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大正の気分 [鉄道]

 私は普段から地図を眺めることが好きである。淡々と事実のみを記した一片の地図。そこから読み取れる色々なことには興味が尽きない。加えて最近は便利な時代になり、インターネット上で昔の地図をダウンロードすることが可能だ。画面の上での自在なスクロールや拡大・縮小はもとより、画面のコピーを取って自分用に加工したりすることも好きなように出来る。自分の学生時代などと比べれば夢のようなことである。

 この週末、私はネットから明治42年測量の地図を眺めてみることがあった。フォーカスを当てたのは東京の都心、皇居の南東側の地域である。
Central Tokyo (1909).jpg

 まず目に止まったのは、汐留の鉄道駅だ。この時点ではまだ現役の「新橋駅」として活躍しており、東海道本線を下る長距離列車はここから出ていた。そして興味深いのは、その旧新橋駅の西側に烏森駅(現在の新橋駅)が地図の上に登場していることだ。この駅の開業は明治42年の12月16日だから、同年の測量になるこの地図が表わすものは、まさにその時点での最新情報だったのだろう。

 この烏森駅から鉄道線路らしきものを北方向へと追っていくと、有楽町駅の姿はまだなく、現在の日比谷のガードを越えたあたりで線路のマークは消えている。その先の東京駅は、もちろんまだ影も形もないのだが、2年前の明治40年から駅の基礎工事は始まっていたようだ。もちろん他に建物などはなく、皇居前広場と正面に向き合う場所が広々と空いている。

 よく言われるように、帝都の玄関口となる東京駅の建設構想が立てられたのは、日露戦争に辛勝して日本が世界の強国の仲間入りをした、そうした時代の気分を反映してのことだったようだ。新橋駅が皇居からやや離れていることもあり、やはり帝都であるからには皇居の正面に威風堂々とした建物が必要だったということなのだろう。

 日露戦争といえば、ロシアとの間で講和条約を締結した全権大使の小村寿太郎を乗せた船が、米ポーツマスから横浜に帰港したのが1905(明治38)年10月16日。それは、ロシアに大幅譲歩した内容での条約締結に憤激した大衆による「日比谷焼打事件」から40日後のことだった。横浜からさっそく汽車で東京に向かう小村。その時の新橋駅の様子は、例えばこんな風に描かれている。

 「午後四時、汽車は新橋駅についた。駅内外の警戒は厳重を極め、一般の乗車券、入場券の販売は停止され、プラットフォームには、着剣した兵が整列していた。在留外国人たちの間で、小村が暗殺される場所は新橋駅が最も確率が高いとして賭けがおこなわれていたが、警備陣も同じ予測をしていて緊迫した空気が広がっていた。
 プラットフォームには桂(太郎)首相、山本(権兵衛)海相らが出迎えに出ていて、小村と挨拶を交わすと両側に立ち、小村の腕をかかえてプラットフォームの出口に進んだ。かれらは、小村に爆裂弾か銃弾が浴びせられた折には、共に斃れることを覚悟していたのである。
 出口附近にも着剣した兵が両側に並び、広場にもおびただしい兵、憲兵、警官が人垣を作っていた。その最後には一般人が小村に眼を向けていたが、むろん小旗を持った者もなく、駅前の商店の旗もおろされていた。」
(『ポーツマスの旗 - 外相・小村寿太郎』 吉村 昭 著、新潮社)

 その当時、東京の都心を周回運転する山手線はまだ完成していなかった。先ほどの烏森駅から品川・新宿・池袋を時計回りに回って上野まで、アルファベットの”C”の字形に電車が走るようになったのは、烏森駅の開業と同じ1909(明治42)年の暮れである。

 そして翌年6月に有楽町駅が開業。そして同9月には山手線が更に北へと伸び、現在の東京駅から更に300mほど神田寄りの、永代通りを跨ぐあたりに呉服橋という小さな駅を作り、そこまでが開業したという。だがこの呉服橋駅はあくまでも仮の姿で、電車二輌ほどの長さのホームしかなく、並行して走る京浜線(現在の京浜東北線)のホームはなかったそうである。
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(東京駅周辺の鉄道 (実線は明治時代、破線は大正時代に開通したもの)

 それから丸4年。1914(大正3)年の12月20日に赤煉瓦造りの東京駅が遂に開業。同時に呉服橋駅が廃止になり、旧新橋駅が汐留貨物駅に、そして烏森駅が新橋駅へと改編される。東京駅は東海道本線の長距離列車の新たな終着駅となったが、都市のターミナル駅としてはまだまだ不便であったようだ。要するに、山手線・京浜線もこの時点では東京駅で行き止まりで、そこから北へは線路が繋がっていなかったのだ。上野・神田間は江戸時代以来の市街化地域で、鉄道用地の確保が難しかったからだった。

 東京駅の開業から4年強を経た1919(大正8)年の3月1日、日本統治下の朝鮮で「三・一事件」と呼ばれる独立運動が起きたちょうどその日に、中央線の東京・万世橋間が開業。これによって中央線電車の東京駅乗り入れが始まり、立川方面からやって来た電車が新宿→御茶ノ水→神田→東京→品川→池袋→上野というルートを辿る「の」の字運転が行われるようになった。

 現在の東京駅前がオフィス街を形成するようになるのはこのあたりからのことだろう。大正7年に東京海上ビル、同12年に丸ビルと日本郵船ビルなどが建ち、「一丁ニューヨーク」という呼び名も出現している。そして同14年11月1日に山手線・京浜線の上野・東京間が開通すると、東京駅はようやく本格的なターミナル駅とし機能することになる。(なお、総武線の御茶ノ水・両国間は隅田川を渡る鉄道橋の建設が必要だったため、その開通は昭和の時代を待たねばならなかった。)

 その東京駅丸の内口が、開業当時の総三階建ての姿を取り戻して明日リニューアル・オープンする。以前長く勤めた職場が丸の内界隈だったことから、私個人にとってもこの出来事には感慨深いものがある。
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(リニューアル・オープンを待つ東京駅丸の内南口 - 2012/9/23)

 日清戦争終結の翌年に帝国議会で「中央停車場」の建設が議決され、日露戦争終結の3年後に建設工事が始まり、そしてヨーロッパで第一次世界大戦が始まった年の暮に開業した、威風堂々たる東京駅。それは日本が世界の列強国に肩を並べようと必死だった時代を象徴するような建造物だが、ともかくもそうやって日本は自力での近代化を成し遂げていったのだ。その一方、東京駅開業の時代に盛り上がりを見せたのは何といっても「大正デモクラシー」であったが、原敬は大正10年に、そして浜口雄幸は昭和5年に、この東京駅でそれぞれ凶弾に斃れている。それもこれも、みなこの国の歴史なのだ。私たちはそれをしっかりと踏まえていかなければならない。

 明日の夜は仕事が終わったら、久しぶりに丸の内へ立ち寄って、駅舎を眺めてみようか。


【追記】
 10月1日の夜は、やはり仕事帰りに東京駅へ足を運ぶことになった。世紀のリニューアル・オープンの日に、装い新たな丸ノ内口の姿をどうしても自分の目で見てみたかったのである。

 JR東日本では「復元」ではなくて「復原」という言葉を敢えて使っているが、それは「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」という意味だそうである。大正3年という時代にこのような堂々たる中央駅が皇居の正面に建てられた、その頃の時代の気分というものを改めて感じてみたくなる、そんな思いがした。これはやはり、歴史に残る帝都の玄関口である。
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「あぶQ」という回り道 [鉄道]

 仙台駅から福島行きのガラガラの電車で凡そ30分。槻木(つきのき)という駅で降りたのは、私を含めて7~8人だっただろうか。2面3線の小さな駅で、4両連結の電車が出てしまうと、ホームは静寂に包まれた。私は約20分の接続待ちをするのだが、ここから東北本線とは異なる別の鉄道が出ていることには、そう言われなければ気がつかないぐらい、本当に静かでこぢんまりとした駅である。
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(東北本線 槻木駅)

 出張先での仕事は、前夜で終わった。今日の午前中は東京に戻るだけの行程なのだが、いつものようにただ新幹線に乗るだけというのもつまらない。せっかくだから、在来線を使ってちょっぴり回り道をしてみようか。そんなことを思いついたのは、昨夜ホテルに戻ってからのことだった。

 改札口で時間をやや持て余していると、お目当ての2両連結の電車が福島方からやってきて、2番ホームにそろりと停まった。白い車体に青と緑のラインが入り、一見してJRの電車とは違うことがわかる。宮城・福島両県を中心とした第三セクターが運営する、「あぶQ」こと阿武隈急行線である。平日の朝の9時半過ぎ。車内で発車を待つのは10人もいるかなという程度だ。
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 9時41分、ワンマン運転の電車は定時に出発。白石川を鉄橋で渡ると、やがて東北本線の上り線を大きくオーバークロスして左へ分かれていく。このあたりの造りはなかなか立派である。そのうちに車窓には里山と水田の緑豊かな眺めが広がり、車内は早くもローカル線のムードに包まれた。

 この鉄道では、停まっていく駅の一つ一つにキャッチフレーズが付けられている。最初の駅の東船岡が「桜と菊の名所」、次の岡が「明日の宇宙を拓くまち」(近くに宇宙推進センターがある)、三番目の横倉が「古代文化の香り」(古墳でもあるのだろうか?)という具合だ。いずれも無人駅で人っ子一人見かけない。この横倉駅などは丘陵を貫く切通しの端っこのような場所にあって、実にひっそりとしたものである。
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(横倉駅からの眺め)

 四つ目の駅が角田(かくだ)。大手電機メーカーの工場があったりして、このあたりでは一番人口の集積がありそうな町だ。ここで若干乗客が入れ替わり、それでなくとも十指に余るような乗客数が更にその半分ほどになった。そして、そこから更に三つ目の駅が丸森。有人の駅だが、ここで乗り降りする人の姿はなかった。

 この鉄道、元々は今日ここまで乗って来た区間(17.4km)だけの、丸森線という国鉄の非電化ローカル線だった。昭和43年の開業だから、ずいぶんと遅い。絵に描いたような盲腸線で、一日5往復の列車しかなかった。だから丸森線といえば赤字ローカル線の代名詞のような存在で、昭和61年に「特定地方交通線」の第一次選抜で廃止が決まる。開業からわずか18年後のことだ。それを三セクが引き継ぎ、2年後にこの丸森から南へ福島まで35.7kmの線路を延ばし、更に全線で交流電化を果たしたのが阿武隈急行線の現在の姿である。
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(有人の丸森駅に乗降客はなかった)

 あの盲腸線が、なぜこんな風に路線を拡大して生まれ変わることになったのか、実に不思議なことばかりだが、調べてみると、色々な背景がそこにはあったようだ。

 各地に国鉄の赤字ローカル線を作ることになった、その「元凶」と見なされることの多い大正11年の改正鉄道敷設法。その法律の中の別表に、以下のような路線が明記されている。

 27. 福島縣福島ヨリ宮城縣丸森ヲ經テ福島縣中村ニ至ル鐵道及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鐵道

 つまり、東北本線の福島・白石間についてバイパス線を作る計画があったようだ。明治時代に建設された東北本線は福島・白石間を、基本的には旧奥州街道に沿うようにして走っている。だが、そこは急カーブと勾配の連続で、戦後も東北本線のスピード・アップのネックになっていた。そこで目を付けられたのが上述のバイパス線計画で、そのうち「丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鐵道」が「宮城県槻木付近ヨリ丸森ニ至ル鐵道」によって代替されたのが、丸森線全線の計画、つまり今の阿武隈急行線そのものである。福島・丸森間は阿武隈川に沿って走るコースで、福島・白石間に比べれば平坦なルートではある。
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 そんな経緯で、丸森線の建設は昭和39年から始められた。この内、北側の槻木・丸森間が先に完成して昭和43年に開業。平地が多い部分だから、ここまでは建設も進めやすかったはずである。だが、丸森から南は阿武隈川沿いで、橋を架け、長いトンネルを掘る必要があった。そのうちに昭和も50年代に入ると、国鉄改革がいよいよ現実味を帯びたものになっていく。その一方で、槻木・丸森間が開業した年の秋には東北本線全線の複線電化が完成。電車の性能向上もあって、福島・白石間のバイパス線によるスピード・アップというお題目はどこかへ行ってしまった。

 そんな訳で、丸森線の福島・丸森間はかなり完成に近い状態だったにもかかわらず、既に開業していた盲腸線部分の廃止が昭和61年に決まる。それを三セクが引き継ぐことができたのは、未成部分がかなり出来上がっていたからだろう。いずれにしても、その鉄道ルート自体が時代のニーズに合わなくなっていたのに「遅々として」建設を続け、殆ど全通に近い状態までカネをかけてから廃止を決めたあたり、行政も国鉄自身も実にお役所仕事だったと言う他はない。
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 丸森駅を出発した「あぶQ」の電車は、いよいよ阿武隈川に差しかかる。鉄橋で川の右岸に渡り、そこから先は川に寄り添うようにして走る。幾つかトンネルを越えたところにある「あぶくま」駅は、渓谷が本当に深く、人家の全くない所だ。乗り降りする人は誰もいない。八角形の独特の駅舎があって、阿武隈川下りの船着き場への道を示す表示が見えたが、ここで電車を降りて船に乗る人が、それでもシーズン中はいるのだろうか。

 それから長いトンネルがあり、次の駅は「兜」。これも、誰がこの駅を使うのかなと思うぐらい、周りには人家が殆どない所で、水量豊かな阿武隈川が黙々と流れているだけ。だがそれは、不思議なくらいにどこか懐かしい風景だ。遠い記憶に残る、子供の頃の夏休みのようなイメージと言えばいいだろうか。前の座席に足を乗せ、窓辺に寄りかかりながら、いつしか私はタイム・スリップを楽しんでいた。
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 電車はもう福島県に入っている。富野という駅から先は阿武隈川から離れ、平地の中を走るようになる。梁川という駅からは新たな乗客もそれなりにあって、都市が近いことがわかる。このあたりは伊達市になるから、福島の郊外のようなものだろう。のんびりとした田園風景の中を走る電車は、向瀬上(むかいせのうえ)という駅の先でもう一度阿武隈川を渡る。今日は雨上がりの曇り空で遠くの山は見えないが、晴天ならばきっと蔵王が見えているはずである。

 窓の外には町の景色が増え始め、気がつけば東北新幹線の橋脚が見えてきた。終点の福島は近い。その橋脚をくぐり、信夫山を北から西に巻くようにすると、やがて現れた東北本線の線路と合流。しばらく走って奥羽本線の線路が右から近付いてくると、いよいよ福島駅である。在来線ホームの一番東側、福島交通飯坂線のホームの向かいに、「あぶQ」の電車はゆっくりと入った。なるほど、そうか。福島交通は「あぶQ」の大株主の一つだから、こうなる訳だ。
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 今朝、私が仙台から乗った福島行きの電車に、槻木から先も乗り続けていれば、そこから福島までは55分で着いたはずである。それが、「あぶQ」に乗ると1時間19分。スピード・アップのためのバイパス線のはずが、単線鉄道ではそうもいかない。それでも開き直って阿武隈急行を名乗るところが憎めない鉄道である。

 福島駅では23分の接続で上りの新幹線に乗車。「あぶQ」とは違って、窓の外の景色は矢のように飛び去っていき、福島からわずか1時間と7分で大宮に着いてしまう。それなら午後の予定には間に合うだろう。やはり、何事も時速275kmで突っ走るのが、今の世の中なのだろうか。

 「あぶQ」という回り道。考えてみれば、「各駅停車」という名前をつけたこのブログには相応しい思いつきであったかもしれない。またいつか乗ってみたい、愛すべきローカル線である。

帰り道 (3) 車窓からの山々 [鉄道]


 JR仙山線の山寺駅には、ちょっとした展望台が用意されている。展望台というより櫓(やぐら)のようなものだが、そこに立つと正面に立石寺の全景を眺めることができる。カメラのレンズをズームにしてみると、岩の上に立つお堂がよく見えている。
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 次の山形行き電車が来るまで、私はそこからの展望をしばし楽しんでいたのだが、ふと左を向いた時、西の彼方に雪を抱いた山並みがうっすらと見えているのに気がついた。この時期にこれほどの雪を残しているのは、関東以西ならよほどの高山だが、東北地方は少し気候が違うようだ。

 私は遠くへ出かける時に、鉄道地図を持っていくことにしている。既に行ったことのある地域を訪れる時でも、この地図を持っていくと新しい発見が案外あるものだし、今日のように遠くに見える山の見当をつける時などには便利である。今回もその地図を取り出して調べてみたところ、その雪の山並みは山形県の朝日連峰で、中でもピラミダルな姿が印象的な山は大朝日岳(1871m)だということがわかった。
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(大朝日岳)

 大朝日岳は学生時代に登ったことがある。5月の連休の頃だったと記憶しているが、山形駅からスキー客で満員の月山行きのバスに乗り、登山用の格好をした私たちだけが途中で降りて別の路線バスに乗り換えた。山里から稜線へのアプローチが長かったこと、豊富な雪を踏んだこと、天候に恵まれて大朝日岳からの眺めが最高に良かったこと、そして朝日鉱泉に下りてからも人里への林道歩きが長かったことなどを覚えている。もう34年も前のことだ。

 そんなことを思い出していると、構内放送があって、10時36分発の電車がやってきた。終点の山形まではちょうど20分ほどである。今朝ここまで乗ってきた電車と比べても、車内はまた一段と空いている。

 ここから先の仙山線は、扇状地からゆっくりと左カーブで山形盆地へと下りていくルートだ。先ほどまでは深い山の中にいたのに、景色は急速に広々としてきた。そして、次の高瀬駅に着く頃だろうか、右の車窓の彼方に、驚くほど豊富に雪を抱いた山が横長の姿を現した。出羽の月山(1964m)である。電車の窓ガラスに少し緑がかった色がついているので、写真は妙な色合いになってしまったが、この月山の堂々とした姿は本当に印象的である。
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(月山)

 電車はすっかり高度を下げ、山寺では高い位置に見えていた大朝日岳も、町並みの向こうに見え隠れする程度の高さになってしまった。そのうちに奥羽本線のレールが右から寄って来て合流する。奥羽本線のこの区間は、「ミニ新幹線」規格の山形新幹線を走らせるために標準軌(1435mm)に改軌されたので、今走っている狭軌の仙山線(1067mm)とは軌間が異なる。えっ、その二つが合流するの?と思っていると、合流したすぐ後に標準軌部分が左に分かれて並走を続け、羽前千歳駅に到着。ここから先は山形駅まで、奥羽本線のレールは見かけ上は複線ながら、西側が狭軌、東側が標準軌という異なる二つの線路がそれぞれ単線で走っている訳だ。

 次の北山形を過ぎると、右から左沢(あてらざわ)線の線路が合流。そして城跡のお堀が見えてくると、間もなく終点の山形に到着である。

 山形駅では、11分の接続で出る東京行きの山形新幹線「つばさ138号」が待っている。お昼前の時間帯(11時08分)に出る列車だから、予想通り車内はガラガラだ。発車してすぐに、左手に山形蔵王が大きな姿を見せる。そして最初の停車駅・かみのやま温泉駅を出ると平地の景色が終わって両側に山が迫り、それがもう一度平地に出ると赤湯駅に到着。JR東日本から山形鉄道が引き継いだフラワー長井線の車両が停まっていた。
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 列車は米沢盆地に入ったことになる訳だが、そこから米沢駅までの間、右の車窓の彼方に残雪で真っ白な山並みが現われた。これまた35年ぶりに眺めることになったのだが、山形県と新潟県の県境に連なる飯豊連峰である。
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(雪を抱く飯豊連峰)

 大学一年の夏に旧友のT君と飯豊に登った時は、上野から夜行列車に乗った。郡山から磐越西線に入る夜行の急行があり、山都駅あたりからバスか何かでアプローチしたのではなかっただろうか。飯豊山(2105m)の主稜線はハイマツがものすごく深く、この標高にしては夏も冷涼な気候だったのが今も強く印象に残っている。帰りは北へ下りて米坂線の小国駅を目指したのだと思うが、今は記憶が定かでない。若くて体力があり余っていたのか、とにかく一年中色々な山に登った年だった。

 その懐かしい飯豊連峰の眺めとも、米沢駅を過ぎればお別れだ。米沢盆地南端の関根駅を通過すると、両側には急速に山の景色が迫り、路線は上り勾配が始まる。次の大沢駅あたりからは更に急勾配になり、さすがの山形新幹線もだいぶトロトロとした走りになった。このルートのクライマックス、いわゆる板谷越えはもうすぐだ。
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 なおも急勾配を上り続け、短いトンネルを越えると、防雪用のシェルターの中に駅のホームが見えた。辛うじてシャッターを切ることが出来たのだが、これが峠駅。奥羽本線で最も標高の高い駅である。
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(峠駅を通過)

 急勾配の続く板谷峠は全国有数の鉄道の難所で、かつては東から赤岩・板谷・峠・大沢という連続する四つの駅がスイッチバックの駅だった。こんなところに明治32年に鉄道が通ったのは信じられない早さだが、蒸気機関車のパワーには限界があったのか、戦後の昭和24年にこの区間だけいち早く直流電化が行なわれ、板谷越えに電気機関車が投入されたという歴史も持っている。山形新幹線の開業を機に各種の改良工事が行なわれたので、今はスイッチバックのお世話になることもないが、機会があれば一日6往復しかない普通列車に乗って、この峠をゆっくり越えてみたいものである。

 峠駅を過ぎるとすぐに第二板谷峠トンネル(1629m)に突入。上り列車はここから下り勾配が続く。とたんに列車のスピードが上がり、トンネルを抜けると阿武隈水系の狭い谷をぐんぐんと下りていく。赤岩駅を通過し、カーブを繰り返しながら福島盆地に出たあたりで、右手に吾妻連峰の大きな姿があった。ここからだと吾妻小富士が独立した一つのピークとしてはっきりと見えている。
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(吾妻連峰の眺め)

 平地を走りながら都市の景観が少しずつ増えていくと、間もなく福島駅だ。山形を出てからの1時間と13分の間、私は殆ど電車の窓に貼り付いたようになっていたが、福島で「やまびこ138号」とドッキングすると、ここからはいつもの東北新幹線のルートだ。東京までの1時間半を、リクライニングを倒してゆっくりしようか。

 仙台を出たのが朝の8時15分だったから、まだ4時間ほどしか経っていないが、今朝は思いがけずも充実した時を過ごすことができた。やはり、旅はしてみるものである。

帰り道 (1) 仙山線 [鉄道]


 土曜日は明け方に目が覚めた。窓のカーテンを手繰ると、国道を走る車もまだ数が少ない仙台郊外の景色が、始まり出した朝の光の中にある。今日は素晴らしい晴天の一日になりそうだ。

 出張先での仕事は、昨夜のうちに終わった。土曜日の今日は東京の家に帰るだけなのだが、真っ直ぐ帰るにはどうにも天気が良すぎる。家族とのスケジュールを考えると、午後の早い時間に東京駅に着けばいいのだから、今日は早朝から動き出して少し遠足でもしてみようか。

 そうなると「善は急げ」で身支度を始め、7時前にビジネス・ホテルをチェックアウト。路線バスと地下鉄を乗り継いでJR仙台駅へ出ることにした。8番ホームの階段を降りると、8時15分発の仙山線・山形行き快速電車が待っている。
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 今日のような機会があったなら、仙山線には一度通しで乗ってみたいと思っていた。幹線鉄道ではないが、隣接する二県の県庁所在地同士を直接結び、しかも仙台市と山形市以外は通らない。全区間が単線で、仙台近郊は立派な通勤電車だが、途中で山を越える区間は急勾配が連続するローカル線という、二つの顔を持っている。そして電化はされていて、それも日本における交流電化の発祥の地なのだ。「乗り鉄」派には興味津津の路線なのである。

 この仙山線、最近は仙台市郊外のベッドタウン化で平日の通勤・通学時は大変な混雑であるそうだが、今は土曜の朝の下りだからのんびりしたものだ。仙台駅を定刻に発車した電車は東北本線をオーバークロスして西方向へと進路を変え、マンションの建ち並ぶ都会の景色の中を走っていく。東北福祉大前の駅で学生さんたちが降りると、車内はすっかり閑散としてしまった。それからしばらくは丘の中腹を横切るような景色が続き、トンネルを一つ越え、左に見えていた広瀬川を渡ると、間もなく愛子(あやし)駅だ。ここで乗客が更に降りる。Suicaが使えるのもこの駅までで、仙山線の電車はいよいよローカル色を強めていくことになる。

 仙台からこの愛子までが、仙山線で最初に開通した区間である。昭和4年9月のことだ。その後、昭和6年に愛子から作並までが延伸。昭和8年には山形側の羽前千歳・山寺間が開業。そして最後に残ったのが、5.4kmのトンネルを掘って標高1264mの面白山(おもしろやま)の南麓を越えなければならない山寺・作並間だった。そして、単線規格でこれだけ長いトンネルを蒸気機関車で走り抜けるには排煙の問題があったのか、この区間は当初から直流電化が行なわれ、昭和12年に開通している。
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 仙山線は、全国の鉄道網幹線と幹線を結ぶ支線や地方路線の敷設を目指した改正鉄道敷設法(大正11年)の別表に、「宮城縣仙臺ヨリ山形縣山寺ヲ經テ山形ニ到ル鐵道」と記された路線である。確かにこうした国策でもなければ、自然体ではなかなか実現の難しいルートだったのではないだろうか。

 愛子までは仙台への通勤圏で、単線鉄道ながらピーク時は一時間に4本の上り列車が出る仙山線だが、そこから西は列車本数がぐっと少なくなる。しばらく田園地帯を走った後、広瀬川上流の谷を上っていくところにある熊ヶ根という駅などは、昼は3時間もダイヤが空いている。その谷をしばらく進んだところにあるのが作並駅だ。日本における「交流電化発祥の地」として知られる駅である。

 一般に、直流方式は送電ロスが大きいので、路線に沿って変電所を幾つも作らねばならず、地上設備のコストが高いと言われる。そこで、大都市圏ほどの輸送量のない地方路線を対象に戦後になって交流電化が検討されたのだが、交流は交流なりに乗り越えねばならないハードルが、主として車両の方にあった。高電圧(2万ボルト)で送電しているから、変圧器を車両に積む必要があり、直流モーターを動かすには整流器も必要だ。そして、そうした高電圧での受電に耐えられるパンタグラフを用意しなければならない。

 そうした交流用機関車や電車の様々な試験が、昭和30年からこの仙山線の熊ヶ根・陸前落合間で行なわれ、同32年からは作並・仙台間で交流電化の下での営業運転が始まった。作並から西側は直流電化だったから、作並駅は日本初の交直セクションが置かれる駅となった。そして昭和43年には、既に直流電化が進んでいた奥羽本線の福島・米沢・山形・羽前千歳の区間が交流方式に変更され、併せて仙山線の羽前千歳・作並間も交流になった。だから、作並駅の交直セクションは今はない。
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 停車時間が長ければ、作並駅の片隅にある「交流電化発祥地の碑」をこの目で見てきたかったが、あいにく対向列車待ちもなく、山形行きのドアは閉まる。そこから先、カーブを切るたびに列車はいよいよ山奥深くへと入っていく。真っ青な空の下、広葉樹の森の新緑が本当にきれいだ。

 東北地方の背骨にあたる奥羽山脈。南へ行くほど山々の標高は高くなるのだが、その東側を走る東北本線の沿線から山脈の東西を結ぶ鉄道が、全部で7路線ある。北から順に、花輪線(大館-好摩)、田沢湖線(大曲-盛岡)、北上線(横手-北上)、陸羽東線(新庄-小牛田)、仙山線(羽前千歳-仙台)、奥羽本線の米沢・福島間、そして磐越西線の郡山・会津若松間である。
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 これらの中で最も険しい路線は板谷峠を越える奥羽本線だが、仙山線の急カーブと急勾配はそれに続くぐらいのレベルではないだろうか。電車は深い切通しを幾つも通りながら勾配を登り、更に谷の奥深くへ入り込む。周辺には道路がないから、とにかく窓の外の世界は大自然そのものだ。緑は益々深い。

 そして、とうとう電車は闇の中に吸い込まれた。全長5,361mの仙山トンネルである。面白山の地下に来た訳だ。頭の上を南北に走る尾根は太平洋と日本海の分水嶺で、それを越えれば山形市になる。電車は案外速いスピードで暗闇の中を駆け続け、ようやく外の光が明るくなると面白山高原駅を通過する。今度は一転して長い下り勾配。谷の中をぐんぐんと下りていく。眼下の流れは立谷川という、やがて最上川へと続く川である。

 この電車は快速運転だから、作並を出てからもう20分近くも走り続けていて、まだ一つも駅に停車していない。だが、谷を下ると外の景色にはだいぶ民家が増えてきた。そして、扇状地の始まりのような所で川を渡ると速度を落とした。

 間もなく、山寺の駅に着く。

(to be continued)

出張の朝 [鉄道]

 水曜日の朝8時半、東京駅の新幹線ホームはまことに忙しい。

 6本のホームを使って、一番短いケースでは3分間隔で列車が出る東海道・山陽新幹線の慌ただしさは言うまでもないが、20番線から23番線までの4本のホームも、東北・上越・長野の三つの新幹線の列車が次々に発着するので、これも負けず劣らず賑やかだ。

 8時36分、22番ホームから長野行きの「あさま509号」が定時に発車。ホームが空いたと思ったのも束の間、数分後には上り列車の入線案内がある。8時40分着の「やまびこ204号」。仙台始発の列車だ。秋田新幹線用の「こまち」型車両6両が連結されているが、それは今朝秋田から走ってきた訳ではなく、「やまびこ204号」の11~16号車という位置づけになっている。

 ヘッドライトを灯しながらゆっくりと入線してくる「やまびこ204号」。先頭車のスタイルは精悍そのものだ。それもそのはずで、この列車の東京寄り1号車~10号車は、昨年3月にデビューした東北新幹線「はやぶさ」型のE5系車両が使われているのである。だから、定時に到着した列車から出てきた乗客の中には、先頭車の姿を携帯電話のカメラで撮影していく人が少なくない。
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 このE5系、東海道・山陽新幹線のN700系と同様に先頭車の鼻先が長いのが特徴だ。向かい側の21番線に停まっているE2系電車と比べると、その長さは圧倒的である。

 「やまびこ204号」は折り返しの新青森行き「はやて19号」と秋田行き「こまち19号」になるのだが、列車の到着後には車内清掃が行なわれるから、乗車までには少し時間がある。ホームの先の10号車まで行ってみよう。いずれにしても私の席は7号車だからホームの先の方だ。

 E5系の「売り」は、10号車の「グランクラス」だ。何しろ鼻先が長いので、先頭車は乗客の座席用に使えるスペースが車両の半分以下。それを逆手に取って、6列18席のみのファースト・クラスのような席を用意したのが「グランクラス」なのである。グリーン車の更に一つ上を行く優等席なのだが、デビュー後はこれが大変な人気で、予約がすぐに埋まるという。
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(座席が6列だけのグランクラス)

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(グランクラスの座席-JR東日本のHPより拝借)

 8時50分、車内清掃が終わって乗車開始。席に座ってみると、普通車でも座席の前後の間隔が広く、足元がゆったりとしている。座席の背には可動式のヘッドレストがついていて、首を支える高さが左右にあるので、眠る時には楽だろう。N700系と同様に車内が基本的に箱形で、壁も天井もすっきりとした平面だ。初めてボーイング777型旅客機に搭乗した時にも同じような印象を受けたことを思い出したのだが、こういうシンプルなデザインが室内に広さを感じさせるのだろう。
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(普通車の座席-JR東日本のHPより拝借)

 8時56分、ダイヤ通りの時刻に、E5系電車は流れるように動き出す。乗り心地は快適そのものだ。東京駅でも結構な乗車率だったが、大宮で私の乗る車両は満席になった。この列車は大宮・仙台間がノン・ストップという、「はやて」の中でも表定速度が最も速いダイヤであることに加えて、この春からE5系で運行されるようになったことから、人気が高いのだろう。E5系だけで運行される「はやぶさ」とは違って、E3系「こまち」を連結しているから最高速度320km/hは出せないが、これは乗ってみる価値があると思う。

 今日の私は、出張でこの列車を使っている。仙台に着いたら仙台空港アクセス線の電車に乗り換えて、空港で外国から来た技師を出迎え、クルマで私の会社の工場へ向かう予定だ。工場の中の或る設備・機械について、大事な作業が待っている。

 東京駅で眺めたE5系の先頭車の精悍なフォルムを思い出しながら、考えることがあった。

 私を含めた多くの人間が目新しいE5系の車体にカメラを向けたり、或いは生前のスティーブ・ジョブズがIRの席上で誇らしげに掲げたiPadの斬新なスタイルに多くの人々が熱い眼差しを向けたりしたように、消費者というものは、自分の目の前にある最終製品の、しかも直接目で見える部分にだけ注目するものだ。

 しかし、言うまでもなく最終製品の内部には外からは見えないものが数多く詰まっているのだし、E5系やiPadの外観がそういう形をしていることだって、そこに至るまでの気の遠くなるような試行錯誤の積み重ねの結果なのである。しかも、その中に詰まっている部品の一つ一つが計算通りに機能することが前提なのだし、更にそのためには、個々の部品に使われている素材が額面通りの特性を発揮することが必要だ。私の会社はそうした素材を世の中に提供するのが役目なのだが、私たちがその責任をきちんと果たせなかったら、最終製品は消費者に満足してもらえないのである。
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 表に出て人目を引くことは決してないが、最終製品の機能を支える縁の下の力持ち。素材産業とはそういうものだが、ここがしっかりしていなければ最終製品は成り立たない。生き馬の目を抜くような新製品の開発などはない代わりに、「継続は力なり」で、形状・性質共に要求されたターゲットを満たす製品を常に安定的に世の中に供給することが求められる。これもまた、モノ作りの一つの姿なのである。

 小子高齢化、円高、国内のデフレ・・・。アゲインストな環境は続いているが、私たちはここを何としても踏みとどまらねばならない。今日の午後工場に着いたら、技師たちと一緒に油にまみれて頑張ろう。

 E5系の快適な車内にいて、頭の中が少しずつ仕事モードに切り替わっていった。

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メトロと共に [鉄道]


 小学校二年生の二学期が始まる頃、父の転勤で私は大阪から東京に戻った。

 「戻った」といっても、それ以前の東京の記憶が私にあった訳ではない。東京で生まれたのは事実だが、幼稚園に上がる前に、やはり父の転勤で静岡県に移り住み、その後が大阪だった。阪急宝塚線の沿線に住んでいたので、小学校への通学も、両親に連れられてたまに神戸や京都へ行く時も、チョコレート色の阪急電車にお世話になったものだった。

 そして、オリンピックの開催直前に舞い戻った東京。一家は渋谷駅へ歩いて行ける所に住むことになった。阪急沿線ののどかな住宅地とは異なり、今度の渋谷は都会の真っ只中。建設ラッシュで基礎工事の杭打ちの音が絶えない一方、駅のガード下に傷痍軍人が立ち、哀しげなハーモニカを吹いていた。そんな風に戦後の光と影が交錯していたのが、渋谷という街だった。

 その渋谷は、一大ターミナル駅。阪急一色の世界からやって来た私にとって、国電や東急東横線、京王井の頭線などの様々な電車が集まる渋谷駅は、わくわくするような場所だった。(忘れてはいけない。道玄坂の片隅では玉電もまだ健在だったのだ。) そんな中で、とりわけ私の好奇心の対象になったのは地下鉄という乗り物だった。それも、銀座線と丸ノ内線である。

 地下鉄なのに、銀座線の渋谷駅ホームは地上3階にある。電車なのにパンタグラフがなく、トンネルは車両の屋根とすれすれの高さしかない。第三軌条集電方式というものをその時に初めて知ることになるのだが、その第三軌条には分岐器の上などでデッド・セクションがあるから、そこを通過する瞬間は車内灯が消える、ちょっと不思議な電車だった。そして軌間1,435mmの標準軌は、関東の鉄道では少数派だ。
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(小石川検車区と丸ノ内線の車両)

 その他にも、例えば赤坂見附の駅はホームが地下で上下二階の構造になっていること。そこで丸ノ内線に乗り換えると、御茶ノ水駅の手前で一瞬地上に出て神田川を渡ること。更に後楽園駅の手前で地上に出ると、今度はしばらく高架を走ること。(今はもうないが、当時の後楽園駅はカマボコ型の大きな屋根がよく目立っていた。) 小学生の私はそんなところに興味津々だったのである。

 当時東京で開業していた地下鉄は、上記の二路線と日比谷線。その他にも新たな路線の建設計画が幾つも進行中で、まだ名前が決まっていない路線は、例えば「都営1号線」などという言い方をしていた。こうした地下鉄の建設は、関東大震災の後に策定された地下鉄整備計画が基本になっているそうだ。

 その計画で定められた地下鉄路線は1号線から5号線までの5本。そのうち1号線は、震災前から唯一具体的に建設計画を進めていた「東京地下鉄道」という会社に免許が与えられた。言うまでもなく現在の銀座線の前身で、昭和2年の年末に上野・浅草間が東洋初の地下鉄として開業する。

 残る4路線の免許は東京市が取得。その中の地下鉄4号線が、コンセプトとしては現在の丸ノ内線に相当するものだった。新宿→四谷→赤坂見附→日比谷あたりまでは同じだが、原計画はその先が日比谷→築地→蛎殻町→御徒町→本郷三丁目→竹早町→大塚となっていて、今の丸ノ内線と同じUの字型のコースながら、中央部分が築地あたりまで奥深く入り込んだものだった。(終点が大塚だったのは、この時点ではターミナルとしての池袋がまだ余り大きくなかったということだろうか。)
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 ところが、地下鉄建設の免許を持ってはみたものの、震災からの復興に膨大な費用が必要な東京市は、なかなか計画を実行に移せない。結局、昭和6年になって一部の免許の譲渡を認めるようになり、3号線の渋谷・新橋・東京間と4号線の新宿・築地間の免許が「東京高速鉄道」に譲渡される。(それは東急のドン、五島慶太の率いる会社だった。)

 3号線の渋谷・新橋間が昭和14年に全通したのに対し、4号線は昭和17年に四谷・赤坂見附間で建設工事がようやく始まったが、戦局の悪化と共に中断。本格的な建設は戦後を待つことになる。但し、昭和13年に東京高速鉄道が建設した赤坂見附駅は、将来の4号線の建設を前提に、最初からホームが上下二階の構造だったそうである。

 終戦の翌年に告示された「東京復興都市計画高速鉄道網」では、4号線の建設ルートに手が加えられた。中野富士見町・新宿間が加えられ、日比谷以降は日比谷→東京→神田→お茶の水→本郷三丁目→富坂町→池袋に変更となった。そして、池袋・神田間の建設が昭和26年に始まる。この内、池袋・御茶ノ水間は昭和29年に開業を迎えた。

 だが、神田駅周辺を通ることに技術上の問題と工期・予算上の制約があることが判明。結局、丸ノ内線は神田を通らず、淡路町から南下して東京駅に至るルートに変更されたという。建設を進めながら途中でルートを変えた鉄道というのも、なかなか珍しいのではないだろうか。

 ともあれ、Uの字に沿って時計回りに建設が進み、昭和34年に池袋・新宿間が全通。そして昭和37(1962)年に荻窪と方南町まで線路が延びた。だから、今年は丸ノ内線の全線開通からちょうど50周年なのである。

 あの時、神田を経由するルートが計画通り作られていたら、丸ノ内線はもっと便利になっていたかもしれないと思うことがある。池袋方面から上野・浅草へ向かう時に、銀座線に乗り換えるには銀座駅まで行かねばならない。神田が乗換駅になっていれば、そんな大回りをしなくても済んでいたはずなのだ。二つの路線が神田・銀座・赤坂見附の三駅で乗換え可能だったら、相当使い勝手が良かったはずである。
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(神田が乗換え駅だったら・・・)

 東京で三番目に開通した日比谷線以降の地下鉄は、その建設計画当初から他の私鉄線や国鉄線と相互乗り入れをする前提だったから、パンタグラフ方式の電車が走る路線になった。相互乗り入れは本当に多くなって、地下鉄は新しい路線ほど郊外電車のオンパレードだ。最近では小田急の「青いロマンスカー」までもが千代田線内に乗り入れるようになり、かつては東京市の「縄張り意識」から私鉄各線が山手線の内側には路線を伸ばすことが出来ない時代があったことなど、私たちには想像もつかない。

 そこへ行くと、集電方式が独特で、車体も小さく、他の鉄道路線との相互乗り入れなど半永久的にあり得ない銀座線と丸ノ内線は、今もなお純粋に都心部の地下を行ったり来たりする電車である。「ガラパゴス」な分だけ、混雑を極めたかつての市電に代わるものとして登場した地下鉄本来の姿をよく残していると言えるかもしれない。駅間距離が総じて短く、地下の浅いところを走り、何と言っても都心の枢要な地区を結んでいる。パリやロンドンの古い地下鉄路線と同じような、まさに都心のメトロである。

 その銀座線に、28年ぶりという新型車両1000系が今月から登場している。かつての銀座線のイメージを再現しながらも、安全・快適・省エネルギーなどの面で各種の最新技術を取り入れた車両なのだそうである。歴史のある交通インフラを、最新技術でスマートに使う。それは、今の東京が誇っていいことなのかもしれない。
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「きたぐに」の春 [鉄道]

 文明の利器によって世の中があまり便利になり過ぎるのも考えものだ、と思うことがある。

 パソコンで文書を作り、電子メールをやり取りすることがいつの間にか当たり前になると、鉛筆を握って文字を書くことが極端に少なくなった。その結果、昔に比べて漢字が書けなくなったと痛感している人は(私も含めて)多いのではないだろうか。

 最近では、クルマを運転する時もカーナビが道案内をしてくれるし、今夜の飲み会に遅れずに行くには何時の電車に乗ってどこで乗り換えればいいかは、インターネットで簡単に答が出てくる。便利で手っ取り早いのは事実だが、あんまり自分の頭を使わなくて済むようになると、社会生活に必要な思考能力の退化を招いてしまうのではないかとも思う。

 電車の乗り継ぎを調べるのにヤフーの「路線」などを使うことに慣れてしまうと、世間一般に比べて「鉄分」が多いという自覚症状のある私でも、昔のように紙ベースの「時刻表」をめくって列車ダイヤを調べるようなことは殆どなくなってしまった。明日、3月17日にはJRのダイヤ改正が予定されているが、ネット上の路線検索にはそれも既に反映されているから、ダイヤ改正で何がどう変わるのかをいちいち知る必要もない。つくづく、頭を使わない時代になったものだと思う。

 そのダイヤ改正で、明日からは東北新幹線の「はやぶさ」用E5系の運行が増え、一部の「はやて」などにも使われるという。今後の東北出張では乗るチャンスがあるかもしれない。常磐線の「スーパーひたち」が新型車輌になるそうだが、これは上野や日暮里で眺めるだけかな。東海道・山陽新幹線で長年活躍した100系と300系の各車輌は今日を以って引退。そのセレモニーの様子はテレビでもさかんに報じられていた。

 そうしたニュースの陰で、定期列車としては今日限りで姿を消す一つの列車に、私は注目したい。それは、大阪と青森を結ぶ寝台列車、急行「きたぐに」である。JRでは今や極めて数が少なくなった寝台急行。それも、昭和43年にデビューした583系という寝台電車(当時は「月光型」と呼ばれた)を使った唯一の定期列車。そして、京都・敦賀間を走る特急・急行の中で唯一、湖西線経由ではなく米原経由で運転される定期列車。要するに極めつけの「絶滅危惧種」のような存在だった。逆に言えば、それがよくぞここまで生き長らえてきたものだと思う。
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(583系「きたぐに」 JR西日本のHPより拝借)

 「きたぐに」の歴史は昭和36年に遡る。この年の秋に、金沢・新潟間の急行として誕生した。程なく、その運転区間は大阪まで延長される。そして迎えた昭和43年10月1日、「ヨン・サン・トオ」と呼ばれた国鉄の「世紀のダイヤ大改正」で、当時の花形だった寝台特急(ブルートレイン)が全国に展開。大阪・青森間に「日本海」が登場し、急行「きたぐに」も同区間を走る列車となった。

 手元にある当時の時刻表によれば、下りの「きたぐに」は大阪22:10 → 青森17:09、上りは青森12:40 → 大阪07:39、上下共に所要時間18時間59分という長距離列車だった。こういう時間設定であるために、当時はよくある話だったのだが、ダイヤ上は一往復の列車でも、終点までの間に同じ名前の折り返し列車と二度すれ違うことになる。つまり、未明の02:50頃に石川県の金沢・小松間で、そして14:51に秋田県の東能代駅で、上りと下りの「きたぐに」同士が顔を合わせていたのだ。

 その「きたぐに」には、大きな悲劇も起きた。

 私が高校一年生だった昭和47年の11月6日、寝台急行だから夜中のことだ。午前1時過ぎに下りの「きたぐに」の食堂車で火災が発生。乗客からの通報を受けて列車が非常停止をしたのは、運悪く北陸トンネル(全長13.9km)の中に敦賀側から5kmほど入ったところだった。トンネルの中で火勢が強まり、停電が発生して列車は身動きが取れなくなる。長大トンネルで排煙が出来ず、夜間で救助にも手間取ったため、最終的に死者30人、負傷者714人という大事故になってしまった。その人数の多さに驚いてしまうが、当時の「きたぐに」は電気機関車が牽引する10系客車中心の15両(内、食堂車、郵便車、荷物車が各1両)という長大編成だったのである。

 それから10年。昭和58年11月に上越新幹線が開通すると、「きたぐに」が昼間の時間帯を走る新潟・青森間は別の優等列車に役目を譲ることになり、この列車は再び大阪・新潟間の寝台急行に戻った。客車から現在の583系寝台電車に運用がかわったのは、昭和63年のことだ。今日運転される最終列車まで、普通車自由席4両、グリーン車1両、A寝台1両、B寝台4両という立派な10両編成を保ち続け、そのあたりがまた、「鉄分」過多な人種の心をくすぐってきたのである。
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 大阪・新潟間は鉄路でも600kmあり、どんな交通手段をとってもかなり時間がかかる。大阪で仕事を終えたとして、その日のうちに新潟に帰ろうとすると、かなり忙しない。新幹線で東京経由なら新大阪18:53がタイムリミットだし、最終の飛行機は伊丹発が19:00だ。それが無理なら、夜行バスか急行「きたぐに」かということになる。

 また、大阪発23:27というと、京阪神から米原方面への終電のような役目があり、金沢・富山へ帰る人にとっては、最終の「サンダーバード」に乗れない場合のフォールバック・プランにはなる。夏山の時期には、早朝に富山を出る立山・有峰方面行きのバスに乗るために「きたぐに」を利用する登山者も案外多かったそうだ。

 一方、「きたぐに」は直江津でほくほく線経由の快速列車に接続しているから、北陸方面から朝の9時前に東京に着きたいなら、それがいい。(朝の4時半以降に富山から先を案外ちょくちょく停まっていくのは、そうしたニーズを細かく拾い上げているのだろうか。) そして、長岡あたりでは朝の通勤時間帯にさしかかるので、ビジネス用にも利用される。最後の新津・新潟間は快速列車としての運用だから、自由席車両は急行券もいらない。
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 JRといえば、新幹線や在来線の特急で点と点を結ぶ、そういう列車の乗り方ばかりになっていく中で、沿線の乗客の様々なニーズを拾いながら、片道600kmという距離を毎日走り続けてきた急行「きたぐに」。だが最後の頃は、平均乗車率も3割程度にとどまっていたという。

 昭和の匂いを残す列車が、この春にまた一つ姿を消すことになる。

石巻へ (3) [鉄道]

 JR石巻駅は、石巻線と仙石線のホームが並んでおらず、それぞれが駅の東西の端にある、ちょっと不思議な構造をしている。改札口を入り、仙台寄りの方向にある仙石線のホームへと進んでいくと、私の記憶とは景色が異なっていた。
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(石巻駅の仙石線ホーム)

 戦前に私鉄としてスタートした仙石線は、昔から完全電化路線。ところが、いつもなら停まっているはずの205系通勤型電車の代わりに私たちを待っていたのは、陸羽東線用の軽量気動車だったのだ。

 石巻と仙台(現在の終点は地下の「あおば通」駅)を結ぶ仙石線は、途中で海寄りのコースを走るため、東日本大震災による津波で大きな被害を受けた。現在も途中の矢本・高城町間が不通のままで、その区間は代行バスが運行されている。石巻駅に停まっていた気動車は、その矢本駅までの8.8kmを走るだけ。それも一時間に一本の運行である。

 15時13分、列車は定刻に発車。今回も乗客は下校途上の学生さんたちが中心だ。矢本までは僅か14分。窓の外は民家が続いたり農地が広がったり。だが、進むにつれて雪が深くなっていくようだった。途中4つの駅に停まって、列車は矢本駅に到着。雪で足を滑らせないように気をつけながら構内踏切を渡り、小さな駅舎を出ると、駅前広場に2台の代行バスが待っていた。
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 仙台までの通しの切符を見せて、バスに乗る。列車の到着から6分の接続で出発する松島海岸駅行きのバスで、一日に19往復が運行されている。定員の半分ほどの乗客を乗せて、2台のバスは雪の中をそろりと出発した。

 鉄道の不通区間の代行バスだから、停留所も本来の鉄道駅の前か、或いはその最寄りの交差点ということになる。矢本を出発して、鹿妻(かづま)、陸前小野という二つの駅を過ぎるまでは線路と国道45号がほぼ並行しているが、その先で鳴瀬川を渡ると石巻線は大きく南へ進路を変え、海に近づくようになる。従ってバスも国道を離れ、県道を通って線路を追いかけて行くのだが、北側から小高い丘が迫ってくることもあって、周囲はほぼ白一色の雪景色になった。
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(仙石線のルート)

 程なく、線路と県道27号が並行するようになると、バスが停まった。右側の席に座っていた私は、窓ガラスの曇りを拭いながら外を見る。降りしきる雪の中、そこには野蛭(のびる)と書かれた駅舎があった。それはかなり損壊したままだった。そして、次にバスが動き出した時に現われた景色に、私は衝撃を受けた。プラットフォームが壊れ、電柱が倒れ、架線柱が大きく傾き、切れた架線が垂れ下がり・・・。それは、津波に襲われた時の姿を晒したままで雪にまみれていた野蒜駅の姿だった。そして、駅周辺の民家の数々も、損壊したまま残されていた。手のひらの中にあったカメラを構えることもせず、私はただ呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。
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(震災発生の一ヶ月後に撮影された野蒜駅の状況)

 再び国土地理院の「浸水範囲概況図」を見てみると、東日本大震災における津波の襲来は、石巻湾と松島湾とで明暗がはっきりと分かれている。半島状に海に突き出た奥松島。その付け根にあたるのが野蒜だ。ここから石巻湾に面した一帯が、ことごとく津波に襲われた。東松島市は総面積の半分近くが波を被ったことになる。
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 震災が発生したのは、仙石線の上り列車と下り列車がそれぞれ野蒜駅を発車した直後のことだった。共に駅を数百メートル離れたところで緊急停止。上り列車は内規に従って乗務員が最寄りの指定避難所である野蒜小学校の体育館へ乗客40人を誘導。ところが津波はその小学校にも押し寄せ、数人が亡くなった。(もちろん、列車自体も流されてしまった。) 一方の下り列車は停止位置が高台の上で、地域に詳しい乗客の「位置が高いからここにいるのが一番安全だ。」という言葉に従い、乗客50人と乗務員が車内に留まっていたところ、やって来た津波は線路の直前で止まり、全員が難を逃れたという。「生死を分けた二つの列車」として、震災発生後に盛んに報道されたニュースの、その舞台がこのあたりだったのだ。

 沿線の自治体とJR東日本などが集まった「仙石線・石巻線復興調整会議」では、仙石線の不通区間を復旧させる際に、野蒜駅と西隣の東名(とうな)駅を内陸側へ移転させ、陸前大塚・陸前小野間を新しいルートにすることで意見の一致をみた、と報じられている。それと並行して、津波の来ない地区への住民の集団移転なども進められるのだろう。時間のかかることだとは思うが、ともかくも前に向かって行って欲しいものである。

 雪の中をバスは進む。野蒜駅と同様に津波で大きな被害を受けた東名駅。今度はバスの左側なので私の席からは窓の外はよく見えない。その先で道路が松島湾沿いになると、左手に穏やかな海の景色が広がり、沿道の様子もだいぶ落ち着いたものになった。やがて県道から再び国道45号に合流し、交通量が多くなると、間もなく松島海岸駅だ。仙石線は一つ手前の高城町(たかぎまち)から復旧しているのだが、駅前広場のある松島海岸駅の方がバスの乗降には適しているのだろう。ここで我々も乗換である。
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 バスの到着からは13分の接続で上りの列車がある。夕暮れの近い松島湾をホームから眺めているうちに、16時33分発の快速「あおば通」行きがやって来た。見慣れた205系の通勤電車である。今日は昼過ぎから色々と列車やバスを乗り継いできたが、ここまで来れば仙台は近いという実感が湧いてくる。それにしても、どれもみな定時運行だった。これが日本なのだと、改めて思う。

 仙台に着いたら、以前の職場の先輩と久しぶりに会う約束をしている。今は貨物鉄道の幹部で、震災の時には復旧に陣頭指揮をとられた方だ。深刻な燃料不足に直面した被災地のために、震災から一週間後の3月18日に横浜の磯子から新潟・青森経由で盛岡まで、そして25日には磐越西線経由で郡山まで、それぞれの石油ターミナルを目指して臨時ダイヤの石油輸送列車が走ったのだが、その際にも大いに尽力をされたはずである。そんな話も、お会いしたら是非詳しく伺ってみたい。

 極めて限られた時間ではあったが、今日の午後、自分で実際に目にしたことは、しっかりと記憶の中に留めておきたいと思う。そしてまたいつの日か、石巻を訪れてみたい。

 多賀城から各駅停車になり、少しずつ増えていく都会の景色の中を走っていた仙石線の電車は、いつしか地下へと潜っていった。

石巻へ (2) [鉄道]

 石巻駅前から、メインストリートを海の方に向かって歩く。小牛田から列車に揺られる間に本降りになった雪が、ここではみぞれになっていた。折畳み傘を広げるが、それを持つ手がすぐに凍えそうになり、足元は見る見る濡れてくる。

 一昨年の夏に初めてこの町を訪れた時のことは、以前にもこのブログに書いたことがあった。
 http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-08-11

 その時は、まず日和山という小高い丘に登って町全体を見下ろしてみたものだが、今日のこの天候では視界も利かないし、第一そこまで行くだけで濡れ鼠になってしまう。上からの展望はあきらめて、アーケードの続くひっそりとした商店街をしばらく歩くことにした。帰りの仙石線の発車時刻まで、今回石巻に滞在できるのは僅かに1時間20分ほどである。

 シャッターが下りたままの店が目立つ商店街。そこを歩いている間はまだ良かったのだが、やがて道路が旧北上川へと近づいていくと、損傷の激しい建物が現われるようになる。更に川に近い所では、建物が撤去されて更地になった場所が次々に現われ、中には道路に四方を囲まれた1ブロック内の殆どが更地にされた所もあった。

 一昨年の夏にこの町を散々歩き回って汗まみれになり、涼を取りながら昼飯にありついた和食屋さんも、確かその一画にあったはずなのだが、今は何も建っていない。それは本当に衝撃的だった。私が前回滞在した時にはたまたま何事も起こらなかったが、もしあの時に東日本大震災のような地震に見舞われていたら、私はどんな行動を取っていただろうか。

 旧北上川に架かる橋は全体が補修中だが、川下側の金属製の欄干が強い力で押し曲げられたままになっていて、津波が川を遡っていった時の凄まじさを今に伝えている。壊れてしまったり、更地になってしまった民家の様子は、非礼にあたるからカメラを向けることはしなかったが、この橋の姿だけは、私の記憶に深く留めておきたいと思った。
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 国土交通省国土地理院のHP上で、東日本大震災発生時の津波によって浸水した地域を色塗りした「浸水範囲概況図」という地図を閲覧することができる。そこから縮尺10万分の1の石巻方面の地図を選んでみると、震災時の石巻市の様子は一目瞭然で、殆ど全ての平地に水が押し寄せてきて、水の上に顔を出していたのは日和山と牧山という二つの小高い丘ぐらいしかなかったことがわかる。死者3,182名、行方不明者557名、住宅・建物の被害(全壊数+半壊数) 33,378件 (いずれも2012年2月末現在)。民家だけでなく、沿岸部の工場なども極めて大きな被害を受けた。市町村単体で人的・物的被害が最も大きかったのが石巻市だったのだ。
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 旧北上川の河口近くの中洲に、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂というギリシャ正教の古い教会が残されていたはずだ。 幕末維新の時代に縁あってロシア正教に帰依したこの土地の人物によって明治13年に建てられた、現存する日本最古の教会だそうである。夏の緑陰に端正な姿を見せていたあの教会は、いったいどうなったことだろう。私は中州へと立ち寄ってみることにした。みぞれは、再び雪に変わりつつあった。
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(2010年8月9日撮影)

 まさに津波の通り道だったのだろう。その場所は完璧に緑が失われていた。だが、姿を消していてもおかしくなかった教会の姿形は幸いにしてそこにあった。よくぞ流失を免れたものだが、損傷が大きいらしく、フェンスに四方を囲まれていて、直接眺めることができるのはドームの上の十字架ぐらいのものだ。
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 以前は全く違う土地にあったのが、昭和53年の宮城県沖地震で甚大な被害を受け、地元の人々によってこの場所に移転・復元されたという経緯があるのだが、奇しくもこの教会は旧北上川の中洲という移転先で再び地震と津波に遭遇することになったのだ。更なる再建に時間がかかるのは止むを得ないのだろうが、何とかして、あの白く美しい姿を取り戻して欲しいものだと心から思う。

 残り時間が少なくなってきた。歩き回るのもそろそろ限界である。アーケードの商店街を戻りながら、最後に駅前の石巻観光協会で土産物を覘いてみよう。土地柄、それは水産加工品が中心になるが、2年前に比べて並んでいる品数が少ないのは、これだけの被害を受けた町なのだから仕方のないことなのだろう。石巻の復興を願いつつ、好物の金華サバなどを買わせていただくことにした。
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 時計は15時を回った。次の仙山線の上りは、15時13分発の矢本行きである。空気は一段と冷え込んできて、みぞれから変わったばかりの雪は、いつしか本格的な降りになっていた。

(To be continued)

石巻へ (1) [鉄道]

 正午に工場から乗ったタクシーの車窓に、宮城県北部の雪景色が続いている。

 カレンダーが3月に切り替わった昨日は素晴らしい晴天が終日続き、太陽の暖かさにかすかな春を感じていたというのに、今日は肌寒い曇り空に戻り、午後からは雪の予報だ。丘陵を下る県道から国道4号線(奥州街道)に入り、それを北方向へ走り続けると、「只今の気温: 3℃」という表示板が後方へと過ぎ去っていった。

 やがてJR古川駅に到着。改札口の前の立ち食い蕎麦で昼飯を済ませて陸羽東線のホームに降りると、予報通り雪がちらちらと舞い始めていた。程なく、3輌連結の軽量気動車が到着。12時50分発の小牛田行き普通列車である。今日は期末試験でもあったのか、早くも下校の学生さんたちを乗せて、列車は定刻に発車。窓ガラスの曇りを手で拭うと、うっすらと雪の積もった水田が窓の外に続いていた。
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 昨日から工場に出張して取り組んでいた仕事は順調にはかどり、今日の昼前にはもう私の手を離れることになった。もう少し時間がかかる前提でスケジュールを組んでいたのだが、予定より早く終わったので、夕方に仙台市内で入れていた用事の前にいささか時間が空いてしまった。ならば、工場に長居は無用だ。こんな風にして時間が空いた時のために、考えていたことがあった。それは、石巻へと寄り道をしてみることである。

 古川から乗って15分足らず。3つめの駅が終点の小牛田だ。東北本線、石巻線との乗換駅である。新幹線が開業する以前の、東北本線の全盛時代の名残ともいうべき長大なホームを持て余すようにして、3輌連結の軽量気動車は端っこに停まる。ホームの向かい側は東北本線の上り列車用、跨線橋を経て隣の島式ホームは両側がそれぞれ東北本線の下りと石巻線用だ。かつては枢要な駅だったことを示すように、ホームの東側には小牛田運輸区があり、幾つもの気動車やリゾート列車用の車輌が留置されているが、下校中の学生さんたちを除けば、ホームは閑散としている。
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(小牛田駅ホーム。左端が陸羽東線、右端が石巻線)

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(小牛田運輸区)

 12分の接続で、13時15分発の石巻行き普通列車が出発。これも3輌連結の列車だが、車輌は国鉄時代のキハ48型だ。重厚なディーゼル・エンジンの音を響かせながら、ゆっくりと右カーブを切って、冬枯れの田に雪が積もる景色の中を、列車は進む。
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 今回初めて乗車することになった石巻線は、小牛田と石巻を結ぶ仙北軽便鉄道という、軌間762mmの軽便鉄道からスタートした路線だそうである。開業は大正元年というから立派に古い鉄道だ。その後国有化となり、大正11年に改軌されて今の姿になった。石巻から先が女川まで延伸したのは、昭和14年のことである。それとはルートが異なるが、石巻湊・女川間を結ぶ金華山軌道という軽便鉄道がそれ以前にあったそうで、大正~昭和初期のこの地域は活発な歴史を持っていたようだ。

 小牛田から3つ目の前谷地(まえやち)という駅は、気仙沼線への乗換駅。3面ホームがあるにはあるが、とても小さな駅だ。石巻線とは対照的に、気仙沼線は戦後になってから建設が進められた路線で、全通は昭和52年だから、国鉄が分割民営化となる10年前まで建設が続いていたことになる。ところが、昨年の東日本大震災で大きな被害を受け、今も柳津(やないづ)という駅から先が不通のままになっている。

 気仙沼線の接続列車もないまま、前谷地駅を発車。その先は平地の景色が少しずつ広くなっていくが、昼頃から振りだした雪は勢いを強めている。更に三つほど駅を過ぎて、市街地が次第に増え、架線のある仙石線の線路が右側から近付いてくると、まもなく終点の石巻に到着することになる。いや、本来ならこの列車の終点は女川だったかもしれない。だが、その石巻・女川間も震災後は不通のままなのである。

 13時51分、石巻に到着。定刻である。2年前の夏に初めてこの駅に降り立つ機会があった、その時の記憶があるから、ひどく懐かしい気分になった。あの頃は、大地震や津波がこの町を襲うことなど、私は想像だにしていなかった。だが、改札口を出てみると、鉄道の不通区間や代行バスの運行に関する表示があって、昨年の大震災以来、まだ復旧していない区間が数多くあることを改めて認識することになる。
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 そして、駅舎を出たところには、あの大震災の日にここまで水がやってきたことを示す赤い水位線が引かれていた。石巻駅は直線距離でも海岸線から2.5kmほど、旧北上川の流域からは800mほど離れているのだが、それでも津波がやってきたのだ。
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(ガラス窓の下部に貼られた赤い線が震災時の水位)

 震災後の石巻を訪れることは、正直言って私にはつらいことだった。しかし、2年前の夏にこの町へ足を運ぶ機会があった、そういうご縁があったからこそ、震災から間もなく一年になる今の石巻を自分の目で見なければならないという思いの方が、それを躊躇する気持ちにまさったというべきか。神様も今日の仕事を早く終わらせてくれたので、私は再びここへやって来ることができた。

(To be continued)

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