公方が存在しなくなってしまった堀越・足利家の事態をひとまず鎮め、堀越公方の支配地を管理するために早雲を遣わした、という建前で伊豆を「盗る」ことの理屈付けを行い、その後は興国寺城下で行ったのと同じように、税を低くして民政に注力し、早雲は伊豆国の人心を得ていった、というのがこの小説のストーリーである。

 当時の関東は、享徳の乱こそ終わっていたものの、両上杉家が犬の噛み合いのような抗争を続けていて伊豆どころではなかった。そのことも幸いしている。

 今日の私たちが駿河湾や南アルプスを眺めているのと同じように、早雲の居城であった興国寺城からは、海の向こうの伊豆の山々とその手前の沼津アルプスがよく見えていたはずである。そして、伊豆を盗った2年後の1495(明応4)年に小田原を一気に奪った、その時に越えていった箱根の山々も毎日のように眺めていたことだろう。今、私たちの視界の中にある山や平地の中でそんな歴史が刻まれていったことを思うと、興味は尽きない。
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12:30徳倉山 → 12:49 横山峠 → 13:06 横山(3分休憩) → 13:26 八重坂峠

 徳倉山を下る。またしても急な下りだ。段差の大きな階段状になっていて、山の急斜面を一直線に下りていく。右側に張られたタイガー・ロープの助けを借りながら、慎重に下ろう。昼食をとって少し腹が重くなったことに加えて、ここまでのアップダウンの繰り返しで膝がそろそろ悲鳴を上げそうだ。

 下りきったところが横山峠で、あたりから野武士でも出て来そうな、素朴な味わいの峠の風景である。
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 そして、再び急な登り返し。15分程度のものなのだが、それに耐えて横山(182m)の頂上に着いた時には、メンバーの間でもだいぶ疲労の色が濃くなっていた。
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「横山の登りが一番きつかった。」と、今日どこかですれ違った登山者が語っていた。彼らにとっての登りは私たちにとっての下りだ。ということは、今日一番の下りがこれから始まるということか。

 冒頭に掲げた断面図でもわかる通り、横山を過ぎると標高差150mほどの下りが待っている。それも、コースの中では最も急角度だ。私たちは残る元気を振り絞って下り始めたのだが、またしてもそれはタイガー・ロープに頼りながらのとんでもない下りになり、それが20分ほど続いた。

 13時26分、八重坂峠に到着。ここで縦走路は一旦道路に出て、それを西方向にしばらく下っていくことになる。比較的交通量のある道路で、沼津駅行きのバスも通っている。
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 沼津アルプスの全山縦走にはあと一つ、香貫山(かぬきやま、193m)が残っている。沼津駅には最も近い山なのだが、現在の位置は標高15mぐらいだから、香貫山へはその高さの殆ど全てを登り返さねばならない。私たちの間には、香貫山はもういいかなというムードが既に漂い始めている。

 しかも、この道路から香貫山に向かう山道の分岐の向かい側にはバス停があって、一時間に一本のダイヤなのだが、ちょうどあと2~3分で沼津駅行きのバスがやって来るようだ。これがダメ押しになって、私たちは全員一致で縦走の打ち切りを決めた。このバスに乗れば14:00には沼津駅に着く。開いている店を見つけて、旨い魚で一杯やろう。

 12月最初の日曜日。天候は穏やかで、この季節にしては暖かい一日だった。「アルプス」に名前負けしない強烈なアップダウンには苦しめられはしたものの、山道を歩きながら海を見下ろし、富士山や南アルプスを眺めるという、冬の低山ならではの楽しみを満喫することができた。香貫山が一つ残ってしまったが、ここは駅から近く、公園にもなっている場所だから、また来る機会があるかもしれない。

 バスの中から後ろを振り返ると、今日歩いて来た沼津アルプスの稜線が住宅地の後方に続いていた。


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