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4ヶ月のブランク (2) [自分史]


(前回分は以下の通り。)
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-07-01

5月14日(日)
 久しぶりに都内の実家へ顔を出し、独り暮らしをしている母の様子を見る。今回の私の入院・手術の件は、実は母には話していない。心配させるだけで、母はどうすることも出来ないのだから。5月の連休の間は地方にある工場へ出張予定だと伝えていた(事実、入院をしなければその予定だった)ので、今回もその素振りを貫くことにした。幸い、母には気づかれずに済んだようだ。

5月15日(月)~26日(金)
 この週から会社勤務を再開。但し、当分の間は朝の混雑を避けて10時出社とさせてもらうことにした。手術からまだ1ヶ月も経っていないから、立ったり座ったりという動作もまだ恐々やっている感じがあるし、急ぎ足で歩くことはまだ出来ない。何よりも、机の上でのPC作業を久しぶりにやってみると、首や肩が直ぐに痛くなってしまう。そんな訳で、会社では我ながら生産性の低い二週間となってしまったが、それでも5月19日(金)に開催された会社の株主総会に何とか出席出来たのは幸いだった。

 食事はというと、まだ平常時の半分も食べられない。この手の手術を受けた場合には致し方ないのだが、膵臓の残り部分からの消化液の分泌が大きく減っているため、一回に沢山は食べられず、消化力が弱いから下痢を起こしやすい。消化に悪い食べ物も禁物だ。家内に小さな弁当を作ってもらい、それでも食べ切れずに残してしまう日々が続く。

5月29日(月)
 朝からA病院へ。実は前日から体調が悪くなっていた。

 前日の日曜日は朝10時から自宅マンションの管理組合の定期総会が開催され、私は副理事長の立場で2件の議案を説明。2期4年務めた理事の仕事も、この総会を以てやっと御役御免になる。だから気分さっぱりと過ごしたかったのだが、朝起きた時からずっと頭が重く、この定期総会の最中に発熱が始まっていた。総会が終わって昼過ぎに自宅に戻ると、熱は38.6℃に達していた。

 5月10日の退院時に、「38℃以上の発熱があった場合には直ぐ病院へ連絡してください。」と言われていたので、A病院へ電話。状況を話すと、明朝来院されたしとのこと。家内と二人、朝の超混雑した通勤電車で通院し、血液検査とCT検査を受ける。その結果、前回手術で膵臓を切除した部分に化膿が起きている由。術後1ヶ月と4日が過ぎているが、こういうタイミングで化膿が起きるのは珍しいことではないそうだ。これに対応するには化膿を止める抗生剤を点滴で投与する必要があるとのことで、即日入院を言い渡された。う~ん、また入院か。ちょっと辛いな。

5月30日(火)~6月8日(木)
 今回の入院は改めて手術を受けるようなことはなく、ひたすら点滴を受けるだけ。途中の血液検査では数値の明確な改善が見られ、抗生剤の効果が認められる由。それはいいのだが、抗生剤の副作用の一つとして、私の場合は下痢がひどくなり、追加の下痢止めを処方してもらう必要があった。

 病室にはLTE経由でネット接続が出来る個人のPCを持ち込んだので、メールの送受信を通じて会社の仕事も出来る。日によっては真夜中までPCを叩くことがあり、看護士さんに不思議がられてしまった。

 やがて、点滴による抗生剤の投与は経口薬に切り替わり、それで問題がなければ退院が見えてくる。6月8日(木)早朝の血液検査の結果に問題がなかったので、この日を以て退院に。再び外の世界に戻ってみると、知らない間に街中はアジサイの季節を迎えていた。
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6月9日(金)~25日(日)
 会社に復帰。だが、正直言ってこの期間は自分にとっては非常に辛かった。

 退院時に処方された抗生剤の経口薬は、6月18日(日)まで1日1回服用を続けることになっていたのだが、その副作用が強く出てしまい、食欲が著しく減退する一方で下痢がなかなか治らない状態が続くことになったのである。目の前に食べ物があるだけで気分が悪くなり、殆ど何も食べられない。他方、下痢が続くので水分が失われ、辛うじて何か口に入れた物からも栄養が吸収出来ないことになる。栄養失調に脱水状態が重なるようなことになり、6月16日(金)には殆どフラフラの状態になってしまった。

 A病院に連絡して、ともかくも抗生剤の服用を止めることにし、私の家からも近い旧友S君のクリニックで水分や栄養剤の点滴を受けて、脱水症状を解消。そして、新たに消化剤を処方してもらい、下痢の改善を進めることになった。また、抗生剤の副作用が出ていた間は胃酸過多になっていたので、それも錠剤の服用で緩和させることになり、その効果が現れるまでには日数を要した。

 そんな訳で、6月8日(木)の退院以降、3回あった6月の日曜日はいずれも体調不良で寝込んでしまい、私にとっては何とも不本意な過ごし方となった。そして、この間に体重は更に5kg近く減ってしまった。

 今まで大きな病気をしたことがなかった私は、入院、手術、術後の養生といったことに全く慣れておらず、抗生剤のような強い薬を服用した時の副作用の怖さや、その症状が現れた時にどう対処すべきなのかということについて肌感覚を何も持っていなかった。そのために今回は非常に辛い思いをしたのだが、こうした体験は将来いつかまた役に立つことがあるのだろうか。

6月26日(月)~30日(金)
 この週からようやく体調が安定し、食べることに少し意欲が出て来ると共に、会社の帰りに電車一駅分余計に歩いてみようという、体を動かすことにも意欲が出始めた。4ヶ月のブランクが続いたブログを再開してみようと思い立ったのも、こうした体調の好転があってのことだろう。

 とはいうものの、焦りは禁物。出来ることならばこうした状態をこのまま続け、体力の回復を図りたいものである。

4ヶ月のブランク (1) [自分史]


 2017年3月から6月までの4ヶ月間、このブログを更新することが出来なかった。

 大きな理由は、4月の末に膵臓の一部を切除する開腹手術を受けたことだった。それは以前から解っていたことではなく、4月に入ってから病変が発覚したのもので、以降は検査・入院・手術の日程が大急ぎで決まって行った。その展開の速さは今から振り返っても殆ど信じ難いほどのことだが、ともかくも5時間近くを要する手術を受けて延べ1ヶ月弱も入院をしたというのは、私の生涯で初めてのことである。

 この病気をしたことで、私のこれまでの人生と今後の人生とが滑らかに繋がって行くのか、そして後者がいつまで続くことになるのかは、今の時点ではまだわからない。いや、寧ろ最悪の事態をも想定しておく必要があるのかもしれないのだが、向こう半年ぐらいの経過を見なければまだ何とも言えず、今ジタバタしたところで何の意味もない。

 ともかく、まがりなりにも自分のブログと向き合う気力を取り戻した今、この4ヶ月間の空白を何らかの形で埋めなければならない。この間に思い浮かんだことを書き連ねればキリがないが、個人の感情に走ることはなるべく避けて、事実のみを極力淡々と記録しておくことにしたい。

2017年3月
 会社の仕事は例年になく忙しさを増していた。それは、「分刻みのスケジュールをこなす」という類の忙しさではなく、会社経営全般の今後の方向性を深掘りし、方針を打ち出していくためにあれこれと考え、アウトプットを産み出して社内コンセンサスを形成して行かねばならない、そういう意味での忙しさだった。

 東北の震災が起きた2011年以降、私の会社にとっては製品市場の縮小・低迷が続き、逆風の時期を過ごして来たのだが、昨年(2016年)の夏頃から潮目が俄かに一変し、今度は逆に従来の生産能力では顧客からの注文に応じきれないほどのタイトな状況が続くようになった。苦しい時期に歯を食いしばって開発し投入した高品質・高機能の製品が漸く市場に認められたこともあるのだが、やはり中国をはじめとする新興国経済の質的な向上によって、日本の限られたプレーヤーにしか作れない高品質・高機能の素材が今まで以上に求められるようになったことが底流にあるようだ。更には、いわゆるIoT(物のインターネット)の時代がこれからいよいよ幕を開けると、我々が日々生産している素材の用途が今後飛躍的に拡大していく可能性がある。

 そんな訳で、週末には会社の幹部を集め、我社が近未来を見据えて取り組むべきことについて幅広い議論を行い、社長と共に海外も回って将来の生産設備増強のフィージビリティを考えた。忙しかったが、これほどのポジティブな環境変化は長い社会人生活の中でもそう体験出来ることではない。それに没頭している間、自分の私生活におけるブログの更新などは、当然のことながら私の頭の中にはなかった。
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(ドイツ・デュッセルドルフ空港)

 加えて、これは会社生活とは全く異なる次元の話ではあるのだが、この4年間務めて来た自宅マンションの管理組合の副理事長の仕事も、この3月に佳境を迎えていた。

 世の中ではどこも同じなのだろうが、マンション管理組合の理事の仕事は基本的に区分所有者の間での輪番である。各人の経験や能力とは無関係に順番が回ってくるお役目だから、最低限のことをして、まずは無難に任期が務まればいいということになりやすい。だから、各年度の理事会の運営に大きな変化は起きにくいものだ。

 マンションも新しいうちはそれでもいいのかもしれないが、築何十年も経って建物・設備の老朽化が進んだマンションとなると、そうもいかない。建物の外観だけでなく、内部の各種配管にも劣化が現れ、水漏れ事故などを起こしがちだ。それは、人間が歳をとって循環器系の病気になりやすいのと同じようなものである。4年前、私に理事の役目が回って来たのは、まさにそうした状況の中で、次回のマンション大規模改修の時期と内容を待ったなしで検討せざるを得ないタイミングであった。

 理事を引き受けた時、自分も無難に2年の任期を過ごせばいいやという思いがない訳ではなかった。だが、実際に理事会に出てみると、意見は色々出るけれど、それをまとめ、問題点を整理し、具体的なアクションプランへと組み立てられる人は非常に限られていた。そもそも、或る事案について、皆の理解を共通のものにするためのアウトプットを作れる人がいないのである。メンバーの大半は私よりもずっと年上の、既に仕事をリタイアした人たちだから仕方がないのだが、事態を静観するだけでは何も進まない。結局それらを私が一手に引き受けることになり、副理事長に祀り上げられて2期4年を務めてしまった。そして、その集大成のような仕事がこの3月に山場を迎え、平日の夜や土日に多くの時間を費やすことになった。

 本業の仕事とマンション管理組合の仕事という、まさに二足の草鞋。しかも、自分が動かなければ何も進まない。この何年か、そのことに我ながらストレスを溜め続けていたことは確かだった。
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2017年4月5日(水)
 以前から予約を入れていたのだが、高校時代の同級生S君が院長を務めている消化器内科クリニックで、朝から胃の内視鏡検査を受けた。S君には以前から何度もお世話になっていたのだが、今回は本当に久しぶりで、前回から3年弱が経過していた。検査を受けるのがついつい面倒だった、という言い訳しかないのだが。

 胃の検査そのものは特に問題もなかったのだが、その直前に受けた超音波検査の結果、膵臓の真ん中あたりに一点黒い影があるという。念のためということでS君がCT検査を手配してくれたので、その日の午後に別の場所で同検査を受けることになった。

4月7日(金)
 昼休みにS君から携帯電話に連絡があった。「前々日のCT検査の結果、膵臓の「黒い影」は良くないので早急に入院して手術を受ける必要あり。」とのこと。ついては翌8日(土)の夕方にMRI検査を受け、翌週の12日(水)にS君のクリニックで大腸の内視鏡検査を受けた上で所見の説明を受けることになった。

 彼からそういう内容の連絡を受けたこの日は、夕方から会社のキャンティーンで新人歓迎会を兼ねた花見の宴が催され、立場上、私は夜遅くにお開きになるまでその場にいたのだが、いつになく酔いがひどかった覚えがある。

4月12日(水)
 休暇を取り、S君のクリニックで朝から大腸検査。夕方近くになってS君から所見の説明が始まる。その時刻までに家内も来てくれて、二人で説明を聞いた。

 問題の膵臓の直径2cm前後の「黒い影」は腫瘍の疑いありとのこと。一般に膵臓癌は発見が遅く、手遅れで手術も出来ないケースが多いのだが、私の場合はそれがもっと早い段階のものと見られるとのこと。このままあと3ヶ月も放置すれば手遅れになるので、早急に手術を受ける必要があるそうで、何とS君は東京の湾岸地域にある専門病院(「A病院」としておこう)にも既に連絡を回してくれて、13日(木)の午後に部長先生の診察の時間を既に予約してくれていたのだった。家内と私はS君の厚意に深く感謝しつつ、ともかくもここから先のことは医師の指示に従い、治療を最優先にして行こうという思いを互いに確認し合うことになった。

4月13日(木)
 午後、初めてA病院へ行き、部長先生の診察を受ける。CTやMRIの画像を交えての説明はS君が話してくれた内容と一致しており、膵臓癌としてはまだ比較的早い段階なので、開腹手術により膵臓の約半分(尾部)を切除し、併せて転移の可能性のある周辺のリンパ節や胆嚢・脾臓・片方の副腎も切除。約3週間の入院が必要で、術後2ヶ月程度経ってから抗がん剤の服用を始めるとのことだった。その後、18日(火)に再びA病院で入院に関するガイダンスがあり、23日(日)の入院、25日(火)の手術という日程が決められた。(知人の話では、こんなスピード感をもってA病院で手術を受けられるなどということは、普通だったらまずあり得ないとのこと。素早く手配を進めてくれた旧友S君に改めて感謝である。)
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4月23日(日)
 昼前にA病院に入院。10階、4人部屋の窓側のベッドで、東京湾の眺めが素晴らしい。すぐ近くの高架を新交通システム「ゆりかもめ」が走り、彼方では羽田を次々と離発着する航空機の様子を眺めることが出来る。午後には山仲間のH氏が早速お見舞いに来てくれて、沢山の文庫本を置いて行ってくれた。

4月25日(火)
 家族三人は朝6時に家を出て病院に来てくれた。私は早朝から手術の準備があり、7時50分に手術室へ向かう。家族の見送りを受けて8時には手術台に乗っていた。それから暫くは全身麻酔の準備があったのだが、そこから先のことは一切の記憶がない。手術が予定通り5時間ほどで終わったということは後から知らされたことで、何時だか解らないが医師に揺り起こされた時には、開腹手術を受けた部分の鋭い痛みがあった。
その日は酸素マスク等を付けたままICU(集中治療室)で一晩を過ごす。暫くの間は家族の面会が許され、痛みに歯を食いしばる私の左手を家内と娘が握ってくれたことを覚えている。

4月26日(水)
 点滴による麻酔を続けつつも、まだ鋭い痛みは続いているのだが、この日の昼前にはICUから元の病室に戻された。寝てばかりでは良くないので、看護士に付き添われ、点滴の台を杖代わりにして病棟内の廊下を少しずつ歩く訓練が始まる。といっても、まだおっかなびっくりで僅かな距離しか歩けないのだが。

4月29日(土)
 A病院の病室で私は61回目の誕生日を迎えた。術後の回復が比較的順調とのことで、この日の朝、腹部に差し込まれていたドレン管が医師によって外された。点滴はまだ続いているが、ドレン管がなくなっただけでも廊下を歩くのはだいぶ楽になる。午後には家族三人が集まってくれて、病室でささやかな誕生日祝いの一時を過ごした。この頃から点滴に代えて病院食が段階的に始まったのだが、正直言って味が全く口に合わず、出された物が殆ど喉を通らないのには閉口した。栄養士さんもだいぶ細かく相談に乗ってくれたのではあるが・・・。

5月5日(金)
 昼間に2時間程度点滴を外して外出してもよいことになり、入院後初めて外の空気を吸ってみることにした。病院の北隣には芝生がよく整備された広い公園があり、バーベキューの施設などもあって、この連休中はなかなかの賑わいである。家内と娘と三人でその公園をゆっくり歩き、緑の木陰に座ってのんびりとした時間を過ごした。昔からアウトドアが好きだった私にとって、今は仕方がないこととはいえ、日がな病院の中で過ごす他はないというのは、やはり一つのストレスだ。早く自由に外を歩ける身になりたいものである。以後は毎日、13~15時ぐらいの時間帯は外出許可を取って、家内と二人で外を歩くことにした。
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5月10日(水)
 術後の経過が順調であったことから、この日をもって退院となることが前日に決まった。入院日から数えると17泊、手術日から数えると15泊。それでも、この手の手術を受けた者としては入院期間が短い方だそうである。もちろん、開腹をした部分にはまだ微妙な痛みがあり、術後3ヶ月ぐらいは重い荷物を持ったり走ったりすることは控えなければならない。また、手術の際に実は小腸も少しいじっているので、尾籠な話ながら下痢が当分は続く。そして、内臓を切除する際に色々な血管や神経を切っているため、味覚や食欲がおかしくなっている。時の経過と共にいずれ元に戻るのだそうだが、現時点では喉を通る(=食べたいと思う)食物が限られ、一回に食べられる分量も平常時の半分程度だ。そのため、手術前に比べて体重が10kgほど減った。何よりも筋肉が落ちてしまったことを実感する。

 ともかくも二週間強にわたってお世話になった病院を出て、昼前に自宅へ。会社には来週から出勤させてもらうことにして、今は色々なことのリハビリに努めることにしよう。

 その翌日、近くの植物園をゆっくりと歩きながら眺めた新緑が、何とも目に眩しかった。
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(To be continued)


冬は北へ (4) 不老不死温泉 [自分史]


 朝7時に目が覚めた。

 旅に出ているにしては朝寝坊をした。木造の古い建物で夜間は客室内もぐっと気温が下がる八甲田の酸ヶ湯温泉とは違い、ここ黄金崎不老不死温泉は室内のエアコンが快適に効いている。それもあって私はぐっすり眠りこんでしまったようだ。家内の姿がないが、温泉に来た時はいつものことで、朝食前の湯に浸かりに行ったのだろう。

 窓のカーテンを開けると、視野いっぱいに冬の日本海が広がる。今朝は風もあまりなく、この時期としては穏やかな眺めである。
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 今朝のスケジュールはゆっくりしている。JR五能線の秋田行「リゾートしらかみ2号」がウェスパ椿山駅を出るのが11:15で、それに合わせて(といってもだいぶ早めだが)この温泉からの送迎バスが10:00に出る。要するに旅館の中で10時前までゆっくり出来る訳だ。品数のとても豊富な朝食をゆっくりいただいた家内と私は、名物の露天風呂へ行ってみることにした。

 本館の下から岩浜に降りる通路があって、それを辿ると日本海の波打ち際の直ぐ近くに露天風呂が用意されている。女性用は目隠し的に壁が高くなっているのだが、男性用はそれがないから、湯に浸かると日本海の波濤が本当に目の前だ。
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 ここへのカメラの持ち込みは禁止なので、そのダイナミックな眺めを画像に残すことは出来ないが、なるほど、これは絶景である。こういう楽しみがあるのだから、やっぱり日本はいいなあ。
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(空から見た黄金崎不老不死温泉と露天風呂)

 館内の大浴場も海に面した露天風呂もそれぞれに満喫した私たちは、予定通りの送迎バスに乗る。雪深い八甲田の酸ヶ湯と、冬の日本海を目の前にした不老不死温泉。いずれも思い出深い滞在となった。
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 ウェスパ椿山の駅前で1時間近くの列車待ち。周辺には観光施設も幾つかあるのだが、私たちは眺めるだけで、とりたてて買う物もない。そうこうしている内に、外では雪がちらつき始めた。

 本来は11:15発のリゾートしらかみ2号が5分ほど遅れてやって来た。ハイブリッド車両だった昨日の「橅(ぶな)編成」とは異なり、純粋に気動車の「くまげら編成」と呼ばれる車両だ。これから秋田まで2時間12分の列車旅である。
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 ウェスパ椿山を出てしばらくすると、昨日同様、列車は日本海の海岸線を忠実に南下していく。忠実というより、白神山地の山並みが海の直ぐ近くまで迫っているため、列車は海岸線を辿らざるを得ないのだ。

 程なく列車は県境を越えて秋田県内に入り、ウェスパ椿山から30分ほどで岩館駅に到着。このあたりからは海沿いに奇岩の並ぶ風景が続き、一部の箇所では乗客のために列車が敢えて速度を落として運転している。
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 五能線の車窓いっぱいに広がる日本海の眺めを昨日から堪能してきたが、列車が東八森駅を通過した頃から次第に海岸線を離れ、能代平野の雪景色の中を南下していく。そして、米代川を鉄橋で渡ると能代、更に6分ほど走ると東能代に到着。五能線と奥羽本線の接続駅で、列車はここでスイッチバックして秋田へと向かうことになる。
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(東能代駅ホームの秋田方)

 かつては尾去沢や阿仁などの鉱山から採掘される鉱石を運ぶため、米代川を上下する水運業が盛んだった能代。東北地方日本海側の幹線鉄道・奥羽本線が、なぜその能代を通らずに建設されたのか。それは、「能代に鉄道が来ると水運と港が廃れる」という、明治の比較的早い時期には日本各地でよくあった地元の反対運動によるものだったという。従って、能代の中心街からかなり離れた現在の東能代駅を通る形で1901(明治34)~1905(同38)年にこの区間の奥羽本線が開業。すると1908(同41)年に東能代・能代間に支線が建設されて貨物の取り扱いを開始。そして程なく旅客の扱いも始まった。それだったら最初から反対などしなければ、という気もするが、いずれにしてもこの支線が後の五能線で最も早く開業した区間となった。
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 進行方向が今までとは反対になったリゾートしらかみ2号は、定刻の12:29に東能代を発車。ウェスパ椿山で乗った時の5分程度の遅れをこの時点で取り戻していた。ここまで来ると秋田も近いように思ってしまうが、実際にはこの快速列車でもまだ1時間かかる。車窓からは山も海も遠ざかり、一面の雪に覆われた水田地帯をひたすら南下。立体的な風景といえば、進行右手の彼方に見える男鹿半島の背骨の山々ぐらいだろうか。
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 13:27 小雪の舞う秋田駅に到着。乗り継ぎの東京行き秋田新幹線まで46分の時間があるので、駅ビルで食べ物を買うことにしよう。それにしても、今回の旅で五能線全線を踏破出来たことは本当に嬉しい。将来いつか越後線の新潟・柏崎間に乗ることが出来れば、私の列車旅の軌跡は北陸本線の敦賀以北の日本海沿岸路線が全て繋がることになる。
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(秋田駅ホームの東京方)

 14:13秋田発、こまち24号に乗車。家内と二人、青森から二泊三日で北東北を右回りに巡って来た冬の旅は、早いものでもう帰京の行程に入った。大曲で進行方向が変わって田沢湖線に入ると、車窓には少しずつ山々が迫り始める。14:57 ひっそりと雪に埋もれた角館駅に停車。一昨年の秋、やはり家内と二人でこの街を訪れた時は紅葉が真っ盛りだった。それは春の桜の時期と並ぶ角館観光のハイ・シーズンなのだが、見覚えのあるこの街の冬景色も、これはこれで何とも味がある。一面の雪原の中に細々と続く秋田内陸縦貫鉄道の単線レールが、胸に沁みた。

 冬は北へ行こう。そう思い立って、敢えて大寒の時期に北東北への旅に出た私たち。その旅先で出会ったのは、真冬の季節だからこそ接することの出来る北東北の自然の寡黙な美しさであった。普段から素朴な味わいを持つ東北地方の、これこそが真骨頂と言えばいいだろうか。私は北国がますます好きになってしまった。そして、いつもは寒がりの家内がそんな私に付いてきて北東北の冬景色を一緒に楽しんでくれたことが、今は何よりも嬉しい。

 左の車窓には、この季節にしては珍しく、秋田駒ヶ岳が堂々としたその全容を見せている。今回の旅についてのブログ記事の初回は雪の岩手山の画像から始めたので、フィナーレにはこの秋田駒の画像を使うことにしよう。こんな眺めに誘われるようにして、私たちはこれからもまた、東北へ旅に出るのかもしれない。

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冬は北へ (3) 五能線 [自分史]


 JR弘前駅3番ホームに、先ほどまで側線に停まっていた四輌編成の列車が、青森方からゆっくりと入線して来た。爽やかな緑色に包まれたそれは、昨年(2016年)7月にデビューしたばかりの新型車輌、HB-E300系だ。電気でモーターを動かして走るのだが、電源はディーゼルエンジンで回す発電機とリチウムイオン蓄電池で、発車時・加速時・減速時にその二つを使い分けるハイブリッド車輌なのである。これが全席指定の快速「リゾートしらかみ4号」として、これから五能線を経由して秋田までの区間を走るのだ。
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 車内に入ると、前後の座席の間隔がとても広いのでゆったりとしている。何よりも窓が上下に大きいので視界が広い。そして私たちが指定席を取った3号車は後ろ半分が洒落たカウンターになっている。
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 列車は定刻から数分遅れで出発。奥羽本線の川部まで二駅戻り、そこから進行方向を変えて五能線へと入る。本来の始発駅である青森から乗る予定だった人々のために、おそらくはJRが急遽バスでも仕立てたのだろう。川部駅での5分間の停車時間の間に乗客が次々に乗り込み、座席はほぼ埋まった。

 五能線の東側は1918(大正7)年に川部・五所川原間を開業させた私鉄の陸奥鉄道がその前身にあたる。奥羽本線は青森から弘前を経由して秋田までの間が既に明治時代に官営鉄道として開業しており、陸奥鉄道はその官設鉄道と五所川原を結ぶ役割を担っていた。1925(大正14)年には日本海側の鯵ヶ沢まで延伸開業していたが、金融恐慌が起きた1927(昭和2)年に陸奥鉄道は国有化されて「五所川原線」になり、1934(昭和9)年に鉄路を深浦まで伸ばしていた。今日の私たちは深浦の3つ先のウェスパ椿山まで行く予定なので、戦前の五所川原線の部分を全て走ることになる。
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 4号車が先頭になって、「リゾートしらかみ4号」は平野の中を軽快に北上。頭を雲の中に隠した岩木山は、今度は左の車窓に見えている。寒冷前線の通過で強風が吹き荒れた昨日はこの列車が全面運休になったのだが、幸いにして今日は、(おそらく下り列車の遅延が原因で青森・弘前間が運休になったものの)弘前から先の上り方面は平常通り運行されている。

 後になって気象庁のHPからデータを拾ってみてわかったのだが、昨日(1月27日)は日本海に面した深浦で朝の8時頃から瞬間風速が20m/秒を超え、強風のピークとなった午前11時代にはそれが25m/秒を超えていたのだ。五能線は瞬間最大風速が20m/秒を超えると減速、25m/秒を超えたら運休になるそうなので、昨日はまさにそれに当てはまる日だったことになる。そして、日付が替わってからはそれが20m/秒を超えることはなくなり、次第に弱まっていったので、全面運休になることは免れた訳だ。本当に一日違い。我ながら「持ってた」のかもしれない。
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(10分毎の瞬間最大風速の推移)

 15時08分、五所川原に到着。そして列車が再び動き出した時に右の窓の外に注目していると、津軽鉄道のホームと停車中の現役気動車、そして廃車後も留置線に置かれたままの古い気動車の姿が見えた。
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 旅客を扱うものとしては今や日本最北の私鉄となる津軽鉄道。これは前述した陸奥鉄道が昭和2年に国有化された時、出資金が倍になって戻って来た旧陸奥鉄道の株主たちが、もう一つ鉄道を作ろうということで新たに会社を設立し、昭和5年に五所川原の北方、金木までの区間を開業させたのだそうで、歴史が繋がっていてなかなか興味深い。

 その五所川原を出ると、五能線は大きく左へカーブし、岩木山の北麓を西に向かって走る。そして五所川原から僅か20分ほどで、右の車窓には日本海が一気に広がった。途端に車内では歓声が上がる。皆、この眺めを待っていたのだ。
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 15時33分、鯵ヶ沢駅に到着。かつては廻船の寄航地として栄えた港町だ。その名前からしていかにも海の幸が美味しそうで、名物はヒラメやヤリイカなのだとか。ここで下車せずに列車に乗り続けるのは何だか惜しい気もしてくる。

 海の眺めが始まり出した五能線。全長147kmの内86kmの区間で海が見えるこの路線は、いよいよこれからがハイライト部分だ。何と言ってもその86kmの内の殆どの区間は本当に海岸線のすぐ近くを走り、風の強い日は線路が波を被るのではないかと思うような箇所の連続なのである。

 窓一杯に広がる冬の日本海。それを眺めたのは何年ぶりのことだろう。その荒涼とした眺めが旅情を誘う。

 鯵ヶ沢から海岸線をたどること20分。陸が北に向かって海に突き出した所で、駅舎もなくホームが一本だけの「千畳敷」という無人駅に着く。快速「リゾートしらかみ4号」はここで15分停車。その間に乗客は駅前の道路を渡って海岸まで降りることが出ることができるのだ。その昔、殿様がこの千畳敷で大宴会を開いたという、あたり一面の岩床。それが1792(寛政4)年に起きた地震による隆起で出来上がった地形だというから驚いてしまう。
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(空から見た千畳敷海岸)

 防寒着に身を固め、家内と二人して千畳敷の岩床に立つ。「寄せては返す」という悠長な響きとは異なり、もっと猛々しい日本海の波。時刻は16時を回ったところだ。思えば今朝は八甲田山麓の雪深い酸ヶ湯温泉にいたのに、7時間後の今は冬の海を目の前にしている。遠くへやって来たものだと、改めて思う。
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 発車3分前になると列車は汽笛を鳴らせてくれて、それを合図に乗客は列車に戻る。先ほど海に出る時には気づかなかったのだが、線路の陸側には岸壁が迫り、そこからの湧水が凍結した姿が続いている。「氷のカーテン」と呼ばれる、これまた冬の五能線の名物なのである。
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 千畳敷を過ぎると、海岸線は南西へと向きを変える。つまり、右側の車窓に広がる海は概ね日没の方角になる訳で、ここから深浦駅の少し先までの区間は海と夕焼けを眺めることの出来る区間なのである。

 もっとも、「リゾートしらかみ4号」の場合は千畳敷発が16時13分、深浦着が16時37分、そして私たちが降りるウェスパ椿山着が16時53分だから、この時間帯の間に日没になる季節でないと、海に没する太陽は見られない。今日、1月28日の青森市の日の入りは16時49分、方角は246.5度(つまり西南西より21.5度だけ北)だから、ウェスパ椿山に着く直前にその光景に出会う可能性がゼロではないのだ。

 列車はほぼ定刻の運行で、深浦駅で上りの「リゾートしらかみ5号」と待ち合わせ。雲の垂れ込めた冬空が、灰色なりに日没が近い色調になってきた。弘前から続いた私たちの列車の旅も、残りはあと17分。列車はなおも変化に富んだ海岸線を几帳面に辿っていく。そして、何ということだろう。その頃から日没の方向で海の彼方の雲が切れて夕日が差しはじめたのだ。

 列車の大きな窓ガラスに釘付けになる家内と私。そして、おそらくは横磯という無人駅を通過した頃だったのだろう、海を赤く染めながら日本海に沈む直前の太陽の姿が私たちの目の前に広がった!
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 何という幸運。家内も私も、言葉が見つからない。旅先でこんな風景に出会えたことに、何と言って感謝を捧げればいいのだろう。

 その余韻に浸るのも束の間、ウェスパ椿山到着が近いことを告げる車内放送。荷物を持ってホームに出ると、ここも駅舎のない無人駅だが、目の前の広場に送迎バスが待っている。結構な人数がそれに乗り込み、海を見下ろす道を10分ほど走って、今日の目的地黄金崎不老不死温泉に到着した。

 全室がオーシャン・ビューのこの温泉旅館。部屋に通されると、既に陽が沈んだ海と空が今日最後の輝きを失いつつあった。
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 やはり、旅に出てよかった。
(To be continued)


冬は北へ (2) 弘前城 [自分史]


 明け方に目が覚めた。部屋の中で寝ているのに鼻の頭が冷たい。布団の中は暖かいが、室内はかなり寒くなっていた。

 東京のマンションで生活していると、一晩中暖房(エアコン)をつけ続けることはまずないし、ましてや目の前でガスが燃焼しているストーブをつけたまま寝てしまうのは何だか無用心だ。そんな訳で家内と私はガス・ストーブを切って寝たのだが、青森県・八甲田山の山麓、標高900mの酸ヶ湯(すかゆ)温泉旅館では、真冬ともなると木造の建物は夜の間にかなり熱を奪われてしまうようだ。逆に、そういう体験が私たちにとっては新鮮である。

 ストーブを点火してから暫くまどろみ、部屋の中が相応に暖かくなったのは午前6時に近い頃だっただろうか。おそらくは旅館で働く人々が既に朝の仕事を始めているのだろう。そんな足音が廊下から聞こえて来る。私たちも起き出して、朝食前にこの旅館の「ヒバ千人風呂」に浸かりに行くことにした。東京でもようやく窓の外が明るくなり始める時刻。千人風呂の大きな浴室でも、濃い湯煙の中でぼんやりとした窓の光が並んでいた。

 旅館の朝は早い。朝食は6時45分からなのだが、その時刻に食堂へ行ってみると、バイキングの前に結構長い列が出来ていた。用意されていた料理の数はとても多く、自分の皿の上はあっという間に一杯になってしまう。中でも、「キノコの南蛮漬」という青唐辛子がピリッと効いた青森名物の漬物が美味しかった。

 東京に住む私たちが、いつかまたこの酸ヶ湯温泉を訪れる機会はあるだろうか。そう思うと、私たちは食後ももう一度湯に浸かりに行ってしまう。再び千人風呂の硫化水素の匂いと白い湯煙に包まれながら、この温泉との別れを惜しんだ。去り難い気持ちはあるが、身支度を整え、これから8時50分発のバスで青森駅に戻らねばならない。
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 雪の国道を下り、ちょうど1時間ほどで青森駅前に着くと、あたりには冷たい風が強く吹きつけていた。駅ビルに入り、まずはJRの窓口で列車の運行状況を確認する。五能線を走る快速「リゾートしらかみ」が予定通り運行されるかどうかが気になっていた。まだ1月というのに「春一番」の気圧配置になった昨日は、強風のために「リゾートしらかみ」は全面運休だったのである。

 「今日は今のところ、運休にはなっていません。風が強いと速度を落とすので、遅れが出るかもしれませんが。」

 よかった。後はこれからの天気次第だ。気を取り直した私は駅ビルの中で家内と熱いコーヒーをすすり、奥羽本線のホームへと向かう。これから秋田行きの普通列車に乗り、弘前まで45分ほどの旅だ。
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(左は津軽線の気動車。右が奥羽本線の交流電車)

 新青森の次の津軽新城という駅を過ぎると、奥羽本線は谷の中に入り込み、雪が深く人家も少ない中を走る。そして、トンネルを抜けて大釈迦という駅で貨物列車との待ち合わせを済ませると、再び平野に出て、右の窓に岩木山(1625m)の広い裾野が現れた。津軽富士の別名を持つこの名峰。全容を是非眺めてみたいものだが、今日は半分から上が雲に覆われている。

 一面の雪に覆われた平野の景色の中を走り続け、11時25分に予定通り弘前駅に到着。大荷物をコインロッカーに預け、私たちはタクシーで弘前公園に向かった。何はともあれ、弘前城を見てみよう。

 追手門の前でタクシーを降りると、弘前城の外堀が凍結しているのに、まず驚いた。
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 なるほど、この季節になると、東北地方ではお堀もこんな風に凍ってしまうんだ。本当に戦になったらお堀としては機能しないのではないか? そんなことを考えながら追手門をくぐると、桜の木が並ぶ城内は更に深い雪の中だ。内堀の前では木の枝が凍りついている。1月28日の今日は七十二候の「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」の最中だが、あたりはまさに雪と氷の世界である。
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 足元に気をつけながら城内を進む。こんな時期だから本丸も閑散としたものだ。桜の時期ならば大変な混雑であろう天守の前も、訪れているのは私たちを含めて10人足らずである。
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 弘前城の築城が始まったのは、家康の将軍宣下が行われた1603(慶長8)年だそうだが、1627(寛永4)年に落雷を原因とする火災と爆発で天守が焼失したため、この城には以後200年近く天守がなかったという。その再建が認められたのは幕末も近い1810(文化7)年。しかも、戊辰の戦では弘前藩が途中で奥羽越列藩同盟を脱退して官軍側についたために、弘前は戦場にならなかった。要するに弘前城は戦を経験することなく使命を終えた訳なのだが、再建しても結果的には無用に終わった天守が、今は国の重要文化財になっているのだから、歴史とは不思議なものである。

 天守の立つ場所からは、後方に岩木山方面の展望がある。この時間になっても岩木山の上半分は雲の中で、三つのピークを持つ津軽富士の全容を眺めることは、残念ながら今回は無理そうだ。
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 今朝、青森駅前は風が強くて寒かったのに、ここ弘前は風も穏やかで、一部に青空ものぞいている。気分がいいので、散歩がてらに私たちは結局弘前駅前まで歩いて戻ることになった。お昼時を過ぎてはいるが、どこかで店に入って食事をするほど空腹でもない。その代わり、駅の近くで「虹のマート」というローカル色の濃厚な市場を見つけたので、この後に乗る列車の中でのおつまみ物を買い求めることにした。弘前名物のイカメンチ(メンチカツのイカ版)。これはビールのつまみに最高である。
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 弘前駅に戻ると、五能線を走る14時30分発の秋田行き快速「リゾートしらかみ4号」の表示が出ていた。昨日は強風で運休になっていたので、今日は運行されるかどうか気を揉んでいたのだが、どうやらそれは取り越し苦労で済んだようだ。
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 とはいうものの、一つ奇妙なことに気がついた。リゾートしらかみ4号は青森発13時51分の列車で、弘前着が14時26分だから、本来はまだこの駅には着いていないはずである。それなのに、弘前駅には「橅(ぶな)編成」と呼ばれる爽やかな緑色のその姿が既にあり、しかもまだ客扱いをせずに側線に停まっているのだ。
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 それは何故か。しばらく考えているうちに見当がついた。今日のリゾートしらかみ4号の車両は、HB-E300系という新型のハイブリッド車で、下りの「リゾートしらかみ1号」として08時20分に秋田を発ち13時30分に青森に着く列車の折り返しである。もしかすると、今日も五能線の沿線のどこかで強風が吹き、減速や徐行によって遅れが出たために弘前・青森間の運行を1号・4号共に取り止め、改めて弘前発の列車として上りの4号を運行することになったのではないか。

 そういう経緯があったにせよ、ともかくも弘前からは予定通りの運行となったのはありがたい。初めて乗ることになる五能線。さて、どんな旅が待っているのだろうか。
(To be continued)

冬は北へ (1) 酸ヶ湯 [自分史]


 朝の「はやぶさ」で東京駅を出てから、およそ二時間。窓の外を北上川沿いの冬景色が流れていく。野山も田畑も雪に覆われた白一色の世界。色彩のアクセントになるのは、白いキャンヴァスに細筆で描いたような木々の幹だけである。

 昨夜遅くまで旅仕度をしていた家内は、窓側の席でいつの間にか眠り込んでいる。一方の私はといえば、列車で旅に出る時の常として、窓の外を眺め続けてきた。今日の午後には本州を寒冷前線が通過し、北日本は大荒れの天気になるとの予報だったが、それにしては、東京を出た時から窓の外には彼方の山々がよく見えていた。つい先ほども、左右の尾根の広がりが実に穏やかな栗駒山の雪景色を楽しんでいたところだ。

 11時48分、はやぶさ11号は定刻に盛岡を発車。その直後から、左の窓には岩手山の雄大な姿が迫る。この山の姿形の良さは東北でも随一なのだが、眺めるのなら、やはり積雪期がいい。2038mという標高以上のものを感じさせる、北国の山ならではの味わいがそこにある。
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 冬は北へ行こう。家内と2泊3日の旅に出ることを思い立った時から、そう決めていた。

 北国の冬は厳しいけれど、そんな冬だからこそ輝く何かがある。それは、もう30年以上も前のことながら、私が社会人として最初の3年を過ごした北陸の富山で体験したことだった。自然の豊かな富山はどんな季節も素晴らしかったけれど、やはり雪が降り積もる頃に「富山らしさ」を最も強く感じたものだった。

 盛岡を過ぎると、東北新幹線は長大トンネルが多くなり、外の様子はわかりにくい。ようやく闇を抜けて八戸駅を通過する時には部分的に青空が見えていたが、青森県に入ってから垣間見えたのは全くの灰色の空。そして12時35分に新青森駅に到着し、在来線(奥羽本線)のホームに降りると、外は雨だった。これが2月4日の立春を過ぎていたら「春一番」と呼ばれたに違いない気圧配置のために強い南風が吹いて、この青森でも気温が上がったためだ。

 約20分の接続で二両連結の在来線・青森行き電車がやって来た。最後部の窓から外を眺めると、高架の新青森駅がゆっくりと遠ざかるのと入れ替わりに、右手から津軽線の線路が近づく。雪の中に細々と続くレール。北国へやって来たという実感が湧いてくる。
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 13時ちょうどに青森駅に到着。かつては数多くの寝台列車が出入りした北の終着駅。私たちが乗ってきた二両連結の電車はその長大ホームを完全に持て余している。

 「そういえば、この駅に降りてから青函連絡船まで階段や通路を走ったのよね。」

 学生時代に友達と北海道へ貧乏旅行をしたという家内。彼女がその時に走った階段や連絡通路はこのホームのずっと先(海寄り)の方だが、今では人が通ることもあまりないのではないだろうか。

 跨線橋に上がると、東北本線の在来線だった「青い森鉄道」の車両が停車している。そのホームの彼方はもう海だ。
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 海の方をよく見ると、今はそれ自体が博物館になった青函連絡船・八甲田丸の姿がある。その船体に塗装された”JNR”(国鉄)の赤いマークが妙に懐かしい。
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 青森へやって来た私たちの今日の目的地は、八甲田山の麓、標高900mの地にある酸ヶ湯(すかゆ)温泉である。江戸時代初期の1684年に猟師によって発見されたというから、今年で333年の歴史を持つことになる。手負いの鹿がこの温泉で傷を癒し、三日後には元気に岩場を駆け上がったという言い伝えから、「鹿の湯」が「酸ヶ湯」になったというのは、東北訛りならではのご由緒と言うべきか。
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 その江戸時代から酸ヶ湯には多くの湯治客が訪れ、小さな温泉小屋が幾つも建てられていたという。今では青森産の総ヒバ造りの「ヒバ千人風呂」と呼ばれる大きな浴室がここの名物だが、それはいつ頃に建てられたものなのだろうか。近年では2013年の3月に566センチの積雪を記録したこともある、この北国の山奥の酸ヶ湯温泉が、戦後の昭和29年に全国の温泉のモデルケースとして「国民保養温泉第1号」に認定されたというのは、多くの人々の愛着によって支えられて来た長い歴史の賜物なのだろう。

 だから、そんな酸ヶ湯温泉を是非とも真冬に訪れてみたかったのである。真冬も真冬。一昨日の1月25日からの5日間は二十四節気の「大寒」の次候「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」だから、私たちの旅はちょうど一年中で最も寒い時期にあたるのだ。

 宿泊客は、事前に予約しておけば14時に青森駅前を出る無料の送迎バスに乗れる。駅前周辺で海産物などの店を見物していた私たちがその15分前に所定の場所に行ってみると、温泉旅館のバスが停まっていて宿泊客たちが乗り込み始めるところだった。名簿で乗客の名前を確認し、車内が満席になると、特段の説明もなくバスは発車。南下して市内を抜け、国道103号(八甲田ゴールドライン)の坂道を早くも登り始めた。

 市街地で降っていた雨は、山に入り込んでいくとさすがに雪に変わる。路面はやがて雪に覆われ、道路の両側には大人の背丈ほどの雪の壁が続くようになった。冬の間は夜間通行止となるこの道路。毎日除雪を続けるのは大変なことだろう。
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 やがて八甲田ロープウェイの乗り場へと向かう道を左に分け、バスはなおも山の中へ。私は一時間半ほどかかるのかと思っていたが、結局一時間足らずで酸ヶ湯温泉旅館前に到着。本来なら広い駐車場になっている場所も、今は大部分が雪に埋まっている。
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 好天の日ならば旅館の建物の後方に八甲田大岳(1585m)が見えるはずなのだが、今日は一面のガスの中だ。15時というと、予想天気図上ではちょうど東北地方の背骨を寒冷前線が通過する頃だ。山の稜線上では吹雪なのだろうが、温泉旅館の前はいたって風も弱く、「北日本は暴風雪に注意!」と言われて来たのに何だか拍子抜けしてしまう。
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 チェックインを終えて部屋へと誘導される。木造の古い建物で、廊下を歩くと床が鳴る。その感じがどこか懐かしい。窓の外は深い雪。なかなか絵になる風景だ。
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 廊下の数箇所に石油ストーブが置かれ、部屋の中はガス・ストーブだ。窓は二重ガラスになっているものの、木造家屋には外から冷気が伝わって来るようで、ストーブをつけていないと直ぐに室温が下がってしまう。しかし、そんな昔風のところがいい。寒い所へ来ているんだから、寒さは当たり前なのだ。

 食堂での夕食は18時半の回を予約して、まずは一風呂浴びて来よう。名物のヒバ千人風呂(混浴)には洗い場がなく湯に浸かるだけなので、最初はそれとは別の「玉の湯」(男女別)で体を洗うことになる。「混浴」に逡巡していた家内はまずは玉の湯だけにして、20時~21時に設定されている「女性専用タイム」に千人風呂へ行ってみるという。

 玉の湯もそれはそれで立派な温泉なのだが、折角だから、私は玉の湯から上がった後に続けて千人風呂の様子も見て来ることにした。
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(温泉のHPより拝借)

 それは、ちょっとした体育館とも言えるほどの広さの、中に柱のない大きな浴室だった。冬だから湯煙がもうもうと上がっていて、3メートル先はもうホワイト・アウトしている。おまけに外は雪が降る中の黄昏時だから、窓からの光も殆どなく、昼光色の電灯がポツリポツリと何箇所かで極めてぼんやりとしているだけだ。湯も濃い白濁色で、これなら混浴を気にする必要もまずないだろう。

 部屋に戻ると、玉の湯でゆっくりしていた家内もほぼ同時に戻って来た。そして千人風呂の様子を私が説明すると、家内も段々とその気になって来る。

 「それなら勇気を出して、私たちの食事が終わった直ぐ後に、空いてたら行ってみようかな。」

 「ホントにちょっと離れただけで、人がいるかいないかもわからないよ。折角来たんだから、好きな時に好きなだけ入ってみたら?」

 そんな話をしながらテレビのニュースを見ているうちに、早くも夕食の時刻になった。外はもうすっかり暮れて、雪国の夜景が始まっている。
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 食堂ではたくさんの品数の料理が供され、三種類の地酒の飲み比べセットなどもあって、私たちは酸ヶ湯の夜をゆっくりと楽しませていただいた。(地酒の中では弘前の『豊盃』が実に素晴らしい!)八甲田ゴールドラインが冬も通じているとはいえ、雪深い山奥でこんなに豊かな食事を楽しめるのだから、今の私たちは大変な贅沢をさせていただいている。333年前に手負いの鹿を追っているうちにこの温泉を見つけたという猟師は、後にこんな時代がやって来ることなど想像もつかなかったことだろう。
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 夕食の後、私は家内の「混浴デビュー」に付き合うことにして再び千人風呂へ。(付き合うといっても、湯槽は中央で男女のエリアが二つに分けられているので、お互いに何も見えないのだが。)それですっかり味をしめたのか、家内は寝る前にもう一度、ニコニコ顔で千人風呂に浸かりに行っていた。

 雪深い八甲田火山群の麓から熱い湯が豊かに湧き出す酸ヶ湯温泉。「地の恵み」という言葉がこれほどぴたりと当てはまる場所も少ないのではなかろうか。ゆっくりと湯に浸かりつつ、改めてこの国の神々に感謝を捧げたい。
(To be continued)

今年の漢字 [自分史]


 毎年12月の中旬になると、京都の清水寺で「今年の漢字」が発表される。奥の院舞台に立てかけられた特大の和紙に寺の貫主が漢字一文字を墨黒々と揮毫する姿は今や年末の風物詩だが、その歴史は思っていたより新しくて、平成7年が初回なのだそうだ。それは阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件があった年で、選ばれた漢字は「」。その年に日本社会が体験したことをまさに凝縮した文字だった。

 今年(2016年)の漢字は「」。この字が選ばれたのは3回目で、過去2回はいずれも五輪大会のあった年だというから、まあ無難というか、面白味のない選択だった。もっとも、「きん」と読むか「かね」と読むかは人それぞれなのだろうけれど。
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 間もなく終わろうとするこの一年を自分なりに振り返り、それを象徴する漢字一文字を私が選べと言われたら、色々考えた挙句、それは「」という字になるだろうか。読み方は「そと」、「がい」、「ほか」、「はずれ」のどれでもいいだろう。

 日本企業の経営活動で言えば、苦境の続いたシャープが台湾企業の出資を仰いでその傘下に入り、粉飾決算に揺れた東芝は白物家電部門を中国企業に売却。他方、ソフトバンクがサウジアラビアのファンドと組み、グローバルにテクノロジー分野を投資対象とするファンドを設立して10兆円規模の投資を目指したり、大手製薬会社などが次々に外国企業を買収したりと、国境を越えた内外の資本の動きは引き続き活発な年であった。

 また、直近ではあまり話題にならなくなったが、今年になって世間を騒がせた出来事の一つが、いわゆる「パナマ文書」のリークである。パナマのタックスヘイブンを利用して資産に対する租税を回避するという、富裕層や大企業だけが利用出来る節税(or脱税?)スキームやその行為に対する批判が世界レベルで高まり、実名を暴かれた政治家が退陣を余儀なくされた国もあった。これも国の「外(そと)」が絡む出来事であった。
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 国の「外(そと)」といえば、シリア情勢の一層の混迷から欧州に押し寄せた難民問題は一段と深刻化。偏狭なナショナリズムが各地で煽られる様子はまさに憂慮すべき事態である。多様な民族が混在する欧州ですら、中東からの移民、イスラム教徒といった異質なものの受け入れが治安の悪化に繋がるので排除したいという声を抑えきれないのだ。そして、英国は今夏に実施した国民投票で遂にEU離脱を選んでしまった。域内での人の自由な移動を認めるEUの中にいてはこのような移民の流入を適切にコントロール出来ないというのが、離脱を決めた大きな理由の一つだった。

 他方、我国の周辺では、東シナ海でも南シナ海でも中国とその他の国々(含:我国)との間で領有権を巡る緊張関係が続いた。とりわけ南シナ海では中国が南沙諸島海域の暗礁を埋め立てる形で人工島を建設し、軍事拠点化を進めている。7月にはオランダの常設仲裁裁判所がフィリピンの申立に関して、南シナ海を巡る中国の主張を全面的に否定する判断を示したが、当の中国はどこ吹く風である。19世紀から20世紀前半にかけて列強諸国に「いいようにしてやられた」経験を持つ中国は、力をつけた今は外に向かって仕返しをする時期だと考えているのだろうか。

 そして米国では、国を二分する選挙によって、あのドナルド・トランプが次期大統領に選ばれた。彼の年来の主張を大統領就任後も本当に続けるのかどうか、今は未知数ではあるが、彼が言っていることは要するに「米国にとって災いは全て国の外からやって来る」ということだ。「為替レートを人民元安にしている上に、ダンピングで自国製品を売りまくる中国が悪い」、「人件費の安さにモノを言わせて米国から雇用を奪うメキシコが悪い」、「安全保障のコストを十分に負担しない日本が悪い」・・・といったことの羅列である。それでなくても、ハリウッド映画を眺めていると米国人というのは何かと外敵を作ることが好きなようだ。

 ここまでに、「そと」という意味で「外」の字を8回使った。しかし、この字は「そと」・「がい」の他に「はず(れる)」とも読む。そして、外れると言えば、既に述べた英国のEU離脱やドナルド・トランプの当選という出来事ほど、世界中のメディアの事前予想が悉く外れたものはなかったのではないか。
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 ここまでは世界の出来事に目を向けた話だったのだが、実は私の会社も予想を大きく外したものがあった。それは、今年度の事業計画の策定時に前提条件として置いた外部環境のシナリオである。

 今年二月のある週末、会社の役員・部長クラスが全員集まって、新年度の事業計画に関するブレーンストーミングを試みたことがあった。そしてその時に総じて皆がイメージしていたのは
「世界中どこを見ても、いい話を聞かない。中国は経済成長の減速が続くだろうし、米国も年の後半には景気がスローダウンするとの見方があり、二度目の利上げはまだまだ先になりそうだ。日本の金融政策も遂にマイナス金利に突入したが、物価の上昇と消費の拡大は望み薄だろう。」
という2016年度の外部環境であった。

 そんなシナリオを前提に、私たちは事業計画の数字を組み立てた。予想販売量は決して背伸びをせず、生産効率を上げるために社内の構造改革を進めて、控えめながらも決して赤字だけは出さないことを旨とするコンサイスな事業計画を作ったのである。ところが、蓋を開けてみると2016年度の外部環境はその事業計画とは全く異なるものとなった。今はむしろ、予想を上回る顧客の需要に応えることが出来ず、製品を作りきれない状態が半年近くも続いている。しかもそれは来年以降も続きそうなのである。モノ作りの会社にとって、顧客からの注文に応じ切れないことほど忸怩たるものはないのだが、要は、私たちには半年先の外部環境すら読めなかったことが全てなのだ。2016年の「今年の漢字」は、私の会社にとっても「外(はずれ)」だったのである。

 とはいうものの、その「外れ」が示すものは、今はまだおぼろげながらも、私たちの事業に大きなビジネスチャンスを与えてくれる可能性を秘めた近未来の社会が着実に近づいているということだ。AI(人工知能)やIoT(物のインターネット)が営利事業や公共サービスのあり方を大きく変えると言われる「第四次産業革命」。それによって到来するであろう新しい社会を、私たちの製品が縁の下の力持ちとして支えて行けるかもしれない。だとすれば、私たちが今取り組むべきことは、目先のことばかりに囚われず、その先を見据えて力をつけ、準備を進めて行くことだ。年明け早々から忙しいことになりそうだが、大いに頑張りたいと思う。
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 来年の今頃、「今年の漢字」は「当(あたり)」だと胸を張って言えるように。

変わらずにいること [自分史]


 1972(昭和47)年3月5日というと、今から44年と9ヶ月も昔のことになる。それは穏やかによく晴れた日曜日だった。

 当時の天気図をネット上で調べてみると、この日は冬型の気圧配置が緩み、中国の江南地方に中心を持つ移動性高気圧から東に気圧の尾根が延びていて、日本列島では等圧線の間隔が広くなっている。暦の上ではちょうど啓蟄にあたる日だったのだが、まさにその名の通りの天気となった。
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(1972年3月5日午前9時の天気図)

 その日、あと三週間足らずで中学校を卒業という年頃だった私は、級友のI君と二人で信州の伊那谷を訪れていた。今、手元にあるその年の国鉄時刻表を見る限り、当時の私たちは前夜の23時45分に新宿を出る急行アルプス11号に乗ったはずである。遠出をするなら夜行列車に乗るのが当たり前の時代。中学生の二人が車内でどれほど眠れたのかはともかく、列車は午前4時33分に伊那谷への入口にあたる辰野に到着し、そこで直ぐに接続する飯田線の普通列車に乗り換えて、朝の5時半過ぎに田切という小さな駅に降り立った。

 鉄道少年であった私たち二人の目的は、飯田線を走る旧型国電の写真を撮りに行くことだった。当時、東京や大阪では国電といえば101系や103系が全盛の時代だったが、それらに取って代わられたお古の電車(戦前型或いは戦後改良型の電車)が御殿場線や身延線、飯田線、大糸線などで余生を過ごしていた。昭和46年に蒸気機関車が国鉄全線から姿を消した後、鉄道マニアの間で希少価値があったのは、こうしたオールドタイマーの電車だったのだ。

 早朝の田切駅。そこで降りたのはもちろん私たちだけだった。鉄道と並行する道路を北方向に歩き、与田切川に架かる橋の手前で河原に降りると、飯田線の鉄橋の背後に雪を抱いた中央アルプスの山々が聳えている。そこには朝日が当たっているが、鉄橋はまだ日陰の中だ。そこへ上り列車がやって来た。横須賀線と同じ「スカ色」と呼ばれるツートンカラーが施された旧型国電。先頭はクモハ54形だ。
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(1972年3月5日撮影)

 私たちがカメラを構えていた河原から眺める飯田線の線路。この区間は「田切のオメガカーブ」として鉄道ファンには知られていた。赤い鉄橋と中央アルプスという組み合わせが絵になることに加えて、大きなカーブで列車が減速するために写真が撮りやすかったのである。
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(赤丸部分が「田切のオメガカーブ」。背後は中央アルプス)

 やがてディーゼル急行「こまがね」がやって来る頃には、伊那谷の中にも朝の光が当たり始めた。中央アルプスの空木岳(うつぎだけ、2864m)や南駒ケ岳(2841m)の白いピークが眩しい。
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 東京からはるばる飯田線へやって来た私たちの一番のお目当ては、「流電」と呼ばれた52系電車だった。戦前の一時期に世界的な流行を見せた流線型スタイルの電車で、全盛期は京阪神地区を中心に活躍していたものだ。先頭車のスタイルが実に優美で、古き良き時代を感じさせる。当時の私たちが中学生ながらこのようにレトロな物に魅力を感じていたのは、なぜなのだろう。
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 東海道本線の豊橋と中央本線の辰野を結ぶ飯田線は、明治時代の後半から昭和の初期にかけて建設された路線で、四つの私鉄(南から順に豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気軌道(後に伊那電気鉄道))から成っていたものが昭和18年に戦時国有化されたものだ。

 こういう風に私鉄の、それも最初から電気鉄道としてスタートした路線であったことから、地方路線であるわりには駅の数が多い。そして天竜川の渓谷が最も険しくなる天竜峡以南の地域では、その昔は並行する道路の事情が極めて悪かったこともあり、荷物や郵便を運ぶ鉄道車両が活躍していた。更には、私鉄時代の電気機関車が戦時国有化後も国有鉄道の車両として車両番号を割り振られ、戦後も活躍を続けていたのだ。それやこれやで飯田線の姿には何かと特色があり、ここでしか見られない鉄道車両も多かったのである。
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(単行運転の荷物車 クモニ83の100番代)

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(伊那電気鉄道から国鉄に引き継がれた電気機関車ED26)

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(まるで鉄道模型のジオラマのような貨物列車)

 中央本線の岡谷・塩尻間は、私たちが飯田線を訪れた11年後の1983(昭和58)年に塩嶺トンネルを抜ける短縮ルートが開通したために、岡谷から辰野を回って塩尻へ行く旧ルートは支線の位置付けになり、列車の運行本数も格段に少なくなった。その影響もあってか、飯田線北部の列車ダイヤは、今では平日の朝夕を除いて一時間に一本だが、私たちが訪れた頃には、日中にも一時間に少なくとも二本の電車が上下それぞれに走っていたから、電車の撮影にも退屈することはなかった。というよりも、あまりにも良い天気なので、列車を待つ間は中央アルプスと南アルプスの山々を、それらが何という名前の山なのかは知らないながらも、私は飽きずに眺めていたのである。
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(踏切の向こうにも高い山が見えていた)

 その中でも特に、東の方角に遠く高く聳えていた白銀の峰に強い印象を受けた私は、そのピークに向けてカメラを構えていた。南アルプスは伊那谷から眺めると朝のうちは逆光になるのだが、日が回ると次第に山が立体的に見えてくる。それにしても、望遠レンズを通して一眼レフのファインダーに写し出されたその山は、実に堂々たる姿だった。
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 その時にこの山の写真を撮ったことを、私はその後すっかり忘れていた。旧型国電の写真を撮ることが旅の目的だったのだから無理もない。そして飯田線を訪れた翌月の1972(昭和47)年4月、私は高校生になり、クラブ活動には山岳部を選ぶことになった。

 高校山岳部ながら積雪期にもしっかりと合宿を張る伝統があり、その年の暮には北八ヶ岳へ。そして翌年3月の春休み期間中にはピッケルを構えて南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)に登頂することになった。もちろん雪はまだたっぷりある時期で、3千メートル級の山だから吹雪けば厳しい。だがベースキャンプから頂上アタックを試みた日は幸いにして穏やかな天候に恵まれ、私たちは無事に登頂を果たすことが出来た。それは、今もなお鮮明な記憶として残る、高校一年生の私にとっては宝物のような体験であった。

 それから何年も時が過ぎた或る日、飯田線で撮影した写真を綴じたアルバムを再び手にした時、私は思わず声を上げた。数々の電車の写真と共に収められていた山の写真は、何とその仙丈ヶ岳だったのだ。

 あの時の私は、それが仙丈ヶ岳という名前の山であることも、ちょうど1年後には自分がその頂上に立つことになることも何も知らぬまま、ただその姿に惹かれてカメラを向けていたのだった。それは何かの巡り合わせというよりも、最初からそういう運命だったのだと考えるより他はない。

 今年の夏、或る鉄道模型のメーカーから新発売となったNゲージの車両を、インターネット経由で私は購入した。それは44年前のあの時に飯田線で出会った、クモハ54形を含む二両編成の旧型国電である。あれから長い年月が流れたが、飯田線を走る旧型国電に心を躍らせ、そして背後に聳える白銀の山々を見つめていた私の本質的なところは、還暦を迎えた今も殆ど変わっていないのではないかと、自分でも思う。
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 昨日の12月3日(土)、私が幹事になって、中学のクラス会を久しぶりに開いた。今年の4月から来年3月までの間、皆がそれぞれに還暦を迎える記念の年である。男女合わせて41名の同級生。残念ながら既に二人の物故者が出ているが、残る39名の内21名が集まってくれた。海外や地方在住者が何人かいることを考えれば、よく集まってくれたといっていいだろう。

 あの時に一緒に飯田線まで出かけたI君もその一人だ。彼は今も健康そのもので、得意なテニスやゴルフを熱心に続けている。私も山登りを何とか続けていて、それだけでもお互いに幸せなことである。加えてこの日は、中学卒業以来の再会という同級生も参加してくれたりして、夜遅くまで賑やかなことになった。

 みんな同級生だから、人生の時間軸をお互いに平行移動している訳で、その点では還暦になった今も、「あいつはちっとも変わってないなあ」と思うことが多い。その「変わっていない」部分をそれぞれに大切にしながら、同級生たちとはこれからも、お互いに元気を貰い合う関係を続けて行きたいと思う。

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 ♪ 大事なのは 変わってくこと 変わらずにいること ♪

 そういえば、こんな歌があったな。

再会 (3) [自分史]


 日曜日の朝、ホテルの部屋で目が覚めたのは5時半を少し回った頃だった。

 今からちょうど35年前、社会人一年生の私にとって最初の任地となった北陸の富山。そこで約3年間の支店生活を共にした先輩方と計8組の夫婦で懐かしい富山に集まった昨夜の会合は、二次会も大いに盛り上がり、ホテルに帰り着いたのは夜の11時少し前。それから大浴場で汗を流し、部屋に戻った後は家内も私も当然のことながらバタンキューだった。

 朝食までにはまだ時間がある。家内には朝風呂を楽しんでもらうことにして、私は懐かしい富山の街中へ30~40分ほど散歩に出ることにした。金曜・土曜と二日続いた晴天。今日はそれがゆっくりと下り坂になる予報だ。雨になる心配はないようだが、雲量は時間と共に増えていくようである。

 ホテルを出ると、小ぶりな富山城が昔と変わらぬ姿を見せている。
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 今は富山市の西部を南から北へ真っ直ぐに流れて海に出る神通川。けれどもそれは、昭和の初めまでは富山市内で大きく東へ蛇行し、それから半円を描くようにして現在の富山駅の北側へと流れていた。つまり、現在の松川という小さな川の流れが昔の神通川の蛇行の名残で、あの戦国の武将・佐々成政が居住した富山城は、蛇行する神通川の右岸に接して築城されていたのである。
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(松川が昔の神通川のルートだった)

 蛇行する神通川は氾濫を繰り返し、常設の橋を架けるのも難しいため、64艘の舟を鎖でつなぎ、中央に板を渡した「舟橋」が設けられた。慶長年間に加賀前田家の二代目・前田利長が造らせたのがその始まりだそうで、以後、日本一の舟橋として全国に知られるようになる。

 今月の初めに東京のサントリー美術館で「原安三郎コレクション 広重ビビッド」という美術展を開催していて、家内と二人でゆっくりと鑑賞する機会があったのだが、その際に展示されていた歌川広重の『六十余州名所図会』の中にも、この日本一の舟橋が描かれていた。水流によって舟が川下側に弧を描くから、この絵は蛇行する神通川の北側、つまり現在の富山駅のあたりから南方向を眺めた絵であることになる。
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 富山城の前から路面電車の通る道を西方向に歩き続けると、現在の神通川に架かる富山大橋の近くにやって来る。歩いてきた方向をふり返ると、今朝は立山・剣岳の山頂は雲の中だが、北方の毛勝三山が市街の彼方によく見えている。やっぱり富山は北アルプスが近いなと改めて思う。
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 そして脇道に入ると、今朝の散歩の目的地であった、かつて私が3年弱を過ごした独身寮が、ほぼそのままの姿で残っていた。私の社会人生活の第一歩がここから始まった。そう思うと、やはり胸が熱くなってしまう。
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 学生上がりで世間知らずの生意気な若者であったに違いない私を、あたたかく迎えてくれた独身寮の緒先輩方。あの時代の寮生の声が今でも聞こえて来そうだ。昨夜の会合でも話題に上った私たちの「武勇伝」の数々も、今となっては笑い話だが、若気の至りとはいえ、今から思えば随分ととんでもないことをしていたものである。

 あれから30年以上もの歳月が過ぎたというのに、思い出は尽きない。それは先輩方も同じで、だからこそ昨夜は8組の夫妻が集まることが出来たのだ。そんな風にして心の故郷を先輩方と今も共有できるとは、何と幸せなことだろう。

 昔の自分に戻ったような気分に半ば囚われながらホテルに帰り、家内と朝食をとる。そして送迎バスで富山駅に向かい、予定通り08:31発の金沢行き新幹線「つるぎ709号」に乗車。乗ってしまえば金沢までたったの22分なのだから驚きである。

 土曜日を富山で過ごすのであれば、日曜日は金沢を半日歩こうか。家内とはそんな約束をしていて、訪れるスポットも家内が行きたい場所を選んでもらった。かつての富山時代に私は何度か金沢にも遊びに行ったが、いわゆる観光スポットはあまり訪れていない。家内は学生時代に一度行ったきりだというから、どちらにとっても遠い昔のことだ。そして、若い頃と今とでは嗜好も変わる。見違えるほど近代的になった金沢駅から路線バスに乗り、私たちが最初に降り立ったのは東山ひがし茶屋街と呼ばれるエリアだった。
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 第二次大戦で米軍による空襲を受けなかった金沢は、古い町並みを至る所に残しているのだが、この茶屋街は特に伝統的な木造家屋の街並みを残している。それを目当てに、梅雨の最中の今日も、朝の10時前だというのに数多くの観光客が訪れている。その中で国指定重要文化財のお茶屋さんの中を見学させていただいたが、外国人の観光客も多く、大盛況というほどの混雑ぶりだった。

 江戸末期の文政時代から明治期にかけての木造の街並みがそのまま残るこの地区は確かに魅力的なのだが、金沢の伝統工芸を売りに観光客をあて込んだ土産物屋やカフェなども多く、私たちも最初はしげしげと眺めていたものの、次第に飽和感に囚われるようになった。一時間ほどで、もういいかなという気分になってきたのである。

 たまたまその地区の中に、家内の大学時代の先輩であるUさんが外国人観光客向けの簡易宿泊施設をこの4月に開いたというので、少しだけお邪魔して様子を拝見することにした。茶屋街の中心地から徒歩5分程度。一人幾らではなく一部屋幾らの料金体系で、食事は提供せず、トイレ、シャワー、キッチンなどは共同という、外国人が比較的安価で滞在する時に利用するタイプの宿である。
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 部屋の様子も見せていただけるというのでお言葉に甘えてしまったが、小さな個室あり、二段ベッドの大部屋あり、畳敷きの和室に二段ベッドの部屋ありと、旅行者の様々なニーズに合わせた部屋が幾つか用意されていた。
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 共同のキッチンの壁には世界地図が貼ってあり、これまでに滞在した旅行者の母国がマークされている。既に30ヶ国を超えたそうで、中国や東南アジアが中心のようだが、最近では東欧や中東からの旅行者も増えて来ているという。旅の宿はいわゆるホテルだけではなく、こうした宿泊施設で安価に、その代わりじっくりと滞在するニーズは確かにあるのだろう。そして評判が良ければインターネットを通じて世界中から予約が入る。面白い世の中になったものだ。

 最新の金沢旅行事情を拝見させていただいた私たちはUさんとお別れをして、再び路線バスを利用。金沢城址と兼六園の間を抜けて、広坂に出た。そして、金沢能楽美術館をゆっくりと見学し、すぐ隣の加賀友禅のショップを眺める。富山と同様、金沢も昨日の晴天が今日はゆっくりと曇っていくお天気なのだが、お昼に近くなり、外はだいぶ蒸し暑くなってきた。

 たまたま金沢能楽美術館の隣の二階に小さなカフェがあり、和風のケーキやアイスクリームを楽しめるようなので、そこで一休みしようと、階段を上がる。本当に行き当たりばったりで入ったカフェだったのだが、これが大正解で、広々とした間取りに席が用意され、窓から見下ろす外の緑の眺めが実に心地よい。そしてお茶のテイストのケーキやアイスクリーム・パフェのあっさりとした甘味が何とも美味であった。特に旅を急ぐ訳でもなく、伝統美術を楽しんだ後にこうしたカフェでゆったりとした一時を過ごす。家内も私も、いつの間にか大人の旅をするようになったものである。
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 カフェで緑を眺めながらしばし涼を取った後、私たちは徒歩で香林坊経由、武家屋敷街へ。その中でも、ミシュランの観光地格付けで2つ星を得たという野村家では、その縁側に腰掛けて、心落ち着く庭園をじっくりと眺めることができた。
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 武家屋敷街からは近江町市場を経由して、私たちは結局金沢駅まで歩いてしまった。午後2時を回り、駅ビルの中はお土産品の買物客で混雑。そして、東京行きの新幹線「568号」の指定席は満席だった。乗車1ヶ月前に指定券を買っておいたからよかったが、梅雨の時期ながらも北陸旅行はなかなかの盛況ぶりである。
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 昨年の北陸新幹線開業を受け、今年になって実現した「富山会」。30年以上も前に富山支店勤務でお世話になった先輩方と夫婦単位で再会することが出来た今回の集まりは、私の人生の中でも思い出に残るイベントであった。そして、4年後に再び集まることを皆で約束した以上は、お互いに今まで以上に健康に気をつけて、それぞれに夫婦仲良く暮らして行こう。

 砺波平野の水田風景が、新幹線の窓の外を流れていく。

 さらば、富山。また4年後に!

再会 (2) [自分史]


 北陸新幹線の富山駅ホームから階下に降りて南口から外に出ると、駅ビルも駅前広場も35年前からは一変していて驚いた。何ともスマートな景観になったものである。
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 市内を走る路面電車は、昔は駅前広場の片隅に電停があって駅ビルからは結構離れていたのだが、今は駅ビルを南北に縦断するような形に線路が延伸され、新幹線や在来線からの乗り換えがしやすいようになっている。しかも、市の中心部を周回運転する「環状線」が新設されたのだ。セントラムという愛称を付けられた欧州スタイルの路面電車に家内と私は早速乗り込み、街中へと向かう。ほどなく、トラムは富山城址公園の南西側を回りこむようにして、国際会議場前の電停に到着。私たちはその近くに予約しておいたホテルに手荷物を預け、直ぐに昼食の場所へと出かけることにした。
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 今から30年以上も前、大学を卒業して社会に出たばかりの私が最初の任地としてこの富山で過ごしたのは、1981年の4月から84年の2月まで、3年にちょっと欠ける期間であった。それから東京に戻り、2年後の5月に結婚。だから、家内は私の富山生活を知らない。当時の富山支店のメンバーの中から8組の夫妻が懐かしい富山に集まろうという今回の企画。皆が集合する夕方までの間、家内には富山の街中を見てもらうことにしよう。

富山の寿司

 目当てにしていた寿司屋は、そのホテルからは目と鼻の距離だ。総曲輪という昔の繁華街の一角である。今から35年前に私が新人として富山に赴任し、3年足らずの生活をエンジョイしていた間、同僚たちとこの店にはよく足を運んだものだ。その当時から店内は禁酒・禁煙。純粋に寿司を楽しむ人々だけが行列を作る店だった。

 11:30の開店なのだが、11:25に行ってみると既にカウンターは埋まり、更に順番待ちの4組ほどが背後の腰掛に座っていた。私たちはそこに辛うじて座れたのだが、直後には次の客が現れ、そこから先は立ったまま待たねばならない。危ないところだった。

 美味しいお店では順番を待つのも楽しみの一つ。東京の寿司屋ではお目にかかれないようなお品書きの数々を眺めながら待つこと45分。ようやくカウンターに案内され、私たちは「富山の味握り」というコースに味噌汁を付けてもらうことにした。

 シマアジ、イカ、焼きアナゴ、バイ貝、タイ、甘エビ、マグロ、白エビ、カニ・・・。寒流と暖流が流れ込み、水深が深く、日本海に生息する魚介類800種のうちの500種が棲むという富山湾ならではの素晴らしい食材の数々。富山にいた間は毎日のようにこんな美食に囲まれていたのだから、今から思えば贅沢な独身時代だったというべきだろう。日頃の罪滅ぼしも兼ねて、この店にはいつか家内を連れて来たいと思っていた。

 私たちのような遠来の観光客だけでなく、カウンター越しのやりとりを見ていると地元の常連さんも多いようだ。握る方もいただく方も寿司に集中しているから、スマホで写真を撮ったりするような人は皆無で、お店の中の良い意味での緊張感が素晴らしい。そんなお店に敬意を表して、外観だけを写真に残しておくことにしよう。
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富山の売薬

 美味しい寿司を堪能した後、総曲輪のアーケードを抜けて堤町通りへ。広い道路を隔てて北陸銀行本店の向かいに老舗の薬屋さんがある。その白壁土蔵造りのレトロな建物は改修中で建築資材に覆われていたのは残念だったが、中は普通に営業中である。富山の代表的な胃腸薬「越中反魂丹」のメーカーとしても有名な老舗だ。
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 江戸時代の初期から財政難に苦しんでいた富山藩が、収入を得るための産業振興の一環として奨励されたという製薬業。家庭用の置き薬を背に全国を回った「越中富山の薬売り」の姿と、まず先に使ってもらい、後からお代をいただくという「先用後利」のシステムが有名だが、それを可能にしたのが、製薬業が実は利益率の極めて高いビジネスであったことなのだそうだ。(確かに昔も薬の製造原価は不透明なところがあったのだろう。)

 店頭に並ぶ昔懐かしいデザインの薬の数々。これが昔の薬のコレクションではなくて今も商品として売っている物だというのは驚きだ。大手チェーンのドラッグストアなどではついぞお目にかかったことがない。どこかユーモラスなパッケージを眺めていると、それだけで気分が少し楽になりそうである。
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呉羽山公園

 薬屋さんを見た後は、タクシーで富山市西部の呉羽山公園へ。そこは小高い丘で、富山の市街を眺め下ろすことができる。また、春は桜の名所だ。よく晴れていれば彼方に立山や剱岳をはじめとする北アルプス北部の山々が屏風のように並ぶ。そんな場所なのだが、梅雨の晴れ間とはいえ、今日はだいぶ気温が上がったから、昼過ぎともなれば高い山々は雲の中である。
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 30年以上前にここから眺めた時と比べると、当時はなかった高層ビルが幾つか見えることに加えて、北陸新幹線の高架がやはり目新しい。

 展望台の先をもう少し歩いていくと、長慶寺という寺の境内へと下りていく階段があり、五百羅漢と呼ばれる石仏群を間近に見ることができる。ここは独特の趣がある静かな場所で、私は好きだった。雪が降り積もった時期に来たこともあったのだが、今日のように鮮やかな新緑に囲まれた時期もなかなかいい。あれから30年以上が経って、今はこうして家内と二人でこの場所を歩いていることが、何だかとても不思議に思えて来る。
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岩瀬の町並

 長慶寺の五百羅漢から富山民族民芸村に出て、幾つかの展示物を見ているうちに、30分に1本の路線バスがやって来た。それに乗ってしまえば富山駅までは10分ほどである。だいぶ暑くなったので駅で冷たい飲み物を買い求め、私たちは駅の北口からポートラムと呼ばれる路面電車で岩瀬に向かった。かつて国鉄の富山港線というローカル線だったのを路面電車用の軌道に改編し、駅の数とダイヤを増やし、欧州スタイルの車両を投入した結果、利便性が増えたので利用者が増加し、地域の足として復活している。今や「富山のライトレール」といえば、路面電車が復権した代表的な成功例だ。

 富山駅北口から20分ほどで東岩瀬に到着。国鉄時代のホームと駅舎が残されていて、ちょっと懐かしい雰囲気だ。
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 駅から岩瀬地区の街中へと入っていくと、旧北国街道だった道路の両側に木造の昔ながらの建物が並んでいる。岩瀬は江戸時代の初期から北前船が出入りする港町として栄え、街道に廻船問屋が軒を並べていた町である。現在残っている家屋の多くは明治時代に建てられたものだそうだが、今も営業している酒屋も銀行もその景観にマッチした造りになっているのが素晴らしい。(天気の良い土曜日の午後なのに人通りが殆どないのは残念だったが。)
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(「満寿泉」で有名な桝田酒造店)
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(銀行の店舗)

 そうした廻船問屋の中で栄華を極めた森家の屋敷は国指定の重要文化財になっていて、中を見学させてもらえる。30年以上前に私が富山にいた頃にはついぞ訪れたことなどなかったのだが、今はこうして家内と二人で大人の旅をするようになったか・・・。
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(廻船問屋森家)
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 森家の屋敷のすぐ近くには富山港展望台という素朴な施設があって、地上20mほどの高さから富山港一帯を眺めることができる。6月上旬だから夕方5時に近いといっても陽はまだ高く、海の向こうに能登半島の付け根の部分が見えていた。
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そして、再会

 展望台を下りてもう少しだけ岩瀬の街中を歩くと、時計は5時を回っている。スマホのGoogle Mapで現在地を確認しながら、私たちは今日最後の目的地に向かった。1911(明治44)年創業のこの街一番の老舗の料亭である。その当時から残る建物は重厚で、北前船の船底の板を使ったという看板が歴史を感じさせる。
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 家内と私がその看板を眺めていたまさにその時、一台のタクシーが店の前に停まり、中から見覚えのある二組のご夫婦が降りてきた。

 「どうも、しばらくでした!」
 「いやあ、お久しぶり!」
 「車の中から見ていてすぐにわかりましたよ。本当にご無沙汰してました!」

 かつて私の上司だったKさんは13年先輩だから既に喜寿を超えておられるのだが、同乗されていた4年先輩のIさん共々、本当にお変わりがない。考えてみれば、このお二人にお目にかかるのも20年ぶり以上のことだ。奥様方とは、もちろん富山を卒業して以来の再会である。

 挨拶もそこそこに皆で料亭の中に入り、奥の部屋に通されると、既に二組の先輩夫婦が来ておられた。ここでも同じように肩を叩いて再会を喜び合う。残りの三組も三々五々到着して、定刻の5時半を待たずに全員が揃った。皆、今日のこの場を楽しみにしていたのだ。テーブルには、今が最盛期の富山湾の白エビが運ばれてきた。
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 それから始まった「富山会」。お会いする方々の殆どにこれだけ長い間ご無沙汰をしていると、何から話を始めて良いのやら普通なら迷うところだが、お互いに富山に来ていることも手伝ってか、私たちはあっという間に30数年前の昔に舞い戻り、色々な話に一気に花を咲かせた。8組の夫妻の内の2組は富山の職場の中で成立したカップルだったから、奥様方のことも私はよく知っている。向こうもそうだから、私がもうすっかり忘れてしまったことなども話題にのぼる。初めて聞く私の若い頃の「武勇伝」に、家内は目を丸くしていた・・・。

 当時の私たちの会社は、元々が上下の分け隔ての少ないリベラルな雰囲気を伝統的に持っていた。事業の規模に比して随分と少ない人数でやっていたから、形式ばったことをしていたら仕事が回らない。社内の主だった人の顔と名前は知っているのが当たり前だったし、相手が役員だろうが部長だろうが役職名では呼ばず、「○○さん」で済ませていた。

 それに加えて、仕事を通じて後進を育てるというカルチャーが社内には明確にあった。私たちのような駆け出しは叱られながら仕事の進め方を覚え、先輩方は忙しい中も時間を割いて私たちと向き合ってくれた。そんなことを通じて、仕事の能力の面でも人格・教養の面でも尊敬できる先輩方が大勢おられたのだ。今から思えば、本当に恵まれた職場だった。

 そんなカルチャーの中で、今から30数年前の一時期を富山の店で一緒に過ごしたメンバー8組が、それぞれに夫婦仲良く富山に集まって、再会を心から喜び合うことが出来たのだ。社会人としての自分の人生の中で、これほどの幸せはないだろう。
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 岩瀬の料亭から富山駅前のスポーツ・バーに場所を変えて、「富山会」は夜更けまで続くことになった。

(To be continued)

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