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東京のアーセナル [歴史]


 首都圏を南北に走るJR埼京線が開業したのは、1985(昭和60)年のことである。

 今や首都圏の典型的な通勤路線で、特に大宮・赤羽間は東北新幹線と並行して立派な高架橋を走るから、開業してからもう四半世紀が過ぎたという実感があまり湧かないものだ。そして、池袋・大崎間は山手線に並行する貨物線を利用していて、途中は新宿・渋谷・恵比須にしか停まらないから、概してスピードが速い。

 そんな中にあって、赤羽・池袋間は駅の造りといい沿線風景といい、どことなく昔の鉄道の匂いを残した区間である。線路は地面の高さを走り、踏切があり、他の地域に比べると古い建物が多い印象を受ける。

 私が子供の頃は、池袋・板橋・十条・赤羽の四駅の間を行ったり来たりする電車しかなかった。総武線と同じ黄色い車体の国電で、山手線の支線扱いだったから、その頃は「山手赤羽線」と呼ばれていたような記憶がある。後にその名称が「赤羽線」になったのは1972年のことだそうである。

 この区間の歴史は古い。明治時代に日本初の私鉄として設立された日本鉄道が現在の東北本線や高崎線を建設していく過程で、赤羽と品川を結ぶ路線が1885(明治18)年3月に開かれた。その時点で沿線に設けられた駅は、北から順に板橋、目白、新宿、渋谷、目黒の五駅だけである。

 そうした古い歴史を持つ赤羽駅と板橋駅の中間に、1905(明治38)年6月に貨物駅が設置された。それが十条駅である。翌年2月には一旦廃止され、その4年後に旅客駅として復活したそうだ。つまり、十条の駅は旅客駅としても101年の歴史を持つことになる。

 十条駅は、その両端に踏切が隣接していて、ホームは10輌編成の電車が停まるギリギリの長さだ。西口こそ小さな駅前ロータリーがあるが、駅舎はほとんどホームの幅ぐらいしかなく、いわゆるコンコース的なものがない。東口にいたってはホームのすぐ外側の細い路地を隔てて民家が密集しているため、板橋方に簡易な出口が一つあるだけだ。東京23区内のJRの駅で、これほど庶民的な体臭を持つ駅も珍しいだろう。
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 西口を出ると、駅前ロータリーの向こうに「十条銀座」というアーケードの商店街がある。XX銀座と名の付く商店街の中では都内有数の規模なのだそうだが、何ともレトロな雰囲気である。そのアーケードに入ってすぐ右に細い路地があり、そこを進むと駅の北側(赤羽方)に隣接する小さな踏切がある。まるでどこかの私鉄沿線のような風景だが、通行人は多く重要な生活道路であるらしい。

 その狭い路地を進んでいくと、昼前から何やら行列が出来ている。それも、並んでいるのはおばあちゃんたちばかりだ。不思議に思って様子を見に行くと、それは「篠原演芸場」という所で開演を待つ人たちだった。看板を見たところ、今時珍しい古風な演芸であるようだったが、帰ってから調べてみると、この篠原演芸場というのは、今や都内では浅草と並んで二つだけになった大衆演劇専門の小劇場なのだそうだ。このあたりがまた、十条の街が持つ庶民性の一つでもあるのだろう。
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 そこから路地裏を南に向かうと、やがて広い道路に出る。その向こう側には広々とした景観。そこは陸上自衛隊の十条駐屯地である。元をたどれば、明治時代に設置された陸軍の東京第一造兵廠があった場所だ。国内に近代工業がまだ発展していなかった時代、明治の軍隊は様々な兵器を自前で製造せざるを得なかった。そのための工場のことである。

  「大正八年(1919)に本所から被服本廠が移転した赤羽や十条周辺には、明治初期から赤羽火薬庫が設けられていたが、明治20年代以降、第一師団工兵第一大隊、近衛師団工兵大隊、王子火薬製造所、陸軍兵器支廠造兵廠、陸軍火工廠稲付射場、十条兵器製造所など、都心から陸軍施設が次々と移転(あるいは新設)してきた。組織名は幾度も変わったが、そのほとんどは終戦まで残り、地域全体が陸軍と密接に結びつくこととなった。」
 (『地図と愉しむ東京歴史散歩』 竹内正治 著、中公新書)

 十条の自衛隊駐屯地が東京第一造兵廠だったのに対して、線路の西側、現在は板橋区の帝京大学や東京家政大学のキャンパスになっている場所は東京第二造兵廠で、この両者と王子の陸軍倉庫とを結ぶ軽便鉄道も敷設されていたという。十条駅自体も最初は貨物駅として誕生したと前述したが、それも造兵廠が荷物を取り扱う駅だったのである。

  「これらの施設全体の面積は(中略)王子・滝野川両区(現北区)の約一割を占めていた。東京ディズニーランドの約四倍の面積に相当する。これだけの広大な軍需工場地帯でありながら、空襲の被害は軽微だった。明らかにアメリカ軍は、占領後の施設の活用を意図していたことがうかがえる。」
 (引用前掲書)

 なるほど、十条一体の路地が狭く、町並みが昔のままのようであるのは、こうした事情があったからなのだ。

 ロンドン北東部の郊外に、アーセナルという名前の地下鉄の駅がある。この地区のarsenal(兵器工場)の労働者がサッカーのクラブ・チームを結成し、やがてそれがプレミア・リーグの強豪として有名になったために、駅の名前も後からアーセナルに変更されたそうだ。とすれば、陸軍の施設が集まっていた赤羽や十条の一帯は、さしずめ「東京のアーセナル」ということになろうか。

 十条駐屯地の正門から敷地沿いに歩いて行くと、北東の角に一箇所だけ煉瓦造りの壁が保存されている。昔の変圧所だった建物のファサード(切妻破風)である。
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 更に敷地の東面に沿って歩くと、煉瓦造りの二棟の建物が目を引く。東京第一造兵廠の第275棟と呼ばれていたもので、長らく放置されていたが、現在は北区中央図書館の一部として活用されている。
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 そして、敷地の南側には広い土地に豊かな緑が残されていて、テニスコートも用意された北区中央公園になっている。その緑に埋もれるようにしてひっそりと建つのが、東京第一造兵廠の本館だった建物である。映画やテレビのロケにもよく使われているようだが、時代を感じさせる堂々とした姿が印象的だ。現在はこの公園の文化センターとして使われている。(元々は茶色の建物で、白く塗ったのは戦後の米軍であるそうだが。)
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 東京23区の中によくぞこのような施設が残されていると思うほど、十条の駐屯地は広い。陸・海・空の各自衛隊の「調達本部」というプレートが正門に並んでいるから、造兵廠の時代からの機能を受け継いでいるのかもしれない。
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 十条の東京第一造兵廠では、小銃、機関銃、通信機器に加えて、信管、火薬、弾薬などが製造されていたそうだ。様々な危険物を扱っていたから、そこでは不慮の事故も少なからずあったことだろう。敷地の外周の一画には、イチョウの落葉に埋もれるようにして、当時の工廠長名による「殉職慰霊碑」があった。
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 こうした遺構は時の経過に従って失われつつある。だが、近代化に向けて日本が必死に走り続けていた時代の足跡を目の前にすると、背筋を伸ばしたくなるような思いにとらわれてしまう。

 平成の時代の日本国民は、身の丈以上の暮らしを享受してきたが故に、名目GDPの二倍に達しようかという政府債務残高を抱えながら、政治はポピュリズムに怯えて身動きが取れない。そんな私たちは、貧しさを抱えながら明治の祖先たちがどんな思いでこの国の近代を築いてきたのか、その歴史に学ぶ姿勢を忘れてはならないだろう。

 十条駅に戻ると、101年の時を刻むように、踏切が鳴っていた。


半日の夏休み [歴史]

 横須賀線の電車が大船駅を離れ、住宅の建ち並ぶ中を左カーブで進んで行くと、その先の車窓には森の緑が急速に広がり始める。円覚寺の境内と肩を触れ合うような北鎌倉駅のホームを過ぎ、行く手に緑の山が迫ってくると、列車はトンネルへと吸い込まれる。程なく眩しい光が甦り、右手には扇谷(おうぎがやつ)の深い緑が青空によく映えている。そして、間もなく鎌倉駅である。

 今日は金曜日。私はスポット的に一日だけ会社から休みを貰った。家内と二人で平日の鎌倉を訪れるのも、三年ぶりのことだ。

 今年の夏は一家四人のスケジュールが揃わず、家内には夏休みらしいことを何もさせてやれていない。家族が揃う形でなければ、どこかへ旅をしたいとも家内は言い出さないし、普段は毎日のようにスポーツ・ジムに通っていて、そこでの友達も多いようだから、私もつい気楽に過ごしていたのだが、気がつけば八月も、もう終わりに近い。そんな訳で今日は半日、家内の好きな鎌倉へ連れ出すことにしたのである。気がかりだった天気は東京よりも遥かに良く、夏の青空がまだしっかりと存在感を見せている。

 家内と私が乗り込んだ午前10時半発の金沢八景行きのバスは、駅前から若宮大路に入ると、鶴岡八幡宮の正面を右折して、またすぐ左へ折れる道を進む。この街に幕府が開かれた時代、相模湾側には良港がなかったために、東京湾に面した六浦(むつら)が、鎌倉にとっては重要な港だった。今バスが走っている、鎌倉から朝比奈の切通しを越えて六浦へと至る「六浦道」は、その当時から枢要な道で、『関東御成敗式目』の制定で知られる北条泰時がその整備に努めたそうである。

 10分あまりで浄明寺バス停に到着。このあたりの地名は浄寺だが、私たちが目指しているのは浄寺だ。足利義満の時代の1386年以来、「鎌倉五山」の第五位とされてきた寺である。バス停の先の路地を左へ入ると、その浄妙寺の端正な山門が行く手に見えている。家内も私も初めて訪れる寺だ。背後の山の緑に夏の青空と入道雲。東京からちょっと遠出をしてきたという実感が湧いてくる。
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 山門をくぐり、いかにも禅寺の簡素ですっきりとした境内を進むと、正面に方丈が建っている。まずはお参りを済ませようと賽銭箱に目をやると、そこには「丸に二ッ引き」の家紋が。言うまでもなく、足利氏の家紋である。
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(浄妙寺の方丈)

 「足利氏は、源義家の子義国から出た。義国は義家から下野国(栃木県)の足利の地を譲られ、その地名を名字とした。義国の孫、足利義兼は、頼朝の鎌倉幕府開設に協力し、北条時政の娘を妻とし、上総介となるなど足利氏の基礎を固めた。」
(『中世都市鎌倉を歩く』 松尾剛次 著、中公新書)

 その義兼がこの地に極楽寺という寺を建てた。それが後に足利の世になって、尊氏の父・貞氏の法名に因んで「浄妙寺」に名を改めたという。

 「浄妙寺(もと極楽寺)は、持仏堂が発展したものと推測される。さらに、極楽寺という名前から、もとは念仏系の寺であったとすれば、屋敷の西側に作られたと推測されるので、浄妙寺の東隣に、足利貞氏邸があった、と推測される。」
(前掲書)

 貞氏は義兼の6代目の子孫だから、頼朝の幕府開設以来、代々の足利氏は幕府の要職を務めつつ、この場所に暮らしてきたということだろうか。浄妙寺の方丈の奥には山に向かって墓地があり、貞氏のものとされる墓がある。

 また、室町時代になると東国支配のために鎌倉公方が任命され、尊氏の次男・基氏に始まってその直系の子孫が歴代の鎌倉公方に就任するのだが、前掲書によれば、その鎌倉公方の御所(鎌倉府)も、この浄妙寺の東隣、足利貞氏邸のあった場所に置かれていたのではないかと推測されるそうだ。だとすれば、私たちが今訪れているのは、鎌倉におけるまさに足利氏ゆかりの土地なのである。

 時計を見ると、11時をだいぶ回っている。おっと、いけない。今日は家内のプチ夏休みのつもりで来たのだった。私一人が歴史に思いを馳せている訳にはいかない。枯山水の庭が作られた喜泉庵を眺めながら、境内の奥へと続く道を進む。
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(喜泉庵と枯山水庭園)

 墓地の横の坂道を上がっていくと、やがてレストランの看板が。そこを左へ入ると、緑の中に抱かれたような洋館が現れた。拝観料百円を払って浄妙寺の境内に入らないと辿り着けないという、世にも珍しいイタリアン・レストランである。(寺は17時には閉まるから、ここも夜は営業していない。) あたりはミンミンゼミの大合唱だ。
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 今日は浄妙寺を訪れてここで昼食をとることだけを、家内に提案していた。半日の夏休み。あちこち歩き回るよりも、好きな所でのんびり時を過ごすのもいいではないか。それに、この浄妙寺からバス道を隔てた向かい側は、「竹の寺」として有名な報国寺。鎌倉の中で家内の一番のお気に入りスポットだ。食後はそこで、久しぶりに竹林をわたる風を感じてみようか。

 山の緑に囲まれたこのレストランは、中庭が素敵だ。季節の良い頃なら、テラス席で外の風と日の光を体に感じながら食事を楽しむのが最高だろう。夏空の広がった今日は、そのテラスや中庭をガラス越しに眺めながら、ここまで来るのに既に汗をかいた私たちは、エアコンの効いた室内に席を取ることにした。
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 ここは石窯で焼いた自家製のパンが名物のようだ。せっかくの休日だし、こんなに天気も良いのだからと、私は「鎌倉ビール」、家内はグラスの赤ワインを注文。その軽いアルコールのせいか、窓の外の緑が一段と濃くなったようだ。

 やがて運ばれてきたのは、夏向きの冷たいスープと、三種類のパンのスライス。そしてメイン・ディッシュは家内と私でそれぞれ異なるものを選んだのだが、いずれもロースト・ビーフ、或いは生ハムやソーセージ、チーズなどに生野菜がたっぷりと添えられた、素敵なプレートだった。家内も満足してくれたようで何よりである。
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 食後のコーヒーを楽しんだ後、私たちは中庭に出て、花と緑に触れてみる。真昼の太陽は空高く、とたんに汗が出るが、緑の中にいるのは、やはり気分のいいものだ。それにしても、周囲の森で大合唱を続けているミンミンゼミたちは、あんなに元気一杯鳴き続けて声が枯れたりしないのだろうか。
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 レストランを出て、坂道をのんびりと下る。浄妙寺の山門を出てバス通りを渡り、向かい側の路地を南方向に少し登っていくと、もうそこは「竹の寺」・報国寺の山門だ。北条の世が潰えて元号が建武に改められた年に建てられた禅寺だという。それから凡そ百年後、初代の鎌倉公方・基氏から数えて四代目にあたる持氏が京都の将軍・義教と対立し、永享の乱(1438~9)を起こしたが敗れ、この北方にある永安寺で自刃。それを受けて持氏の子・義久が齢14にして自害したのが、この報国寺だそうである。

 「歴代の鎌倉公方は、足利基氏を除いて、長ずるに及んで室町将軍位を狙い、将軍と対立するに至った。その背景には、足利氏嫡流につらなるという貴種性と、鎌倉府が幕府から広範な自治権を認められ、例えば知行宛行(ちぎょうあてがい)権(所領を与えたりする権利)などを梃子に武士たちを把握できたことなどによる。ようするに、鎌倉府が、いわば東国の小幕府であったことによる。」
(前掲書)

 永享の乱を起こした足利持氏の遺児・成氏(しげうじ)は、再び将軍家に反抗して乱を起こし、拠点を鎌倉から古河に移して勢力を張る。以後鎌倉は関東管領・上杉家が支配する街となり、利根川・渡良瀬川を境にして関東が南北の二つに割れた。それは、京都を二分した応仁・文明の乱よりも10年以上早かった。戦国時代が始まる百余年前の、関東の歴史が熟れていく興味深い時代。その間も、鎌倉は関東の枢要な街として生き続けてきたのだ。

 私たちが抹茶を楽しみながら眺めている報国寺の静かな竹林は、その当時もこんな佇まいを見せていたのだろうか。柔らかな風が時折、その竹林をわたり、一瞬の涼を運んでくれる。何度訪れてもやはりここが一番好きだと、家内は言う。確かに春夏秋冬、どんな季節でもいい。たまに訪れて、しばし時を忘れてみたい場所である。
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(報国寺の竹林)

 元々予定はしていなかったのだが、報国寺の前の路地を山の方へ更に入っていくと、戦前の昭和に建てられた洋館・旧華頂宮邸があり、庭園が開放されているというので、行ってみることにした。それは、緩やかに登っていく路地が本格的に山の中に入っていく、その一歩手前のところにひっそりと建っていた。

 周囲を深い森に囲まれ、南側に洋式の広い庭園を持つその洋館は、夏の終わりの強い日差しに照りつけられながら、森の静寂の中で凛としている。よく選ばれた土地であったのか、風の通りがよく、この暑さの中でも日蔭に入れば実に快適である。首をぐるっと回しても、洋館の他には森の緑と青い空しか見えない。東京はおろか、鎌倉の街にいることさえも忘れてしまいそうな時空が、そこにはあった。
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(旧華頂宮邸)

 細かな予定を決めずにちょっとした遠出をしてみるのも、たまにはいいものだ。スケジュールに縛られず、ゆっくりと気ままに過ごす旅があってもいい。私たちはそれからバスで八幡宮前に戻り、ここまで来たからには八幡神にお参りをした後、小町通りをのんびりと散策した。家内にとっては、これといった当てもないウィンドー・ショッピングも立派な気分転換の時間なのだ。気の向くままに楽しんでもらおう。そうやってあれこれ眺めているうちに、鎌倉の駅前が近くなった。

 戸塚の駅で、湘南新宿ラインに乗り換える。鎌倉は最後まで一面の青空が続いていたが、このあたりはもうだいぶ雲が多い。横浜では空がいよいよ怪しくなり、鶴見の先で東海道本線と分かれて新川崎を過ぎる頃には、雨が窓ガラスを叩き始めた。そして大崎では雷鳴が轟いている。少しの距離の違いで天候も変わるものだ。汗をいっぱいかいたとはいえ、家内との半日を青空の下で過ごせたのは何とも幸運であったと言うべきだろう。

 午後4時少し前に池袋に到着。家内は4時半から一つ用事があり、私は6時から昔の職場の親しい人たちと会食の予定があるので、ここからはそれぞれのスケジュールということにしていた。

 家内と過ごした半日の夏休み。このパターンは他の季節にも応用できそうである。


【追記】
 前掲書は、源氏の時代から上杉氏の時代までの鎌倉の姿を、よく整理した上で詳細に描いた、しかも大変わかりやすい本である。一読を薦めていただいたM先輩には、この場を借りて御礼を申し上げたい。
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百年前の光芒 [歴史]


 雨の季節である。

 沖縄は観測史上最も早く梅雨が明けたそうだが、本州はまだ前線の通り道にある。といって、毎日降り続くわけではなく、週に何日かは晴れ間の出ることがあるのだが、それが週中だったりすることが多い。

 今週末も、昔の山の先輩たちと少し遠出をする計画があり、多少の雨でも登ろうということにしていたのだが、この週末に限って西日本を中心に大雨との予報が出たので、さすがに中止とせざるを得なかった。早くから日程を相談していても、この時期の山はなかなか難しいものである。

 そんな訳で、東京に沈殿していた今週末。雨の土曜日は本を読み、結果的に日中は降らなかった日曜日には、紫陽花(あじさい)でも見ようかと、昼過ぎになって家内と散歩に出ることにした。

 東京・文京区の白山神社。我家からゆっくり歩いても30分足らずである。境内に紫陽花が多いことで知られ、今は「文京あじさい祭り」が始まったばかりだ。「白山上」、「白山下」という地名が示す通り、このあたりは顕著な台地になっていて、神社は南向きの斜面の上にある。白山通り側から参道を歩いていくと、案外急な坂道だ。
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 ご由緒は古い。天暦年間(947~957)に、加賀国一ノ宮である白山神社をこの地に勧請したそうである。その後、陸奥の安倍氏を討伐する「前九年の役」(1051~62)で奥州に向かった八幡太郎義家がここを通りかかった時、白い花を咲かせた桜の木の前に源氏の白旗を立てかけて戦勝を祈願したことから、神社の前の桜の木が「白旗桜」と呼ばれるようになったという。その時代、現在の東京の下町は治水が行われる前で見渡す限りの湿地帯であったようだから、人や物の往来は山の手側を経由していたのだろうか。

 「あじさい祭り」のため、白山神社の境内には食べ物を売る出店が並んでいて、なかなかの賑わいである。お目当ての紫陽花の数々は、まだ開花していない木が幾つかあるものの、この時期らしい淡い色の花を見せてくれている。一口に紫陽花といっても実に多彩で、様々な種類の花を楽しめるのがいい。雨の季節だからこそ、湿度の高いその空気によく映える紫陽花の淡い花。この国の自然とは上手くできているものである。
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 ひとしきり紫陽花を楽しんだ後、社殿に向かって右側の参道に向かうと、そこに一片の石碑が立っている。「孫文先生座石」という文字と、あの革命家・孫文(1866~1925)のレリーフ。白山神社と孫文がいったいどういう関係にあるのか。初めてこの碑を見るまで私も知らなかったのだが、実はこの両者を繋いだのは宮崎滔天(みやざき とうてん、1871~1922)という、明治の日本が産んだ限りなく「熱い」男である。

 滔天は肥後国・荒尾の郷士の家に末っ子として生まれた。この家はどんなDNAを共有していたのか、兄弟は皆、この激動の時期に社会運動に走った。滔天より20歳年上の長兄・宮崎八郎は、中江兆民の『民約論』に影響を受けて初期の自由民権運動に参画。明治新政府の専制に反発し、西南戦争が始まると薩軍に与(くみ)して、八代で果てた。西南戦争を描いたドラマなどにはよく登場する人物である。

 滔天は物心つくと、徳富蘇峰が主宰していた大江義塾、そして大隈重信の東京専門学校に進み、自由民権運動を学ぶと共に、アジアの革命・解放を目指すアジア主義運動へと傾倒していく。兄・弥蔵から、アジアが自由と人権を取り戻すためのキーポイントは中国の動向であり、中国の革命にこそ命を捧げるべきだと説かれて共鳴し、20歳でその兄と共に上海に渡航。しかし程なく金が尽きて帰国し、親兄弟を欺いてまでして家財を売り払い、中国の革命に賭ける。そんな風にして金を使ってしまうから、妻子とも別居し、貧窮の日々であったという。
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(宮崎滔天)

 その後、縁あって犬養毅から援助を受け、中国の動向を視察するための外務省機密費を支給されて中国に渡り、各地で中国の革命家と接触を続けるうちに、東京に居住する孫文の存在を知り、帰国して面会をすることになった。時に1897(明治30)年のことである。滔天は孫文の革命思想に深く胸を打たれ、以後生涯にわたり孫文を支援し続けることになる。

 だが、孫文も滔天も革命家としては失敗続きの人生だった。滔天は金を稼ぐために浪曲師になったこともあるという。それでも志を捨てず、金もないのにアジアの革命家を支援し続ける。西太后のクーデターによって香港に亡命していた康有為を日本に連れてきたり、フィリピンの独立運動に参画したり、東京に乱立していた中国革命運動の興中会・華興会・光復会の大同団結に奔走したり(これは1905年の中国革命同盟会の創立という形で実現する)・・・。いつも金がなく、粗末な衣服で「ボロ滔天」などと呼ばれながら、アジアの革命に惜しみない支援を続けた、滔天のこの尋常でないエネルギーはいったいどこから湧き出てきたのだろう。

 1910(明治43)年5月半ばのある夜、白山神社に近い小石川原町に住んでいた滔天は、孫文を連れてこの神社にやってきた。そして二人で境内の石に腰掛けながら、清朝打倒の機運高まる中国の将来について抱負を語り合っていたところ、夜空に光芒を放つ一筋の流星が現れ、それを見て二人は中国革命の成就を心に誓ったという。
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 くだんの「孫文先生座石」の碑は、そんなエピソードを伝えるために、昭和も50年代になってから立てられたようだ。「夜空に光芒を放つ一筋の流星が現れ」という部分は話ができ過ぎているような気もするが、実際にこの年の5月中旬にはハレー彗星が大接近をして世界各地で目測されているので、あながち全部がフィクションとも言い切れないものがある。ともあれ、中国で辛亥革命が起きる前年のことである。(言い換えれば、今年の秋は辛亥革命百周年にあたる。)

 その辛亥革命においても、孫文はあっという間に失敗してしまった。そして、袁世凱が権力を握った中国に対して、日本は1915年に火事場泥棒的な「対華二十一ヵ条要求」を突きつける。時の首相は、かつて滔天が学んだ東京専門学校の創立者・大隈であった。孫文にも滔天にも、掲げた理想に対して現実は余りにも遠くかけ離れたものであったことになる。

 滔天は51歳で病没。その前年まで度々中国に渡航していたという。そして孫文は3年後に滔天の後を追った。

 紫陽花見物のつもりが、ちょっとした近代史の旅になってしまった。まあ、それも悪くない。それから根津へと足を伸ばして、家内との散歩は二時間ほどになった。
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回向院にて [歴史]

 都営地下鉄の駅がある、文京区白山。坂の多い町である。道路沿いは商店街だが、路地を入れば民家と寺と学校が寄り集まっている。都心にありながら高い建物の少ない、ちょっとのんびりした景色である。

 白山上の交差点から旧白山通りを本郷に向かってしばらく歩くと、左手に大円寺という禅寺がある。その境内の入口近くにあって目を引くのが、「焙烙(ほうろく)地蔵」という地蔵尊だ。素焼の土鍋を頭にかぶった、ちょっと風変わりなお地蔵様で、ご由緒を読むと、「八百屋お七」に因んだものだという。

 八百屋お七は江戸時代初期に実在した本郷の八百屋の娘(養女)で、1682(天和2)年の「天和の大火」で或る寺に避難した時に、吉三郎という寺の小姓と恋仲になり、その翌年に再会を願って放火未遂を起こしたために捕えられ、鈴ヶ森で火刑に処せられた。後に井原西鶴が『好色五人女』の中にこのエピソードを取り上げたことでお七は有名になり、浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられている。

 数えで十六の若さで死罪となったお七を供養するために享保年間に建てられたのが焙烙地蔵だ。火刑という灼熱の苦しみを共有するために、お地蔵様は焼いたばかりの土鍋を頭からかぶっているのだという。火事の多い江戸では、やはり放火は重罪だったのだ。
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 江戸の大火といえば、何といっても1657(明暦3)年の「明暦の大火」だろう。今の暦に直すと3月2日のことだという。日によってはまだ冬型の気圧配置で、強い西風が吹くこともある頃だ。若くして亡くなった娘の供養の時に、娘が着ていた振袖を火の中に投げ込んだところ、突然のつむじ風に舞い上がった振袖が寺の本堂に飛び込んだことが火事の発端になったという伝承から、別名「振袖火事」とも呼ばれている。実際には本郷、小石川、麹町で相次いで発生した火事が火元であるようだが、ともかくも江戸の街の6割以上が焼け、飛び火によって江戸城の天守閣も焼け落ちてしまった。(以後、江戸城は天守閣のないまま明治を迎えている。) 死者は3万人とも10万人とも言われる、世界史上有数の大火災である。

 明暦の大火による大量の犠牲者を弔うため、四代将軍・家綱の命によって隅田川の川向うに回向院(えこういん)が創建された。JR両国駅の南、京葉道路を渡った所にその寺は今もある。西に向かえば程なく隅田川で、そこに架かる両国橋は、隅田川に橋がないために明暦の大火で市民が逃げ遅れ、大量の焼死者が出たことを踏まえて幕府が建てたのが最初である。それは、人々を川の東側に移住させるための手段でもあったようだ。
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(歌川広重 「名所江戸百景 両国花火」)

 「諸宗山無縁寺回向院」という名の通り、宗派にとらわれず無縁仏を引き取ってきた回向院を訪れてみると、なるほど、過去の大災害における犠牲者を弔う石碑が並んでいて、歴史の教科書のようだ。この寺の開山の目的である「明暦大火横死者追善供養塔」が建てられたのは1675(延宝3)年で、これは都の指定する有形文化財である。
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(明暦大火横死者追善供養塔)

 その左側に建つ「天明三年癸卯七月八日信州上州地変横死者諸霊魂等」とあるのは、天明の浅間山大噴火のことだろうか。そしてその左隣には「大震災横死者之墓」、言うまでもなく大正12年の関東大震災の時のものである。更には幕末の18551(安政3)年の安政大地震の横死者供養塔も。これらを見ていると、なるほどこの国には昔から天災が多かったのだと、改めて思わざるを得ない。
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 犠牲者への供養は、祈りを捧げることだけとは限らない。いや、むしろ生き残った者が元気な姿を見せることだって立派な供養の一つだ。回向院では、1768(明和5)年から明治の末期まで、この境内で「勧進相撲」が行われたという。当初は不定期の開催だったのが、1833(天保4)年からは年二回の定期興行となった。それが大相撲の起源であることはよく知られている通りだ。明治42年にはこの場所に国技館が建てられた。回向院の境内に入るとすぐ左に、歴代相撲年寄の霊を慰める、見上げるような大きさの「力塚」が豪快である。
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 関東大震災から88年後の今年。「東北関東大地震」は、この国の歴史に新たに刻まれるべき未曾有の大災害となった。今は一刻も早い人命救助が最優先事項であると同時に、寸断されたライフラインや交通インフラ、とりわけ電力不足の中で、国民はこの難局を乗り切って行かねばならない。残念ながら、元気な姿を見せて犠牲者を供養するのは、当分先のことになるだろう。震災の前に「自滅」してしまった大相撲はともかく、プロ野球もJリーグも、その開催自体が危ぶまれている。

 回向院に並ぶ供養塔は、この国の大災害の歴史でもあるが、それでもなお、この国が立ち上がってきたことをも教えてくれている。本当の苦難はこれからなのだろうが、祖先たちがそうしてきたように、我々もまた、力を合わせてそれに耐えていこう。

南岸低気圧 [歴史]

 2月25日。今日は関東地方に春一番が吹いた。会社の昼休みにコーヒーを買いに外に出たが、まさに上着もいらないような暖かさで、足取りも軽くなった。寒さに身構える必要がないのは、やはり楽である。

 ①立春から春分までの間で、
 ②日本海で発達した低気圧に向かって、
 ③初めて南寄りの強風が吹き(東南東から西南西の風向きで、10分間平均で風速8km/秒以上)、
 ④前日よりも気温が上がること
が春一番の条件だそうである。その点、今日はオホーツク海の低気圧から伸びた寒冷前線が本州を通過する時に吹いた南風なので、やや変形版ではあるが、ともかくも気温が一気に上がり、東京都心では午前11時半に20度を超えたそうだ。
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 週間天気予報によれば、この後来週の月曜日には日本列島のすぐ南を低気圧が通過することになるようだ。「南岸低気圧」と呼ばれ、北側の寒気と南側の暖気が低気圧の前線でぶつかり合うため、低気圧の中心が伊豆大島よりも南側を通り(かといって本州からあまり離れず)、地表付近の気温が2度以下に下がった時には、関東の平野部でも雪になるという。冬がそのピークを過ぎ、「西高東低」が長続きしなくなる頃によくあることだ。だが、実際に雪になるか雨に留まるのかは、定規で線を引いたようにそうスッパリとはいかず、天気予報でそれを正確に見通すことは今もなお難しいようである。

 国立国会図書館のWebサイトでは、天気図のアーカイブスを見ることができる。それを使って1936(昭和11)年2月26日午前9時の天気図を検索してみると、これも典型的な南岸低気圧のパターンである。今からちょうど75年前のこの日、東京は雪の朝を迎えていた。
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 この日の未明、日本陸軍の一部青年将校らが1,400余名の兵を動員し、「昭和維新断行」と「尊王討奸」を掲げて決起した、いわゆる「二・二六事件」の様子を伝える写真は、どれも外は雪景色だ。

 この時代は、陸軍軍人によるクーデター未遂事件(「三月事件」、1931年3月)、いわゆる「満州事変」の発端となった柳条湖事件(同9月)、再び陸軍軍人によるクーデター未遂事件(「十月事件」、同10月)、海軍軍人が犬養首相を暗殺した「五・一五事件」(1932年5月)、満州国承認(同9月)、国際連盟脱退(1933年3月)、ワシントン海軍軍縮条約破棄(1934年12月)、陸軍将校による永田鉄山軍務局長斬殺事件(1935年8月)・・・という出来事が示すように、議会が軍部の横暴に押しまくられていった時代、という風に理解されている。

 また、そうした軍部の横暴を許した諸悪の根源は、軍部が内閣の指揮を受けず天皇に直属した組織であるという、いわゆる「統帥権独立」にあり、大日本帝国憲法における最大の問題点である、という風に語られることが多い。あの司馬遼太郎も、「統帥権」に対してはエッセイの中で口を極めて罵っているが、そういう理解で良いのだろうか。
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 これについては、二・二六事件が鎮圧された後、いまだ首都が戒厳令下の5月に開かれた帝国議会で、広田弘毅首相の演説に対して質疑に立った斉藤隆夫衆議院議員の発言が興味深い。斉藤隆夫は議会で軍部の政治介入に対する徹底批判を続けた代議士として知られ、この4年後の帝国議会における「反軍演説」のために衆議院議員を除名された経緯はつとに有名である。

 「(明治15年の明治天皇による「軍人勅諭」を引用し)軍人たる者は世論に惑わず、政治に拘らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る、聖旨のある所は一見明瞭、何等の疑を容るべき余地はないのであります。」
(以下、引用は全て「衆議院議事速記録」)

 「また、陸軍刑法、海軍刑法に於きましても、軍人の政治運動は絶対に之を禁じて、犯したる者に付ては三年以下の禁錮を以って臨んで居る、また衆議院議員の選挙法、貴族院多額納税議員互選規則を見ましても、現役軍人に対しては、大切なる所の選挙権も被選挙権も与えて居らないのであります。」

 「これは何故であるかと言えば、詰り陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋(とき)に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ・・・」

 「もし軍人が政治運動に加わることを許すということになりますると云うと、政争の結果遂には武力に愬(うった)えて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢でありまして、事茲(ここ)に至れば立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありまするからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります(拍手)」

 論旨は明快で、軍隊を政争の具にしてはならないから、統帥権は内閣の外にあり、その代わり軍人には選挙権も被選挙権もなく、政治には係われないのが法制上の仕組みだという訳である。しかも、憲法制定以前に明治大帝が「軍人は政治に拘ってはならない」と諭していたのだ。

 統帥権の問題は、1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に、条約に反対する海軍軍令部長(加藤寛治)や軍令部次長(末次信正)らが、「軍備を制限する条約に、政府が軍令部の同意なく調印したのは統帥権干犯」であると騒ぎ出したのが発端であるが、前述のような憲政上の仕組みがあるにも係わらず、本来ならそれを押さえつけるべき議会側で、犬養毅や鳩山一郎らが与党・民政党を攻撃するためにこれに同調し、事を大きくしてしまった。まさに軍隊を政争の具にしてしまった訳で、それだけでも犬養と鳩山は万死に値すると言うべきだろう。

 この軍縮条約締結に漕ぎつけた浜口雄幸首相は、同年11月に東京駅ホームで狙撃され、以後日本の1930年代は、軍部の急進派やそれと結託した右翼によるテロが相次ぐことになる。そして、度重なるクーデター未遂事件や五・一五事件などの勃発にも係わらず、軍部はその処分を曖昧にしてきた。前述した衆議院議員・斉藤隆夫は、帝国議会での質疑を更に続けている。

 「(陸軍軍人によるクーデター未遂事件となった「三月事件」、「十月事件」について)此両事件に対し、軍部当局は如何なる処置を執られたかと云うと、之を闇から闇に葬ってしまって、少しも徹底した処置を執って居られないのであります。(拍手)」

 「若(も)し夫(そ)れ軍部以外の政治家にして、或は軍の一部と結託通謀して政治上の野心を行わんとするが如き者が若しあるならば、是は実に看過すべからざるものであります(拍手)」

 「政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり、堕落であり(拍手)又実に卑怯千万の振舞であるのである。」

 「軍部当局は相当に自重せられることが国民的要望であったにも拘らず、或は某々の省内には政党人入るべからず、某々は軍部の思想と相容れないからして之を排斥する。最も公平なる所の粛正選挙に拠って国民の総意は明に表白せられ(拍手)之を基礎として政治を行うのが明治大帝の降し賜いし立憲政治の大精神であるに拘らず(拍手)一部の単独意思に依って国民の総意が蹂躙せらるるが如き形勢が見ゆるのは、甚だ遺憾千万の至りに堪えないのであります(拍手)」

 軍部大臣への質疑という形を取りながら、大半は軍部への批判、そして軍部と結託する一部政治家への痛烈な批判。後に「粛軍演説」と呼ばれた斉藤隆夫のこの大演説は1時間25分に及んだという。
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(斉藤隆夫 1870~1949)

 軍人が政治に係わらないような仕組みをいかに作っても、人間の方がその運用をズルズルと曲げてしまえば本来の目的を達することはできない。逆に言えば、雨になるか雪になるかは来てみなければわからない南岸低気圧と違って、憲政の仕組みとその運用は人間の意志で動かすことができるものだ。だからこそ、人間がしっかりしていないといけない。

 もっとも、制度の運用の失敗を政治家だけの責任とする訳にもいかないだろう。ひとたび満州事変が始まると、途端に好戦的になったのは国民でありマスコミであったのだから。それは、昨年秋に起きた尖閣諸島での中国漁船衝突事件の時の日本国内も、そして延坪島で北朝鮮の砲撃を受けた時の韓国の世論を見てもそうだ。一たび事を構えると「世論」は沸騰し、マスコミはそれを煽る。そして、強硬論者にかぎって後で責任を取らないものだ。

 とは言え、帝国議会の議事録を眺めつつ、昨今の政治の混迷、政治家の言葉の軽さと無責任さを見るにつけ、議会での言論は戦前の方がまだましだったのではないかとさえ思えてしまうのは、私だけであろうか。

 春一番が吹いた次の日は、決まって寒さが戻るという。春本番が待ち遠しいが、まだしばらくの我慢である。

続・この国の成り立ち [歴史]

 このところ、新聞やテレビではエジプトの政変のニュースが連日トップを飾っている。

 イスラム教徒にとっては毎週金曜日が安息日であり、そしてその日の礼拝が最も重要な義務の一つだという。八百万の神が宿る日本では、各自が好きな時に、そこにおわす神に祈ればいいのだが、ムスリムの祈りはそれとは全く対照的に、毎日決まった時間に唯一絶対の神に対して捧げる団体行動である。

 無数の人々が整然と祈りを捧げるその姿は圧倒的で、私たちにとっては異様なものですらあるが、先月以来エジプトでは、金曜日のモスクでの礼拝に大勢の人々が集まるたびに、ムバラク退陣を求める声が高まり、事態は新たな局面を迎えていた。そして今回、スレイマン副大統領が国営テレビを通じて「ムバラク大統領は辞任を決断した」と告げたのは、現地時間の2月11日、やはり金曜日であった。
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 世界四大文明の一つに数えられる古代エジプト文明を発祥させたこの地は、3,000年にも及ぶ中央集権的な王朝が興亡を繰り返した後、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアの支配を受け、続いてアレクサンドロス大王によって征服され、彼の死後はギリシア系のプトレマイオス王朝が興った。それが女王クレオパトラの時に滅ぼされてローマ帝国の属州となり、その古代ローマの東西分割後は東ローマ帝国の領土になったが、7世紀にイスラム世界が俄かに出現すると、正統カリフの時代から早々にその中に組み込まれることになる。

 北アフリカからイベリア半島まで一気に版図を拡げていたウマイア朝、そしてアッバース朝が10世紀に衰えると、以後はファーティマ朝、アイユーブ朝、そして中央アジアに出自を持つマムルーク朝と、現在のエジプトからシリアにかけての地域を領土とするイスラム王朝が500年ほども続く。そして16世紀にはオスマン帝国の領土になった。

 そして西欧が近代を迎えると、一時ナポレオンの軍隊がやってきた。そのおかげでロゼッタストーンが偶然見つかったという有名な話はさておき、そのナポレオンの撤退後はアルバニア人のムハンマド・アリーが近代化を進めて世襲政権を築き、オスマン帝国の支配から事実上独立。だが、西欧列強はエジプトを手に入れたがり、英仏両国のせめぎ合いの末、1882年に英国の保護国となる。第一次世界大戦後はオスマン帝国から独立してエジプト王国となるが、英国の実質的な支配は第二次世界大戦後まで続いた。

 要は、東西から様々な民族がやって来ては去っていった地域なのである。支配者も国境線も常に変わった。日本列島の地形と、日本民族の居住範囲と、そして日本国政府の統治領域が殆ど三位一体であることを信じて疑わない私たちには、ちょっと想像もつかないような歴史だ。

 エジプトが周囲の他民族に振り回される構図は第二次大戦後も変わらなかった。英国の悪名高い「二枚舌外交」(いや、サイクス・ピコ密約を加えれば三枚舌?)の産物として1948年にイスラエルが建国を宣言すると、それを認められないエジプトはヨルダン、イラク、シリア、レバノンと同盟してイスラエルと交戦(第一次中東戦争)。これに敗北すると、政治のイスラム化を求める勢力が台頭して国内は政情不安定となり、1952年に自由将校団が軍事クーデターによって19世紀以来のムハンマド・アリー朝を廃し、共和制へと移行した。1956年の「スエズ運河国有化宣言」で有名なナセルは、この共和制下の第2代大統領である。
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 その後、シリアと連合国家を形成して「アラブ連合共和国」を名乗ったことが一時期あったが、程なくそれは解消されて、現在の国名の日本語表記は「エジプト・アラブ共和国」である。そのエジプトの建国記念日は7月23日。紀元前3,000年にも遡る古代文明発祥の地であるが、その建国のメモリアル・デーは現在の共和制を打ち立てた1952年の軍事クーデター、「エジプト革命」の日なのである。

 人々の圧倒的な声には逆らえず、ムバラクは退陣した。群集は街に出て大騒ぎだが、エジプトにとって本当に大切なのは、これからのステップだ。28年に及んだ独裁政権の下で、現体制に取って代わる実力のある受け皿がすぐにできるとは思えない。今の日本がそうであるように、民主国家でさえ一党支配が長く続くと、「与党」慣れしていない政党が政権を取っても上手くいかないことばかりなのである。日本中が「政権交代」に沸いたのはつい1年半前のことだが、今の日本を覆っているのは行き場のない失望感、それも殆ど絶望感に近いものである。
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 加えて、「ムスリム同胞団」のような勢力が今後発言力を高めていくと、政治の揺れ戻しが大きくなる可能性があるだろう。私の理解している限り、「宗教上の規範」と「世俗の世界を司る法律」が不可分のイスラム世界では、「コーランに書かれたことに忠実であるべし」という原則と、「そうは言っても現代はコーラン通りではうまく行かないこともある」という現実とが常にせめぎ合う。シーア派の国イランで、非イスラム世界での言葉使いで言うところの「急進派」と「穏健派」との間で政治が振り子のように揺れ続けてきたのが、その典型だろう。繰り返しになるが、エジプトにとって正念場はこれからである。

 そのムバラクが退陣を余儀なくされた2月11日は、我が国の「建国記念の日」である。だがそのことは、今や何の報道もなされていないし、国民は殆ど何の関心も持っていない。そんな奇妙な国は滅多にあるものではないだろう。昨年の今頃も、同じような思いをこのブログに綴ったことがある。
http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-02-12

 日本書紀によれば、日向を出発して6年の後、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)は大和を平定し、辛酉(かのととり)の春正月、橿原宮で即位して初代神武天皇が誕生した、とある。その年が紀元前660年であるとするのはフィクションであるとしても、茫漠たる古代に遡る話である。

 これほど古い歴史の中で万世一系の天皇家が続き、国の起源が何時かというと、それは大政奉還の日でもなく、戦後憲法の制定日でも、或いはサンフランシスコ講和条約の発効日でもなく、よくわからないが遥か古代・・・という意識を大多数の国民がおぼろげながらも持っている国は、世界に二つとないだろう。そうであるならば、私たちはそういう自国の歴史を大切にしたいものだ。

 ところで、サッカーの日本代表“サムライ・ジャパン”のユニフォームを見ると、胸のエンブレムは三本足のカラスである。
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 「ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊の道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。」

 日本サッカー協会のHPに掲載されているこの説明で充分だろう。この国の起源は、現代を生きる私たちにもつながっているのだ。

 日本人のプロサッカーの選手たちが普段は世界各国のチームで活躍し、ひとたび日本代表チームに集う時は、八咫烏のマークを胸に団結する。それが21世紀型の日本の一つの姿だとするならば、私たちはやはり一年に一度、この国の起源に思いを馳せる日を大切にしたいものだ。

晴天の霹靂 [歴史]


 通常国会が始まった。

 3月末を会計年度の区切りとするこの国では、今も昔もこの時期は次年度の国家予算が審議される。中でも衆議院の予算委員会は注目を集める議会であるため、予算案に限らず、「国政に関する重要事項」と称して様々な問題が取り上げられることが多い。与野党共に質問に立つのは大物議員である。

 大正3年1月23日といえば、97年前のちょうど今頃のことだ。

 その日、午後1時15分に再開された衆議院予算委員会で、野党・立憲同志会の代議士・島田三郎(後の衆議院議長)が質疑に立っていた。

 「・・・時事新報ニ倫敦電報トシテ記載セラレタトコロヲ見ルト云フト、ソレハ日本帝国ノ威信ニ関係シ海軍ノ風紀ニ関係スル、(中略)極メテ痛心ノ問題デアリマス。・・・」
(帝国議会会議録)

 島田が追求を始めたことは、シーメンス・シュッケルト電機会社の東京支社に雇われていたリヒテルという男が、社内の機密文書を持ち出して会社を恐喝しようとしたが不首尾に終わり、ロイター通信社の記者にその文書を売りつけたが、リヒテルはドイツ本国で逮捕され、裁判の過程でその文書の内容が表に出たという報道についてである。その文書はシーメンス社から日本海軍の軍人に賄賂が渡されたことを示すもので、具体的な将官の名前も記載されているという。”ロッキード事件の大正版”とも言うべき、「シーメンス事件」である。

 追求の矢面に立たされたのは、時の首相・山本権兵衛。日本海軍の近代化を進めて日露戦争を勝利に導き、「日本海軍の父」とも呼ばれた薩摩の傑物である。その山本は、前年(大正2年)の2月12日に天皇より組閣の大命を受けて第16代の首相に就任していた。シーメンス事件は、政権発足からまだ一年も経たない頃に起きた、降って湧いたようなスキャンダルだった。
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(山本権兵衛 1852~1933)

 そもそもこの第一次山本内閣の誕生自体が、今までにない経緯をたどった。

 西園寺公望が二度目の内閣を率いていた1912年は、元号が明治から大正に変わった年である。7月30日の午前零時43分に明治天皇が崩御。9月に行う大喪の予算を可決するための臨時議会が8月21日に始まると、陸軍から朝鮮師団の二個師団増設についての予算要求が出された。中国では前年秋の辛亥革命によって孫文の中華民国が誕生していたが、中国東北部は軍閥が割拠していて不安定な情勢下にあり、その機を捉えてのものだという。

 しかし、西園寺内閣は財政難や国際関係への配慮からこの増師要求を拒否。対する陸相・上原勇作は単独で天皇に辞表を捧呈し、陸軍も後任を出さず、「軍部大臣現役武官制」を楯に内閣を総辞職に追い込んだ(12月5日)。そして元老会議が開かれ、問題を起こしたのは陸軍の長州閥なのだから彼らが責任を取るべしとして、陸軍の桂太郎が三度目の政権を率いることになる(12月21日)。
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(桂太郎 1847~1913)

 だが、増師要求から第二次西園寺内閣の倒閣、更には陸軍色の強い第三次桂内閣の出現は強い批判を浴びる。衆議院で議席数の2/3を占める西園寺の与党・立憲政友会は内閣不信任の提出を決意。これに重税に不満を持つ各地の商業会議所からの増師反対の声も加わって、桂内閣を批判する「藩閥打破」、「憲政擁護」の運動が全国で大きなうねりを見せた。

 桂は議会の5日間停止と詔勅による圧力でこれに対抗したが、憲政擁護派のデモが国会にも押し寄せ、各地で国民による新聞社・警察署への襲撃が相次ぐと、桂は万事休して2月11日に総辞職を行った。政権発足から僅かに52日。この過程が「第一次憲政擁護運動」、或いは「大正政変」と呼ばれるものである。
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(桂内閣の批判に立った尾崎行雄)

 そして、元老会議で今度は海軍の山本権兵衛が首相に推され、桂の退陣の翌日に組閣の大命が下りた。

 桂内閣を倒したスローガンが「藩閥打破」だとするならば、海軍の薩摩閥も打破の対象となるべきだったのだろうが、山本は閣僚10人の内、首相、陸・海相、外相以外の6ポストを衆議院最大党派の立憲政友会に渡し、実質的に政友会内閣に近い体裁でこの内閣はスタートする。

 そうした「閥族との握手」を潔しとせず、尾崎行雄らは政友会を離党して政友倶楽部を結成。昨日まで「藩閥打破」を叫んでいた政友会が、手のひらを返したように山本内閣に入閣したことに対しては国民の憤激もあったようだが、目の前に閣僚ポストがあれば飛びつくのが政治家というものだろう。(後に日本初の本格的な政党内閣を率いることになった原敬は、この内閣で内相を経験している。)

 一方、憲政擁護派を切り崩すために桂が政変前に構想を発表した自らの新党(立憲同志会)には、憲政擁護派から少なからぬ議員が流れた。政治家の仁義あって無きが如き合従連衡は、いつの世にもあるものだ。

 第一次山本内閣は発足早々、第二次西園寺内閣を倒閣に追い込んだ「軍部大臣現役武官制」に手をつけ、予備役でも大臣に任命できるよう、陸海軍省の官制を改正させた。(これは歴史上でも高く評価されている。) 一部ではあるが減税を行い、公務員の削減や俸給の見直し等も実施している。今世紀のどこぞの新政権よりもよほど実行力があったのではないだろうか。だが、年が明けるとシーメンス事件が突然降りかかった。

 調べれば、シーメンス社だけでなく、巡洋戦艦「金剛」の建造において英ヴィッカーズ社からも賄賂が出た疑いがあった。海軍の関係者が軍法会議に付された旨が議会でも報告される。議会では営業税の減税や諸税の廃止が議論の中心であったのが、シーメンス事件によって、国家予算に6年連続で盛り込まれてきた海軍拡張費の存在や、汚職の追及による海軍薩摩閥の打破に焦点が移ってしまった。
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(賄賂の対象になった?巡洋戦艦「金剛」)

 国民に根強い重税感のある中で、「浪費を続ける海軍」、「私腹を肥やす海軍」、「薩摩中心の門閥」を糾弾することは大衆受けしやすいものだ。大正政変で陸軍の桂が倒れた後、山本が次の内閣を率いたことで必然的に海軍に有利な状況が続いてきた、そのことがかえって裏目に出たともいえる。新聞も盛んにそれを書きたてた。

 シーメンス事件は、むしろ以前の内閣の時代に起きていたことだが、名実共に海軍を代表する人物として、現首相の山本は責任を追及される。大正3年度予算案は貴族院の修正に衆議院が同意せず、両院協議会も不調に終わり、予算不成立で3月24日に第一次山本内閣は総辞職。結果的に1年1ヶ月あまりの短命政権となった。

 大正政変から第一次山本内閣の総辞職に至る一連の過程は、現代の私たちに示唆するものが少なくない。

 この時代、衆議院議員の選挙権を持っていたのは、直接国税の納税額が10円を超える25歳以上の成人男子に限られていた。陸軍の強引さが鼻についた第三次桂内閣の出現に憤激して国会に押し寄せ、新聞社や警察署を襲った人々も、或いはシーメンス事件を伝える新聞を見て海軍の薩摩閥に怒りを覚えた人々も、その多くは有権者ではなかったはずだ。

 それに、仮に選挙権があって、実際に衆議院選挙があったとしても、その後の首班を事実上決めていたのは元老会議だった。第三次桂内閣も第一次山本内閣も、選挙を経て出来上がった政権ではない。だから、議会や政府を変えようにも政治参加の術(すべ)を何も持たないことに、もどかしさを感じた国民は多かったのではないだろうか。
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(桂首相退陣を叫び、国会前に押し寄せた群衆)

 今は全ての成人男女が選挙権を持つ普通選挙の世の中だ。しかし、地域間での「一票の格差」が著しく、人口の減少と高齢化の進む地域に議席が相対的に多く配分されているため、投票に行ったところで自分の意思は反映されない、そのことに無力感を持つ都市部の若年層は多いのではないだろうか。

 次に、政治家はいつの時代にも物事を矮小化し、大衆受けするような、或いは感情に訴えるような論点ばかりを選んで注目を集めようとする、ということだ。言葉を換えれば、物事の本質が議会で議論されることはまずないということだろう。「増税の前に、やることがあるだろう。」というような、耳障りのいい言葉を使うのは彼らの常套手段である。(物事を矮小化することについては、政治家以上にマス・メディアに大きな問題があるのだが。)

 そして、政治家は変節する。機会があれば政権に飛びつく。或いは与党になろうとするものだ。権力とはそれほどに魅力的なものなのだろう。だから有権者は、代議士を選出したらそれで終わりではなく、彼らが代議士として実際に何をしたのか、何をしようとしているのかをしっかりとモニターし、主権者としてその権利をしっかり行使して行かなければならないということだ。
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 第一次山本内閣が倒れた後、元老会議は次期首相に大隈重信を引っ張り出した。かつて板垣退助との「隈板内閣」を率いて以来、早稲田の杜に隠遁していたかつての元勲は既に76歳。だが、過去の経歴と「民衆政治家」的なキャラクターは国民の人気を集めたという。就任早々に第一次世界大戦が勃発し、戦争景気が始まったのが何といっても天佑だった。

 翌1915(大正4)年3月の総選挙では、立憲同志会などの与党が絶対多数を獲得。有権者の付託を受けたその議会は、陸軍の二個師団増設と海軍の拡張案をさっさと成立させてしまった! 大正政変とシーメンス事件で二つの内閣を倒すことになった国民のあの声は、いったいどこへ行ったというのだろう。

 やはり、歴史には学ぶべきなのである。

その名は蔦重 [歴史]


 JR浅草橋駅の東側に、柳橋という地名がある。神田川が隅田川に合流する地点で、その隅田川には両国橋が架かっている。靖国通りはこの橋を越えると「京葉道路」と呼び名が変わる。

 江戸時代、柳橋は幕府公認にして江戸随一の遊郭「吉原」へ向かう舟の乗り場であったという。吉原は元々人形町の近くに置かれていたが、その開設から四十年足らずで起きた明暦の大火(1657年)で消失し、その後は浅草寺の北方に移された。だから、移設後の吉原は「新吉原」とも呼ばれる。以来、吉原へ通う人々は柳橋から出る舟で隅田川を遡り、今戸で陸に上がって三ノ輪へと続く土手を歩いたそうである。(「土手通り」という道の名前が今もある。)

 その吉原は、(どこの国でもそうなのだろうが)幕府からすれば渋々認めた「必要悪」のようなものだった。だから、大火の後に移設された場所は江戸城から見て鬼門の方角にあたる北東にあった。そこから更に北へ1キロほども行けば、小塚原の刑場である。

 だが、吉原は遊郭であると同時に、知識人の集まる場所でもあったようだ。吉原に通い慣れた人は世情や男女の機微などをよく知っていることから「通(つう)」と呼ばれ、彼らが集まる場所からは流行の最先端を行くお洒落な文化が発信された。

 その吉原に生まれ育ち、狂歌や戯作、浮世絵の版元として数々のヒット作を世に送り出した「18世紀の名プロデューサー」として知られるのが、「蔦重(つたじゅう)」こと蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~97年)である。今、六本木のサントリー美術館で開催されている『その名は蔦屋重三郎』展は、そんな彼の足跡を辿ることのできる、なかなか面白い企画の美術展だ。
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 日本はありとあらゆる分野で「ガイドブック」、「入門書」、「すぐわかる○○」といった類の書籍があふれるほどにある国だが、18世紀の江戸でも『吉原細見』という、「吉原の歩き方」のような木版刷りで絵入りの冊子が既に販売されていた。その版権を買取り、内容を工夫して廉価版をヒットさせたのが蔦重だ。

 しかも版元としての仕事に留まらず、「耕書堂」という店舗を通油町(とおりあぶらちょう、現在の日本橋大伝馬町)に出して、そこで『吉原細見』をはじめ、様々な印刷物を販売した。それらは、狂歌や戯作本に挿絵として錦絵を組み合わせたものであったり、それまでは全身画が主流だった美人画を「大首絵」という上半身だけのブロマイドのような錦絵にしたりと、常に最新のファッションであったようだ。中でも喜多川歌麿の錦絵入りの「黄表紙」は大ヒットになった。
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(北斎の錦絵に描かれた耕書堂の店先)

 蔦重のすごさは、そうしたアイディアだけでなく、幅広い人脈である。むしろ、その広い人脈の中から、これとこれを組み合わせたら面白い、或いは彼のこの部分をもっとデフォルメしたら面白い、といったような発想が生まれていったのだろう。

 狂歌の大田南畝、戯作の恋川春町らと長い交友があり、絵師では歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した。戯作では山東京伝が看板作家で、十返舎一九滝沢馬琴らは耕書堂の居候だった。そして、あの葛飾北斎も若い頃には蔦重の世話になっている。こうして名前を挙げてみると、18世紀後半の江戸文化史の枢要な部分を「プロデューサー蔦重」がカバーしていることに、改めて驚かされる。
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 蔦重の活躍の中心は、いわゆる田沼時代(1767~86年)であった。第十代将軍・家治の側用人に就任した田沼意次は、「賄賂にまみれた極悪人」のようなイメージを持たれがちだが、どうやらそれは、後から意図的に貼られたラベルであるようだ。

 米を貨幣の代わりにしつつも、同時に本物の貨幣も流通が進んだ時代。米を増産すると米価が下がり、幕府は収入が上がらず農村が疲弊してしまった徳川吉宗の政策とは逆に、意次は勃興する商業に目をつけ、そこから税収をあげる方法を考えた。株仲間を公認して運上・冥加を徴収したのはその好例だ。要するに成長産業を更に儲けさせ、そこからの税収に着目したのである。

 面白いもので、こういう開明的な実力者がいた時代には、『解体新書』で有名な前野良沢杉田玄白、エレキテルの平賀源内といった文化人が活躍し、外の世界にも目が行くようになって、工藤平助の『赤蝦夷風説考』が出た。司馬江漢は西洋の銅版画の手法を初めて日本に導入している。意次の時代がもっと続いていたら、或いは日本の国全体が重商主義的なものに変わっていった可能性もあったのではないかとさえ思う。その頃、江戸の町では洒落本や風刺の効いた黄表紙が人気を集めていた。

 だが、数々の政策が実効をあげる前に、既に始まっていた天明の飢饉に浅間山の大噴火(1783年)が重なり、各地で打ち壊しが頻発。この点で意次には運がなかった。

 将軍家治の死去と共に意次は失脚し、老中・松平定信による「寛政の改革」(1787~93年)が始まる。先の将軍・吉宗の孫にあたるこの男は、全てを昔に戻すという儒教的な発想から倹約令を出し、異学を禁じ、江戸に流入した農民を帰郷させ、棄捐令で武士の借金を強制的に帳消しにさせて(それは新たな借金が出来なくなることを意味する)、江戸の街は火が消えたようになった。

 1790(寛政2)年に書物屋仲間に対して出版取締令が出されると、翌年には山東京伝の洒落本三部作が「好色本」として摘発を受ける。明らかな見せしめで、京伝は手鎖50日、蔦重は財産の半分を没収された。
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(山東京伝の黄表紙に描かれた蔦重)

 だが蔦重はしたたかで、「文武、文武で夜も眠れぬ」のがご政道であるのならと、今度は教訓的な内容の読本(よみほん)を出版して人気を集める。そして松平定信が退任した翌年には、当時誰もその名を知らなかった写楽の役者絵を突如として世に送り出し、それは10ヶ月で144点という驚異的なペースになった。

 しかし、その3年後に蔦重は47歳で病没。その早過ぎた他界は、多くの文化人から惜しまれたことだろう。時代が19世紀に入ると、蔦重に育てられた十返舎一九や滝沢馬琴らが大いに活躍した。

 木版刷りの展示物の一つ一つを興味深く眺めながら改めて認識することは、この国は当時から庶民が本を読む文化を持ち続けてきたということだ。江戸時代の識字率は(260年間もあるから、どの時点を取るかにもよるが)、男性で40~60%、女性でもその半分ほどはあったという。それは当時の世界各国と比較しても驚異的な水準なのだそうだ。そうした知的バックグラウンドは、日本が自力で近代化を成し遂げるために、どれほど力強い支えとなったことだろう。この良き伝統は、何としても守っていきたいものである。

 そしてもう一つ思うことは、吉原という遊郭を舞台に、遊びに興じつつ文化人たちが交流し、お上の規制にも巧みに対応しながら水準の高い町人文化を作り上げて行った、日本人の器用さである。「何でもあり」とも言うべき融通無碍なスタイルがこの国独特の文化を生み出している、そのあたりが何とも興味深いところだ。『江戸の大普請』 (タイモン・スクリーチ 著、森下正昭 訳、講談社)という本に、そんなことを彷彿とさせるエピソードが紹介されていたので、最後に記しておくことにする。

 この時代、僧侶が吉原へ通うことは禁じられていた(釈迦の教えからすれば、そんなことは当たり前!)。しかし、それでも行きたがる生臭坊主は少なからずいたらしい。その場合には一つのやり方があって、僧侶たちは中宿で僧衣を預け、医者の姿に着替えてから吉原へ入ったという(杉田玄白などの姿がそうであるように、当時は医者も剃頭だったのだ)。

 かつて上野の山で花見をし、遠い鐘の音を聞いた松尾芭蕉は
 「花の雲 鐘は上野か浅草か」
という名句を詠んだが、田沼時代にはそれをもじった
 「土手を行く医者は上野か浅草か」
という句が流行ったという。もちろんこの医者は本物ではなく、土手を吉原へと向かう僧侶はどこの寺からやって来たのか、上野か浅草か、という意味だ。

 「世の中はそれだから面白いのサ。」と、どこかで蔦重がニヤリとしていそうである。


決勝戦に思う [歴史]

 南アフリカ共和国を舞台に、1ヶ月にわたり熱戦が繰り広げられたサッカーのワールドカップ大会。同国の治安の悪さが早くから懸念され、開会当初はホールドアップ型の強盗事件が報道されていたが、日程が進むにつれて世界の注目はやはり試合内容の方に集まっていった。「世紀の誤審」と呼ばれるような瞬間が幾つかあったものの、残る決勝戦を無事に終えることができれば、アフリカ大陸初の大会は成功だったと言えるのではないか。

 その決勝戦の組み合わせはスペイン対オランダ。どちらが勝っても初優勝だという。そして、あまり語られることがないようだが、これは実に因縁めいた組み合わせでもある。ハプスブルグ王家の政略結婚の結果、元々はブルゴーニュ公爵家の領地だったネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグを合わせた地域)は、1556年に縁もゆかりもないイスパニア王国の領地となり、その後80年にわたる凄惨な独立戦争を経てオランダは独立国となった。言わば歴史上の仇敵同士の組み合わせなのである。

 ネーデルラントでは南部で毛織物工業が、次いで北部では商業と海運が栄えていた。その北部は気候も寒冷で、低地に一つ一つ石を敷き詰め、堤防を築いて国土を広げていった地域である。刻苦勉励を要する風土には、勤労による利益の追求を肯定する新教が早くから受け入れられていた。

 対するスペインはフェリペ2世の時代で、1571年にレパントの海戦でオスマン・トルコに勝利するなど、新大陸から流入する大量の銀を背景に、その勢いは絶頂期にあった。だがその統治方法は全くの収奪型で、宗教裁判によって新教徒を徹底的に弾圧するものであった。ネーデルラントの諸都市でもスペイン軍によって筆舌に尽くし難いほどの略奪・虐殺が繰り返されたため、代々の統領家出身のオレンジ公ウィリアムは、そうしたネーデルラントの惨状を見るに見かね、1568年にスペインに対して反旗を翻す。(1688年の英国の名誉革命にも同じ名前の「オレンジ公ウィリアム」が登場するが、それはこのウィリアムの3代目にあたる。)
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(1574年10月3日 スペイン軍に対して籠城を続けたライデン市の解放)

 今のオランダとベルギーが別々の国であるように、この独立戦争も北部と南部では進展が異なった。その北部7州がユトレヒト同盟を結成し、いわゆる「オランダ独立宣言」を行うのが1581年であるが、スペインとの戦争はまだまだ続いた。そのスペインは1588年に無敵艦隊が英国海軍に敗れ、次第に衰退を始める。前線での略奪・虐殺の恐怖に耐えて戦争を継続したオランダの独立が国際社会によって認められたのは1648年の、いわゆるウェストファリア条約締結の時であった。

 余談になるが、オランダはこうしてスペインとの独立戦争を戦っている間も、重商主義国家として世界の海に乗り出している。1602年にオランダ東インド会社を設立し、1619年にはジャワ(インドネシア)に植民地を建設した。日本では1609年に平戸に商館を置き、1637年には長崎の出島に入っている。本土では対外戦争を継続しながら、遠くアジアとも交易を進め、徳川幕府からはその独占権を手に入れるなど、大変に商魂たくましい人々である。

 それにしても、オランダ独立戦争といい、ドイツ三十年戦争といい、中世から近世にかけてヨーロッパで起きた戦争は凄惨そのものである。略奪・虐殺によって町や村が廃墟と化してしまうそのやり方は尋常ではない。オランダ独立戦争とちょうど同じ時期に、豊臣秀吉による足掛け6年間の「朝鮮出兵」が行われているが、誤解を恐れずに言えば、もしオランダ独立戦争と同じような戦いが日韓で80年も続いていたら、被害者に残るその遺恨たるや現在の比ではないだろう。

 ところが、現在のオランダ人に残るスペインへの恨みのような話は、(日本にいるとそういう話には疎くなってしまうのかもしれないが)ついぞ聞いたことがない。もしそうした感情が今も強いのだったら、それこそ今回の決勝戦の組み合わせが決まった時点で、オランダ人の目は吊り上っていたことだろう。陸続きのヨーロッパでは、過去の侵略の歴史を言い出したらキリがない、ということなのかもしれないが、私たちには想像の及ばないところである。

 凄惨な戦争の果てに独立を勝ち取ったオランダであったが、その後の繁栄は長くはなかった。重商主義国家としては英国との対立を急速に深め、1651年の英国の航海条例によって商船締め出しの標的とされ、続く3度の英蘭戦争によって覇権を英国に明け渡すことになる。どこの国も対外戦争のことで頭がいっぱいで経済のことを省みる余裕もなかった時期に、一人オランダだけが貿易によって稼ぎまくっていた、そのことに対する各国の嫉妬がついには敵意にかわっていったのである。
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 『繁栄と衰退と』 (岡崎久彦 著、文藝春秋)は、この16~17世紀のオランダの盛衰を知るためにはすぐれた著書である。今から19年前に書かれ、その時に私も読んだのだが、その示唆するところは今になっても少しも色褪せていない。1906年に英国のエリス・バーカーが世に出した大著『オランダの興亡』を随所に引用しながら、戦後の「商人国家」日本に対して警鐘を鳴らせているのである。実業界の利害を代表するオランダのブルジョワ政治家たちが、経済重視の一点張りで国の安全保障や外交に力を注がなかったことが、外国からの信用をなくし、ついには英国との戦争に導いたとして。

 「オランダが、自分の都合で平和を最も欲していたことはよくわかる。問題はオランダが、その国是ともいうべき平和主義のために戦争の危険に直面しようとせず、迫る危機に眼をつぶっていたことである。
 バーカーは言っている。
 『オランダの政治家達は、国内政治では常に詐術や暴力を使っていたにもかかわらず、国際政治や戦争の問題についてはセンチメンタルな観点に立ってものを考えた。戦争の恐怖については文学的な調子で書き、かつ語っていた。そして、戦争というものは、国家が何らかの形で富を獲得するビジネスの一つであり、損得勘定もある程度までは計算出来るビジネスであることを閑却していた。』」

 さて、今夜の決勝戦はどんな展開になるだろうか。そして、日本の参院選は、開票速報を横目で見る限りでは与党民主党に対する批判票がかなり多かったようだが、これからの政治の舵取りはどうなるであろうか。

いずれにせよ、歴史にきちんと学ばない民族には、それ相応の未来しかないのだろう。

水戸学の跡 [歴史]


 5月21日の金曜日は、二十四節季の「小満」であった。「万物が充満し、草木枝葉が繁る季節」という意味なのだそうだが、確かに街中で見かける緑には勢いがある。おまけにこの日は朝から快晴で、関東各地は今年初めての真夏日になった。今日の土曜日も、その暑さが幾分か残っている。

 散歩に出かけた昼間、久しぶりに小石川後楽園へ足を運んだ。御三家の一つ、水戸徳川家の江戸上屋敷の跡地で、庭園部分だけが今は都立の公園として残されている。東京ドームの西隣という都会の真ん中にありながら、驚くほど緑の深いスポットである。
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 幕府の開設により俄かに政治の中心地となった江戸は、その中心部に大きな河川がなく、当初は水の供給に苦労したようだ。そのために開設された神田上水は、現在の江戸川橋付近から水路を作って神田川の水を引き、この水戸藩上屋敷の敷地内を通って江戸の街中へ水を流していた。小石川後楽園の園内では、その神田上水の跡を見ることができるが、地形的にそうせざるを得なかったのかどうかはともかく、敷地内に上水を通させたのは、やはり御三家への信頼に基づくものなのだろうか。(因みに、水戸藩上屋敷を通り過ぎた神田上水は、それから江戸城の外堀を懸樋(かけひ)で越えて江戸城内や市内へと流れていた。それが、今も残る「水道橋」という地名の由来である。)
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 水戸徳川家は家康の第十一子、頼房が始祖である。参勤交代の義務はなく、常に将軍を補佐する立場にあった。但し、領地の石高は28万石(後に公称35万石)と小ぶりである。二代目の(黄門様として有名な)光圀(1628~1700)が始めた『大日本史』の編纂事業に藩費の三分の一を投入したため、水戸藩の年貢は後に八公二民にもなったそうだ。(天領の年貢が概ね五公五民だったことから見ても、これは驚くべき重税である。)

 光圀が16歳の時、中国では漢民族の王朝・明が女真族の清によって滅ぼされた。光圀はその明の遺臣・朱舜水を自らの師として招き、朱子学を学ぶ。それは12世紀に出た朱子(朱熹)によって一つの学問体系に仕立てられた儒教で、新儒教とも言われる、学問というよりは一つのイデオロギーであった。

 「理非を超えた宗教的な性格がつよく、いわば大義名分教というべきもので、また王統が正統か非正統かをやかましく言い、さらには異民族をのろった。 
 漢民族は本来、経験的で実際的な民族なのである。 
 しかし、宋学はおよそ中国的ではないといいたくなるほどに理屈において苛烈であった。 
 ひょっとすると、成立当時、福建省や広東省、あるいは洛陽あたりにまでひろがっていたイスラム教の影響があったのではないかと思えるほどである。」
(『この国のかたち 三』 司馬遼太郎 著、文芸春秋 より)

 朱子の時代の中国は、漢民族の王朝・宋が北方の異民族の侵入を受け、勢力を南へ南へと狭めていた時期である。そういう現実がありながら、(というよりも、そういう現実があったがゆえに) 朱子学は観念論的になり、いわゆる中華思想的な世界観を理論武装するようになっていく。宋は結局滅び、モンゴルの後に漢民族王朝を一度復活させた明も、再び夷狄によって滅ぼされた。その明からの亡命者である朱舜水から光圀が学んだ朱子学は、その分だけ純度を上げた蒸留酒のようなものであったのかもしれない。
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 朱舜水の影響を受けた、「水戸学」と呼ばれる水戸藩の朱子学理論は、
「江戸の将軍は親戚頭として尊重するが、真の主君は天皇である」
という思想を持っており、幕府と朝廷の関係がうまく行っている間はよいが、両者が対立関係にあった場合には、御三家という自らの立場との間で矛盾を抱えることになる。『大日本史』の編纂事業によって水戸藩はこの「尊皇攘夷」思想の総本山的な存在となり、各地の「尊攘の志士」が水戸詣でに走ったが、幕末期にはそれが日本を大きく揺さぶり、水戸藩自身も深刻な内部抗争を始めることになる。

 その危機を深めたのは九代目藩主の斉昭だった。異国船の姿が見えるようになると強硬な攘夷論を展開し、下級藩士ながら過激な尊攘派を上位に取り立てた。そのために家格の高い保守的な藩士達は冷や飯を食わされたが、斉昭の死後に勢力を盛り返し、藩内では「俗論派」と呼ばれた。

 この俗論派と対立を繰り返した尊攘派も、中では「激派」と「鎮派」に分かれていた。両派はいずれも彰考館総裁・藤田幽谷(1774~1826)の弟子を出発点としながら、幽谷の次男・東湖(1806~55)、そして東湖の四男・小四郎(1842~65)の系統が過激な尊攘論を唱え、「攘夷は内外の情勢を冷静に見極めた上で慎重に行うべきものであり、今は開国もやむなし」とする会沢正志斎らと激しく対立する。

 こうした内部抗争や、井伊大老暗殺事件をはじめとする数々の事件に加わったことで、水戸藩は有為な人材を失っていく。そして、「蛤御門の変」で長州と尊攘派の公家が京都を追われた翌年の1864年3月、藤田小四郎を中心とする水戸尊攘派の天狗党が、全国の攘夷論者に攘夷決行を促すために筑波山に挙兵。約9ヶ月の間、幕府の追討軍と闘いながら関東・中部の山の中を京都へ向けて転々とするが、頼みの一橋慶喜(当時は将軍・家茂の後見職)に見捨てられ、12月に加賀藩に投降。352名が斬首された。
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 尊王攘夷運動の先陣を切った水戸藩であったが、こうした内部抗争や激発事件の結果、幕末維新が山場を迎える頃には人材が枯れ果てていたというのは、歴史の皮肉である。もっともそれを言えば、徳川宗家の第十五代将軍によりによって水戸家出身の慶喜が就任したことは、最大の皮肉であろう。「江戸の将軍は親戚頭として尊重するが、真の主君は天皇である」とする水戸学で育った男であるがゆえに、薩長側に錦の御旗が翻っただけで戦意を喪失してしまったのだから。

 中国や朝鮮の歴史と比べれば、日本が儒教から受けた影響は相対的に少なかったとは言える。江戸幕府の統治のイデオロギーとしては利用されたが、科挙や宦官などの制度は導入されなかった。しかし、幕末期に激越な尊皇攘夷論が沸騰したように、現実離れした空理空論を振りかざすところは朱子学の影響とされる。彼我の大きな戦力差にもかかわらず日米開戦に及んだことも。そして、私の経験からしても、いまだに大企業などでは、例えば組織防衛のための呆気に取られるような空理空論が罷り通ることがある。そして、昨今の「事業仕分け」などを見ていると、事業者側が説明する空々しい「大義名分」のいかに多いことか。そういう「朱子学」は、もう終わりにしたいものである。

 小石川後楽園の奥には梅園があり、その一角に藤田東湖の墓がある。元々斉昭のブレーンとして登用されていた東湖は、ペリーの黒船がやって来ると、江戸詰めの側用人として活躍する。その熱烈な尊皇攘夷論は全国に知られ、横井小楠や橋本左内、更には西郷隆盛とも交遊があったが、安政2年(1855年)の大地震の際、この上屋敷で倒壊した建物の下敷きになり、命を落とした。

 「明日は雨」という天気予報の通り、朝方の青空はいつの間にか姿を消して、早くも雲が広がっている。静かな庭園の中を更に歩いていくと、内庭では池の蓮が清らかな花を見せていた。
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