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願いと祈り [自分史]


 10月9日(月)、三連休の最終日の東京は前日に続いて季節外れの夏日となった。私は午前中から既に二つの用事をこなし、今は家内と二人で四谷の駅前を目指して歩いている。地表付近の天候がどうであれ、太陽の動きはきっちりと暦通りだから、午後4時に近くなると早くもその光には赤みが差してきて、その限りではいかにも秋なのだが、歩いていると半袖でも汗ばむような陽気とのミスマッチが何だか不思議だ。

 JR四谷駅の麹町側に出ると、目の前が上智大学のキャンパスだ。その駅寄りの角地に建つカトリック麹町聖イグナチオ教会。かつては主聖堂のクラシックな姿がこの辺りの景観のシンボル的な存在だったのだが、老朽化により1997年に取り壊され、1999年に現在の楕円形の建物になった。それからもう18年も経つのだが、旧聖堂が姿を消して以降、四谷の駅前を通りかかったことがなかった訳ではないはずなのに、今の聖堂を改めて見つめてみるのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。
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 その楕円形の姿がどこか音楽ホールのような主聖堂を左に見ながら敷地の中を進むと、正面に植え込みの緑が豊かな低層の建物があり、二階のテラスのような場所から旧友のY君が手を振りながらこちらを見ている。私もそれに手を振って応え、家内と共に外階段から二階へと上がる。そして、久しぶりにY君と握手。「元気そうでよかった。」と彼は再会を喜んでくれた。Y君の奥様にもお目にかかり、建物の中へと案内される。そこは、マリア聖堂。丸屋根の部分に据えられた円形の大きなステンドグラスは、旧聖堂から引き継がれたものだそうだ。
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(写真は教会のHPから拝借)

 Y君は大学時代のゼミの同期生である。卒業後、就職も同じ業界で、お互いの結婚式にも呼び合った仲だ。それに会社では共に国際部門を長く経験したので、以後も何かと連絡を取り合って来て、海外でも会ったりしたものだった。その彼が私のブログを見て見舞いのメールをくれたのが今年の7月末のことだった。私が膵臓がんの手術を受けてからちょうど三ヶ月が経過した頃である。

 「驚きました。(中略)ブログでは出社されているようなので少し安心しましたが、この人生の困難に立ち向かわれているのを知り、まずは貴兄への神のご加護を強く祈っております。以前お話ししたように私はカトリック教徒です。」

 そんな風に書かれていて、以後も毎週日曜日に教会で私のために祈りを続けてくれているそうである。彼からメールを貰った時期はまだ私の体調が安定せず、大幅に痩せて体力もすっかり落ちてしまった頃だったから、心の底から私のことを心配してくれたY君の友情が、言葉の真の意味で身に染みる思いだった。

 Y君は中学・高校時代を神奈川県のカトリック系の学校で過ごしている。その後、留学や駐在勤務でメキシコ・スペインといった国々を経験しているから、カトリックという信仰が深く根付いた社会の在り方をつぶさに見て来たはずである。そんな彼が日本に帰って来た後、思うところあってカトリックの洗礼を受けたというのは、私から見れば不思議なことではないのだが、それは何も知らない門外漢にはそう見えるというだけのことで、実際に入信するということは彼の人生の上では大きな決断であったことだろう。

 8月以降もY君と何度かメールをやり取りする間に、彼はイエズス会司祭の英(はなふさ)隆一朗という神父さんの存在を教えてくれた。英氏は聖イグナチオ教会で精力的に活動し、日曜日毎のミサはもちろんのこと、週二回のキリスト教入門講座なども開いていて、非常に多忙な方であるようだ。その英神父がインターネット上に立ち上げた「福音 お休み処」というブログの冒頭には、こんな記載がある

 「主イエスは次のように仰せになりました。

 『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』(マタイ11章28節~29節)と。

 この聖句を読むたび、心がほっとします。現代社会の中で、重荷を負って、疲れ果てている方々がおられるのではないでしょうか。私自身も重荷に耐えきれなくなったり、疲れ果ててしまうことがたびたびです。しかしながら、イエスのもとで休み、イエスに学びながら、魂の安らぎを得て、また立ち上がる力をいただきます。

 このブログを通して、疲れた人や重荷を負っている人が主のもとで休みをとり、主から学び、また立ち上がって歩んでいく手助けをしたいと思っています。」 http://hanafusa-fukuin.com/

 このブログは彼が行った日曜日のミサの説教の音声ファイルやテキスト画面にもアクセス出来るようになっている。Y君にはこの英神父の講話を他の教会で聞く機会があり、「何か腹に自然に落ちる話をされる人」だと思ったそうだ。今の日本のカトリック教会において、こういう話が出来る神父さんは本当に少ないのだという。その英神父が祝日の10月9日(月)に「いやしのミサ」を聖イグナチオ教会で開くことになった。

 「このミサは、病気のいやしという特別な意向のためにささげられるミサです。ご自身が病気の方や、親族・友人のいやしを願われる方はどうぞご参加ください。いやしのミサの後に、個人的にいやしの祈りを祈る時間が設けられます。」

 Y君はこのお知らせを上記のブログで見つけ、わざわざ私に声をかけてくれたのだった。「貴兄の信条に反するかもしれませんが、祈りは呼びかけに結びつくかも知れません。彼は心に響くことを語れる人だと思います。」とも書かれていて、私自身の常日頃の考え方にも配慮をしてくれた上でのことだった。

 Y君ご夫妻に挟まれる形で私たち夫婦が聖堂内の椅子に着席。午後4時からミサは粛々と始まった。幾つかの讃美歌が歌われ、英神父が聖書の一節を読み上げ、一同が祈りを捧げる。そして信者の代表が聖書の朗読を行った後、いよいよ英神父の説教が始まった。

 病を得たということは、あなた個人にとっては苦しみではあるが、そのことによって逆に、病もなく日常を平穏に過ごすことの有難さに気づくことが出来る。そして、同じように病を得た人々の苦しみを理解することも出来る。それは神から与えられたあなたの役目なのだ。病を得た人はその治癒を願い、神に祈る。聖書の中でイエスは多くの病人をいやした後、「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。神が必ず救ってくださるという確信、神から力と恵みを与えられていると考える謙虚さ、病が治癒することへの希望、そして信仰。それらによって願いは真の祈りとなる・・・。

 ごく簡単に言ってしまえばそんな内容だったと記憶している。
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 今日、このミサに列席する機会を得るまで、正直言って私は願いや祈りというものをあまり深く考えたことがなかった。日本人だから多分に神道や仏教の考え方の影響を受けているのだろうが、それでも何かを神仏にお願いする・・・例えば浄土教のように、諸々の苦しみからの救済を求めてひたすら阿弥陀仏にすがる、というような考え方が好きではなかった。むしろ神道のようにこれからの自分の行動に誓いを立て、それを神様に見守っていただくと考えること、或いは禅宗のようにあらゆる執着を捨てて泰然と生きて行くことの方が、自分にはしっくりと来るものだった。神仏が万能であるとは信じておらず、それに頼ったりすがったりするのは人間として弱い考え方だとすら思っていたのだろう。

 今回、Y君は「いやしのミサ」に誘ってくれたことに加えて、英神父が書いた『祈りのはこぶね』という小さな本を私のために買っておいてくれた。100ページ足らずの分量で文章も極めて平易なので、一晩で読めてしまうものだが、英神父の当日の説教の内容とこの著書の内容とを合わせて復習してみると、今まで私が気づいていなかったことが明らかになった。それは、願いや祈りが本当に意味するところは何かということである。

 「願うことを嫌う人もいる、それは何か他力本願で、人間の努力を軽んじているように見えるからだ。
 本当の願う祈りは、他人任せや努力の放棄を意味していない。むしろ願う祈りには、懸命の努力が伴うものなのだ。例えば、病人がいやしを願っているとしよう。その病人がいやしを願いながら、薬も飲まず、医者の注意も聞かず、養生もしないなら、その人は本当に願っていると言えるだろうか。本当に願う祈りをしているならば、薬を飲み、養生して、自らの努力と実践を通して治ろうとするだろう。願う祈りとは他人任せにすることではなく、自分の全力を傾注して事に向かうことなのである。
 願う祈りは、自分の今の課題を示し、向かうべき具体的な方向を示してくれる。」

 『祈りのはこぶね』を読み始めると、早々にこんな記述が出て来る。参ったな、と私は思った。神仏などにはすがらないぞ、と思っている自分は、それではどんな努力をしているというのか。

① あなたの心の中に、どのような願いがありますか。願っていることを書き出してみてください。
② それがかなえられることをどれほど強く願っていますか。強く願っているものから順番に、番号をつけてみましょう。
③ そのためにどのような努力や実践をしているか、ふりかえってみてください。

 『祈りのはこぶね』の各章にはこんな設問も用意されていて、自分を客観的に見つめるためには、確かにそういう作業が必要なのだろうと考えさせられる。そして本書を更に読み進むと、祈りとは人々の願いや嘆きを具体化するものであり、今日がどんな一日であったかを思いおこすことであり、たとえそれが苦難に満ちたものであったとしても、願いに先立って感謝を捧げるチャンスであり、そして悔い改める機会でもあることが平易に説明されていく。
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 科学上の理屈だけから言えば、病気が治ることと願いや祈りとは直接の因果関係を持つ訳ではないのだろう。けれども、私が膵臓がんの手術を受け、今も定期的な経過観察に通っている病院では、現状を確認するための設問が20個ほど用意されていて、患者はタブレット端末を通じて回答を入力することになっているのだが、それらの設問の半分ぐらいはメンタルな事項に関するものである。今の体調が今の気分や人とのコミュニケーション、そして仕事への取組み姿勢などにどのような影響を与えているか、といったことを尋ねるものなのだ。

 「がん患者への最良の薬は、自分ががん患者であることを忘れることだ。」という指摘もあるぐらい、がん治療にはメンタルな部分のケアが重要なのだそうだが、考えてみれば、それは英神父が易しく説いてくれる願いや祈りにも繋がるものであるのかもしれない。

 既に述べたように、今までの私は願い事が叶うよう神仏にすがるという考え方を好まず、祈るということをあまりして来なかったように思う。願っていることが実現するよう自分が努力するのは当たり前のことだが、そこから先はなるようにしかならない訳で、それがどんな結果であっても泰然として受け止めるのが男のあるべき姿だと思っていた。

 自分の機嫌の良し悪しで人との接し方を変えたり、人に愚痴をこぼしたりするのは嫌いだったし、仮に何かの不幸に襲われた場合にも他人からの慰めは不要で、結局は自分自身で悲しみ・苦しみを呑み込み、乗り越えて行くしかないと思っていた。そして、その過程で溜まったストレスは、例えば親しい友人たちとの酒の席や、時に山歩きをすることで自分なりに発散していたつもりだった。

 けれども、自分がこうして病を得るという経験をしてみると、色々なことを独りで呑み込もうとするのではなく、逆にそれらを素直に吐き出してみることで自身を客観的に見つめることが出来るのではないか、ということを考えさせられたように思う。言い換えれば、粋がらず自分の弱さにもっと正直になれ、ということだろうか。そんな悩みや苦しみを素直に吐露すれば、自分の周りにはそれを一緒に聞いてくれる家族や友がいてくれる。そして、そうした悩みや苦しみのない日々の到来を願い、祈り、その実現に向けて努力を続ける時、私たちの背後には神の存在がある、と考えるのが信仰というものなのだろう。
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 最後の讃美歌が歌われ、「いやしのミサ」の一連の進行が終わったところで、個人的にいやしの祈りを行う場が設けられ、希望者が英神父の前に二列に並び始めた。車椅子に座った人、杖を突く人々など様々だ。実は、Y君は私が膵臓がんの手術を受けた身であることを事前に英神父にメールしてくれていて、神父は私のためにも祈りを捧げて下さるというので、Y君ご夫妻に導かれる形で私と家内もその列に加わることになった。

 やがて私の番が回って来たので、家内と二人で英神父に一礼。私は次のように話した。

 「私は今年の4月に膵臓がんの手術を受け、今も抗がん剤の服用による治療を受けています。この先、がんの再発・転移が起こるのかどうか、今はまだ何とも言えませんが、たとえ何が起ころうとも、自分の命の続く限りは精一杯生きようと思っています。」

 頷きながらそれを聞いていた神父は、その両手を私の頭に置き、暫くの間何事かを唱えていたが、最後にこのように語ってくれた。

 「あなたの今の考え方は、神が一番喜んでおられると思います。是非それを大切にしてください。」
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 マリア聖堂の中でのミサを体験した一時。私のために様々な心遣いをしてくれたY君ご夫妻に改めて感謝しつつ建物から出ると、5時半に近くなった外はもうすっかり夕暮れを迎えている。私たち4人はそれから四谷駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、暫くの間なごやかに語り合った。

 思えば大学を卒業してから既に36年。時には青臭い議論も含めて本当に色々なことを語り合って来たゼミの同期生同士。それがお互いにこの歳になり、夫婦一緒に今日こうしてこのような時を過ごしていることの不思議さと有難さ。人間、歳をとるということにも大切な意味があるものなのだ。熱いコーヒー以上に、Y君ご夫妻の温かいご厚意がはらわたに深く染みた。

 午後6時を過ぎ、四谷駅でY君ご夫妻とお別れをして、私たちは地下鉄のホームへと歩く。Y君のおかげで、私にとって神様の存在が少し身近になったかもしれない。ともかくも、余計な肩の力を抜いて病と向き合い、自分自身の弱さをもう一度見つめながら、今ある生をしっかりと生き抜いて行こう。

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続・川を眺めた日 [散歩]


 このところ、我家の週末の散歩は何やら隅田川に引き寄せられているかのようだ。

 三連休の中日の10月8日(日)、日本列島は移動性高気圧に覆われているが、その東の縁にあたる関東南部は、北東風が吹き込むので雲の多い天気だ。けれども時折雲間から陽が射すと、これがまた結構暑い。従って、それなりに風が吹いて涼しい場所を散歩道に選ぼうとすると、結局は川沿いを歩くことになる。

 家内と二人、正午を少し過ぎてから家を出る。都バスと電車を乗り継いで京成関屋駅で降り、外の大通りを南方向へと私たちは歩き始めた。今日はこの少し先から隅田川の左岸に出て水神大橋で川を渡り、浅草を目指して川の右岸を歩くことにしている。
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 日曜日で車の少ない大通りをしばらく歩き続け、荒川と隅田川を繋ぐ水路を短い橋で渡ると、右手に隅田川が見えて来る。ならば次の信号で道路を渡り、川の方へ歩いて行こうか。すると、その信号機の背後にカネボウ化粧品の建物があった。そうか、この先をあと700mほども歩けば東武鉄道の鐘ヶ淵駅だから、このあたりはまさにカネボウの発祥の地なのだ。
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 明治時代末期の地図を見ると、たしかにこの一帯は鐘ヶ淵紡績會社の広大な敷地で、隅田川沿いに工場が立ち並んでいたことがわかる。原材料や製品の搬送には水運を利用していたのだろうか。
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(星印が、現在のカネボウ化粧品のビルの位置)

 この地図の時代から95年後の2004年、多額の債務超過に陥って経営危機に瀕した旧カネボウ株式会社は、その主力事業である化粧品部門を切り離して産業再生機構の支援を仰ぎ、それは2006年に花王株式会社の100%子会社となった。先ほどのカネボウ化粧品のビルの左隣には花王のロゴを掲げた建物が並んでいて、鐘紡発祥の地の新しい景観を形成している。20世紀末の金融危機を経て大手銀行がメガバンクへと再編され、巨額の債務を抱えた数々の企業にどのような審判を下すのかが問われていたあの当時、カネボウの企業再生は大きな注目を集めた事案だったのだが、あれからもう10年以上の月日が経ったことになる。私も歳をとるわけだ・・・。

 さて、私たちは隅田川の土手に上がる。対岸もかつては工場の煙突が並ぶ一帯だったのだが、それらが移転した跡地の再開発が進み、今は学校や高層住宅が建てられると共に、川沿いの土地には緑地や遊歩道が綺麗に整備されている。
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 そして、隅田川の河口の方向を眺めると、シンプルで大きなアーチが印象的な橋が架かっている。平成元年に竣工した水神大橋だ。
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 昔の地図でこのあたりを探すと、鐘紡の工場群の南隣に水神森という記載が見える。現在の隅田川神社の前身にあたる「水神社」の鎮守の森だったのが、この水神森で、小高い場所にあったために、隅田川が増水した時にも水没することがなかったという。そして、伝説によれば、平家追討の兵を挙げた源頼朝が1180年にこの地を訪れ、水神の霊験を大いに感じたことから、そこに社殿を建てたのが始まりなのだそうだ。(もっとも、現在の隅田川神社はかつての水神社から100mほど南へ移動しているそうだが。)

 戦前に荒川放水路(=現在の荒川)が掘削される前はたびたび洪水を引き起こしていた隅田川。その水難から逃れるということについて、昔の人々には切実な思いがあったのだろう。そんな時代の名前を受け継いだ水神大橋を渡り、私たちは隅田川の右岸へと向かう。その橋を渡り切った所には、かつての隅田川の堤防の一部がモニュメントして残されていた。なるほど、こういう堤防が河口まで延々と続いていたのだから、かつての隅田川遊覧船からの両岸の眺めが殺風景だったのも無理はない。
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 緑地と遊歩道が整備された右岸をしばらく歩き続け、次の白髭橋が見えて来たあたりで、私たちは一休み。少し晴れて来て日差しが暑いが、川っぷちだから吹く風は心地よい。ススキの穂もすっかり大きくなって、隅田川沿いもそれなりの秋だ。
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 さて、白髭橋までやって来ると、その西詰に一本の石碑が立っていた。見れば「明治天皇行幸對鷗荘遺跡」とある。その奥に用意された説明書きのプレートによれば、話はこうだ。

 明治6年の10月、いわゆる征韓論を巡って明治新政府の閣議は真っ二つに割れていた。その過程で、征韓派の意見が通らない場合の辞任をちらつかせた西郷隆盛の言を怖れた太政官にして議長の三条実美が、朝鮮への特使の即時派遣を一旦は決めたのだが、逆に大久保利通、岩倉具視ら征韓反対派の参議が相次いで辞任。そんなあれこれによる過度のストレスから、三条公は高熱を発して人事不省に陥ってしまった。その三条さんが寝込んでいたのが、この場所にあった對鷗荘という屋敷で、事態を憂慮した明治帝が直々に見舞いに赴いたというのである。
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 三条さんが倒れたことによる「議長の空席」は、征韓反対派に巻き返しの時間を与えることになり、太政大臣代理に就任した岩倉が事態を仕切ったため、逆に西郷ら征韓派が下野することになった、この明治6年の政変。幕末期には長州の攘夷派に担がれ、「七卿落ち」も経験している三条さんは、この時点で36歳だった。この場面を描いた歴史物のテレビ番組などでは、オロオロして倒れてしまう三条さんはもっと年上のイメージなのだが、実際にはまだ壮年だったのだ。一方、この時に国の命運を賭けて激論を交わした西郷は45歳、大久保は43歳。公家にしては珍しく体を張って征韓派に立ち向かった岩倉は48歳。そして、三条さんを見舞った明治帝に至っては弱冠20歳だった。幕末維新は随分と若い人たちが時代を動かしたんだなあ・・・。

 プレートの説明書きを読みながらちょっとした感慨に囚われている私を見て、家内がクスクス笑っている。
 「こういう話が本当に好きなのねぇ。」
 まあ、いいじゃないの。男は大体そういうものなんだよ。
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(錦絵に描かれた、征韓論をめぐる閣議の紛糾。丸印の人物が三条実美)

 心地よい風に吹かれながら隅田川テラスを歩いていると、頻りに甘い香りが漂ってくる。季節は10月上旬。この時期は一年に一度、金木製が輝くような存在感を見せる時だ。この川沿いの遊歩道にもその木が幾つも植えられていて、自らの季節を謳歌していた。
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 言問橋のもう一つ下流に架かる桜橋に近くなると、対岸の東京スカイツリーもだいぶ大きく見えて来る。この隅田川テラスを歩く人の数も多くなって来た。
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 川沿いの散歩はここまでにして、丘に上がる。街中を暫く歩くと、小高い丘の上に寺院が一つ。江戸名所の一つだった待乳山聖天(まつちやましょうでん)である。
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 ご由緒によれば飛鳥時代の昔に地中から突然湧き出た霊山だそうで、この地が大規模な旱魃に見舞われた時に、十一面観音菩薩が大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に姿を変えて現れ、人々を苦しみから救ったとされる。大聖歓喜天とは、吉祥天とか弁財天、韋駄天などと同じ部類に属するインド発祥の神様で、仏教を守護し、衆生を迷いから救って願いを叶えさせてくれるものとして信仰されて来たという。仏教を守護することにどの程度重きが置かれていたのかはともかくとして、現実的な諸々のご利益を願って人々は参拝を重ねたようだ。かつてこのあたりは、吉原で遊ぶ人々を乗せて隅田川を遡る舟が上陸した地点だったから、何かと賑やかな界隈であったことだろう。
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(歌川広重が描いた待乳山)

 この待乳山聖天というのは別称で、寺としては本龍院という名の、浅草寺の子院の一つだそうだ。それならば、今日の散歩の最後に浅草寺にも寄ってみよう。と言いながら、私たちは浅草寺への道の途中で店に入り、抹茶のソフトクリームで一休み。昨今の浅草には本当に多くの外国人観光客が集まり、今日も観光バスが続々と到着しては、中国語やスペイン語の騒々しい一団を吐き出している。

 京成関屋駅を起点にした隅田川沿いの今日の散歩。スマホのアプリが計測したここまでの歩行距離は約6.5kmだった。4月の下旬に私が膵臓がんの手術を受けてから約5ヶ月半。転移を防ぐための抗がん剤を服用しつつ、体力の回復に努める過程の中にいるのだが、このところは体調も安定し、今日も何の問題もなく家内と二人で散歩を楽しむことが出来た。浅草寺の観音様にそのことを報告し、感謝の気持ちと共に頭を下げる。

 観音様を背にして本堂の階段を下りると、賑やかな境内には引き続き様々な言語が飛び交っていた。

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四つのチェロの響き [音楽]


 金曜日の夜遅くに帰宅すると、A4サイズのごく軽い封書のような荷物が宅配便で届けられていた。封を切ると、内容物は1枚の音楽CDだ。それは、私がインターネットでHMVのサイトから8月22日に注文を入れたものだった。

 私のお目当ての物はその時点ではHMVに在庫がなく、取り寄せになるので出荷まで二週間程度の日数が必要とのこと。今年の7月にフランスで発売されたばかりの新譜だが、もう品薄なのだろうか。その「二週間程度」が過ぎた9月7日にHMVからメールが来て、商品をまだ手配中なので出荷が遅れるとのこと。そして9月23日にもう一度メールの配信があり、依然として手配中ということだった。

 確かに音楽のジャンルや企画の内容からすると、それほど多数の売上があるとも思えないから、これは気長に待つしかないのかな。そう思ってゆったり構えていたところ、10月5日になって「商品を発送しました。」というメールが入り、翌6日の夜までに配達されたのである。たかだか2,000円ぐらいのCD1枚の注文にこたえるために一ヶ月半ほどの時間をかけて、欧州と日本との間でいったい何人の人たちが動いてくれたのだろう。ネット通販で便利な世の中になったとはいえ、何だか申し訳ないような気持ちになってしまう。

 遅い夕食を簡単に済ませ、夕刊にもざっと目を通した後、私はベッドサイドのCDプレーヤーに届いたばかりのディスクを入れて、音量を小さめに調整し、大の字に寝そべって目を瞑る。流れて来たチェロ四重奏の気品に満ちた優しい響きは、忙しかった今週のあれこれを頭の中からデリートするには十分だった。

 男女二人ずつのチェロ奏者によって構成される、フランスのポンティチェッリ四重奏団。私が選んだのは、彼らがJ.S.バッハ『オルガン小曲集』を4台のチェロで演奏するという、ちょっと風変わりなアルバムである。
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 偉大な作曲家である以前に偉大なオルガニストでもあったJ.S.バッハは、その65年の生涯のうちに約250のオルガン曲を作曲したという。その圧倒的な質と量はまさに「綺羅、星の如く」と形容すべきバッハのオルガン曲の作品群において、45曲の小品によって構成される『オルガン小曲集』は些か地味で目立たない存在ではあるが、時にじっくりと耳を傾けてみると、これがなかなか味わいのある作品なのだ。いずれも教会でコラール(ルター派の教会で会衆によって謳われる讃美歌)を歌う前の前奏曲として作られたものである。

 ベルリンのドイツ国立博物館へ行くと、このバッハの『オルガン小曲集』の原本が保存されているそうだ。縦15.5cm x 横19.0cmというから、B5(18.2cm x 25.7cm)よりもまだ一回り小さいサイズで、全184ページの冊子。その最初のページには次のようにバッハ自身の言葉が記載されているという。

 「オルガン小冊子。修行中のオルガニストにコラールを展開するあらゆる技法の手ほどきをすると共に、ここに収録されているコラールをペダルを完全にオブリガートで演奏する事によって、ペダルの使用に習熟する事を目的としている。至高の神にのみ栄光あれ、また隣人はこれによって教え導かれます様に。作者は現アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」

 バッハのこの肩書からすると、彼がケーテンという小さな町に居住していた1717~23年の間に書かれたことになるが、これら45曲のかなりの部分は、それ以前に彼がヴァイマールで宮廷礼拝堂のオルガニストを務めていた1708~17年の間に作曲されたそうだ。その当時は、この『オルガン小曲集』の前文に書かれているような教育目的ではなく、おそらくは自分の仕事のために書きためておいたものではなかっただろうか。更には、ずっと後の1740年代、彼のライプツィヒ時代にも一部の作品に手を加えていたというから、足掛け30年以上の期間にわたって編集された作品群なのである。

 私はキリスト教徒ではないし、キリスト教への一般的な知識も極めて浅いから、これは今までに読んだ本の受け売りでしかないのだが、それによるとクリスマスの四週前の日曜日から、教会暦と呼ばれる一年間のカレンダーがスタートするという。そこには各日曜日の行事や様々な祝日が定められていて、例えばルター派の教会では、それぞれの日の礼拝時に歌われるコラールの数が全部で51曲。その他の様々な機会に歌われるコラールが全部で113曲。合わせると164曲のコラールがあるそうだ。

 バッハはその全てにオルガンによる前奏曲を作ろうとして、必要な数のページを『オルガン小曲集』の中に用意し、音符を書き込む五線を引いていたという。だが実際に作曲されたのは、日曜・祝日の礼拝用のものが35曲、その他の機会に使われるものが10曲、計45曲であった。(BWV(バッハ作品番号)でいうと599~644の46曲なのだが、633と634(最愛なるイエスよ、われらここに)が同じ作品の新旧バージョンなので、一般には全45曲とされている。)
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 教会暦に従えば、クリスマス前の四週間は待降節(アーベント)と呼ばれ、クリスマスの準備をしてイエス・キリストの降誕を待つ期間である。それが始まるのが12月の最初の日曜日(待降節第一主日)だ。バッハの教会カンタータ第61番 『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』(Num Komm, der Heiden Heiland) BWV61 はこの日の礼拝のために作曲されたもので、『オルガン小曲集』の第1曲もこれと同じタイトルを持つオルガン用の短い前奏曲BWV599となっている。

 バッハが従事していた教会では、まずオルガンでこの曲を奏でた後に61番のカンタータが始まったのだろう。大いなる祝祭気分はクリスマスに取っておいて、ここでは人々を慎ましくも厳かな信仰の世界に導き入れる、そんな曲想の前奏曲になっている。まずはパイプオルガンの演奏で原曲を聴いてみよう。(Helmut Walchaの演奏によるもの)


 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(『マタイによる福音書』第24章37~44)

 さて、これに対してポンティチェッリ四重奏団の演奏はこんな風だ。

 教会の中の厳粛な雰囲気とは異なり、私たちにはもっと身近な、優しさと共に気品に溢れた音色。このアルバムは終始こうした味わいで、肩の力を抜いて聴くにはぴったりだ。HMVのサイトには「・・・これは癒されます。」と書かれていたが、今風に言えばそういうことなのだろう。そして、キリスト教の教義や教会行事に対する知識を抜きにして純粋に音楽として聴いてみても、更には当初の指定とは異なる楽器での演奏を試みても、バッハの作品の音楽性は少しも揺らぐことなく、むしろ驚くほどの包容力を見せる、そんなことを改めて認識させてくれるアルバムである。

 この『オルガン小曲集』の中で人気の高い第24曲、『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』(O Mensch, bewein dein Sünde gross) BWV622 は私も大好きなので、この記事にもポンティチェッリ四重奏団の演奏の一端を貼りつけておこう。受難節に歌われるコラールのための前奏曲なのだが、その安らかなメロディーが何とも魅力的で、私の命が尽きる時にはこんな音楽に包まれていたいと思うほどだ。

 そして、このBWV622と並んで愛好される作品が『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』(Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ) BWV639だ。以前にもこのブログに書いたことがあるが、1972年公開のソ連映画『惑星ソラリス』のテーマ曲として使われたことで一躍有名になった前奏曲である。深い悲嘆や悔い、或いは諦念を思わせる重厚なパイプオルガンの響きとは趣の異なる、エレガントにして高い精神性を保つチェロの響きの重なりは、目の前のことにばかり囚われている私たちの頭の中を解きほぐし、目を閉じて静かに呼吸を整えることの大切さを教えてくれている。

http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-08-30

 注文を入れてから一ヶ月半ほどを待ち続けた甲斐があった。聴き込んでいくとバッハの音楽がまた一つ好きになること必至のアルバムである。

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再会(開)の秋 [自分史]


 「膵臓がんとは穏やかじゃない、大事(おおごと)じゃないですか。ショックです。(中略)日本へ帰国したら、とにかくご連絡します。何としてもお会いしたい。」
 
 中学・高校時代の級友だったA君からそんなメールを貰ったのは、9月13日の早朝のことだった。

 A君はもう30年以上もカナダのトロントで暮らしていて、日本とカナダの文化交流を深める仕事を一貫して担ってきた。私が今、高校クラス会の幹事をしていて、11月に開く予定のクラス会関係のメールを彼にも送った時、海の向こうからのA君の参加はなかなか難しかろうからと、今年の4月以降に私の体について起きたこともそのメールを通して伝えておいた、それに対して反応してくれたのである。彼はたまたま親御さんの介護の関係で9月27日から一週間ほど東京に滞在する予定にしており、その間に是非会いたいとのことだった。

 A君も私も、区立の小学校から受験をして同じ中学に入り、高校でも同じクラスだったから、長い付き合いである。電車通学が始まった中学時代、彼は五反田から、私は渋谷からそれぞれ山手線に乗って学校へと通った。だから、帰り道に渋谷まで一緒になることが多かった。A君は最近、故石岡瑛子のポスターの展覧会をトロントで手掛けていて、往年の渋谷PARCOに関連した作品に囲まれているうちに、私たちが共に通学していた頃を思い出したようだ。「ハチ公口の方へ下車していく貴兄の学生服の後ろ姿が石岡ポスターと重なるような気がします。」とも書かれていた。

 昭和40年代の半ばというと、東京五輪大会に続く高度経済成長によって渋谷の街の様相が一変した時代である。建設の槌音は絶えず、朝の駅の混雑は殺人的。その一方でPARCOに象徴されるような新しい消費文化も芽生えていたが、それとは対照的に、駅のガード下ではまだ傷痍軍人がアコーデオンを奏でていた。そんな風に時代の光も影も共に鮮やかで、独特のゴチャゴチャ感の中から絶えずエネルギーを発散し続けていたのが渋谷という街だった。私たちはそんな時代に中学・高校時代を共に過ごしたのである。
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 高校に進んだ時、A君と私は山岳部に入部した。やはり中学で同級だったT君も入部したので、山岳部の私たちの代は中学の同級3人になった。普段は学校の中でのトレーニングや装備の点検と扱い方の習熟などが部活動の中心だが、年に6回ほどあった合宿では山の中にテントを張って暮らす訳だから、山岳部とは一つの生活共同体であり、運命共同体とも同義語のようなものだった。そして、前述のように私たちの代の同期は3人だけだったから、この3人が喧嘩をしてしまっては共同体そのものが成り立たない。私たち3人の間ではそれぞれが最も力を発揮する領域を自ずと棲み分けるようになり、「三本の矢」ではないが私たちなりにバランスを保ちながら、山での運命を共にしていたのだった。今から思うと、山の中という非日常を舞台にして実に貴重な体験をさせてもらったものである。

 今回、そのA君をいたく心配させてしまったのは私が送ったメールのせいなのだが、ともかくも来日中に是非会いたいと言ってくれているのだから、これは是非T君にも声をかけよう。社会に出てからは随分と長い間、T君も私も山からは遠ざかっていたが、8年ほど前から他の同級生たちにも声をかけて度々一緒に日帰りの山に出かけるようになり、年に1回ぐらいは泊まりでも山へ行っている。その繋がりから、中学同級のOさんも紅一点でA君との会にジョインしてもらうことになった。

 9月30日(土)の夕刻。表参道から少し路地裏に入ったところにある少々隠れ家的な居酒屋に席を取り、私たち4人は三々五々集まった。

 「やあ、どうもどうも。」
 「久しぶり!元気そうで何より。」
 「変わらないねー。」
 「今回は心配かけて申し訳ない。」

 顔を合わせた時に第一声として何と発すべきなのか、事前にはそれなりに悩んでいたものの、会ってしまえば、そこからはもう成り行きに任せるより他に自分をコントロールしようがない。というより、旧知の仲間の間では儀礼など最初から無用なのだ。中学を卒業して今年でちょうど45年になるのだが、そんな時空を一瞬のうちに飛び越えて、私たちは昔の教室の中の私たちに戻った。

 Oさんも含めて私たち四人は、当然のことながら卒業後はそれぞれに異なる道に進み、異なる分野で人生を過ごして来て、還暦を過ぎた今も幸いなことにそれぞれの仕事を続けている。だからこそ、同じ話題一つをとってみても思考のアプローチはそれぞれに異なるし、そこには各自が歩んできた人生が自ずと裏打ちされている。まるで一つの山を四つの異なるルートから登っているようで、ああ、なるほど、そういう見方もあるんだということを教えられて、何とも刺激的なのだ。そして、そんな風に自由闊達に意見を交わし、異なる考え方を認め合うリベラルさが、私たちの学校の校風でもあった。「昔の教室の中の私たちに戻った」というのは、基本的にそういう意味である。
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 思い出話の中心は、何といっても高校一年の秋合宿のことだった。1972(昭和47)年の10月10日前後のことだ。私たちの高校は二期制だったので、前期と後期の間に一週間程度の秋休みがあった。例年その時期に高校山岳部は縦走合宿を組んでいたのである。その年の計画は、南アルプスの3,000m級の山を三つ越えるという野心的なものだった。

 前夜に中央本線の最終の長野行き普通列車に乗って、甲府で下車。予約していたタクシーに分乗して南アルプスの玄関口・広河原に到着。そこのコンクリート製の東屋に寝袋を敷いて短い仮眠を取り、早朝から山を目指した。二年生の部員が多かったので、引率のOBも含めて私たちは総勢14名ほどのパーティーになっていた。
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(1972年10月 高校山岳部秋合宿のルート)

 初日は極めて順調。好天の中、広河原から白根御池を経て日本第二の高峰・北岳(3193m)に登り、更に進んで北岳山荘の前で幕営(当時は「北岳稜線小屋」という名前だったはずだ)。25kgほどの大荷物を抱えながら、初日にいきなり標高差1,500mのルートを登り切ってしまった。勿論、山の上からの眺めは申し分なかった。

 第二日、この日も終日好天。二つ目の高峰・間ノ岳(あいのたけ、3189m)を越え、三峰岳を経て新たな尾根へと入る。仙丈ヶ岳(3034m)と塩見岳(3047m)を結ぶ「仙塩尾根」と呼ばれるこのルートは実に山深く、南アルプス北部では最深部といっていいだろう。素晴らしい秋の紅葉と豪華な山の眺めの中を私たちは歩き続け、北荒川岳(2698m)を越えた南側の尾根上に幕営地を選んだ。今では幕営禁止になっているはずの場所だが、少し下ると水場があったのではないかと記憶している。尾根の西側は崩壊の激しい地形だった。

 異変が起きたのは三日目の朝だった。二年生の一人が寝袋の中から起き上がらない。高熱を発して意識がなくなっていたのだ。山に入る前、冷え込んだ広河原で仮眠を取った時に風邪を引いたのを、そのまま登山を続けたために風邪をこじらせて肺炎を起こしたようだった。よりによって、ここは南北いずれも3,000m級の山が立ちはだかっており、意識のない病人を下山させる術は私たちにはない。直ぐに救援を求めねばならなかった。

 私たちは三日目に予定していた行動を中止し、救援を求めるための二人一組のパーティー三つを編成。それぞれが直ぐに出発した。第1組は塩見岳を越えて塩見小屋へ。第2組は少し戻って新蛇抜山から大井川の源流へ下り、池ノ沢小屋へ。そして第3組は前日歩いてきたルートを戻って熊ノ平小屋へと走る。総勢14名の所帯だからこそ、こうした手分けが出来たのだ。そして、極めて幸いなことに同行のOBの一人が医大生で、病人にずっと付き添い、水に溶かした解熱剤を意識のない本人の口にスプーンで入れる等の処置をして下さった。

 私は二年生のMさんと第3組として熊ノ平小屋へ急いだ。この日も終日好天で、真っ青な秋空の下、燃えるような紅葉に包まれていたはずなのだが、事情が事情だけにそれを楽しんでいる余裕はなかった。それでも、これは後から知ったことなのだが、結果的にはこの熊ノ平小屋から無線で農鳥小屋を経由してメッセージを伝えてもらったことが、下界への第一報になったようだ。

 第1組と第3組はそれぞれ山小屋への連絡を済ませて幕営地に帰還。第2組は池ノ沢小屋からそのまま沢沿いの山道を二軒小屋まで下り、静岡へ出ることになっていた。その日の午後、静岡県警のヘリが私たちの幕営地を目指して飛んで来て着陸を試みたが、無理だったようで引き返して行った。その夜は二人ずつ二時間交代で看病。医大生の先輩は殆ど眠らずにおられたのではなかっただろうか。
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(北荒川岳幕営地付近の地形図。星印が幕営地の位置)

 第四日の早朝、東の方角からヘリの爆音が聞こえて来た。皆がテントを飛び出すと、農鳥岳から南へ延びる山の尾根を越えて、一機のヘリが一直線に私たちの上空をめがけてやって来ようとしていた。ハイマツを掻き分けて高い場所に上り、皆で大きく手を振ると、ヘリは明らかに私たちを視認していた。そして、轟音を立ててテントの近くに着陸。それは陸上自衛隊のヘリだった。何と、茨城県の土浦から飛んで来てくれたという。中から乗員が現れて、燃料が限られているので素早く行動するよう求められ、私たちは寝袋に包まれたままの患者を急いでヘリの真下に運ぶ。すると、それはテキパキとした手順で収容され、ヘリは静岡市内の病院を目指してあっという間に飛び去って行った。

 物事の展開のあまりの速さに、私たちはしばらくの間茫然としていたのかもしれない。だが、少なくとも病人の救助は何とか叶った。私たちは笑顔を取り戻し、テントを撤収して行動を再開。その幕営地からよく見えていた塩見岳のピークを越えて、三伏峠の小屋の前で幕営。入山から四日目のこの日も奇跡的に好天が続いていて、やっと景色を楽しむ余裕が持てた私たちは、塩見岳からの山の眺めを胸に刻んだ。
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(塩見岳山頂から、越えて来た山々をふり返る ー カシミール3Dにて再現)

 翌日の第5日はさすがに雨。だが、この日は三伏峠からの下山だけである。山道が終わってからの8kmの林道歩きは辛かったが、ともかくも東京に帰り着くことができた。ヘリで静岡市内の病院に収容された先輩は、そこでしばらく療養されており、日曜日に皆で静岡までお見舞いに行ったことをかすかに覚えている。世の中の多くの方々のお世話になってしまったが、ともかくも全員無事のハッピーエンドを迎えられたのは何よりだった。そしてこの出来事への反省から、高校山岳部では山へ持って行く医薬品リストや応急マニュアルを整備し、部費を集めてトランシーバーを購入することになったのだった。無論、合宿場所の選定にあたっても、緊急の際のエスケープ・ルートなどが常にチェックの対象になった。

 あの時に患者への応急処置と私たちが取るべき行動について、一貫して的確な判断を下された医学生の先輩は、その後は大学病院に勤められ、日本における救急医学の第一人者になられた。そして、あの時に発病された先輩は、そのことがきっかけになったのかどうか、自らも医学部に進まれ(しかもその大学では山岳部に所属されて)、神奈川県で今も医師として活躍を続けておられる。当時高校一年生だったA君・T君・私の三人にとっても、この秋合宿での体験が色々な意味で人生の「肥し」になったことは確かである。

 思い出話は尽きないが、時間には限りがある。私たちは表参道の居酒屋での会をお開きにして、渋谷駅までゆっくりと歩いた。そして、制服姿で通学していた当時とはまるっきり変わってしまった渋谷駅のハチ公口で、再会を期してハグを交わす。生きている限り、この友情は大切にして行きたい。
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(あの幕営地からずっと見えていた塩見岳)

 翌10月1日(日)の朝8時前、京王線高尾山口の駅前で5ヶ月ぶりに山仲間のH氏と再会。昨夜のA君との会でも一緒だったO女史を含めた三人での軽い山歩きにこれから出かける。

 この春に私が膵臓がんの手術を受けることを知らせて以来、H氏には何かにつけて気遣いをしていただき、入院中も色々と励まされたものだった。退院後も7月末頃まで私は体調が安定せず、そもそも運動はまだ制限されていたのだが、8月の後半から次第に食欲と体力が回復し、ちょっとしたジョギングが出来るようにもなっていた。無論、週末の山歩きも術後は封印したままだったのだが、リハビリを兼ねてそろそろ軽いコースならどうか、ということでH氏が約3時間の高尾山往復に誘ってくれたのである。今日は朝から秋晴れのいい天気だ。

 平坦な舗装道とは異なり、形状の複雑な山道を歩くにはちょっとしたコツが要る。高尾山なんて何ほどのことはないと思いがちだが、こうして久しぶりに山に入ってみると、高尾山の稲荷山コースはこんなに木の根が張った山道なのだということを改めて認識することになった。
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 リハビリ目的だから、息が上がらないよう、とにかくゆっくりと歩く。今まではすっ飛ばすように歩いていた山道も、こうして一歩一歩踏みしめるように歩いてみると、あたりから聞こえて来る秋の虫の音や木漏れ日に輝く緑が何とも愛おしい。
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 コースタイムよりも若干ゆっくり目の計画を立ててはみたが、自然体で歩いていると、コースタイムほども時間はかからない。8時に高尾山口を出て、稲荷山で長めの休憩を取りながらも、9時40分には高尾山頂の少し先にあるモミジ台に着いてしまった。計画上、今日はここまで。私としてはまだ腹五分にも満たない感じではあるが、ゆっくりゆっくりと活動の幅を広げていくのがリハビリの極意であるようなので、初回はこの程度にしておくべきなのだろう。今日はよく晴れて、丹沢連峰の眺めが爽やかだ。標高600m近辺の低山でも、それなりの秋が始まっていた。
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 お目当ての富士山だけは何となく雲の中である。それに、まだ冠雪が始まっていないので、見えていたとしても少し迫力に欠ける。次に来る時にはその頂上付近の雪を眺められるだろうか。
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 モミジ台のベンチでフルーツを食べながら展望を楽しんだ後、どこかの動物園のような賑わいの高尾山頂を経て下山路へ。木曜日に降った雨が日陰ではまだ十分乾いておらず、下りは滑りやすいので、予定していた琵琶滝コースはやめて、舗装された薬王院の参道を下る。コンクリートを踏みながらの下山は味気ないが、それでも今の私には両側の山の緑がありがたい。手術を受ける前も、今年に入ってからは忙しくてずっと山に行けてなかったから、山歩きは実に10ヶ月ぶりのことになる。その分だけ、自分には山の緑への飢餓感があったのだろう。年間3百万人が訪れる今や一大観光地の高尾山だが、目を向けてみればまだまだ緑は豊かだ。そんな緑に久しぶりに触れた半日。今日はH氏に感謝である。
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(混雑する高尾山頂にも、それなりの秋が。)

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 膵臓がんの手術を受けてから5ヶ月と一週間。今現在は(メニューは選ばざるを得ないものの)概ね人並みの量の食事が摂れるようになり、それなりに体力も回復して、会食や国内出張、そして今日のように軽く体を動かすイベントにも参加出来るようになった。この春以来会えなかった人々、出来なかったことに対して、この秋は私にとって「再会」、そして「再開」の時である。オーバーペースにならないよう、自分の体を客観的に見つめながら、人々や物事とのご縁を大切にして行こう。

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