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今年の漢字 [自分史]


 毎年12月の中旬になると、京都の清水寺で「今年の漢字」が発表される。奥の院舞台に立てかけられた特大の和紙に寺の貫主が漢字一文字を墨黒々と揮毫する姿は今や年末の風物詩だが、その歴史は思っていたより新しくて、平成7年が初回なのだそうだ。それは阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件があった年で、選ばれた漢字は「」。その年に日本社会が体験したことをまさに凝縮した文字だった。

 今年(2016年)の漢字は「」。この字が選ばれたのは3回目で、過去2回はいずれも五輪大会のあった年だというから、まあ無難というか、面白味のない選択だった。もっとも、「きん」と読むか「かね」と読むかは人それぞれなのだろうけれど。
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 間もなく終わろうとするこの一年を自分なりに振り返り、それを象徴する漢字一文字を私が選べと言われたら、色々考えた挙句、それは「」という字になるだろうか。読み方は「そと」、「がい」、「ほか」、「はずれ」のどれでもいいだろう。

 日本企業の経営活動で言えば、苦境の続いたシャープが台湾企業の出資を仰いでその傘下に入り、粉飾決算に揺れた東芝は白物家電部門を中国企業に売却。他方、ソフトバンクがサウジアラビアのファンドと組み、グローバルにテクノロジー分野を投資対象とするファンドを設立して10兆円規模の投資を目指したり、大手製薬会社などが次々に外国企業を買収したりと、国境を越えた内外の資本の動きは引き続き活発な年であった。

 また、直近ではあまり話題にならなくなったが、今年になって世間を騒がせた出来事の一つが、いわゆる「パナマ文書」のリークである。パナマのタックスヘイブンを利用して資産に対する租税を回避するという、富裕層や大企業だけが利用出来る節税(or脱税?)スキームやその行為に対する批判が世界レベルで高まり、実名を暴かれた政治家が退陣を余儀なくされた国もあった。これも国の「外(そと)」が絡む出来事であった。
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 国の「外(そと)」といえば、シリア情勢の一層の混迷から欧州に押し寄せた難民問題は一段と深刻化。偏狭なナショナリズムが各地で煽られる様子はまさに憂慮すべき事態である。多様な民族が混在する欧州ですら、中東からの移民、イスラム教徒といった異質なものの受け入れが治安の悪化に繋がるので排除したいという声を抑えきれないのだ。そして、英国は今夏に実施した国民投票で遂にEU離脱を選んでしまった。域内での人の自由な移動を認めるEUの中にいてはこのような移民の流入を適切にコントロール出来ないというのが、離脱を決めた大きな理由の一つだった。

 他方、我国の周辺では、東シナ海でも南シナ海でも中国とその他の国々(含:我国)との間で領有権を巡る緊張関係が続いた。とりわけ南シナ海では中国が南沙諸島海域の暗礁を埋め立てる形で人工島を建設し、軍事拠点化を進めている。7月にはオランダの常設仲裁裁判所がフィリピンの申立に関して、南シナ海を巡る中国の主張を全面的に否定する判断を示したが、当の中国はどこ吹く風である。19世紀から20世紀前半にかけて列強諸国に「いいようにしてやられた」経験を持つ中国は、力をつけた今は外に向かって仕返しをする時期だと考えているのだろうか。

 そして米国では、国を二分する選挙によって、あのドナルド・トランプが次期大統領に選ばれた。彼の年来の主張を大統領就任後も本当に続けるのかどうか、今は未知数ではあるが、彼が言っていることは要するに「米国にとって災いは全て国の外からやって来る」ということだ。「為替レートを人民元安にしている上に、ダンピングで自国製品を売りまくる中国が悪い」、「人件費の安さにモノを言わせて米国から雇用を奪うメキシコが悪い」、「安全保障のコストを十分に負担しない日本が悪い」・・・といったことの羅列である。それでなくても、ハリウッド映画を眺めていると米国人というのは何かと外敵を作ることが好きなようだ。

 ここまでに、「そと」という意味で「外」の字を8回使った。しかし、この字は「そと」・「がい」の他に「はず(れる)」とも読む。そして、外れると言えば、既に述べた英国のEU離脱やドナルド・トランプの当選という出来事ほど、世界中のメディアの事前予想が悉く外れたものはなかったのではないか。
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 ここまでは世界の出来事に目を向けた話だったのだが、実は私の会社も予想を大きく外したものがあった。それは、今年度の事業計画の策定時に前提条件として置いた外部環境のシナリオである。

 今年二月のある週末、会社の役員・部長クラスが全員集まって、新年度の事業計画に関するブレーンストーミングを試みたことがあった。そしてその時に総じて皆がイメージしていたのは
「世界中どこを見ても、いい話を聞かない。中国は経済成長の減速が続くだろうし、米国も年の後半には景気がスローダウンするとの見方があり、二度目の利上げはまだまだ先になりそうだ。日本の金融政策も遂にマイナス金利に突入したが、物価の上昇と消費の拡大は望み薄だろう。」
という2016年度の外部環境であった。

 そんなシナリオを前提に、私たちは事業計画の数字を組み立てた。予想販売量は決して背伸びをせず、生産効率を上げるために社内の構造改革を進めて、控えめながらも決して赤字だけは出さないことを旨とするコンサイスな事業計画を作ったのである。ところが、蓋を開けてみると2016年度の外部環境はその事業計画とは全く異なるものとなった。今はむしろ、予想を上回る顧客の需要に応えることが出来ず、製品を作りきれない状態が半年近くも続いている。しかもそれは来年以降も続きそうなのである。モノ作りの会社にとって、顧客からの注文に応じ切れないことほど忸怩たるものはないのだが、要は、私たちには半年先の外部環境すら読めなかったことが全てなのだ。2016年の「今年の漢字」は、私の会社にとっても「外(はずれ)」だったのである。

 とはいうものの、その「外れ」が示すものは、今はまだおぼろげながらも、私たちの事業に大きなビジネスチャンスを与えてくれる可能性を秘めた近未来の社会が着実に近づいているということだ。AI(人工知能)やIoT(物のインターネット)が営利事業や公共サービスのあり方を大きく変えると言われる「第四次産業革命」。それによって到来するであろう新しい社会を、私たちの製品が縁の下の力持ちとして支えて行けるかもしれない。だとすれば、私たちが今取り組むべきことは、目先のことばかりに囚われず、その先を見据えて力をつけ、準備を進めて行くことだ。年明け早々から忙しいことになりそうだが、大いに頑張りたいと思う。
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 来年の今頃、「今年の漢字」は「当(あたり)」だと胸を張って言えるように。

二神の山 - 筑波山 [山歩き]


 画面上部に大胆に描かれた、翼を広げる大鷲。その鋭い眼が見下ろすのは江戸の雪景色。「深川洲崎十万坪」と題された何ともダイナミックな構図のこの錦絵は、言うまでもなく歌川広重の『名所江戸百景』を代表する作品だ。
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 洲崎は現在の東京メトロ東西線・木場駅の南東側で、江戸時代は海岸線だった場所だ。この絵は海側から洲崎を眺め下ろしているから、背後に描かれた雪の山はどこかといえば、この方角に見えるのは一つしかない。言わずと知れた筑波山である。男体山(871m)と女体山(877m)の二つのピークがあり、東京の都心から眺めると、確かにこの絵の通り双耳峰のように見えている。

 日本百名山に選ばれた山の中では最も標高の低い山で、ケーブルカーもロープウェイもあるから、筑波山へ行こうと思えばいつでも行ける。そう思うと、実はなかなか行かないものだ。私の山仲間たちもそうだったはずである。

 しかし、大海原のような関東平野の中にそこだけ900m近くも隆起した異様な姿を持ち、だからこそ古来人々に崇められ、その山域全体がイザナギ・イザナミの神を祀る筑波山神社の境内になっているこの山には、いつかは登ってみたいと思っていた。更に言えば、私たちが卒業した中学・高校は、卒業のずっと後になって「筑波」という地名と縁が出来ることになった。その点からも、筑波山にはどこかで一度、それも出来れば同期生の山仲間たちと行ってみたいと思っていたのである。
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 12月11日(日)の朝7時に秋葉原駅を出る「つくばエクスプレス」(TX)に乗車。これから山へ出かけるというのに、山仲間たちとの集合場所が秋葉原というのも何だか不思議な気分だ。

 初めて乗るTX。北千住までは各駅停車だが、そこから先の快速区間はぐんぐんと加速し、八潮の手前で地上に出ると、あっという間に中川や江戸川を越えて埼玉県最初の駅・南流山に到着。ここで武蔵野線と、そして次の流山おおたかの森で東武野田線(アーバンパークライン)とそれぞれ交差した後、利根川を渡って茨城県の守谷駅へ。関東では稀有な非電化の私鉄・関東鉄道常総線の線路を見下ろしながら、更に北上を続ける。直流で走ってきたTXはここから交流に切り替わるのだが、デッドセクションの通過時に車内灯が消えることもなく、実に滑らかに交流区間へと入った。窓の外では、筑波山の姿がさすがに大きい。
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 秋葉原から僅か45分でつくば駅に到着。そこから筑波山シャトルバスに40分ほど揺られると、筑波山神社前のバス停に着く。そこからは関東平野の彼方に朝の富士山が姿を見せていた。
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 山の方を眺めると、赤い大鳥居の向こうに筑波山の西側のピーク(男体山)が思っていたよりも高く聳えている。
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08:45 筑波山神社 → (御幸ヶ原コース) → 10:20 御幸ヶ原 → 10:35 男体山頂上

 いよいよ出発。まずは筑波山神社の参道を上がり、拝殿で二礼二拍手一礼を済ませてからケーブルカーの乗り場方向へと進む。その先が登山道の入口だ。辺りには、もう終わったかと思っていた紅葉がまだ残っていた。
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 登山道は基本的にケーブルカーのルートに沿った道で、常緑樹の森の中を登っていく。筑波山は火山ではない筈なのだが、それにしては大きな岩がゴロゴロした山道だ。時にケーブルカーの線路がすぐ隣に迫ると、それが案外急傾斜なことに気づく。いったい何パーミルあるのだろう。風情はだいぶ異なるが、私が香港に駐在していた頃、ヴィクトリア・ピークに上がるケーブルカー(ピーク・トラム)に沿った急階段の道をよく歩いたことを思い出した。
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 それにしても、登山道は案外としっかりした登りが続く。標高1,000mに満たない低山といえども侮れないものだ。傾斜の一番きつい箇所では時代劇に出て来る砦のような土留めが施されている。気分は楠木正成の千早城か、或いは赤坂城か。
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 そんな中、私たちは殆ど休憩も取らずに登り続け、概ねコースタイム通りの1時間35分ほどで御幸ヶ原に着いた。あたりは展望台のようになっていて、筑波山よりも北側の山と平地の眺めが広がっている。一番目立つ山が加波山(709m)である。
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 御幸ヶ原からは西側にこんもりとした男体山のピークが見えている。そこまでは10分足らずの登りである。
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 そのピークはとても狭く、筑波山神社の男体山御本殿が占めているので、木々に遮られることなく下界を眺められるのは一人か二人分ぐらいのスペースしかない。しかし、眼下に広がる関東平野の眺めは何とも広大だ。矢印の位置に見えている富士山から右へ、大菩薩や奥多摩、奥秩父など、いつもは通勤電車の窓から手に取るように眺めている山々が、ここでは遥かな彼方に連なっている。
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10:40 男体山頂上 → 11:07 女体山頂上(10分休憩) → (白雲橋コース) → 11:50 弁慶岩(20分休憩) → 12:55 筑波山神社

 男体山から再び御幸ヶ原へ降りる、その名前からはもう少し草原のような地形を想像していたのだが、地面は舗装され、ケーブルカーの駅や展望台、土産物屋、軽食屋などが並んでいる。いささか風情に欠けるが、昔からの観光地とはそういうものだろう。その一帯を過ぎて再び始まった山道をしばらく進むと、筑波山名物「ガマの油」の売り口上がこの前で考案されたというガマ石があった。
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 やがて山道は狭くなり、そして岩が多くなり、女体山御本殿の建物を囲むようにして山頂へと向かう。そのピークは男体山よりずっと広く、登山者たちが大きな岩の上に立って下界の眺めを楽しんでいた。私たちもその一員となって最前列に出ると、南東方向には霞ヶ浦が輝いている。
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 富士山は辛うじてその姿をまだ残しているが、丹沢方面から盛んに沸き上がる雲に、間もなく隠れてしまうことだろう。
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 歩いて来た方角をふり返ると、男体山が火山でもないのにきれいな円錐形の山体を見せている。なるほど、歌川広重もこのピークを少しデフォルメして描いていた訳だ。
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 女体山から白雲橋コースと名付けられた山道を下る。時刻が11時を過ぎ、お昼までに山頂を目指すパターンが多いのか、この山道を登って来る人々が案外多く、岩場が続く所では結構な列が出来ている。老若男女、年齢層も様々で、やはり筑波山は人気があるようだ。

 眺めてみればその名の通りの大仏石。大きな岩と地面との間がトンネルのようになった弁慶七戻りなど、このコースは奇岩が色々とあり、変化に富んでいて面白い。大きな岩がゴロゴロした道を下るので膝が痛くなるが、低山ながらもなかなか手応えのある山である。私たちはその弁慶七戻りのすぐ先にちょっとした休憩場所を見つけ、昼食を取ることにした。真っ青な冬空と、いかにも神社の奥山の独特な雰囲気。木漏れ日を浴びながら、私たちは筑波山の持ち味を噛み締めていた。
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(その名の通りの大仏石)

 筑波山といえば、ずっと不思議に思っていたことが私にはあった。1864(元治元)年にここで尊皇攘夷の兵を挙げたという水戸天狗党のことである。

 元治元年というと、その前年には長州による攘夷決行、生野の乱、天誅組など尊攘派による激発事件が相次いだが、京都では「八月十八日の政変」で公武合体派の巻き返しを喰らい、尊王攘夷運動は早くも転機を迎えていた。明けて元治元年、水戸藩内で保守派と激しい対立を続けていた藤田小四郎ら尊攘派の急進グループ(人の意見を聞かず偉ぶっているので「天狗党」と呼ばれた)が藩を脱し、攘夷の実行を幕府に迫るとして3月27日(太陽暦では5月2日)に筑波山で挙兵に及んだ。当初は60数名でスタートしたものが、最盛期には1,400人にも膨れ上がったという。

 前年に京都で一敗地に塗れた尊攘派の長州がこの年の7月に蛤御門の変を起こしたのも、この天狗党の挙兵に意を強くしたためだったそうだが、やがて幕府は天狗党への追討令を出し、那珂湊で幕府軍に敗れた天狗党は11月から京都に向けて西走を開始。頼みの綱は京都にいた水戸藩出身の一橋慶喜だったが、慶喜はむしろ自らその追討に向かう。12月17日、天狗党は敦賀で遂に投降し、800人超が捕らえられ、その内の352人が処刑されたという。

 その天狗党が挙兵の場所に筑波山を選んだのはなぜなのだろう。確かに現代のように公共の広場などはない時代のことだから、多くの人数が集まれる場所といえば寺社の境内ぐらいだった筈だ(一揆の集合場所も大抵はそうだった)。だがそれにしても、筑波山頂とは言わないまでも筑波山神社だって標高は二百数十メートルあり、麓の平地からはそれなりに坂道を登り続けなければならない。それなのに、挙兵の地としてなぜここを選んだのだろう。

 昼食の時にそんなことを考えながら、もう一度山の中を見渡してみると、広い関東平野の中で突如として隆起したこの山の中には、何か独特の雰囲気があり、山全体が神社の境内であることにも、自然と頷けるものがある。まして、この山に祀られているのはこの国の開祖であるイザナギ・イザナミの二神だ。そうだとすると、この山で挙兵に及んだ天狗党の志士たちには、筑波山の神威にあやかりたいという思いがあったのではないだろうか。
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(天狗党を描いた『武田耕雲斎筑波山之図』)

 私たちが昼食を楽しんだ場所から筑波山神社までは、距離にして2kmほどの下りなので、歩き始めれば直ぐに着いてしまう。実際にこの日の私たちは、上りこそコースタイムとほぼ同じだったのだが、下りはかなり快調で、13時前、つまり予定より30分ほど早く降りて来てしまった。山道が終わった所でふり返ると、鳥居の彼方に男体山のピークが見えている。ケーブルカーやロープウェイがある山とは思えないほど、その佇まいが厳かだ。やはり神様の山なのだろう。
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 行けそうで行けなかった筑波山。やっとその機会を作ることが出来た。そして実際に自分の足で歩いてみて、やはり行ってみて良かったと思っている。同行してくれた同期生たちにはただただ感謝である。

 おそらくこれが、年内最後の山歩きになることだろう。来年もまた、元気に山へ出かけたいものだ。

変わらずにいること [自分史]


 1972(昭和47)年3月5日というと、今から44年と9ヶ月も昔のことになる。それは穏やかによく晴れた日曜日だった。

 当時の天気図をネット上で調べてみると、この日は冬型の気圧配置が緩み、中国の江南地方に中心を持つ移動性高気圧から東に気圧の尾根が延びていて、日本列島では等圧線の間隔が広くなっている。暦の上ではちょうど啓蟄にあたる日だったのだが、まさにその名の通りの天気となった。
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(1972年3月5日午前9時の天気図)

 その日、あと三週間足らずで中学校を卒業という年頃だった私は、級友のI君と二人で信州の伊那谷を訪れていた。今、手元にあるその年の国鉄時刻表を見る限り、当時の私たちは前夜の23時45分に新宿を出る急行アルプス11号に乗ったはずである。遠出をするなら夜行列車に乗るのが当たり前の時代。中学生の二人が車内でどれほど眠れたのかはともかく、列車は午前4時33分に伊那谷への入口にあたる辰野に到着し、そこで直ぐに接続する飯田線の普通列車に乗り換えて、朝の5時半過ぎに田切という小さな駅に降り立った。

 鉄道少年であった私たち二人の目的は、飯田線を走る旧型国電の写真を撮りに行くことだった。当時、東京や大阪では国電といえば101系や103系が全盛の時代だったが、それらに取って代わられたお古の電車(戦前型或いは戦後改良型の電車)が御殿場線や身延線、飯田線、大糸線などで余生を過ごしていた。昭和46年に蒸気機関車が国鉄全線から姿を消した後、鉄道マニアの間で希少価値があったのは、こうしたオールドタイマーの電車だったのだ。

 早朝の田切駅。そこで降りたのはもちろん私たちだけだった。鉄道と並行する道路を北方向に歩き、与田切川に架かる橋の手前で河原に降りると、飯田線の鉄橋の背後に雪を抱いた中央アルプスの山々が聳えている。そこには朝日が当たっているが、鉄橋はまだ日陰の中だ。そこへ上り列車がやって来た。横須賀線と同じ「スカ色」と呼ばれるツートンカラーが施された旧型国電。先頭はクモハ54形だ。
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(1972年3月5日撮影)

 私たちがカメラを構えていた河原から眺める飯田線の線路。この区間は「田切のオメガカーブ」として鉄道ファンには知られていた。赤い鉄橋と中央アルプスという組み合わせが絵になることに加えて、大きなカーブで列車が減速するために写真が撮りやすかったのである。
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(赤丸部分が「田切のオメガカーブ」。背後は中央アルプス)

 やがてディーゼル急行「こまがね」がやって来る頃には、伊那谷の中にも朝の光が当たり始めた。中央アルプスの空木岳(うつぎだけ、2864m)や南駒ケ岳(2841m)の白いピークが眩しい。
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 東京からはるばる飯田線へやって来た私たちの一番のお目当ては、「流電」と呼ばれた52系電車だった。戦前の一時期に世界的な流行を見せた流線型スタイルの電車で、全盛期は京阪神地区を中心に活躍していたものだ。先頭車のスタイルが実に優美で、古き良き時代を感じさせる。当時の私たちが中学生ながらこのようにレトロな物に魅力を感じていたのは、なぜなのだろう。
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 東海道本線の豊橋と中央本線の辰野を結ぶ飯田線は、明治時代の後半から昭和の初期にかけて建設された路線で、四つの私鉄(南から順に豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気軌道(後に伊那電気鉄道))から成っていたものが昭和18年に戦時国有化されたものだ。

 こういう風に私鉄の、それも最初から電気鉄道としてスタートした路線であったことから、地方路線であるわりには駅の数が多い。そして天竜川の渓谷が最も険しくなる天竜峡以南の地域では、その昔は並行する道路の事情が極めて悪かったこともあり、荷物や郵便を運ぶ鉄道車両が活躍していた。更には、私鉄時代の電気機関車が戦時国有化後も国有鉄道の車両として車両番号を割り振られ、戦後も活躍を続けていたのだ。それやこれやで飯田線の姿には何かと特色があり、ここでしか見られない鉄道車両も多かったのである。
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(単行運転の荷物車 クモニ83の100番代)

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(伊那電気鉄道から国鉄に引き継がれた電気機関車ED26)

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(まるで鉄道模型のジオラマのような貨物列車)

 中央本線の岡谷・塩尻間は、私たちが飯田線を訪れた11年後の1983(昭和58)年に塩嶺トンネルを抜ける短縮ルートが開通したために、岡谷から辰野を回って塩尻へ行く旧ルートは支線の位置付けになり、列車の運行本数も格段に少なくなった。その影響もあってか、飯田線北部の列車ダイヤは、今では平日の朝夕を除いて一時間に一本だが、私たちが訪れた頃には、日中にも一時間に少なくとも二本の電車が上下それぞれに走っていたから、電車の撮影にも退屈することはなかった。というよりも、あまりにも良い天気なので、列車を待つ間は中央アルプスと南アルプスの山々を、それらが何という名前の山なのかは知らないながらも、私は飽きずに眺めていたのである。
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(踏切の向こうにも高い山が見えていた)

 その中でも特に、東の方角に遠く高く聳えていた白銀の峰に強い印象を受けた私は、そのピークに向けてカメラを構えていた。南アルプスは伊那谷から眺めると朝のうちは逆光になるのだが、日が回ると次第に山が立体的に見えてくる。それにしても、望遠レンズを通して一眼レフのファインダーに写し出されたその山は、実に堂々たる姿だった。
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 その時にこの山の写真を撮ったことを、私はその後すっかり忘れていた。旧型国電の写真を撮ることが旅の目的だったのだから無理もない。そして飯田線を訪れた翌月の1972(昭和47)年4月、私は高校生になり、クラブ活動には山岳部を選ぶことになった。

 高校山岳部ながら積雪期にもしっかりと合宿を張る伝統があり、その年の暮には北八ヶ岳へ。そして翌年3月の春休み期間中にはピッケルを構えて南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)に登頂することになった。もちろん雪はまだたっぷりある時期で、3千メートル級の山だから吹雪けば厳しい。だがベースキャンプから頂上アタックを試みた日は幸いにして穏やかな天候に恵まれ、私たちは無事に登頂を果たすことが出来た。それは、今もなお鮮明な記憶として残る、高校一年生の私にとっては宝物のような体験であった。

 それから何年も時が過ぎた或る日、飯田線で撮影した写真を綴じたアルバムを再び手にした時、私は思わず声を上げた。数々の電車の写真と共に収められていた山の写真は、何とその仙丈ヶ岳だったのだ。

 あの時の私は、それが仙丈ヶ岳という名前の山であることも、ちょうど1年後には自分がその頂上に立つことになることも何も知らぬまま、ただその姿に惹かれてカメラを向けていたのだった。それは何かの巡り合わせというよりも、最初からそういう運命だったのだと考えるより他はない。

 今年の夏、或る鉄道模型のメーカーから新発売となったNゲージの車両を、インターネット経由で私は購入した。それは44年前のあの時に飯田線で出会った、クモハ54形を含む二両編成の旧型国電である。あれから長い年月が流れたが、飯田線を走る旧型国電に心を躍らせ、そして背後に聳える白銀の山々を見つめていた私の本質的なところは、還暦を迎えた今も殆ど変わっていないのではないかと、自分でも思う。
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 昨日の12月3日(土)、私が幹事になって、中学のクラス会を久しぶりに開いた。今年の4月から来年3月までの間、皆がそれぞれに還暦を迎える記念の年である。男女合わせて41名の同級生。残念ながら既に二人の物故者が出ているが、残る39名の内21名が集まってくれた。海外や地方在住者が何人かいることを考えれば、よく集まってくれたといっていいだろう。

 あの時に一緒に飯田線まで出かけたI君もその一人だ。彼は今も健康そのもので、得意なテニスやゴルフを熱心に続けている。私も山登りを何とか続けていて、それだけでもお互いに幸せなことである。加えてこの日は、中学卒業以来の再会という同級生も参加してくれたりして、夜遅くまで賑やかなことになった。

 みんな同級生だから、人生の時間軸をお互いに平行移動している訳で、その点では還暦になった今も、「あいつはちっとも変わってないなあ」と思うことが多い。その「変わっていない」部分をそれぞれに大切にしながら、同級生たちとはこれからも、お互いに元気を貰い合う関係を続けて行きたいと思う。

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 ♪ 大事なのは 変わってくこと 変わらずにいること ♪

 そういえば、こんな歌があったな。

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