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知らないことの罪 [読書]

 あれは今からちょうど10年前の夏だ。私がまだ香港で単身生活をしていて、夏休みに遊びに来た家族を連れて二泊三日で台北を訪れた時のこと。蒋介石の名を付けた国際空港に到着し、入国審査を終えて私達が税務申告のカウンターに向かうと、私が差し出したパスポートを見て、係官が
「ニホンジン? あっ、家族旅行ですか? 台湾へようこそ!」
と流暢な日本語を話しながら、人懐っこい笑顔を見せた。

 私はそれまでに仕事で何度か台北を訪れたことがあったので、台湾のそうしたところはある程度経験済みではあったが、台湾が初めての家族三人は、同じ中華文化圏といっても中国本土とは全く異なる台湾の親しみやすい味わいを、この瞬間に感じ取ったようだった。

 戦前の台湾が日本の統治下にあったことから、その時代に日本語教育を受けた世代の人達は、今でも日本語が上手だ。私も仕事を通じてそうした方々に接する機会があったが、日本人である我々が恥じ入ってしまうほど、正統な美しい日本語を話す人が少なくない。戦前は彼らも「日本人」だったのである。

 しかし、日本の敗戦から65年にならんとする今、彼らは既に相当な高齢に達している。そうした世代の人々と対面し、その日本語によって紐解かれる彼らの人生、歴史の荒波、そして台湾という国の悲哀。それをそのままノートに書き取るようにして作られたのが、今日たまたま書店で手にすることになった『台湾人生』 (酒井充子 著、文芸春秋)という本である。

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 1969年生まれの著者は、新聞記者をしていた頃に或る台湾映画を見て感動し、初めて台湾へ一人旅に出た。20世紀も間もなく終わろうとする頃だったようだ。その映画のロケ地を訪れ、帰りのバスを待っていると、地元のおじいさんが流暢な日本語で語りかけてきた。子供の頃にとてもかわいがってくれた日本人の先生がいたが、戦後は連絡が取れなくなってしまった、今でもその先生に会いたいと。バスが来るまでのほんの数分の出来事だったのだが、そのことがずっと彼女の頭から離れなくなった。「どうしてもっとゆっくり話を聞いてあげなかったのだろうか」と。おじいさんはなぜ流暢な日本語を話し、日本人の先生を今も慕っているのか。おじいさんのような台湾人がいることの背景にある近現代の歴史を、その時の著者は知らなかったのだ。

 2000年の夏、あの時の「バス停のおじいさん」にもう一度会いたい一心で、著者は台湾を再訪する。その頃には著者は新聞記者から映画制作の世界へと転身していた。同じバス停の近くで、今度は戦前の軍歌を歌う日本語世代の元気なおじいさんに出会い、この人達の語る日本語を記録に残しておかなければ、という思いを新たにする。台湾のような国があることを息子や娘にも是非知って欲しいと思い、私が家族を連れて台北を訪れていたちょうどその頃に、著者は彼女自身の構想を固めつつあったことになる。そして映画『台湾人生』が昨年公開された。本書はその映画をもとに編集されたものである。

 「日本は敗戦して台湾を放棄したんだけど、しかしそれだけ長い間付き合って、文化、生活も慣れてくると、深い情が残って忘れられませんよ。いまだれも気づかんけど、台湾の原住民が世の中のことを知るようになったのはやっぱり日本の力なんです。だから恩は恩。いまの青年たちは、どういうわけでこうなったか、だれのお世話で、どう努力して、どういう関係だったか、ということを自分で歴史を反芻しないといけない。そうしないと、今後どうするかということを考えられない。歴史を知って、自分の立場を知ったら、いかに努力するかという方向がわかりますよね。」
(1928年生まれ、台湾原住民パイワン族出身者)

 このお年寄が語る「日本の力」とは、下関条約で台湾を領有した日本が、多額の国家予算を投入して台湾のインフラ整備を行い、治安の維持、衛生の向上、そして教育の普及に力を注いだことを指しているのだろう。多くの少数部族に分かれていた台湾では、日本語教育によってともかくも言語が統一され、異なる部族の間でようやく意思の疎通がはかられるようになったという。このお年寄は一昨年に他界したのだが、最後の言葉が日本語であったため、家族は誰も理解できなかったそうだ。

 「もし日本人の若者に会ったら、わたしが日本にいた当時のことを話して聞かせます。飛行機を作って、アメリカと戦争したと言ったら、ありがとうとみんな言いますよ。ぼくたちは日本のために働いて報われることはなかったけれど恨みはありません。大和は第二の故郷です。」
(1929年生まれ、台南縣出身)

 この方は、神奈川県大和市の海軍工廠で少年工として終戦まで勤務した。そして台湾に戻ると、今度は大陸からやってきた国民党の支配の下で大変な苦労を味わうことになる。日本軍の下で働いた台湾人は、国民党からすれば非国民だったのである。

 「でもやっぱり、日本人好きなの。いろんなマナーもいろんなしきたりもお茶でもお花でも池坊でも、わたしちゃんと生けますよ。そういうマナーをわたしは二十歳までひととおり習ってきたんですから、ほんとうの日本人ですよ。
 いまの日本人の若い人よりもわたしは日本人。なんでその子を捨てたの? そして情けもないの? それがわたし一番悔しいの。台湾人のね、悔しさと懐かしさとそれから何と言いますか、もうほんとに解けない数学なんですよ。絶対解けない。」
(1926年生まれ、基隆市在住の女性)

 「捨てた」とは、敗戦後のサンフランシスコ講和条約で日本が台湾に対する全ての権利を放棄したことと、1972年に日本が中華人民共和国と国交を回復し、台湾(中華民国)との国交を断絶したことの二つを指すのだろう。因みに、サンフランシスコ講和条約に准じて1952年に日華(日中ではない)平和条約が締結されたが、日本の最高裁はそれをもって、台湾人は日本国籍を失ったとしている。

 著者が自ら告白しているように、明治の日本が台湾を領有することになって以降直近に至るまでの台湾の近現代史を、日本の学校で教わることはまずないだろう。清朝にとって「化外の地」であった台湾が日本の統治下で近代化を迎えたことも。太平洋戦争では多くの台湾人の軍人・軍属が前線に送られ、末期には台湾の各都市が米軍による爆撃を受けたことも。そして、日本人が引き揚げた後にやってきた国民党政権によって台湾人が弾圧を受け、知識階級の人々の多くが投獄・殺害された二二八事件や、それに続く38年間もの戒厳令の時代のことも。そしてその台湾自身も、国民党の独裁時代には言論の自由がなく、自国の歴史は封印されてきたのである。

 私自身にしても、読書を通じて遅まきながらそうした史実の数々を知ったのは、香港駐在時代に仕事で台湾をたびたび訪れるようになってからのことだ。だが、この『台湾人生』を読み、歴史の荒波に翻弄されてきた人々の日本語に触れてみると、台湾という土地を舞台に近代日本がしてきたこと、してこなかったことについて、今の日本人がそれを全く知らないというのは、殆ど罪悪に近いことではないかとさえ思えてしまう。それを知らずに「これからはアジアの時代」などと言ってみたところで、空疎に響くだけのことだ。

 人生の晩年に台湾を初めて訪れた作家の司馬遼太郎は、その時の体験をもとにした紀行文の中で、珍しく台湾を巡る政治問題に言及した。李登輝総統(当時)と対談するくだりで、「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともないでしょう」というような発言をそのまま載せたために中国の強い反発を買い、日中文化交流協会の代表理事を辞任することになったのだが、そうなることを覚悟の上でこの対談録を世に出した、そしてそれほどまで台湾に魅せられた司馬遼太郎の思いと共通するものが、『台湾人生』の著者にもあったのだろうと思う。

「一九四五年に分離するまで、そこで生まれて教育をうけた台湾の人々が、濃厚に日本人だったことを、私どもは忘れかけている。」
(『台湾紀行』 司馬遼太郎 著、朝日新聞社)

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 世界における中国本土のプレゼンスが大きくなればなるほど、私にとって台湾は気がかりな存在である。

セイゴオ雨読 [読書]

 暦の上では「啓蟄」を迎えたというのに、この週末は冷たい雨が降り続いた。日本列島の南沖に長い停滞前線がある。そこで寒気と暖気がせめぎ合っており、そのこと自体は春が近付いていることの明らかな兆候なのだろうが、列島はまだ寒気の勢力下にある。

 友人達と一月初旬からちょうど二週間おきに挙行してきた日曜日の山歩きも、今回は早々に中止を決めていた。残念だが、天候ばかりは運をそれこそ天に任せる他はない。頭を切り替えて「晴耕雨読」で過ごすことにする。

 読書は好きな方だが、読みたい本を何冊かまとめ買いすると、その中の一つぐらいは机の上に積みっ放しになることがあるものだ。優先度の高いものから読み始めるのはいいが、買ったものを全部読破しないうちに、何かと用事が出来てしまったり、割り込みで目を通さなければならない読み物が出てきたり、或いは他に興味の向くものが急に現れたりするので、ついつい放置したままになってしまうのだ。

 驚くべき多読家で、博覧強記という言葉はこの人のためにあるような「セイゴオ先生」こと松岡正剛氏の著作は、洋の東西、過去と現代、古典とサブカルチャー、古美術とポップアートなどを縦横無尽に飛び回る内容であるだけに、私にとってはちょっと腰を入れて、しかも頭の中を柔らかくする体勢が取れていないとなかなか読み進めないものだ。だから、同氏の『日本という方法』(NHKブックス)も、だいぶ以前に買い求めてはあったのだが、他のことにかまけているうちにまだ手付かずにいる。この週末に「晴耕雨読」を決め込んだのを期に、再びセイゴオ・ワールドに飛び込んでみることにした。
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 「日本という方法」とはちょっと不思議な日本語だが、それは「日本人が外来の自然や文物や生活を受け入れ、それらを通して、どのような方法で独特なイメージやメッセージを掴もうとしたか」ということを説明するための用語であり、もう少し具体的には「日本的編集」という方法だという。

 「日記を書くことも、俳句を詠むことも、筆で山水をスケッチすることも、幕府のシステムをつくって役職名をあてがうことも、会社の経営も、プランニングも、今晩の献立を考えることも、サッカーやラグビーのゲーム進行も、創作ダンスも、それぞれ『編集』なのです。」

 「(中略) 編集にも時代によって人によって、メディアやツールによってその特徴が変わる。たとえば言葉や文字の情報も、漢字だけで書くか、漢字仮名交じりで書くか。屏風に描くか、版画に刷ってたくさん配るか、連歌にするか、発句だけにするかなどの編集方法の選択の仕方によって、その特徴が変わります。」

 そのように外からの情報を編集しながら二千年の歴史を紡いできた日本。その方法に着目しながら日本社会や日本文化の様相を浮き彫りにしてみようというセイゴオ先生の試みにおいて、キーワードになるのは「おもかげ」、「うつろい」、「あわせ」、「かさね」、「そろえ」、「一途で多様」といったものである。そうした切り口から万葉仮名の誕生、和漢並べ立ての文化、神仏の習合、「うつろい」と浄土教的無常観、主と客と数寄の文化などが語られていく。

 「実は、和風旅館と洋風ホテルが並立して今日の社会文化のそこかしこにあるということのルーツは、もとはといえば『唐様』と『和様』とがそれぞれ尊ばれた編集文化の再生がおこっていたからなのです。日本美術史でいえば『唐絵』があるから『大和絵』が自覚されたのです。つまり『中国』というものがあるから、それに対して『和』が成立しうると考えた。(中略) 近代の話でいえば、洋画が導入されると、それに対して『日本画』が成立してくるのです。それまでは日本画などという言葉はなかったのです。」

 「日本の『神祇令』は『祀』(唐王朝における天の神の祭祀)と『祭』(土地の神の祭祀)についてはそのままとりいれるのですが、そこに天皇の即位儀礼や大祓の儀礼を加えました。また、『亨』(死者の霊の祭祀)と『釈奠』(祖師の祭祀)については (中略) 日本各地の民俗行事の多様性に任せてしまった。それでどうなったかというと、神仏習合と一口に言っている状態がそれほどの混乱もなく、王法と仏法の関係として、および神と仏の関係として、それなりに説明がつくようになっていったのです。 (中略) このようなアワセ・カサネ・キソイ・ソロエという方法を積極的に評価したいのです。」

 セイゴオ先生は決して歴史学者ではないが、通常の歴史の読み物がどうしても政治、経済、文化を分けた書き方になっている中で、それらを(時間軸も含めて)縦横無尽に駆け巡ることによって、立体感のある歴史の捉え方に大きなヒントを与えてくれる。セイゴオ節に対して歴史学者からは色々と言いたいこともあるのだろうが、我々は頭を柔らかくし、視野を広げることを学べばそれでいいのではないだろうか。

 セイゴオ節によって浮き彫りにされる日本の歴史と文化。それは上古から中世までは非常に説得力があり、同時に日本人の柔軟性としたたかさを強く感じるのだが、近世以降になると、さすがに「おもかげ」や「うつろい」だけでは語りきれない感がある。何よりも、日本自体に自分の軸がないから、外来のものに対してその都度右顧左眄を繰り返し、初めから戦略的に対応することが出来ていない。四方を海に囲まれた島国なのに、昔から「海防」への意識に乏しく、海洋国家として積極的に海の向こうへ乗り出していくこともなかった。法律も、ある理念に基づいた制定法をまず作るということがなく、現実の後を追う形の判例法や慣習法で対応してきた。セイゴオ先生の言葉を借りれば、やはり日本は「主題の国」ではなくて「方法の国」なのだろう。だから21世紀の今もなお、技術力はあるのにビジネスの世界でグローバルなスタンダードを先に作ってしまうことは苦手にしている。

 古来、日本人は山中の磐座(いわくら)や古木に神威を感じ、時に神様が訪れる場所としてその一角を清め、注連縄を張ったのが神社の始まりだった。社(やしろ)とは屋代(屋根のある代)。つまり神様の代りになるものに屋根をあてがったものだ。代(シロ)はそういう意味だから、苗代とは田植えが出来るようになるまで苗を育てておく仮の場所なのである。外から何かが入ってきた時、それを一旦苗代で受け止め、日本の気候の中で小さく育てた上で、時期を見て田に植える。それも「日本という方法」の一つなのだろう。議会制民主主義も、株式会社制度も、M&Aのようなビジネスの手法も、直輸入ですぐ田に植えることはしなかったのだ。
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 世界中で大きく報道されたトヨタ自動車のリコール問題。米議会の公聴会に呼ばれた豊田社長は、「会社のグローバルな成長スピードが速過ぎて、現地で起きている問題に対し現地で的確に判断する体制が整っていなかった」と証言していた。だとすれば、今のトヨタですら、グローバルに展開するビジネスを本当に自分のものにするためには、苗代で咀嚼する時間がもう少し必要だったということだろうか。

 新興国の台頭により世界の多極化が進む中、ビジネスの世界では新たなグローバル・スタンダード作りをめぐる競争が始まっている。日本にとって、方法論だけでは益々厳しい時代になりそうだ。

戦争に学ぶ [読書]

 「『リーマン・ショック』という言葉を産んだ現代の金融危機を分析する際に、歴史の教訓としてよく引き合いに出される1930年代。では、日本にとっての1930年代の教訓とは何か。

 1937(昭和12)年の日中戦争の頃まで、当時の日本国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(労働者の団結権や団体交渉権を認める法律の整備など)と、民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を強く望んでいた。しかし、実際には既存の政治システムの下でこれらが実現される見込みはなく、擬似的な改革推進者として軍部への国民の期待が高まっていく。

 現代の日本も、また政治システムの機能不全を抱えている。衆議院議員の6割は一人区の小選挙区制によって選ばれるため、与党が国民に不人気の場合は解散総選挙が行われない。また、投票率の高い高齢者世代の世論や意見を為政者が無視できない構造になってしまう。

 これからの政治は、若年層贔屓と批判されるくらい若い人々に光をあててゆく覚悟がなければ、公正には機能しないのではないか。教育においても、若い人々を最優先に、早期に最良の教育メニューを多数準備することが肝要であろう。彼らには、自らが国民の希望の星だとの自覚を持ち、理系も文系も区別なく、必死になって歴史、とくに近現代史を勉強してもらいたい・・・。」

 こんな要旨の序文に惹き込まれるようにして一気に読んでしまった本がある。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 (加藤陽子 著、朝日出版社)という本である。
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 タイトルが連想させるような、いわゆる反戦・反軍の本では全くない。暴走する関東軍、無責任な作戦参謀、エリートゆえに頼りない海軍・・・といったようなことを書き連ねたものでもない。近代国家の仲間入りをした日本が経験した日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、そして太平洋戦争を題材に、時々の戦争の根源的な特徴、国際社会や地域の秩序、国家及び社会に与えた影響、戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、といったポイントを非常にわかりやすくまとめたものである。わかりやすいはずで、普段は東大で日本近現代史を教える著者が、神奈川県の栄光学園の中高生を相手に5日間の連続授業を行った、この本はその「講義録」なのである。

 授業は、自分が為政者であったら、作戦計画の立案者であったら、或いは日本の一国民であったら、その時々の状況をどのように捉え、どのように判断したであろうか、それを生徒達にも想像させ、その時代を生きる擬似体験をさせながら進んでいく。「高校生に語る-日本近現代史の最前線」というサブタイトルがこの本には付されているが、自分が中高生の時にこのような本に出会っていたら、他の勉強はそっちのけで読み耽っていたに違いない。

 日清戦争に関する章で、それに先立つ時代の説明として、明治10年代の自由民権運動の話が出て来る。ところが、国会開設を強く待ち望んでいるはずの彼ら民権派の主張をよく見てみると、国会開設より先に条約改正だという。不平等条約を押し付けられて侵害されているこの国の主権を取り戻そうという強い気持ちが民権派の中には意外に多いのだと。

「日本の民権派の考え方は、どうも個人主義や自由主義への理解が薄く、・・・(中略)・・・政府が薩長藩閥だけで中枢を占めていることや、北海道開拓などで国の予算を無駄遣いしていることを批判するという点では反政府なのですが、国会が果たすべき役割、あるいは対外的に日本はどうすべきかという点では、実のところ、民権派と福沢(諭吉)や山県(有朋)の間には、差異があまりなかった。」
 
 そして起こった日清戦争。その終結後、日本国内で最も大きく変わったことは、意外にも普通選挙運動が盛んになったことだという。

 「戦争には勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたからといって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返してしまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にないからだ、との考えを抱いたというわけです。」

 日清戦争と普通選挙期成同盟会。歴史の勉強を暗記物と捉えるだけなら、この二つは全く別個のものだが、この時代に国民が何を考えていたかという観点から歴史を見つめると、この二つは見事につながる。歴史を学ぶとは、こういうことを言うのだろう。

 本書を読んで私が大いに認識を新たにしたのは、第一次世界大戦についての章である。この戦争、一般に日本人にとっては印象が薄い。戦死者は千人ほど。ドイツが権益を持っていた山東半島の攻略は三ヶ月ほどで終わり、戦後はドイツ領南洋諸島を国際連盟から委任を受けて統治することになったという、平たく言えば火事場泥棒的に権益を取得した戦争であったというようなイメージだ。

 しかし、大戦後に国内ではたくさんの「国家改造論」が登場して、日本は変わらなければ国が滅びるという強い危機感が生まれたという。それは、パリ講和会議に参加し、或いはその様子を取材した多くの人々を通じて、第一次世界大戦のヨーロッパでの惨状を我が事のように受け止め、将来の総力戦に向けて大変な不安がよぎったからだという。そのヨーロッパでは市民も含めて一千万人が犠牲になり、由緒ある三つの王家(ロシア、ドイツ、オーストリア)が滅んでしまった。日本はその戦禍を免れたが、やがて中国の資源と経済をめぐる列強との戦いが始まるとしたら、日本は対応できるのだろうか、という怖れである。

 この大戦に参戦する際に、日本は米・英との間で応酬があり(中国における日本のプレゼンスが高まることを米・英は強く牽制)、その事実が帝国議会で暴露されて激しい政府批判が起きたこと、パリ講和会議ではいわゆる「対華二十一箇条要求」を巡り、日本が中国と米国から強い批判を受けたこと、そして日本統治下の朝鮮で、三・一独立運動がパリ講和会議の最中に起きてしまったこと。

 欧州の惨状に加えて、こうした事実が当時の日本人の危機感を高め、国家の改造が叫ばれたたことが、本書では様々な実例を通して語られている。①普通選挙の実施、②身分的差別の撤廃、③官僚外交の打破、④民本的政治組織の樹立、⑤労働組合の公認、⑥国民生活の保障、⑦税制の社会的改革、⑧形式教育の解散、⑨朝鮮、台湾、南洋諸島統治の刷新、⑩宮内省の粛正、⑪既成政党の改造・・・。これだけの要求が各種団体から出されたのである。「日本にとっては第一次大戦の印象が薄い」などという今までの私のような認識ではいけないのだ。

「膨大な死傷者を出した戦争の後には、国家が新たな社会契約を必要とする。」

 学校の授業では、近現代史というのはどうしても時間切れになってしまう。だから、授業で教わるというよりは、受験のために自分で勉強するしかない分野だ。だから、そのスタイルはどうしても暗記物に終始しがちである。しかし、本書で著者が力を込めて述べているように、現代に生きる我々にとって近現代史を学ぶことは何よりも重要なことだろう。

 私の高校時代、日本史の授業は二年生の一年間であった。当然のことながら、明治維新を迎えたあたりで一年は終わってしまう。だが、ありがたいことに日本史の専科の先生は、高三になってからも放課後に補講としてその続きを講義して下さった。その年の12月頃まで時間をかけて、昭和25年の自衛隊発足のところまで、その補講は続いた。学校の授業で日本史をそこまで教わった、そのことは現在に至るまで、私の中では計り知れない大きな存在となっている。本書の土台となった栄光学園での特別授業も、参加した生徒達にとっては一生の宝物になることだろう。

 若い頃に出会いたかった本である。バレンタイン・デーにこんな書評を書くのは、我ながら野暮の極みだが。

それからの西郷 [読書]

 建築学者の上田篤氏(79)は、なかなか面白い本を書かれる方である。ご専門の領域と頭の中でどう繋がっているのか、歴史や宗教、日本の風習などにも非常に造詣が深く、そのような分野に関する著書も多い。『呪術がつくった国 日本』(光文社)、『神なき国 ニッポン』(新潮社)、『一万年の天皇』(文春新書)、『庭と日本人』(新潮新書)など、これまでも大変興味深く読ませていただいた。

 その上田氏が、今度は『西郷隆盛 ラストサムライ』(日本経済新聞出版社)という新著で西郷さんの生涯を語っている。このタイトルだけ見ると、流行りの映画にかこつけて二番煎じを狙ったものでは?などと受け取られるような気もして、ちょっとどうかなと思うが、中味は決してそんなものではない。上田氏ならではの西郷論である。
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 上野公園の西郷さんの銅像は、なぜ巨体に大きな頭、太い眉に大きな目という、ハワイ出身の力士・武蔵丸のようにポリネシア系の風貌をしているのか? なぜ筒袖に兵児帯一本の、子供のような服を着ているのか? 明治初年の「廃刀令」のずっと後に建てられた銅像なのに、なぜ腰に脇差をした姿が許されたのか? なぜ犬を連れているのか? そうした素朴な疑問からスタートして、西郷さんと共に西南戦争で絶滅してしまったサムライとは何なのか、そこに焦点を当てていく。本書の書き出しから、上田氏のペースにぐいぐいと引き込まれてしまうのである。

 日本が「男尊女卑」の社会になったのは、律令国家の制度を中国から導入して以後のことであり、それ以前の古墳時代までは女が一家の主人だった。男たちは漁労や狩猟に出ているか、「通い婚」におけるツマドイに行っているか、いずれにしても普段は家にいなかった。そうした男不在の中で女子供を守るのが犬だった。ところが、平安末期にサムライが登場し、そして12世紀末にサムライ国家ができると、サムライが女子供や百姓らを守るようになった。いわば犬がサムライになった訳で、それ以降は犬が飼われなくなった。つまり、遊牧社会における人間とヒツジと犬の関係が、殿様と民百姓とサムライに変わった・・・。「サムライとは何か」を語るのに『葉隠』や新渡戸稲造を紐解く代わりに、縄文時代の日本にまで一気に駆け登る。普通の歴史学者はあまりしないことだ。

 上田氏が西郷さんの生涯を振り返った動機は、あとがきにも記されているように、1995年の阪神・淡路大震災をめぐる我国の官僚社会の責任逃れの行動に大きなショックを受けたことにあるという。日本はどうしてこんな無責任社会になったのか? それを考え続けていると、それは戦後民主主義に問題がある → 戦前も無責任社会が戦争を引き起こした → では、問題の源は明治維新にあったのではないか? つまり「明治維新が責任感のつよいサムライをなくしてしまったからではないか」と思い至るようになったと述べている。従ってこの本では維新が成って以降の、「それからの西郷」に最も光が当てられている。

 普通の本では、会津や函館が落ちて戊辰戦争が終わると西郷には目標がなくなったとして、とたんに登場しなくなる。薩摩に帰って百姓をしていたが、新政府が廃藩置県を断行する時だけ、薩長土の藩兵をまとめて天皇の「御親兵」とし、睨みをきかせることで新政府に協力し、岩倉使節団の外遊中もやむなく留守番役を務めたが、やがて湧き起こった「征韓論」で大久保と対立して再び下野。不平士族の憤懣に自らの体を預けるようにして、勝ち目のない西南戦争に立ちあがる・・・。壊すのは西郷で創るのは大久保、というパターンで記述されることが多い。本書を紐解く前の私の認識も、まあ似たようなものであった。

 ところが、時代はまだ西郷を必要としていた。維新が成り、戊辰戦争を戦って帰ってきた薩摩のサムライ達は、因循姑息な旧弊の残る故郷と、藩父・島津久光の万事守旧的な姿勢に不満を高め、鹿児島城下は不穏な情勢にあったという。それを危惧した大久保に引っ張り出された西郷は、事実上の筆頭家老として藩政改革にあたることになる。しかし、それは明治新政府の方針に対する強烈なアンチテーゼとでもいうべきものであった。

 「維新政府の藩政改革方針が『従来の士農工商の身分をご破算にしてあらたに有能な人材を官吏に任命し、中央集権的に行政をすすめる』のにたいし、西郷は、『藩内を多数の自治的な郷邑にわけて、従来の藩士や郷士にその行政をまかせる』ものだ。しかもその指導者には『維新戦争で生死をかけてたたかった有為な人材をあてる』としたのである。」 
 
 更には、新政府が近代国家としての徴兵制を導入しようとしたのに対し、西郷は従来の藩士と郷士をそのまま新軍隊とした。「江戸時代の武士にただ鉄砲をもたせて近代的に訓練しただけの新時代のサムライに未来をかけた」のである。それぐらい、俄かに権力者となった新政府の官吏の不正・腐敗に西郷は我慢がならなかったのだろう。

 「そこには、西郷の政治にたいする確固とした信念があった。『命もいらず名もいらず、官位も爵禄もいらない者でないと、ともに廟堂にたちて天下の大政を議しがたい』という西郷のことばだ。」
 
 外国人から見れば、サムライ=軍人だが、上田氏が述べているように、日本史の不思議なところは、そのサムライが政治を事実上取り仕切っていた時代に最も平和が続いたことだ。「天皇親政」の時期はいずれも治安が悪く、特に後醍醐天皇の「親政」がもたらした南北朝の対立と、そのために社会が下剋上化した戦国時代は、最も世が乱れた時代であった。そして、サムライの時代にこそ多くの日本文化が作られ、それが大衆にも普及していったのである。

 「とするなら、わが国の社会において『サムライ独裁国家』もわるくないではないか?  それもひとえに『サムライたちのたかいモラルによる』というのであれば、社会はそういうたかいモラルをもったサムライたちを育成すればよい。そしてそれによって世の中が平和に発展するのであれば、『サムライ独裁国家』も一つのすぐれた日本文化であることを理解すべきである。」
 
 上田氏がこうまで言い切っているのは、現代日本の無責任社会に対する失望がそれだけ大きいからだろう。ここでいう「サムライたちの育成」の典型が、西郷が薩摩に設立した私学校である。そこでは、人望・人格のある先輩格の若者が後輩の面倒をみ、教育をし、そしていざという時には先輩が全ての責任を取る、薩摩伝統の郷中教育が行われた。英国人がそれを見て感心し、自国に帰って始めたのがボーイ・スカウトの制度だという。

 西郷が目指した、高いモラルを持つサムライによってリードされる国家。それは中央集権とは反対の、郷邑という地域社会を重視した国づくりであり、そこでは百姓が農業だけでなく幅広い事業を手掛け、卑怯者と呼ばれることを最も嫌い命と財産に執着しないサムライがリーダーとしてそれぞれの地域を指導していく、そういう国を目指していたといえる。それらは西南戦争の結末と共に潰えてしまったが、もし西郷の目指した国づくりが日本の中でもっと力を持っていたら、この国の近代は大きく異なるものになったかもしれない。本書のサブタイトルになっている「西郷隆盛が目指した小さな日本」があったのかもしれない。そして少なくとも、今ほどの無責任社会にはならなかったのかもしれない・・・、と上田氏は想像を巡らせているが、やはり歴史にイフはないのであろう。無責任社会ニッポン。その象徴が、とどまることを知らない財政赤字の肥大化である。

 この夏の政権交代で、鳩山首相は「平成維新」という言葉を使った。しかし、西郷さんの時代に比べると、維新という言葉の値打ちがずいぶんと安っぽくなってしまったと感じるのは、私だけであろうか。

 命もいらず名もいらず・・・西郷さんはやはりラストサムライであったというべきか。

「大衆という名のバケモノ」 [読書]

 この本の内容には、かなりの賛否両論があることだろう。

 マッキンゼー出身の経営コンサルタント、波頭 亮(はとう りょう)氏と、今をときめく脳科学者、茂木健一郎氏の対談をまとめた『日本人の精神と資本主義の倫理』(幻冬舎新書)。二年前(2007年)の秋に出た本である。たまたま書店の棚にあったのが目にとまり、一晩で読んでしまった。
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 この本が出た時代背景をたどれば、2005年に新築マンションの耐震偽装が表面化し、大きな社会問題になっていた。翌2006年は、年明け早々にホリエモンの逮捕劇があり、年央には村上ファンド事件が世の注目を集めた。そして、続く2007年不二家をはじめとする食品偽装が次々に発覚。更には年金記録問題が表面化して安倍政権の命取りになった。カネ欲しさのインチキが次々に明るみに出た日々。この歳の暮に京都の清水寺で筆書きされた「今年の漢字」は、何と「偽」の一文字だったのである。

 手段を選ばない利益追求の蔓延。経済成長が手段から目的に変わってしまい、心の安寧を放棄してしまった社会。「大衆というバケモノ」が野に放たれたために、軽薄なカルチャーばかりが横行する社会。「格差」が否定され、何事も平均値まで引きずり下ろされる社会。そして、そうした風潮に迎合するマスコミ・・・。こうした日本の姿を痛烈に批判しつつ、ハイカルチャーに敬意が払われる社会、金持ちがノブレス・オブリージュを履行する社会、真の意味での個性が尊重され、経済格差とは違う豊かさを実感できる社会の構築を唱える二人。

 波頭氏は私の一歳年下、そして茂木氏は六年も若い人である。二人とも東京大学という最高学府に学んだインテリであるが、この二人に共通するのは、「旧制高校」の匂いのするような、哲学書や科学書、クラシック音楽などにどっぷりと浸かった学生時代を過ごし、ハイカルチャーに対して強い憧れを持ち続けてきたことである。二人の発言は、こうした体験に裏打ちされたものと言えるだろう。

茂木: 現代の日本において、個性は無条件に肯定されるべきものとされ、どんな悪癖を持っている人でも、これが自分の個性だといえば、それで済んでしまうようなところがあります。ところが、ゴッホに関する小林秀雄の指摘はその逆で、いかに個性を乗り越えるかの話なのです。

波頭: 確かに個性を無批判に肯定するのは、僕もおかしいと思います。個性とは個人のアイデンティティですよね。アイデンティティは、社会との対峙のなかで初めてプロット(標付け)されるものです。だから、個性やアイデンティティを突き詰めようとすれば、個人と対峙する社会性や普遍性に突き当たらざるをえない。むしろ、社会との対峙ができて初めて、自分というものがしっかり分かるわけです。・・・(中略)・・・社会との対峙のなかで、自分はどのポジションにいて、何に依って立っているかを考えないから、個性やアイデンティティ自体の突き詰め方も甘いし、同時に公共性の認識も成り立っていかない。 

個性を社会と対峙させることのない「甘さ」。それは、合理性を追求する資本主義の対極に、倫理観が確立していないことに起因するようだ。

茂木: マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムと資本主義の精神』のなかで、西洋において資本主義は倫理と固く結びついていると述べている。日本をみると、ある時期から、特にバブル経済以降だと思いますが、倫理性との結びつきが重視されなくなっている。結局、日本はアングロサクソン的な資本主義の上っ面だけを輸入しているに過ぎないという印象を僕は持っています。

波頭: (中略) アメリカには、プラグマティズム経済に基づくシビアな世界とバランスをとるように、寄付を軸にしたピューリタニズム、あるいはクリスチャニズムが強固に根付いているということです。日本は金儲けの対極にあるべき対抗軸が見事に抜け落ちている。僕から見れば、明らかにバランスを欠いた社会です。

(中略)

茂木: とにかく売れるものが日本では正義なのです。美術にしろ小説にしろ何にしろです。だからタレント上がりの自称芸術家も成り立ってしまう。芸大の学生たちは自称芸術家など端から相手にしていないけれど、そこに「売れてなんぼ」のファクターが介在してしまうと、やはり「武士は食わねど高楊枝」の精神は難しくなる。・・・(中略)・・・日本のように、野に放たれた「大衆という名のバケモノ」が資本主義やマーケットメカニズムに結びつくと、売れることこそ正義みたいな価値軸しか世の中に存在しなくなってしまう。・・・(中略)・・・日本が異常だと思うのは、その価値軸しかないことです。

波頭: 僕も大衆カルチャーや大衆の意思決定を頭から否定しているわけではありません。対抗軸を持たないことで、単一原理の方にどんどん引きずり込まれることに対する怖さを感じているのです。・・・(中略)・・・人間には本来、様々な価値のナチュラルなバランスがあるはずです。人間社会にあるべきナチュラルなバランスを明らかに欠いているのが今の日本ではないでしょうか。経済にこれだけの余力がある国が、本来ならばマテリアリスティックな悦楽と消費ばかりを求めるはずがないという気がしています。しかし、その不自然な世相をあっさり成立させているのが今の日本なのです。 
 
 では、なぜ「大衆という名のバケモノ」が跳梁跋扈してしまうのか。それは、エリートがしっかりしていないからではないか。

波頭: アングロサクソン系は上のクラス(階級)が大衆の対抗軸として機能し、社会のバランスを取っているわけです。・・・(中略)・・・サッチャー政権のときにイギリスは大きく変わりました。では、サッチャーは何をしたのか?彼女は傾いていた国を建て直すために、徹底的に合理性を貫いた。・・・(中略)・・・社会を健全化するのは厚生水準、つまり豊かさを引き上げることであって、怠惰とわがままを以てする大衆的なベクトルに引きずられてしまったらうまくいきません。少なくともリーダーと呼ばれる人間は、そのことを知らなければならない。多少強引でも、引き上げる努力をしなければならないのです。
 
 それでは、現状を批判するだけではなく、この薄っぺらな社会を建て直すためにはどうしたらいいのか。

波頭: 今はぐだぐだと格差を愚痴っている場合ではない。今、格差という場合、それは経済的な格差を意味するわけだけど、格差は経済以外にも数多くあるのが現実です。・・・(中略)・・・今、あえて格差問題について語っているけれど、先にも言ったとおり格差など気にするな、が僕の基本スタンスです。経済的な格差など幸せになるためには大した問題ではないと、皆が呑み込んでしまいさえすれば、一瞬にして多くのことが変わると思っています。
 
 東大出のエリートがインテリぶって何を言うか!という反発もあることだろう。「経済格差を気にするな」なんて、勝ち組だから言えるんだよ、という批判もあるだろう。加えて、ノブレス・オブリージュを語る茂木氏自身が、最近は多忙を理由に講演料・原稿料等の確定申告をしていなかったことが報じられ、今はいささが分が悪い。
 何よりも、以下に挙げるようなテレビ批判に対しては、「何言ってんの?」とシラケてしまう人も大勢いることだろう。

茂木: 正直に言って、僕は日本の地上波テレビを途轍もなく憎んでいます。アイドルが出るドラマなど一瞬たりとも見たくない。そういうのがテレビに映るとすぐに消してしまうほど。・・・(中略)・・・日本の貧困は、テレビのタレントたちに対抗する軸がないことに尽きるわけで、「あんな連中どうでもいい!」と言う人がもっといてもよいし、そういう人がもっとビジブルでなければならない。

波頭: ・・・(中略)・・・茂木さん同様、僕も子どもの頃から科学や芸術に対する憧れがあった。むしろ、田舎だったから余計、憧れが強かったといえるかもしれない。田舎育ちなのに、なぜ自分は大衆迎合的なことと肌が合わないのか、自問自答してみると、ひとつ思いつくことがあります。それは子ども時分から、僕はほとんどテレビを見ない人間だったことです。
 
 私自身は、よくぞここまで言ってくれたと、拍手喝采を送りたい気持ちでいる。それぐらい、今のテレビはどうしようもないところまで来ている。大衆に迎合してきたテレビだが、世界金融危機以降の不況の中で、かつてない厳しい経営環境に直面している。切羽詰まった彼らは、大衆迎合に更に拍車をかけるのだろうか。そうだとしたら、こんなテレビ局はもう要らない!と、心ある者は声を上げる必要があるのではないか。

 いずれにしても、私にとっては面白い一冊であった。賛否両論、おおいに結構である。


 





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