SSブログ

目眩(めまい) [自分史]


 こういうタイトルで書き始めるが、往年のヒッチコック映画の話ではない。

 5月10日(火)、連休明けでビジネスも本格的に再開し、私は週初から職場で慌しく過ごしていた。

 この日は長い会議で日中の時間を取られ、夕方に自席に戻ると、その日の内に処理しなければならない仕事が待っている。それらをやっつけて会社を出たのは、夜の9時に近かった。

 いつものようにターミナル駅で降りて電車を乗り換える。その時、何だか体の動きが微妙にフワフワする不思議な感覚が私にはあった。電車が揺れた時に無意識に体のバランスを立て直す、その反応がいつもよりも半テンポ遅れている感じがするのだ。家に着くまで、その奇妙な感覚は僅かながらも続いていた。

 10時前に自宅で遅い夕食を始める。やっとありついた一本の缶ビールにも、いつものような旨さがない。食事は短時間で終わり、ベッドで夕刊に目を通しながら、私は11時過ぎには眠りに落ちていた筈である。

 一度目が覚めたのは、日付がかわった11日(水)の午前0時半頃だった。トイレに行くために起き上がろうとした次の瞬間、自分の体にただならぬ異変が生じていたことに気がついた。目に見えるもの全てが回り続けている。壁かけの時計を見つめようとしても視点がそこで止まらず、すぐにグルグルと回り出してしまうのだ。そんな状態だから、自分の足だけで立ち上がることが全く出来ない。こんな事態は生涯経験したことがなかった。

 家具につかまり、壁を支えにしながら、何とかトイレには行けたが、寝室に戻って血圧を測ると上が190に近く、上半身は冷汗だらけだ。私は何とかもう一度起き上がり、リビングルームのソファーでうたた寝をしていた家内を揺り起こして事態を告げた。このまま寝ていて直るものとは到底思えず、直ぐに医師の診察を受けたいが、激しく目が回って自力歩行も困難なこの状況では、マンションの下へ降りることすら出来そうにない。やむを得ず救急車を呼んでもらうことにした。

 家内は直ぐに息子と娘を起こし、救急車の手配と病院に同行するための支度を始めた。当の私は着替えを手伝ってもらう間も目が回り続け、嘔吐感が突き上げてくる。一人ではどうすることも出来なかった。私の所に集まってくる家族たち。このような急病に陥ったことなど今までは一度もなかったから、皆が驚きと共に大きな不安に襲われたことだろう。心配をかけてしまい、申し訳ない。だが、その時の私はその「申し訳ない」という言葉を発することすら、やっとの状態だった。

 午前1時過ぎ、マンションの外で救急車のサイレン音が近づく。息子が階下まで降りていたので、程なく3名ほどの救急隊員が家の中へと入って来てくれた(私はそんな状態だったので正確な人数はわからない)。現在の症状について簡単なやり取りをした後、折り畳むと車椅子になるストレッチャーに乗せられ、エレベーターで階下へ。そしてそこで再びストレッチャーを伸ばし、そのまま救急車の中へと運ばれた。

ambulance.jpg

 私の体に起きたこのような症状に対しては、脳外科と耳鼻咽喉科の両方を備えた医療機関に診てもらった方が良いとのことで、救急隊員は車の中から搬送先の候補に一つ一つ電話であたっている。

 「患者さんは○○区在住、60才の男性、・・・」

 先月の終わりに還暦を迎えたばかりで、まだその実感がない私は、救急隊員の声を聞いて初めて、そうか、それは自分のことなんだと気がついた。

 電話をかけ始めてから3箇所目ぐらいで搬送先が決まり、救急車が走り出した。行き先は新宿区内の国立の大きな医療機関。つい先週も自宅からジョギングをしていてその前を通ったので、その大きくて新しい建物の姿は知っている。系譜をたどれば明治の初年の陸軍本病院にまで遡り、今は特定感染症指定医療機関の一つにもなっている機関である。

 救急車には家内と息子が同乗。目眩が続くので目を閉じたままの私に、今どこを走っているかを家内が説明してくれる。搬送先のあたりは以前の会社で長く住んでいた社宅から近く、家内にも私にも土地勘はあり過ぎるほどだ。娘が通っていた中学・高校からも極めて近い。よりによって、今回新たにこんなご縁が出来ることになるとは・・・。

a hospital.jpg

 おそらく午前1時半少し前だったと思うが、ともかくも病院に到着。応急処置を受ける場所で点滴を繋がれ、症状の確認が行われた。2時頃にはCT検査が始まり、その結果に異常がなかったことを直ぐに告げられる。点滴のおかげなのか、救急車に乗った頃に比べて嘔吐感は幾分和らいでいるが、目が回っている状態はあまり変わらない。スタッフの手を借りながら立ち上がっても、依然として自力では歩けない状態だ。

 私が応急処置を受けている場所には、私と同じような救急患者が入れ替わり立ち代わり運ばれて来る。周囲から聞こえて来る声から推測する限りでは、交通事故や急性アルコール中毒、或いは歩行中に昏倒してしまった人など様々だ。そんな患者たちに対して、こんな真夜中にも係わらず数多くの医療スタッフが一つ一つ丁寧に対応している。頭の下がることだ。(担ぎ込まれた人の中には、こうした施設で手当てを受けているにもかかわらず随分とわがままを言う人もいたようだが。)

 午前4時、MRIの準備が出来たとの知らせがあり、ストレッチャーでMRI室へ。その結果にも異常は見つからなかったので、脳外科的な心配はないとの判断になり、家内と息子が待機していた待合室へと運ばれ、この病院での耳鼻咽喉科の受診を薦められた。

 時刻は午前5時半に近い。今の時期ならもう明るくなっている時刻だが、病院の中からは外の様子もわからない。勤めのある息子はこれから帰宅、家内は病院に残って朝8時半からの診察開始を私と一緒に待つことを決める。家で留守番をしていた娘に家内が電話し、息子の朝食の用意を依頼。私のために家族は3人とも一睡もしていない。本当にすまないことをした。

a hospital 2.jpg

 診療受付ロビーのソファーで仮眠を取っている間に、家内が予約外受付の手続きを済ませてくれた。耳鼻咽喉科で私の診察が始まったのは午前9時頃だっただろうか。受診の時もまだ目は回っている。その様子を観察し、別室での聴力検査で難聴の症状が出ていないことを確認した医師から、私の病は「前庭神経炎」と診断された。

前庭神経炎

 片側内耳の前庭器官が急激に障害され、突発的にめまいが起きる病気です。

 原因は不明ですが、めまいが起こる前に、かぜのような症状があることが比較的多いので、ウィルスなどの感染が原因として考えられています。

 激しい回転性のめまいが急に起こり、普通それが数日~1週間程度続きます。めまいには吐き気や冷汗を伴いますが、難聴や耳鳴りなどの聴覚の症状を伴わないのが特徴です。

 めまいはその後、少しずつ軽くなっていきますが、発症から1週間程度は歩行に困難を感じます。めまいは発症から3週間くらいでほぼおさまりますが、体を動かした時や歩く時のふらつきは、しばらく持続するのが一般的です。時には6ヶ月ぐらいたってもふらつきが持続することがあります。

 (中略) 安静と薬による治療が主体になります。早期に治療すれば、一度障害を受けた前庭機能が回復することがあります。このような時には、比較的早くめまいが軽くなります。しかし、早期の治療にもかかわらず、症状がだらだらと尾を引くことがあります。このような時は、その状態に早く慣れるためにも、めまいに対するリハビリテーションが必要になります。
(goo ヘルスケア)

 「回転性のめまい」とは言い得て妙で、まさにその通り。遊園地によくある乗り物、「コーヒー・カップ」に乗ったような状態なのだ。

 診察が終わり、内服薬の処方を受けて、タクシーで家内と共に帰宅したのは午前11時前。しばらくして軽い昼食をとり、処方された薬を飲むと、私は早々に眠り込んでしまった。寝ずに一晩を過ごした家内も同様であったようだ。そして、夕方近くに目が覚めると、内服薬のおかげで目眩は治まっており、視点が定まるようになっていた。これなら新聞も読めるし、スマホの画面を見ることも出来る。私は早速LINEで息子と娘にメッセージを送り、ここまでの顛末を知らせた。二人からは直ぐに返事があり、いずれもホッとした様子が目に見えるような文面だった。

family-01.jpg

 そんな訳でその日は会社を休んでしまったが、翌朝からはいつも通りに出勤。こんなことが起きた直後だから仕事は軽めに、と行きたいところだったが、株主総会前とあってはそうもいかない。会社にいる時間も結局はいつもとあまり変わりがなかった。

 週末は念のため激しい運動を避け、ウォーキング程度で済ませた。アルコールの摂取は一週間ご法度。その分、いつもよりは健康的に過ごせたのかもしれない。本当は日曜日に体を動かす約束があったのだが、それにも不義理をすることになってしまった。

 発症からちょうど一週間が経過した5月18日(水)の朝、同じ病院で再び診察を受ける。幸いにして、あの時以来目眩の症状はぶり返していない。

 医師からは、「これぐらい回復が早いとなると、前庭神経炎というよりは、メニエール病の初期症状と考えた方がいいかもしれない。」とのコメント。そうだとすると、今後二度と症状が現れない人は全体の1/3ぐらいで、残りは将来的に何らかの症状が再び現れ、その重さの程度は人により異なるのだそうだ。急に症状が現れた時のために頓服薬を3回分だけ処方してもらったが、これから遠出をする際などには忘れずに携行する必要があるのだろう。

 そうは言いつつも、娑婆に戻ればともかくも目の前の現実に対応せざるを得ない。この日の夕方は、社長と二人で早速取引先との接待の場に向かうことになった。飲んだ酒の量は推して知るべし、と書いておこう。

 還暦を迎えた途端に経験した突発性の、それも原因がよくわかっていない病。そういうことへの備えを、これからはもっと考えて行かなければならないということなのかもしれない。突然のことで家族には心配をかけてしまったが、いい勉強をさせてもらったと考えるようにしたい。

 次の週末は家族への罪滅ぼしに、何をしようか。

台地の縁を歩く (その2) [散歩]


 東京の都心にある小石川、小日向、関口の各台地。神田川の流れに寄り添うようにして、それらの台地と低地とを結ぶ坂道の数々を訪ねる休日のウォーキングも、後半に入った。雑司ヶ谷の鬼子母神で一休みした後は、更に西を目指そう。
slopes-03.jpg

 鬼子母神から高田一丁目交差点まで戻り、目白通りを渡ると、このあたりにしては緩い下り坂が反対側に続く。それをゆっくり下っていくと、慈眼寺金乗院という真言宗の寺があった。そして、この緩い坂道が宿坂(しゅくざか)と呼ばれ、中世の鎌倉街道に設けられた「宿坂の関」からその名がつけられたと、寺の前の標識に書かれている。

 しかもこの寺は、慈眼寺金乗院という名前よりも、目白という地名のオリジンになった目白不動尊が置かれていることの方が有名であるようだ。弘法大師自らの作になるという不動明王像が、江戸時代にこの近くに再興された寺の本尊となり、徳川家光によって江戸の五色不動の一つ、目白不動の名を贈られたが、その寺は太平洋戦争時の空襲で廃寺に。だがその本尊はこの金乗院に移され、現代の目白不動尊として信仰の対象になったという。

 そのご本尊が祀られた不動堂の横の階段を上っていくと墓地があり、その最奥に「丸橋忠弥の墓」の標識が。
slopes-125.jpg
(⑫宿坂の慈眼寺金乗院にある丸橋忠弥の墓)

 丸橋忠弥!江戸時代初期の慶安4(1651)年、幕府の転覆を図った「慶安の変」において、由比正雪と共に首謀者となった人物である。この陰謀は事前に露見し、丸橋は捕縛され鈴ヶ森で磔刑に処せられた筈だが、低地を見下ろす関口台地の中腹に彼の墓があったとは。

 目白不動尊から再び目白通りに戻って西方向に向かうと、目白通りが明治通りをオーバーパスする千登世橋へとやって来る。橋の下の明治通りは切通しで台地を横断するような形になっていて、橋の向こうは目白台地である。

 明治時代に作成された地図にはこんな切通しはなく、現在の関口台地と目白台地が一体となった丘が続いている。要するにこの切通しは、「明治通り」といいながら昭和2年の都市計画に基づいて東京初の環状道路が建設された時に出来た人工の地形なのである。
slopes-132.jpg
(明治42年の地図。明治通りの切通しも千登世橋もまだ無い)

 この橋の東端に立つと、関口台地の崖に沿って都電荒川線が勾配を上って来る様子を見下ろすことができる。目白通りと明治通りの高度差もなかなかのものだ。
slopes-13.jpg
(⑬千登世橋から見下ろす都電荒川線)

 さて、目白通りを少しだけ戻って最初の右の路地に入ろう。そこに待っているのはクルマの対面通行が出来る長くて急な下り坂だ。あたりに坂の名前の標識はないが、これがのぞき坂と呼ばれる、クルマが通れる道路では東京23区内で最も急な坂の一つなのだ。その名の通り、昔の人はこの坂の上から恐る恐る下をのぞき込んだのだろうか。
slopes-14.jpg
(⑭-1 のぞき坂を見下ろす)

 今日の私はこの坂を下っているが、これを上る人は難儀なことだろう。スマホの高度計アプリを使って計測してみたら、坂の上と下では16mほどの高度差があった。この坂道体験は本日の台地巡りのハイライト部分であるかもしれない。
slopes-15.jpg
(⑭-2 のぞき坂を下から見上げる)

 のぞき坂を下り切って路地を右に曲がると、程なく都電荒川線の学習院下駅に出て、その直ぐ先の横断歩道で明治通りを渡る。そこからしばらくの間は、目白台地の南斜面に延々と続く学習院大学の敷地を眺めながら歩くことになる。

 やがて山手線の築堤に設けられたトンネルを潜り、山手線の外側へ。右手には高台が続いており、案外と緑が多い。そしてその緑が一段と濃くなった所が新宿区立のおとめ山公園である。ここが山手線のすぐ外側?と思うような坂道の景色だ。

slopes-16.jpg
(⑮-1 おとめ山公園を左に見る坂道)
slopes-17.jpg
(⑮-2 緑深い公園の中)

 江戸時代にこのあたりは徳川将軍家の狩猟地で、一般人の立ち入りが禁じられ、「御留山」または「御禁止山」と記されたそうだ。このおとめ山公園に入り込んでみると、中は落葉樹の緑が驚くほど深い。今もなお湧水があり、毎年7月にはホタルの鑑賞会が開かれることでも知られている。

 おとめ山公園の下をその敷地に沿って歩いていくと、それが終わった所の右手にもう一つ急な坂が現れる。相馬坂と呼ばれるもので、徳川家が所有していた御留山が明治になって近衛家と相馬家の手に渡ったことからその名がついたという。
slopes-18.jpg
(⑯相馬坂)

 相馬坂を過ぎてなおも道なりに200mほど進むと、右手に山門の立派な寺があった。東長谷寺薬王院という真言宗の寺で、その山門を潜って中に入ると、目白台地の上へと続く広い境内はよく手入れが行き届き、今の季節は実に鮮やかな緑に包まれている。奈良の長谷寺から譲り受けた牡丹が咲く寺としても知られている場所だ。
slopes-19.jpg
(⑰ 薬王院の山門)
slopes-20.jpg
slopes-202.jpg

 初めて訪れた薬王院の境内をしばし眺めた後は、歩いて来た道路に戻る。その道はすぐに左に曲がって新目白通りに出るので、歩道橋でそれを越えると西武新宿線の下落合駅が近い。

 三鷹の井の頭池から流れて来る神田川と、杉並の妙正寺池を水源とする妙正寺川。この二つが出会う場所がその名の通り「落合」だ。そして現在は水害を防ぐために妙正寺川がここで暗渠となり、山手線の内側で神田川と合流するようになっている。その暗渠の入口を、下落合駅のすぐ西側にある踏切から眺めることができる。
slopes-21.jpg
(⑱妙正寺川の暗渠の入口)

 そして、踏切を渡った先の道路を左へ歩いていくと、やがて神田川を渡り、高田馬場駅へと続く「さかえ通り商店街」へと入ることになる。私の学生時代、このあたりの飲み屋にはよくお世話になった懐かしい場所である。
slopes-22.jpg
(⑲神田川と「さかえ通り商店街」)

 東京メトロの後楽園駅から歩き始め、幾つかの台地の南側の縁をたどりながらここまで、距離にして8.4km。よく歩いた。都会の中といえども、自然の地形を体感しながらの散歩には色々な発見があって楽しいものだ。

 カシミール3Dの「スーパー地形セット」が描き出してくれる東京都心の地形の凸凹をPC上で眺めながら、次回の散歩のプランを立てることが当分続きそうである。

台地の縁を歩く (その1) [散歩]


 登山者用の地図ソフト、「カシミール3D」。山へ行く前の準備作業などのために私はよく利用しているのだが、昨年11月にリリースされた「スーパー地形セット」がスグレモノだ。

 国土交通省が作成し公開している「デジタル標高モデル(DEM)」を基に、全国各地の詳細な地形図をPC画面上に表示することができる。DEMは地上を5m四方のグリッドに分割し、各グリッドについて最小で10㎝単位の標高データを記載したものだ。航空機から地上をレーザー光でスキャンすることによって得られた標高データから、樹木や人工の構築物に関するものを取り除いて作成されているという。

 カシミール3DはそのDEMを使い、予め用意された色々なパターンの表示方法によって、地上の生の姿のレリーフ図を描いてくれる。しかも、そのレリーフ図を国土地理院の25000分の1の地図や空撮写真と重ね合わせて表示することもできるのだ。国内の全ての箇所についてこんな作業が自由にできるのだから、私たちは何と恵まれた環境にいることだろう。

 DEMがこのように詳細な標高データなので、山岳地帯だけでなく都市部でも建物の陰に隠れた地表の凹凸をレリーフにすることがカシミール3Dはできる。例えば東京の皇居の西側の地図を表示してみると以下のようになる。
relief map.jpg

 これは標高差を8倍に拡大して地形の凹凸を強調したものだが、東京の都心にも実に様々なアップダウンがあることが改めてわかる。確かに、クルマで通り過ぎるだけでは認識することが難しいが、自分の足で歩いてみると、東京の山手線の内側には坂が多いことを実感するものだ。このレリーフ図はそうした「足で歩いた実感」を再現してくれるものであるとも言える。

 良く晴れた5月3日(火)、連休の最中で東京の都心部は(一部の繁華街を除けば)ガランとしている。その感じを楽しむのが好きで、私は5月の連休中には遠出をしない。わざわざ渋滞に巻き込まれて遠くへ出かけるよりも、静かな都心を歩いて身近なことの再発見をする方を、どうしても選んでしまうのだ。

 予めカシミール3Dで調べたことを基に、今日は小石川、小日向、目白の各台地の南側の縁を歩き、神田川が台地を刻んで作り上げた地形の凹凸を自分の足で確かめてみることにしよう。

後楽園駅前 → 江戸川橋交差点

slopes-01.jpg

 東京メトロ丸ノ内線・後楽園駅の北側にある富坂下交差点。そこから西方向を眺めると、小石川台地の尾根を登るように春日通りが坂道を作っている。
slopes-04.jpg
(① 富坂下交差点から見た春日通り)

 駅の南側の都道を西方向へ進むと、その小石川台地の南斜面が続いていて、その縁に沿って造られた築堤の上を丸ノ内線が走っている。(ここから茗荷谷駅までは二ヶ所のトンネルを伴う地上区間である。)
slopes-05.jpg
(②後楽園駅付近の丸ノ内線の築堤)

 牛天神交差点で都道と別れて右への道を進むと、伝通院から降りてくる安藤坂を横切って、小石川台地の南の縁沿いになおも道が続く。巻石通り、或いは水道通りと呼ばれる道路で、かつての神田上水が流れていたルートを明治時代になって暗渠にしたものだ。

 そして小学校を過ぎると、右側に緑の多い一角が現れる。道路沿いには「徳川慶喜公屋敷跡」の碑。維新後は駿府に隠棲していた慶喜が明治34年以降はこの地に住み、そして終焉を迎えた場所で、現在は国際仏教学大学院大学の敷地となっている。キャンパスを左手に見ながら登っていく坂道は今井坂と呼ばれ、登りつめると、掘割の中を走る丸ノ内線を小さな橋で跨ぐことになる。
slopes-06.jpg
(③徳川慶喜公屋敷跡と今井坂)
slopes-062.jpg

 水道通りに戻り、西を目指そう。あたりは小日向地区に入る。確かに本来の地形は日当りの良さそうな南斜面だ。やがて右手に小日向神社へと上がっていく服部坂が現れる。上り一方通行の結構な傾斜の坂道で、左カーブで小日向神社の上へと登っていくと、江戸川橋方面を見下ろせる。
slopes-07.jpg
(④服部坂)

 水道通りを更に進むと、右手に現れるのは下り一方通行の大日坂。坂の途中に大日如来を祀る小さなお堂があることがネーミングの由来なのだが、これは小日向の南斜面を上がっていく長い坂である。
slopes-08.jpg
(⑤大日坂)

 ここまで来ると小日向台地は終わりに近く、道路の先方を横切る音羽通りが見えてくる。左に行けば江戸川橋の交差点だ。

江戸川橋交差点 → 雑司ヶ谷鬼子母神

slopes-02.jpg

 江戸川橋交差点の一つ北の信号で音羽通りを横断すると、首都高速の5号池袋線をくぐって丘を登っていく道がある。ここから先は関口台地が始まるのだが、それを上がっていくこの坂が目白坂だ。上りつめると左側の深い緑の中に椿山荘が現れる。言うまでもなく、明治の元勲・山形有朋の屋敷だった場所である。
slopes-09.jpg
(⑥目白坂を上る)

 椿山荘の前で目白通りに合流。カトリック東京カテドラル関口教会の特異な建物を右に見ながら目白通りを進み、左手に現れる最初の路地に入ると、200mほど先の右側に永青文庫がある。旧熊本藩主・細川家の屋敷跡だ。そして、その直ぐ先に鬱蒼とした緑の中を細い坂道が急傾斜で下っている。その名も胸突坂。あまりに急なので中央に手摺が設けられている。あたりはひっそりとした緑の中で、東京の山手線の内側とは思えないほどだ。
slopes-10.jpg
(⑦胸突坂)

 そして、平地と台地の境にあたる部分には神社がよくあると言われる通り、胸突坂を下りきると右側に「水神社」の社が見える。前を流れる神田川のもう少し下流方向(=江戸川橋方向)には、江戸時代に神田上水用の取水のために神田川の流れを堰き止める「大洗堰」が設けられ、水神社はその守護神を祀ったのだそうだ。更には、俳人・松尾芭蕉が一時期はこの場所の水管理に係わっていたというのも、何やら興味の湧く話である。
slopes-11.jpg
(水神社と大イチョウ)

 先ほどは目白坂を登ってせっかく関口台地の上まで来たのに、謎めいた胸突坂をつい下ってしまった。台地の上に戻るためには、またどこかの坂を上がらねばならない。水神社から神田川沿いの道を上流方向へと歩いていくと、道は直ぐに神田川を離れて住宅街の中へと続いている。300mほど歩くと右側に左クランク状の登り坂があり、それを登り返すことにしたのだが(豊坂というそうだ)、これがまた結構な傾斜である。

 この坂を登りきって再び関口台地の上に出た所が「日本女子大前」の交差点で、通りの向こう側にもこちら側にも日本女子大関連の施設がある。そして、目白通りを西方向へと進んでいくと、三差路の手前左側に小さな区立の公園があり、台地の下を眺めることができる。
slopes-12.jpg
(⑧台地の下の眺め)

 その直ぐ先の目白台二丁目交差点が区の境になっていて、そこから先は豊島区になるのだが、この信号を過ぎて最初の左の路地の先に、またしても急な坂があった。

 これはちょっと不思議な景色だ。一方通行ながら車が通る急な下り坂の途中で、三角形の民家の敷地を挟んで左に階段を下っていく細い坂道がもう一つある。右側は富士見坂、そして左側は日無坂と呼ばれ、日無坂はまさに文京区と豊島区の境界線を成している。途中まで降りてみたが、どちらも相当な急坂である。
slopes-122.jpg
(⑨日無坂と富士見坂)

 小石川、小日向、そして目白の各台地と低地とを結ぶ坂道に興味を惹かれて、ここまで歩いてきた。そろそろどこかで一休みしようか。

 目白通りを更に西方向に向かい、高田一丁目の信号を右に曲がると、鬼子母神への参道であった道路が始まる。都電荒川線の踏切を渡ると、背の高いケヤキの木が道なりに並び、いかにも寺社の参道らしい雰囲気だ。
slopes-123.jpg
(⑩鬼子母神の参道)

 そして、鬼子母神堂の境内のベンチで一休み。室町時代から続くこのパワースポットの中にいると、何だか時が止まったかのようだ。憲法記念日の今日は南風が強いがよく晴れている。ここまでせっせと歩いてきて、半袖・短パンという軽装ながら、それなりに汗をかいた。それだけに、鬼子母神の深い緑陰が、今は何ともありがたい。
slopes-124.jpg
(⑪鬼子母神堂)

(To be continued)


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。