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山の上のアジア食堂 - 小金沢山 [山歩き]


 日曜日の朝6時38分、新宿から乗ったJR中央線の各駅停車が立川駅に到着すると、向かい側のホームに6時43分立川始発の甲府行き普通列車が入線するところだった。

 私は二つのことに驚いた。一つは、その列車に乗るためにホームに並ぶ人々の数が非常に多いことだ。私たちのようにザックを担いだ登山者、もっと軽装でトレイル・ランナーのような人々、そしてそのようなアウトドア・スポーツとは特段関係のなさそうな人々・・・。各種入り混じっているが、とにかくホームの上は人で溢れている。

 もう一つは、入線してきた電車が普段見慣れないものだったことだ。中央本線の高尾以西を走る普通列車といえば、115系電車に決まっていたのだが、今朝やって来たのは「長野色」に塗られた211系電車なのだ。私たちが乗った先頭車は全てクロス・シートだった。いつの間にこの電車の運用が始まったのだろうか。確かに115系はいささかくたびれていたから、乗り心地はだいぶ改善されることだろう。

 定刻の6時43分、平日朝の通勤電車並みの混雑状態で、甲府行き普通列車は出発進行。途中駅で降りていく人々は極めて少なく、大月でもそれほど多くは降りなかった。結局、立川からずっと立席のまま私たちは甲斐大和で下車。他の車両からも登山者が次々に降りてきて、ホーム前方の階段を上がる。そして、小さな駅前広場には小型バスが並んでいて、登山者が列をなす。大菩薩嶺の登山口にあたる上日川峠行きのバスが、この日は結局2台の増発になった。

 そして、山の中へと入っていく道をバスに揺られて登ること30分。8時50分少し前に、私たち7人のメンバーは標高1600m弱の小屋平バス停に到着。落葉松の森の中の、いつもながら気分のいい場所だ。頭の上の紅葉に早くも見とれてしまう。
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 バス停の手前には山仲間のT君の車があった。彼を含めて5人のメンバーが私たちより一足早く着いて、もう既に行動を開始しているはずである。今回は私たちより11年先輩のHさんご夫妻もご参加されているのだが、私たちとはどうしてもペースが違う、そのあたりにT君が配慮してのことだ。

09:00 小屋平バス停 → 10:10 石丸峠
 小屋平バス停から石丸峠へと向かう登山口は、上の林道まで標高差180mほどの登りがいきなり始まる。歩き始めからこの登りは、体がまだ暖まっていない時は意外とこたえるのだが、今は秋。赤や黄に染まった木々の様子を楽しみながら、一歩ずつ登っていこう。

 20分ほどでこの登りを終えて未舗装の林道に出ると、250m先に新たな山道が待っている。西側の展望が開けていて、青空の下に南アルプスの峰々がズラリと勢揃いしていた。中でも目を引くのが甲斐駒ケ岳の尖ったピークだ。こんなに素晴らしい青空が、今日一日続いてくれるだろうか。
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(左から、北岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳)

 北側に聳える大菩薩嶺を眺めながら、山道に入る。最初は尾根筋をつづら折れに登って行くのだが、標高差100mほどを登りきれば、後は緩やかな登りになる。落葉松のきれいな黄葉が続く、私の大好きな山道だ。
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 そして、右手には樹々の間に富士山の大きな姿があった。3日前の木曜日に今年の初冠雪を観測した富士山。胸から下に雲を纏っているが、私たちがこれから登る小金沢山の山頂からも、是非その姿を見せて欲しいものだ。
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 落葉松の森の中を緩やかに登り続け、その足元に苔むす場所を過ぎると、そこから一登りで今度は景色が一変して、見晴らしのよい笹原が続くようになる。大菩薩湖(上日川ダム)を見下ろし、その遥か彼方には再び南アルプスが勢揃いだ。
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 そして、南側には今日これから登る小金沢山へと続く稜線が続き、小金沢山のピークの右奥に富士山が再びその姿を見せている。
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 だが、富士の高嶺はこの場所を最後に、今回の山行では姿を隠してしまうことになった。天気図上では移動性高気圧に覆われてピーカンの青空になるはずだったのに、東の空から頻りに雲が沸いては西へと流れていく。赤や黄色に彩られた小金沢山の山肌も、流れていく雲のために日陰になって、錦秋の鮮やかさがくすんでいるのが、ちょっと残念だ。

 笹原の斜面をトラバース状に緩やかに下り、10時10分に石丸峠に着いた。

10:15 石丸峠 → 11:35 小金沢山
 先へ進もう。笹原の中の石丸峠から軽く登り、小菅村の山々に連なる稜線上の山道(いわゆる「牛の寝通り」を左に分けると、標高1957mのちょっとしたピークに上がることになる。ここから先、狼平と呼ばれる草原までの間は実に見晴らしが良く、地形も穏やかで、山にやって来たことの幸せをかみしめたくなるようなコースだ。右の彼方に南アルプス、正面には延々と南下を続ける小金沢連嶺のどっしりとした稜線。そして左の彼方には奥多摩の山々。四方八方を眺め回しながら、のんびりと歩きたい場所である。ここから尾根続きの大菩薩嶺とは違って、登山者がずっと少ないのもいい。
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(1957mピーク付近)
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(正面に小金沢山が聳える)
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(もう一度北岳と甲斐駒のクローズアップ)

 笹原を下りきって狼平を過ぎ、再び登りが始まると、今度は一転して深い森の中の道になる。それも、岩と岩の間にはびこる木の根を分け、両手も使って登って行くような道だ。一度下り、その先にまとまった登りがある。標高差は100m程度ながら、案外と手ごたえのある登りだ。それが間もなく終わろうとする頃に、私たちよりも先に行動を始めていたT君やHさんご夫妻ら5人のパーティーに追いつくことになった。
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 この登りが終われば、その先はアップダウンが殆どない稜線上の山道になり、小金沢山のピークまでそれほど時間はかからないはずだ。私たち7人のパーティーは先発隊の前へ行かせてもらうことにした。ピークで先輩をお待ちしよう。

 なおも登り続け、森の中の道ながら頭の上が少しずつ明るくなっていくと、山頂は近い。そして、11:35に小金沢山のピークに到着。お目当ての富士山は残念ながら雲の中に隠れてしまったが、西の空は引き続きよく晴れていて、八ヶ岳の主峰・赤岳がよく見えていた。
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(小金沢山の山頂から南方向の眺め。富士山は雲の中だった)
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(山頂からよく見えていた八ヶ岳の核心部)

 持ち寄ったフルーツなどを分け合いながら、山頂で過ごす一時。紅葉シーズンだからか、想像以上に登山者の数も多い。大きなザックを背負って、我々とは反対方向から登ってきた登山者たちは、昨夜は湯ノ沢峠にでも泊まっていたのだろうか。

 私達が追い越させていただく形になったHさんは、私の高校山岳部の先輩である。いや、11年も年上なのだから大先輩と言うべきである。彼のすぐ後ろの世代の人たちからすると、昔から怖い先輩であったそうだ。そのHさんは昨年に脳梗塞を患われた。そして、そのリハビリのために奥様と山を歩いておられる。今年の早春の頃にも、裏高尾の景信山から陣馬山への山道の途中で、ご夫妻にバッタリ遭遇したことがあった。

 何十年も前に高校山岳部で山登りのイロハを叩き込まれた人間に共通することなのだが、Hさんも歩行にはストックを使わない。二本の足だけでどっしりと大地を踏みしめながら、一生懸命に登っておられる。今日の行程も、笹原の中の緩やかな道ならともかく、木の根や岩につかまりながらのコースはご苦労が多いことだろう。それでも登るという強い意志。私が同じ境遇に立たされたら、Hさんと同じことが自分には出来るだろうか。

 私たちが山頂に着いてから10分ほどが経過した頃、木々の間からそのHさんご夫妻が現れた。とうとう登られたのだ。よかった!私たちは歓声を上げてお迎えし、全員での記念写真にも入っていただいた。
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11:50 小金沢山 → 11:40 狼平
 山を降りよう。お昼にさしかかり、腹も減ってきた。ここから狼平まで戻る山道でのHさんご夫妻のサポートはI先輩に任せることにして、T君が今度は一人で先に駆け下り、狼平で昼食の用意を始めているという。私たちもT君に続いて、登って来た山道を戻る。

 狼平は一面の笹原の中にポツンと一本の木が立った、何とも牧歌的な風景が印象的な場所だ。前回来た時にもそこで昼食にしたのだが、今回は小屋平から帰りのバスを一本遅らせて、この狼平でゆっくり過ごせる時間を確保することにしていた。せっかくなら、広々とした場所で皆一緒に暖かいものを食べよう。
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 そんな趣向で、今回も湯を沸かしてアルファ米からご飯を作り、既に調理して冷凍保存してきた料理を鍋で温めてご飯にかけることにした。タイ料理のガパオに、茄子のスウィート・チリ・ソース炒め、手羽中の黒酢煮。そして、ガパオに付き物の目玉焼きの代わりに味玉子。本当はガパオを暖める時にスウィート・バジルの葉を加えたかったのだが、それだけは持って来るのを忘れてしまった。

 日本の山の秋景色の中で食べるメニューとしてはちょっと場違いのような気がしなくもないが、ともかくも「山の上のアジア食堂」をメンバーにも楽しんでもらえたのは何よりだった。
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13:30 狼平 → 石丸峠 → 14:40 小屋平バス停

 昼食を楽しんだ狼平を後に、今朝歩いてきた山道を戻る。一登りで1957mピークに上がり、石丸峠を過ぎると、展望の良いトラバース道を10分も歩けば、小金沢山や狼平一帯の秋景色ともお別れだ。名残り惜しいが、しっかりと自分の胸の中に焼き付けておこう。秋色に染まった景色を前に、私の頭の中には少し前から、ヨハネス・ブラームスの第3シンフォニーの穏やかな第二楽章が流れ続けていた。
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 半日山を歩いた疲れが少し出たのか、下りはメンバーの歩みもゆっくりしたものになる。そして、落葉松の森を下り、もうすぐ未舗装林道に出ようかという地点で、何とH先輩ご夫妻が私たちのパーティーに追い着いた。比較的歩きやすい道では、女性を含めた私たちのスピード以上で歩いて来られたのだ。これには驚いた。

 それから更に山道を下り、ともかくも私たちは小屋平バス停に帰り着いて、T君の車と路線バスの二手に分かれて、やまと天目山温泉へ向かった。

 とても言葉にはできない秋の山の美しさと、それを仲間たちと共有することのありがたさ。リハビリに懸命に取り組むH先輩の見事な歩きぶりと、そのHさんのサポート役をすっと引き受けたT君の心優しさ。色々なことに心を洗われた一日だった。

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秋を見つけに - 三頭山 [山歩き]

 JR武蔵五日市の駅前から乗ったバスが、エンジンを唸らせながら奥多摩有料道路の急坂を上り続け、定刻の9:30に「都民の森」に着いた。標高1,000mだから下界に比べればだいぶ涼しい。北の空はクリアーに晴れているが、南側は雲の多い天気。それでも、時折雲間から顔を出す9月最後の土曜日の太陽は、朝から元気だ。

 今朝新宿を出てから凡そ2時間と45分。随分と時間がかかるものだが、「都民の森」と言うぐらいだからここもまだ東京都の中で、島嶼部を除けば東京で唯一の村である檜原村の最深部だ。ともかくもそこに、11人の山仲間が集まった。
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09:45 都民の森 → 里山の路 → ひぐらしの路 → 10:50 鞘口峠

三頭山(1531m)への登山口になる都民の森。最短距離で鞘口峠に上がって尾根道を登れば、山頂には1時間半足らずで着いてしまう。それでは物足りないだろうからと、今日は都民の森から「里山の路」を登り、大きく反時計回りに尾根道を三頭山へと歩く計画にした。真夏の間、週末日帰りの山歩きはお休みにしていたから、今日のメンバーの大半にとっては久しぶりの山だ。足慣らしを目的とした山行でもあった。

 三頭山の南面には、植林の中を上下左右に走る山道が幾つも拓かれている。里山の路はその中では一番東にあって、御前山から風張峠、鞘口峠を経て三頭山へと続く尾根に向かってつづら折れに登って行く山道だ。深い植林の中なので、昼間も薄暗い。

 このコースで都民の森から鞘口峠まで、凡そ40分ほどではないかと見込んでいたのだが、歩いているうちに、どうもそうは行かないことがわかって来た。我々がつづら折れを登るペースはそれほど遅いものではなかった筈だが、歩き出してから30分ほど経ったところで現在地を確認すると、鞘口峠どころか、まず尾根に登り切るまでの道の半分ほどしか登っていない。
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 本当は尾根に上がって、奥多摩湖を見下ろせるというビュー・ポイントを楽しんでみたかったのだが、数馬からの帰りのバスの時刻などから逆算すると、ここでこれ以上時間を費やすことはできない。尾根に上がるのを諦めて、我々は「ひぐらしの路」経由のショートカット・コースを辿ることにした。
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 「ひぐらしの路」はトラバース道ではあるものの、歩いてみると案外とアップダウンのある道だった。加えて、深い森の中だから日当たりがなく、一昨日までの雨のせいか、道が濡れていてスリップしやすい箇所もある。そんな訳でここでも案外と時間を喰い、結局鞘口峠に着いた時点で計画から30分以上の遅れとなっていた。
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(鞘口峠への下り)

10:55 鞘口峠 → 12:05 三頭山西峰

 先を急ごう。鞘口峠からはしっかりとした登りが始まる。そして、三頭山登山のメイン・ルートだからトレイル・ランナー達も多く、早くも山の上から駆け下りて来た人達と何度もすれ違う。このあたりから、今回ご参加いただいた、私たちより11年先輩のHさんご夫妻と、事実上のパーティー分けをすることになった。T君がHさんご夫妻に付いてくれることになり、我々は昼食の準備に必要なものをT君から荷分けして、先に山頂を目指すことにした。

 植林の中だと、どの山を歩いても同じような印象しかないが、それが広葉樹の雑木林になると、途端に山の表情が彩り豊かになって、それぞれの山の個性が見えてくるようになるものだ。三頭山への登山道も既にブナの森になっていて、頭の上の緑がきれいだ。そして、所々で黄葉が始まりだしている。
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 足元では草陰に色々な種類のキノコが姿を見せていて、山道を登り続けている間の一服の清涼剤だ。
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 やがて山道の傾斜が緩くなり、三頭山東峰の直下に到着。山道を外れて一登りすれば奥多摩湖や鷹巣山方面を眺める展望台があるのだが、計画から40分遅れになっていることから、それは省略して西峰へと進む。この時には西峰での食事の場所を確保すべく、H氏が我々よりも先に西峰に向かってくれていた。

 12:05に、我々はようやく三頭山西峰に到着。既に多くの登山者たちが昼食を楽しんでいたが、H氏のおかげで我々は二つのベンチを確保できたので、早速食事の用意に取りかかった。湯を沸かしてアルファ米に加え、ご飯になるのを待つ間に、前夜に調理して冷凍してきた「挽肉と夏野菜のカレー」を温める。参加してくれたメンバーにはちょっと忙しない思いをさせてしまったが、30分強で何とか昼食を済ませることが出来た。(ご飯にかける料理を冷凍して持って来るというのは、他にも応用できそうだ。麻婆ナスだとか、タイ料理のガパオだとか・・・。)
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 そして、昼食が終わった頃、山頂からは富士山が雲の中から右肩だけを見せていた。
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12:50 三頭山西峰 → 14:10 槇寄山 → 15:40 数馬の湯

 私たちの昼食が終わった時点で、先輩のHさんご夫妻はまだ山頂に上がって来ない。T君が付き添ってくれているから心配はないはずだが、私たちの行程も計画からは既に30分遅れになっているので、3人分の食事を残して私が山頂にとどまり、他のメンバーには数馬に向けて先に出発してもらうことにした。

 そして、待つことしばし。13時過ぎになってT君が山頂に到着し、そのすぐ後にHさんご夫妻がやって来た。途中に休憩を取りつつ、三頭山の登りを頑張って無事に到着されたのだ。よかった。何はともあれ、ベンチでゆっくりとカレーを召し上がっていただこう。

 Hさんご夫妻とT君は、来た道を戻って都民の森からバスに乗るという。なるほど、私たちと同じ数馬へのコースはまだ先が長いから、約1時間で降りられる都民の森へ戻っていただくのが安全策だろう。私はT君にHさんご夫妻のことを再び託し、荷物をまとめて13:15に山頂を出発。数馬へと向かった仲間たちの後を追うことにした。

 一人の気楽さで山道をかけ下る。皆に追いつこうと、ついペースが上がってしまう。三頭山の非難小屋をすぐに過ぎて、なおも下ると大沢山の登り返しがある。そのあたりのちょっとした黄葉や、足元に姿を見せるキノコの様子が実に楽しい。
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 13:45頃、山道が槇寄山に向かって緩やかに登っていくあたりで、先を歩いていた仲間たちに追いついた。そして14:10に槇寄山頂上のベンチに到着。あたりはいたって平らな地形で、山頂というよりも尾根道の途中のような所なのだが、南側の一部の展望が開けていて、そこからのとりとめもない山々の眺めが、私は好きだ。
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 短い休憩を取って、私たちは下山を続ける。槇寄山頂上のすぐ先に西原峠があり、数馬へと下る山道を辿るのだが、数馬までコースタイムが1時間ほどのこの道が、今日は少し遠く感じた。山歩きに二ヶ月ほどのブランクがあった私も、いつになく体が重い。膝が痛くなったメンバーもいて、彼女にはH氏が付いてくれたので、ここでもパーティー分けをするような形で私たちは下り続けた。奥多摩の「足慣らしコース」といってもなかなか侮れない。結局1時間10分ほどかかって、ようやく人家のある所まで下りてきた。
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 江戸時代に五街道の一つとしての甲州街道が交通のメインストリートになる以前の時代に、そのずっと北側を回る甲州中道という道があったそうだ。それは、五日市から秋川沿いに檜原村の本宿まで来て、そこから浅間(せんげん)尾根を縦走し、私たちが今朝歩いてきた鞘口峠へと三頭山の麓を登り、峠からは小河内に下りて多摩川を遡り、丹波山村(または小菅村)から更に大菩薩峠を越えて甲斐の塩山へと向かうものだったという。要するに青梅街道のサブ・ルートのような道だ。
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 今の目で見れば、それは街道などというものではなくて、純然たる山道に近いものだったに違いない。それでも甲州中道が主要な交通路だったのは、その他のルートに比べればまだベターな道だったということなのだろう。それぐらい、甲斐と武蔵の間は山深いのだ。今の私たちはレジャーで山に登るから、好天の日を選び、自分に必要な物だけを持って山に来ればいいのだが、当時の人々は物資を運ぶためにこれらの山々を越えていたのだ。その労苦は私たちの想像を遥かに超えたものであったのだろう。

 15:40に数馬の湯に到着。それぞれに入浴や着替えを済ませて次のバスを待っていると、やって来たバスの後方の座席にHさん夫妻とT君の姿があった。どうやらあの後、都民の森に降りてきて、レストランでゆっくりされていたようだ。

 このバスで武蔵五日市に着いたら、20分後に出るホリデー快速に乗れば、乗り換えなしに1時間で新宿だ。その後はいつもの居酒屋でいつものような展開になったのだが、そこで私たちが知ったのは、この日のお昼前、ちょうど私たちが三頭山への登りの核心部にいた頃に起きた、木曽の御嶽山の噴火のニュースだった。

 私は小学校五年生の夏に、家族で御嶽山に登ったことがある。頂上付近の神社の様子もおぼろげながら覚えているのだが、遠くからみても実に大きな、堂々とした山だ。学生時代に私たちが山岳部のホームグラウンドにしていた穂高の岳沢でも、晴れた日には乗鞍岳の左側にその大きな姿を見せていたものだった。今回は晴天の週末、紅葉の季節、そして噴火の時刻がお昼前だったことが、結果的に多くの人々の遭難につながった訳だが、何とも痛ましいことである。亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りしたい。

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真夏の雪 - 鳥海山・月山 (4) [山歩き]


 8月4日(月)、目が覚めたのは午前6時少し前だった。

 起き上がって窓の外を見ると、朝靄の漂う五色沼の向こうに、月山から尾根続きの姥ヶ岳(1670m)が朝の光を受けていた。東京は連日の猛暑だというのに、山形県の月山の南麓にある志津地区ではエアコンも何もいらない。窓からの風だけで快適な朝を迎えられるのは何ともありがたいことだ。
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 この旅館に電話をして泊めてもらうことにしたのは、昨日の午後4時半に近い頃だった。鳥海山(2236m)への登山を終えて、私たちのクルマは秋田県の象潟から国道7号線を南下していた。そこから志津へは2時間ほどと計算していたのだが、途中で道路の自然渋滞に巻き込まれ、おまけにカーナビが指示した国道112号の旧道が目的地の直前で通行止めになっていた、というようなアクシデントが重なって、志津の旅館に着いたのは夜の8時半を過ぎた頃になってしまった。それでも旅館の方々の配慮で何とか晩飯にありつき、風呂も浴びて生き返ることが出来たのはありがたい。昨日一日鳥海山を歩いたことによる筋肉痛はあったが、今日も天気は良さそうだから、頑張って月山に登ってこよう。

 7時に旅館の朝食をいただき、7時半過ぎにクルマで出発。姥沢駐車場までは10分ほどで、そこから更に坂道を10分登ると月山ペアリフトの乗り場に着く。このリフトで標高差270mほどを稼ぎ、終点の標高はほぼ1500mだ。ここまで上がると、風もだいぶ涼しい。
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08:30 月山ペアリフト終点 → 雪田 → 09:31 牛首直下のベンチ

 ペアリフトの終点から歩き始めてすぐ、振り返ると南側には早くも広大な展望が始まっていた。
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 中でも目を引くのが、山形・新潟の県境に聳える朝日連峰の堂々たる眺めだ。特にその最高峰・大朝日岳(1871m)の姿がいい。大学二年の5月に雪を踏んで登った時も、今日の相棒のT君が一緒だった。あの時は大朝日岳の頂上から真っ白な月山が見えていたが、あれから36年の歳月を経て、私たちは反対に月山の山稜から大朝日岳を眺めている。そう思うと、何とも不思議な気分だ。
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(朝日連峰のクローズアップ)

 姥ヶ岳へ直登する登山道を左に分けて、私たちは尾根をトラバースしていく道を選ぶ。これはやがて植生保護のための木道になって、斜面に残る雪田を間近に見ながらゆるやかに登っていく。花と緑、残雪と青い空を楽しみながら歩く、文字通りの遊歩道だ。
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 ここは東南あるいは南を向いた斜面だから、決して日当たりが悪い訳ではない。標高も1600m近辺だ。それなのに豊富な雪が残っているのは本当に不思議である。
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 特に私たちが驚いたのは、雪田のすぐ下流側、おそらくは一週間ほど前ならまだ雪の下だったと思われるような場所に、一斉に若い緑がよみがえっていることだった。コマ落しの映像にしたら、きっと驚くほどの早さで新芽が現れていることがわかるのだろう。山里でもうとっくに収穫時期が終わっているコゴミも、雪田の下へ来れば今がまさに旬である。
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 姥沢からペアリフトに頼らずに谷筋を登ってくる登山道が右から合流してくると、道の両側の雪田も大きくなってくる。特に右側の雪田は今もなお夏スキーのゲレンデになっていて、スノボを楽しむ人たちがいた。
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 そこからは山道の傾斜が少しずつ急になり、雪田を渡るというよりは登るようになって、牛首というなだらかなピークの直下をめざす。相変わらず緑がきれいで、高山植物の花も豊富だ。こんなに穏やかな景色の中を歩いていると、月山が30万年前に最後の噴火で今のような山容になった火山であることを、すっかり忘れてしまいそうだ。
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 雪田を過ぎて更に登っていくと、姥ヶ岳から尾根伝いの山道が左から合流し、その先が牛首直下のベンチだ。今日も晴れて日差しが強く、日蔭のない地形が続いているが、昨日と違って朝の早い時間帯から雲も湧いているので、太陽が遮られる時もあり、昨日ほどの暑さでないのは助かっている。

09:45 牛首直下のベンチ → 10:55 月山神社

 牛首を過ぎると、いよいよ月山本体への登りだ。これは標高差280mほどを殆ど直登するようなコースで、花と緑が励ましてはくれるものの、案外しっかりとした登りだ。前日の鳥海山登山の疲れも多少あって、私たちはだいぶゆっくりとしたペースになり、途中で小休止も何度か取った。一本調子の登り坂は辛いが、歩けばその分だけ確実に高度は稼ぐのだから、ともかくも頑張ろう。
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 そのうちに下界の沢筋から盛んにガスが上がり始め、遠くの山々も見えたり隠れたりを繰り返すようになった。丸一日快晴が続いた昨日とは違って、今日はゆっくりと天気が変わっていくのだろうか。
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 やがて傾斜が緩やかになり、台地のような地形になると、200mほど先に月山の山頂が見えるようになった。台地の上に槍の穂先を立てたような山頂なのだが、実はその全体が神社なのだ。本来ならばその左の彼方に鳥海山が見えるはずなのだが、残念ながら今日は雲に隠れている。
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 何しろ山頂全体が月山神社の境内なのだから、山頂を踏むということは必然的に神社の拝殿の前に立つことになる。

 「お祓い料としてお一人500円をお納めください。」

 山頂への石段を上った先でそう言われたので、声の主を改めて眺めると、神主の装束を纏っている。言われた通りにお金を払うと、神主は小屋の中に座ったまま幣(ぬき)を振って祝詞を唱え、T君と私にお祓いをし、紙で作った人形(ひとがた)を渡してくれた。これで体中を拭き、水の中に落として穢れを祓うのである。そして最後に一枚の小さな紙をくれた。

「登拝認定証  あなたは、標高1984mの出羽三山の主峰月山を踏破し月山頂上鎮座、月山神社本宮を参拝されました。・・・」

 なるほど、頂上は神社なのだから、単なる登頂ではなくて「登拝」になる訳だ。
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 ご由緒によれば、月山神社は推古天皇元年(593年)、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)によって開かれたという。崇峻天皇は歴代天皇の中で在位中に暗殺された唯一の天皇として知られるが(黒幕は蘇我馬子)、蜂子皇子は追手を逃れて丹後国から船で北上、現在の山形県鶴岡市に上陸したという。そして、三本足の鳥に導かれて羽黒山に至り、出羽三山を開いたとされている。

 しかしながら6世紀末という、畿内の中央政権の支配が未だ東北には及んでいない時代に、この話にはかなり無理があるのではないか。後世になって「皇族ブランド」との繋がりを膨らませたものと考えた方がいいのかもしれない。

 それはともかく、月山神社の祭神は月読命(ツクヨミノミコト)である。黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが筑紫の国で禊(みそぎ)祓いを行い、左目、右目、鼻を洗った時に生まれたのが、それぞれアマテラス、ツクヨミ、そしてスサノオだとされるから、天津神(あまつかみ)の中でも枢要な系譜の神様である。そんなツクヨミを祀っているからか、出羽国の神社といえば鳥海山の大物忌神社と月山神社が双璧であったようだ。

 古来、月読命が農業の神様とされてきたのは、「月を読む」という名前の通り、一年の農作業に陰暦が深く係わってきたからなのだろう。庄内平野からよく見える月山。夏になってもなお白い雪を抱くその山を、農民たちは常に仰ぎ見てきた筈である。そしてまた、月山は羽黒山、湯殿山と並んで修験道の一大聖地ともなってきた。

 この三つの山の各神社を一括りにして、現在のように「出羽三山神社」という組織になったのは、明治になってからのことだそうだ。そして、「神仏分離」によって習合時代の本地仏や修験道は排撃を受けることになる。そんな中で、月山神社はその社格が次第に格上げされ、大正期にはついに国幣大社になった。古くからの出羽一宮、鳥海山の大物忌神社(社格は国幣中社)を出し抜いて、東北地方では唯一の国幣大社である。月山神社のこうした政治力はどこにあったのだろうか。
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(山頂付近に咲くミヤマキンバイ)

11:10 月山神社 → 11:57 牛首直下 → 12:50 月山ペアリフト終点

 月山からの帰りは、牛首から姥ヶ岳までの稜線沿いの山道を歩くつもりでいたのだが、月山から下山を始めた頃から周囲もガスに覆われ始め、牛首の直下に着いた頃には一時的に雨もパラつくようになった。今から稜線を歩いても、ガスの中で眺めは得られそうにない。更に降ってくるかもしれないから、稜線はやめて来た道を戻ろう。そんな合意が自ずと出来て、私たちは雪田の中を下るプロムナードに戻ることにした。

 鳥海山と月山。それぞれの頂上にある神社のご由緒からして、この二つの山は出羽国の双璧なのだが、旧友のT君と二人で、今回はその山頂を踏むことが出来た。天候にも恵まれ、真夏にも豊富に残る雪を楽しみながら、東北の山々が持つ独特の懐の深さを知ることが出来た。何よりも、この二つの山は、それぞれが火山であることを忘れてしまうぐらいに花と緑が豊かだ。こうした火山にも緑が蘇るのだから、日本の自然は本当に素晴らしい。
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(雪解け水ともこれでお別れ)

 昨夜泊まった旅館に戻って風呂を浴びた後、私たちはクルマで一路東京へと向かった。37年ぶりにT君と二人で歩いた東北の山。企画をしてくれた彼には改めて御礼を申し上げたい。そして、いずれまた、その続編を実現できたらいいなと思う。

真夏の雪 - 鳥海山・月山 (3) [山歩き]


 私たちが今、その核心部を歩いている鳥海山。それは新旧二つの火山によって構成されている。

 今朝、御浜小屋の前から眺めた鳥海湖を取り囲む幾つかの丘が古い火山(西鳥海)の中央火口丘で、だいぶ浸食が進んでいるために丸く穏やかな地形が多い。それに対して、今私たちがいるのは新しい火山(東鳥海)で、こちらの方はまだ荒々しい姿形をしている。先ほど歩いて来た「外輪山コース」は、まさにこの東鳥海の外輪山を反時計回りに辿ってきたものだ。その外輪山の中では、今立っている七高山(2229m)が最高峰である。
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 その東鳥海には、1800~1801年の噴火で新たに溶岩ドームができた。それが現在の山頂で、その名も新山(2236m)という。外輪山側から眺めると、新山の姿はまさに溶岩ドームと呼ぶに相応しい。
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 尾瀬の燧ケ岳(2356m)より北の東北地方では、この鳥海山が最高峰だ。北海道を含めても、この山より高いのは大雪山だけである。そして、私たちが眺めている頂上直下の雪渓は万年雪だ。標高2200mというと、北アルプスでも夏になれば残雪は皆無なのに、この鳥海山に豊富な雪が残るのは本当に不思議なことだ。
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(鳥海山の固有種 チョウカイフスマ)

10:10 七高山 → 10:33 頂上小屋(10分休憩) → 11:03 新山頂上

 七高山から縦走路を少し戻り、その雪渓をめがけて下りていく。雪渓の上には冷気が漂い、汗まみれの体には心地よい。それを渡れば、そのすぐ先が頂上小屋である。
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 頂上小屋までやって来ると、右側に鳥居が立っていて、その先に小さなお社があった。大物忌(おおものいみ)神社で、簡素な拝殿の前で鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。そっと中を覗くと、横長の額にただ一言「鳥海山」と書いてあった。
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 小屋の周辺で何とか日陰を見つけて休みたいのだが、太陽は頭の上高く、日射を遮るものは何もない。小休止の間にひとまず水分を補給し、新山頂上を目指すことにした。

 溶岩ドームだけあって、新山への道は岩だらけだ。といっても例えば浅間山のように岩がガラガラと転がるような感じでは全くなく、北アルプスの岩峰を登っているような気分である。個々の岩はしっかりと安定しており、ここが火山であることを忘れてしまいそうなほどだ。途中、大きな岩と岩の隙間を下っていく箇所があり、目の錯覚で随分と下ってしまうように見えるのだが、実はそれほどの距離はなく、すぐに頂上直下の最後の登りになる。それをよじ登ればピークに立つことになる。
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 午前11時3分、ついに新山頂上に到達!鉾立駐車場から歩き始めてから、休憩も含めてちょうど6時間ほどをかけたことになる。明らかにコースタイムよりも遅かったが、この暑さの中、ともかくも鳥海山の頂上を極めることができた。あたりにはだいぶ雲が湧き始めていたが、依然として日本海がよく見えていた。
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(鳥海山の山頂から日本海を望む)

 今回、鳥海山に登ることになってから、私の頭の中にずっと引っかかっているものがあった。それは、先ほど神様に手を合わせて来た大物忌神社のことである。

 社伝によれば、創祀は欽明天皇二十五年というから六世紀の後半になる。ご神体は鳥海山そのもので、祭神は大物忌神だという。だが、この神様は記紀にも名前が載っていないそうだ。そもそも、「物忌み」という言葉が神様の名前になっていること自体が奇怪である。

【物忌み】
① 祭事において神を迎えるために、一定期間飲食や行為を慎み、不浄を避けて心身を清浄に保つこと。斎戒。斎忌。
② 占いや暦が凶であるときや夢見の悪いときなどに、家にこもって謹慎すること。
③ 不吉であるとして物事を忌み避けること。
(三省堂 大辞林)

 物忌みとはこのような意味だが、「大物忌神」なるものがおわすとすれば、こうした物忌みを司る神様か、或いは凶兆を告げるような神様なのだろうか。風水害や疫病の流行など人知の及ばないことに対して「怨霊の祟り」や「神意」を人々が本気で恐れていた時代には、物忌みとは重要な神事であった筈だ。だが、記紀にも大物忌神の名前はないという。

 なのに、鳥海山の大物忌神社は古くから出羽一宮とされてきた。諸国一宮の中で、お社がこんなに高い山の上にあるのも珍しい。そして、ずっと後世の室町期に成立したという『大日本国一宮記』には、大物忌神とは「倉稲魂命(ウカノミタマ、食物・穀物を象徴する女神)なり」と書かれているそうだが、そんなおめでたい神様と同神であるなどというのは、後世になってから取って付けた話なのではないだろうか。

 鳥海山は平安時代の初期に噴火を繰り返したそうである。9世紀から10世紀の前半になるのだが、それは畿内の中央政権が東北地方、とりわけ日本海側の出羽地方へと支配圏を拡げていった時代と重なっている。それに対して、いわゆる蝦夷(えみし)と呼ばれた人々がその支配に繰り返し抵抗した。8世紀の中頃に築かれた出羽柵(でわのき、場所は不明)や秋田城は、中央政権と「まつろわぬ(=従わない)者」との境界線だった訳だ。
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 その時期に活発に噴火を繰り返した鳥海山。その火山活動を見て、これから起こるであろう蝦夷の反乱を山の神様が忌み嫌って山を爆発させたのだと中央政権側が受け止めたとしても、何の不思議もない。だとすれば、噴火によって蝦夷反乱の予兆を示す山の神様を祀る神社が出羽一宮とされたのも当然なのかもしれない。

 いずれにしても、古代の東北地方には畿内の中央政権とは異なる「もう一つの日本」があったことを、鳥海山の大物忌神社は教えてくれているように思う。(因みに、「鳥海山」という名前がいつ、何に由来してできたのかも、わかっていないそうである。)

11:15 新山頂上 → 11:30 頂上小屋(20分休憩) → (千蛇谷コース) → 12:50 外輪山コースとの分岐14:06 御浜 → 14:32 賽の河原 → 15:15 鉾立駐車場

 山を下りよう。新山頂上から岩を下って頂上小屋まではすぐだが、カンカン照りの続く中、正午前とあって小屋の周辺は暑いことこの上ない。今日はコンロを持参し、昼食用にカップ麺も持って来たのだが、この暑さではあまり食べる気がしない。結局ゼリー飲料や甘い物でエネルギーを補給して、下山を開始することにした。

 下りの千蛇谷コースは、雪渓沿いの道を緩やかに下っていく道だ。千蛇谷は広くて開放的なイメージがあり、雪渓自体も緩やかなので、今日は登山者も冷風漂う雪渓の上を選んで歩いているようだ。
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 今朝登って来た外輪山コースを左に見上げながら、千蛇谷を下る。振り返ってみると、この谷はいわゆるU字谷の形をしていて、かつて氷河が谷を削り取ったのだろうなあと思えるような風景だ。
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 雪渓歩きが終わり、少し登り返しがあって外輪山コースとの分岐に着くと、そこから先は行きと同じ道を戻ることになる。午前中に比べれば空に雲が行き交うようにはなったが、うまい具合に太陽を遮ってくれるのは短い時間のことで、またしても日陰のない山道が続く。
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(つかの間の日陰)

 鳥海湖を見下ろす御浜に戻って来た頃には、私たちもかなり疲労困憊し、小休止を取ることが多くなった。賽の河原では、雪渓から流れ出る水量が朝方よりもだいぶ多くなっていたように思えた。その水を手ですくってみると、太陽に焼かれ続けた体には実に心地よい冷たさなのだが、雪渓から融け出したばかりの水というのは、飲み水としてはあまり美味いものではない。
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(疲れたなー)

 その賽の河原から更に45分ほどを下って、ようやく鉾立駐車場に到着。休憩時間を含めて、このカンカン照りの中で10時間を超える行程になってしまい、さすがに疲れた。ともかくも自動販売機で冷たいスポーツドリンクを買い求め、しばらくの間私たちは放心状態になっていた。
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(さよなら鳥海山)
(To be continued)

真夏の雪 - 鳥海山・月山 (2) [山歩き]


 8月3日(日)、予定通り午前4時頃に目が覚めた。T君のクルマの二列目・三列目を倒しての仮眠だったが、暑くもなく寒くもなく、よく眠れた方だ。窓の外は北東方向の空だけが白んでいて、反対方向はまだ夜が支配している。明るくなるにつれて、空の星は次第に姿を消していくのだが、それに反比例するように、遠くの山々や日本海の海岸線がはっきりと見えてくる。標高1150mの鉾立駐車場は、素晴らしい快晴の朝を迎えようとしていた。

 私たちと同様に車内で仮眠していた登山者たちが次々に起き出してきて、まだ朝の4時過ぎだというのにあたりは賑やかになってきた。T君がコンロで湯を沸かし、アルファ米にレトルト食品をかけて、私たちは朝食を済ませる。登山の支度を整えて4:50に歩き始め、駐車場の北端の展望台に立ち寄ると、早くも雄大な眺めが広がっていた。今日一日、この調子なら相当な数の写真を撮ってしまいそうだ。
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(鉾立駐車場展望台から秋田方面)
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(秋田駒ヶ岳(遠景中央)と、その右が岩手山)
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(これから登る鳥海山)

4:58 象潟口登山口 → 6:07 賽の河原 → 6:43 御浜小屋

 象潟口登山道はよく整備されていて、その入口からは石畳の道が続く。既にこの山の森林限界を越えているので、緩やかに尾根を上っていく登山道は最初から眺めが良い。歩き始めてからすぐ、南側に庄内平野の展望が広がるのだが、日本海の海岸線の方向を眺めると、鳥海山の山体の影が海の上に映っている様子を見ることができた。鳥海山名物のこの光景、話には聞いていたが、よもや自分の目で見られるとは。朝一番から私たちのテンションは上がりっ放しだ。
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(日本海に映る鳥海山の影)

 今日の目的地である鳥海山の山頂付近を遠くに眺めながら、見晴しの良い穏やかな上りが続く。そして、歩き始めてから45分ほどで石畳が途切れ、小さな雪渓が現れて、それを渡ることになる。確かに北向きの斜面ではあるが、標高1500m前後の地点に8月になってもなお雪渓が残るとは驚きだ。
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 この雪渓沿いに斜面を登りつめ、地形が平らになった場所が「賽の河原」だ。ここにも雪田が残っていて、その雪を踏みながら歩くことになる。このあたりから高山植物の花が急速に増えていくのが楽しい。
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(賽の河原の入口)
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 雪田を過ぎ、再び石畳の道になってちょっとした登りになり、その傾斜が緩やかになると、右手に御浜小屋が見えてくる。登山道からの展望は一段と広がって、秋田方面に青々とした日本海が続いている。そして、御浜小屋の前を通り過ぎて尾根の上から南側の展望が目の中に飛び込んで来た時に、私たちは思わず歓声を上げた。
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 碧い水を湛えた鳥海湖と、その周辺の真っ白な残雪、花と緑。背後に庄内平野が広がり、彼方には月山や朝日連峰の山並み。そして頭の上は青い夏の空。これはまさに地上の楽園ではないか。歩き始めてからまだ2時間と経っていないが、この景色を眺めることが出来ただけでも、東京からはるばるやって来た甲斐があったというものだ。
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(月山のクローズアップ)

6:55 御浜小屋 → 7:34 八丁坂の道標 → 7:45 七五三掛 → 8:10 千蛇谷コースとの分岐

 展望の素晴らしい御浜小屋を後に、私たちは山道を進む。あたりは広大な地形で、丘を緩やかに下ると八丁坂の登りが始まる。午前7時を過ぎたばかりだというのに、太陽の光はとても強い。おまけに日陰が全く出来ない地形で、直射日光を遮るものがない。今日は太平洋高気圧にポッカリと乗っているのか、風もあまり吹かないから、まだ標高1700m前後のこのあたりは暑く、体中から汗が噴き出してくる。
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 加えて、私は一つ失敗をしていた。せっかく持ってきた帽子とサングラスをT君のクルマの中に置いたまま、今朝は歩き始めてしまったのだ。後悔先に立たずだが、来てしまった以上は仕方がない。小休止のたびに日焼け止めを繰り返し顔に塗ることにした。

 7:45に七五三掛(シメカケ)という少し平らな場所に出る。鳥海山への山道は、ここから外輪山コースと千蛇谷コースに分かれていたのだが、後者は崩落によってルートが少し変わったようで、現在の分岐点はもう少し先にある。そこまで行くと、千蛇谷の豊かな雪渓が一望できた。そのルートは下山に使うことにして。私たちは分岐を右へ、外輪山コースを進もう。
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(山道の分岐から眺める鳥海山の千蛇谷)

 振り返れば、鳥海湖を眺めた御浜小屋もかなり遠く、下の方に見えている。だが、鳥海山の山頂まではまだだいぶありそうだ。
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(歩いて来た道)

8:15 千蛇谷コースとの分岐 → (外輪山コース) → 10:08 七高山

 外輪山コースは、鳥海山の山頂へと続く尾根を反時計回りに進んでいくような道だ。山道そのものには危険な個所はないのだが、尾根のすぐ左側はかなり高度差のある断崖になっている。

 先ほどの千蛇谷コースとの分岐点から標高差160mほどを登って文殊岳(2006m)という小さなピークまで頑張って上がると、そこから先は緩やかな登りが続くだけだ。地図を見ると確かにそうなのだが、ここまで強烈な日差しを浴び続け、大汗をかきまくって来た私たちは、水分補給には留意しているものの、いささか消耗してきた。
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 「日陰が欲しい!」と何度も呟く。天気が良いのは嬉しいことだが良過ぎるのも考えものだ、などと罰当たりなことが頭の中に浮かんでくる。そのうちに、鳥海山の頂上直下にある頂上小屋が明確に見え始めた。
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 行者岳という2159mの岩峰を過ぎると、外輪山を更に回って行くコースと、左の断崖をトラバースしながら頂上小屋へ向かう山道とが分岐しているのだが、今は後者は歩行禁止になっている。3年前の大地震の影響なのかどうか、山道の崩落があったのだろう。その先を更に標高差50mほどを登ると、鳥海山の山頂と頂上小屋が手に取るように見えてくる。そして、山頂の東側には驚くほどの分厚い雪が残っていた。
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 標高2200m前後の稜線に咲く花に励まされながら山道を更に進むと、七高山(2229m)という岩峰がすぐ先にある。そこまで登って西側を眺めると、雪渓を隔てた正面が鳥海山の山頂だ。そこまで行くには標高差50mほどを一度下って雪渓を渡り、頂上小屋まで行ってから山頂に登り返さなければならない。
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(七高山のピーク)
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(七高山から眺めた鳥海山頂上)

 秋田県にかほ市のHPに載っている登山マップによれば、鳥海山象潟口のコースタイムは鉾立駐車場から山頂まで上り4時間40分となっている。私たちは朝4:58に出てきて今が10:08だから、休憩も含めて5時間10分を要している。あの山頂までも、まだ30~40分はかかりそうだ。太陽に照りつけられて今日の私たちが消耗気味であることは確かなのだが、鳥海山の登山道は、思いのほか骨のあるコースだと実感。一息いれたら、また頑張ろう。
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(To be continued)


真夏の雪 - 鳥海山・月山 (1) [山歩き]


 8月2日(土)、午後2時の新宿南口は炎天下で暑いことこの上ない。真夏の暑さが一気にやって来た上に、私は登山用の30リットルのザックを担ぎ、手にも荷物があるから、少しの距離を歩いただけでもう汗まみれだ。

 南口から甲州街道を少し歩いて最初の信号を右に曲がった所で、旧友のT君がクルマを停めて待っていてくれた。荷物を積んで、早速出発。今日はこれから山形・秋田両県の県境まで、530kmの長い道のりを走らねばならない。月曜日に休暇を取り、土曜の午後発の二泊三日(但し初日は車中泊)で東北の鳥海山(2236m)と月山(1984m)に登って来ようという計画なのである。

 山手通りから首都高に入り、板橋、江北、川口の各ジャンクションを経由して東北自動車道へ。その後は宮城県の村田ジャンクションで山形自動車道に入り、月山インターまでは高速道路がつながっている。土曜の真昼と夕方の間を狙って出発したおかげで下り方面の道路は空いており、ハンドルを握るT君も快調に飛ばしていくので、NAVITIMEの計算よりも早いペースで我々は北上を続けた。
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 今回の山行を立案したのはT君だった。山の先輩たちを含めて他に何人かにも声をかけたようだが、かなり直前になってからの企画だったので、結果的にはT君と私の二人だけになった。彼と二人で東北の山へ行くのは、よく考えてみたら大学一年の夏に飯豊連峰に登った、その時以来のことだから実に37年ぶりということになる。あの時は上野発の夜行列車で磐越西線の山都駅まで行き、飯豊連峰を南から北へ抜ける山旅だった。もちろん、今よりも遥かに体力があった頃のことだ。

 あの時は飯豊の山々を歩いて雪渓を下り、最後は米坂線の小国駅へ出て山形へ向かった。T君の下宿に転がり込むためだった。彼は山形の大学に通っていたのだ。8月のお盆明けぐらいの頃で、大学はまだ長い夏休みの最中だったから、彼の下宿にはそれから何泊かさせてもらった覚えがある。二人で仙山線の電車にのって、山寺へも行ったかな。その頃の自分よりも、今の息子の方が年上になっているのだから、歳月は流れたものである。

 東京生まれ・東京育ちの人間にとって、初めて地方で暮らしたという経験はいつまでも記憶に残るものだ。ましてそれが雪国であれば、今でも体で覚えているようなことが少なくない。私にとって社会人としての最初の三年を過ごした北陸・富山がそうであるように、T君が大学時代を過ごした山形は、彼にとっての第二の故郷のようなものなのだろう。

 その彼が在学中にピークを踏み損ねていた山の一つが、鳥海山だという。今回の短い休みを使って東京からそこまで足を延ばすのはちょっと慌ただしいかなとも思ったが、月山と組み合わせた今回の計画について彼とメールのやり取りをしているうちに、山形に対するT君の並々ならぬ思い入れを感じた私は、彼のお奨めに従うことにした。鳥海山も、今回の登山口こそ秋田県内だが、山頂は完全に山形県内にある山なのである。

 山形自動車道が山形盆地を北上して寒河江に向かう頃、正面に穏やかな山容の月山のシルエットが見え始めた。
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 時計は午後6時を回り、黄昏時が始まろうとしていたが、傾いた夏の太陽はまだまだ元気で、山形県下も快晴が続いている。この先、月山ICと湯殿山ICの間は一般道を走ることになるので、暗くなる前になるべく先を急ごうと、私たちは寒河江SAでの休憩もそこそこに出発。そして、一般道区間を終えて再び山形自動車道に入り、トンネルを超えて車窓に庄内平野の夜景が広がり始めた頃、藍色の北の空の下に大きな山の形がまだ見えていることに気がついた。それが鳥海山だった。

 「やっぱりデカいなあ!」
 私たちは驚きと憧れを持って、その大きな山のシルエットを追った。日はとっくに暮れて、西の空の最後の残光もそろそろ消えようかというのに、鳥海山が頂上まで見えている。よほど天気がいいのだろう。明日もそれが続いてくれるといいな。

 鶴岡ICを過ぎて山形道は日本海東北自動車道と合流。最上川を渡って酒田みなとICに着くと、自動車専用道路はそこで終わりだ。今夜の目的地である鳥海山登山口の駐車場に着く前に、私たちはどこかで晩飯を済ませておかねばならない。酒田市内へ戻るようにして県道を進むと、ファミレスやコンビニの集まる一角があったので、そこに駐車。午後8時少し前だった。

 クルマの外に出ると、最上川に近い方角からパンパンと花火の音が響いてくる。たまたま近くにJR羽越本線をオーバーパスする道路があったので、そこまで上がってみると、その花火が見えた。事前には全く知らなかったのだが、8月2日(土)は「酒田花火ショー」の当日だったのだ。これはちょっとトクをした気分である。私たちにとっては、ちょうど明日の登山の前夜祭だ。
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 ファミレスで晩飯を済ませた後、再びクルマに乗って今日最後の一走り。あと30~40分というところだろう。殆ど信号もなく真っ暗な国道7号線を北上し、道路標識に「十六羅漢岩」の文字が見え始めると、間もなく鳥海山の山麓へと上がる県道(鳥海ブルーライン)との分岐になる。この県道をひたすら上がり、登り切ったところが鉾立駐車場だ。鳥海山に登る幾つものルートの中で最も一般的な象潟ルートの登山口になっていて、ビジターセンターなども置かれている。

 午後9時45分。その駐車場の一角にクルマを停めた。ここで夜を明かそうという登山者たちのクルマが他に何台も来ている。中にはテントを広げているパーティーもあった。海を見下ろす側に歩いて行ってみると、漆黒の闇の中に象潟あたりの町の灯りが輝いている。海の彼方にも灯りが幾つも見えるが、あれは漁船だろうか。松尾芭蕉が『奥の細道』で訪れた最北の地・象潟。今日の午後2時に東京・新宿を発って、思えば遠くへ来たものだ。
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 そして、頭の上はよく晴れた夜空で、文字通り満天の星だ。天の川もはっきりと見えている。風もなく、実に素晴らしい夏の星空。明日の朝は4時起きの予定だが、こんなに見事な星空にはめったに出会えないから、今夜はもう少しそれを楽しむことにしよう。T君と私は駐車場の地面の上に腰を下ろし、星空を見上げながら缶ビールで一杯やることにした。
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(北斗七星と北極星)

 明日も快晴が続くだろうか。
(To be continued)


梅雨の合間に - 三ツ峠山 [山歩き]

 雨の季節である。

 6月の日曜日は、サッカーのW杯大会で日本代表チームの初戦が行われた15日以外は天気が芳しくなかった。その15日だって、結果的には素晴らしい快晴となったが、そうなるであろうことがわかったのはほんの二・三日前のことだ。梅雨の最中の晴れ間というのは、そんなに前から見通せるものではないのだろう。

 そんな訳で、山仲間たちとの日曜日帰りの山歩きは、5月25日を最後に一ヶ月半以上も間が空いてしまっていた。この週末も東京都・山梨県の天気予報は「曇時々晴、降水確率30%」と、それほど芳しい内容でもなかったのだが、ともかくも晴マークの付いている週末は久しぶりだったので、総勢8名で出かけることにした。「この時期としては稀に見る大型で強い」はずだった台風8号も、金曜日の未明に関東南岸を通過する頃にはすっかり勢力を弱めていたから、山道が荒れることもなかったはずだ。

 7月13日(日)の朝7時51分、大月駅を発車する河口湖行の普通列車に私たちは駆け込む。一本早い列車で大月に来ていて、すでに富士急の電車に乗り込んでいた3人と合流し、今日のメンバー8人が揃った。窓の外は曇り空に薄日が差すような天候だが、小金沢連嶺の峰々や、今日の目的地の三ツ峠山もぼんやりと見えているから、雲はそれほど低くはないようだ。

 ブルートレインの車両が展示されている下吉田駅を過ぎると、電車の正面に富士山の大きな裾野が広がった。さすがにこの天候では山頂は雲の中だが、ここまで大きな富士を眺めるのも久しぶりのことだ。気を利かせてこの区間だけ電車も徐行運転になり、「今日の富士山の眺めは梅雨の間では貴重なものです。」という車内アナウンスがあった。
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(富士急行線・月江寺駅付近からの富士)

 その後、富士山駅でスイッチバックした電車は8時43分に河口湖駅に到着。本来ならこの駅からも南側に大きな富士の高嶺を眺められるのだが、その方角の雲は一段と厚くなって、裾野さえもが隠れてしまった。

 駅前からタクシーに分乗し、三ツ峠山登山口の駐車場へ。私たち同様、このところの雨続きで退屈していた人たちが多かったのか、駐車スペースは満杯で、道路のだいぶ下の方へクルマが溢れていた。

09:25 三ツ峠山登山口駐車場 → 10:00 ベンチ(5分休憩) → 10:35 三ツ峠山荘(5分休憩) → 10:51 開運山頂上

 以前に来た時にも感じたことだが、ここから三ツ峠山荘へと上がる登山道は、面白みのない山道だ。ジープが上り下りする道で、途中まで部分的な舗装が混じるのであまり風情がない。そして樹林の中の道だから展望もない。そういう道は淡々と登るしかなく、私たちもついペースが上がることになる。
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 コースタイムよりも少し速いペースでベンチに到着。小休止を取った後、更に山道を登っていくと、やがて傾斜が緩くなる。好天ならばこのあたりから、木々の向こうに南アルプスが見え始めるのだが、今日はそれを望むべくもない。
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(ベンチで小休止)

それでも、悪いことばかりではなくて、この区間特有の道のぬかるみは幸いにして今日はたいしたことがない。特に足元に気を取られる必要もなく、道端の花々を楽しみながら歩いていくと、意外にあっけなく三ツ峠山荘に着いた。山中湖の方面にかけての下界はよく見えているが、富士山は依然として厚い雲の中だ。
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 山荘を通り過ぎて少し行くと、広々とした尾根の上に出る。自分はほぼ北を向いているから、左手には御坂の山々が連なり、右手には開運山の山頂から右下に屏風岩の大岸壁があって、多くのクライマーたちが取り付いている。開運山まではすぐなので、ここでの休憩も短めにして、私たちは山頂へと向かうことにした。
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(岩登りのメッカ、屏風岩)
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(開運山の山頂部分)

 四季楽園の前を通り、放送局の電波塔をめがけてザラザラの斜面を登る。初めて来た時には案外としんどい登りであったような記憶があるのだが、三ツ峠山も三度目でそれなりに様子がわかっているためか、今日はこの登りも以外にあっけなく終わり、10時51分に私たちは開運山の頂上に立つことになった。

 木無山、開運山、御巣鷹山など幾つかの頂上を持つ三ツ峠山。それは全体としては一つの独立峰のようだから、山頂は風の強いことが多い。今日も下から登ってくる間は無風で蒸し暑かったが、開運山の山頂直下からは風が急に強くなった。ここまでの登りで既に汗を一杯かいた私たちにとって、山頂の強風は寒さを感じるほどだ。
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 それぞれにウィンドブレーカーを着込んでいると、空の雲行きも何だか怪しくなってきた。それに、尾根に上がった頃から、遠雷の音が富士山の方向から何度も聞こえているのも気がかりだ。山頂での昼食も早めに切り上げて、私たちは下山を始めることにした。

11:15 開運山 → 屏風岩 → 12:00 八十八大師(5分休憩) → 12:35 馬返し → 13:10 達磨石(5分休憩) → 14: 10 三ツ峠グリーンセンター

 四季楽園の前まで下り、尾根の東側に設けられた階段を降りると、程なく山道は屏風岩の直下へとさしかかる。あまりパッとしない天気ながら、岩壁に取り付いているクライマーたちは随分と大勢だ。
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 その屏風岩の直下を過ぎて、山道は森の中を下って行く。それが右(南東)へと向きを変えた所に忽然と現れる石仏群。それが八十八大師と呼ばれる場所である。
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 改めて地図を広げてみると、三ツ峠山は高くて大きな山の塊だ。平地からそれを見上げた時には、屏風岩をはじめとする頂上付近の岩壁が人々の目を引いたことだろう。奈良時代の昔からこの山は修験道の対象で、修験道の祖とも言われる行者・役小角(えんのおづぬ)によって開かれたという。

 その後、修験道は廃れていたが、ずっと後世の江戸時代・天保期に空胎上人という僧侶が現れて、三ツ峠山を仏教信仰の山として改めて開いたことで、修験道も再興されたという。修験道は、日本古来の神道や山岳信仰と仏教とが習合したものとされるが、山の中を修行の場とする点で特に密教と親和的であるようだ。だから、早くからその二つはセットのようになっていた。

 「山伏たちの宗教的行体(ぎょうたい)をみると、神道のにおいが濃い。
 たとえば仏者は潔斎をしないが、山伏は神道ふうに身を浄め、物忌みをする。また仏者がしないところの参籠もし、また神前に御幣(ごへい)を奉る。
 その祖の役小角が上古以来の山岳崇拝を持ちつつ、仏教とくに密教の破片を借用したように、後世の山伏も、本質は仏教以前の神道的な性格を持しつつ、密教を借りていた。」
(『この国のかたち・三』 司馬遼太郎 著、文藝春秋)

 今日、これから山道を降りた所にある達磨石には胎蔵界の大日如来を意味する梵字が書いてあるというから、空胎上人とは天台密教の人だったのだろう。そして、この八十八大師を経由して三ツ峠山へと上がるルートは、この空胎上人の時代に開かれたのだそうである。とすれば、そこは本山派と呼ばれる天台宗系の山伏たちの修行の地でもあったのだろう。

 ところが、明治元年の神仏分離令に続いて明治5年に修験禁止令が出され、神と仏は別物だということにされた結果、修験道は一気に廃れてしまう。山伏たちが強制的に還俗させられたばかりでなく、「廃仏毀釈」という破壊行為の対象にもなった。

 「変なもので、山伏たちは、かれらの拠ってきた山が国家によって神道にされてしまうと、本来のわが身の仏教的要素をもてあましてしまい、居づらくなった。
 かれらは、追われるように四散した。明治の国家神道の不自然さを、この事態によって観察することができる。」
(引用前掲書)

 この国の歴史の中で早くから習合していた神と仏を、近代国家を始めるからといって二つに分けてしまったことに大きな無理があったのだろう。空胎上人が再興したという三ツ峠山も、そんな風にして唐突に「近代」を迎えたのだろうか。

 八十八大師からは、森の中の尾根道をぐんぐんと下って行く。結構な高度差だから、私たちとは逆にこの道を下から上がって来る人は大変だろう。30分ほどで「馬返し」を通過。更に30分ほどで達磨石に着いた。そこから先は三ツ峠グリーンセンターまで舗装道を歩くことになる。
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(馬返しを通過)
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(達磨石に到着)

 空模様は幾分盛り返して、この舗装道を歩くいている間に午後の日が差すようになった。それでも、下りてきた方向を振り返ると三ツ峠山の頂上付近の姿はなかったから、山の上ではもう降り始めていたのではないだろうか。私たちはというと、だいぶ標高の低い所まで降りてきてから日に照らされているので、汗まみれ。既に頭の中は温泉とビールのことだけだ。
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 14時10分、三ツ峠グリーンセンター前にようやく到着。そこに掲げられた登山の案内図を見ると、何やら私たちはとてつもないコースを下りて来たかのようで、ちょっとびっくり。さすがは修験道の山だが、まあ、これもご愛嬌というものだろう。
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(こんな凄いコースを下りて来た?)

 幸いにして、帰りの電車まで時間はたっぷりある。私たちは三ツ峠グリーンセンターで、名物の「登山パック」を申し込んだ。温泉+生ビール(おつまみ3品付)+三つ峠駅までの送迎バス が全部込みで1,600円。しかも、おつまみ3品の内の1品はその場で揚げたての鶏唐揚げが2個だから、かなりのお得感ありだ。(生ビールが一杯では済まなくなってしまうのが難点ではあるのだが・・・。)
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 初めて三ツ峠山に登ったのは、5年前の5月の連休の頃。二回目は一昨年の11月だった。今日で三回目だが、山は季節によって実に様々な表情を見せてくれた。富士山は見えないながらも、この季節なりの三ツ峠の自然を楽しんだ一日。かつての修験道の山伏たちには申し訳ないが、下山後は「登山パック」まで楽しませてもらった。

 雨の季節。前回の山行から47日のブランクが出来てしまったが、週末の山歩きは、やはりいいものだ。

眼下の牧荘 - 小楢山 [山歩き]

 日曜日の朝8時44分、JR中央本線の普通列車が定刻通りに塩山駅に到着。ホームの階段を上がると、予約を入れておいたタクシーの運転手さんが、私の名前を書いたプレートを掲げて待っていてくれた。

 私たち9人の山仲間は、駅北口のロータリーで2台のタクシーに分乗し、さっそく出発。今日の目的地である小楢山(1713m)の登山口を目指す。昨日の土曜日が晴天のピークで、今日はゆっくりと下り坂になるとの予報。太陽は輝いているが、空全体がごく薄いベールを被ったような天気で、遠くの景色には靄(もや)がかかっている。そして、昨日に比べて少し湿度があるようだ。

 木々が茂ってこんもりとした塩ノ山(553m)を右手に見ながら、タクシーは道路を北上。夢窓疎石(1275~1351)の開山となることで知られる恵林寺を過ぎて、左側に並行していた笛吹川を渡ると、甲州市塩山から山梨市牧丘町へと入ることになる。信号のある交差点で国道140号を左折し、標識に従って右手の丘を登っていくと、あたりは道の両側とも葡萄畑だ。高度を上げるにつれて、下界の眺めも広がる。のんびりとしているが、豊かさを感じる里の景色である。
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 現在の牧丘町という町名に名残があるように、この一帯は(現在の甲州市塩山も含めて)中世には牧荘(まきのしょう)と呼ばれる荘園だった。その由来を紐解けば、平安時代の末期まで遡るそうだ。甲府盆地の東側で、甲武信岳から南へ流れる笛吹川が谷を刻んで甲府盆地に出たところである。東向き或いは南向きの斜面が多く、自然の恵みが豊かな土地なのだろう。

 塩山駅前から走り続けて20分ほど。以前はオーチャード・ビレッジ・フフという名前だった宿泊施設が、長らく休業が続いた後に「保険農園ホテルフフ山梨」として再スタートした、そのホテルの100mほど先に、小楢山登山道の駐車場があった。

 タクシーを降りて身支度をしていると、林道のゲートの左奥に、大きな木がいっぱいのフジの花に覆われている姿が目に飛び込んできた。タクシーの運転手さんは、一週間ほど前が一番の見ごろだったと言うが、いやいや、今見てもその姿は実に立派である。今日は山歩きの冒頭からいいものを見せてもらった。
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(登山口で見かけた見事なフジ)
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09:22 林道のゲート → 10:11 父恋し道分岐 → 10:20 母恋し道分岐

 ほぼ予定通りの時刻に登山口を出発。地図や資料を事前に見ていて覚悟はして来たのだが、このコースの最初は単調な林道歩きだ。基本は植林の中の日陰の道で、左手の渓流に沿っているので比較的涼しい道なのだが、舗装道を歩き続けるのは面白いものではない。そういう箇所は早くやっつけようという心理が働くようで、H君を先頭とする今日の我々は、随分と早いペースでこの林道を歩き続けることになった。「父恋し道」という登山道が左に分かれる箇所までに49分。そこから更に林道を歩いて「母恋し道」という登山道の入口まで9分、計58分で着いてしまった(コースタイムは1時間20分)。
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(最初は長い林道歩き)
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(「父恋し道」の分岐)
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(「母恋し道」の入口)

10:22 母恋し道分岐 → (途中休憩10分) → 11:24 小楢峠(5分休憩 ) → 11:44 小楢山

 母恋し道に足を踏み入れると、途端に私たちは鮮やかな新緑に包まれることになった。その緑の中を緩やかに登っていく山道は、実に快適である。それでも最初のうちは植林が多少あるのだが、ある程度まで高度を上げると、そこから先は落葉樹だけの雑木林になり、木々の新緑は鮮やかさを増していく。
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 小楢山は山頂からの富士山の眺めが有名な山なのだが、今日は遠くの景色が霞んでいるから、それはまず期待できないだろう。そうではあるが、これほどの新緑に包まれながら半日山を歩けるのなら、それはそれでいいではないか。そう思って、私は森の中で周囲を眺め、大きな深呼吸をした。

 最初の林道部分はもちろんのこと、今日はここまでロクに休みを取らずに速いペースで歩き続けてきたから、一度10分休憩をしっかり取ることにしよう。水分を補給し、持ち寄った飴玉などでリカバリーして、私たちは再び歩き始めた。
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 少しずつだが、山道の傾斜は増していく。途中で右手に素朴な石仏が置かれている所からは、小楢峠への登りの核心部なのだが、それでも急登と言うべき箇所はない。代わりに、ところどころにヤマツツジが柔らかなピンク色の花を見せている。
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 やがて空が明るくなり、ほどなく小楢峠に到着。穏やかな尾根の上で、周辺には特に特に展望はない。小休止を済ませたら、小楢山のピークを目指そう。ここからなら15分ほどの距離だ。
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(小楢峠で一息)

 小楢峠からピークまでの山道は、明るい森の中の極めてのんびりとしたコース。目指すピークがどこなのかもよくわからないぐらい、何とも穏やかな地形だ。明るい緑に囲まれながら歩いていると、山の中にいるという、ただそのことが幸せに思えてくる。
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 やがて、他の登山者たちの声が聞こえるようになり、南東方向が伐採されて展望が開けた広い場所にたどり着いた。小楢山の山頂だ。11時44分着だから、計画よりも40分ほど早く着いたことになる。

 やはり遠くは霞んでいて、お目当ての富士の眺めには巡り会えなかったが、甲府盆地を見下ろせるこの山頂はとても広く、ベンチ代わりの丸太があちこちに置かれているので、のんびりと昼食を楽しむにはいい場所だ。私たちも、見込んでいた昼食の時間を少し延ばしてゆっくりすることにした。
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(小楢山の山頂)
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(山頂から見下ろす甲府盆地)
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(本来ならばこんな眺めがあったはず)

 山の上から見下ろす、かつての牧荘の眺め。今朝、タクシーでその前を通り過ぎた恵林寺に限らず、この地域はなぜか無窓疎石との浅からぬ縁があるようだ。

 疎石は建治元(1275)年に伊勢国で生まれたが、4歳の時に甲斐国に移り住むことになった。その後、母を亡くしたために9歳で市川の天台宗の寺・平塩寺にて出家。JR身延線の駅がある市川大門は、この平塩寺をはじめとする諸寺の門前町として栄えた所だ。

 以来、この地で仏門を学んだが、18歳で奈良・東大寺戒壇院で受戒。この時は真言僧であったが、次第に禅に傾倒していったという。以後、京都の建仁寺、鎌倉の東勝寺、円覚寺、建長寺などを歴参。そして31歳にして万寿寺で禅僧としての印可を得ている。

 夢窓疎石というと、最後の得宗・北条高時に招かれて円覚寺へ、後醍醐天皇の招きで南禅寺へ、更には足利尊氏に請われて天龍寺を創建・・・というように、常に権力に近い所にいたイメージがあるのだが、それは彼の人生では50代以降の話で、30代の疎石は名利を避け、弟子も取らず、諸国の庵を転々として座禅三昧の年月を過ごしたという。その庵の一つが、甲斐国牧荘にあった。
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(夢窓疎石の生涯)

 この小楢山の一つ北側には標高2031mの乾徳山(けんとくさん)があって、私は一昨年に登る機会があったのだが、その乾徳山の南側にある国師ヶ原という広々とした場所は、夢窓国師、つまり疎石が修行に励んだ場所であったことからその名がついたそうである。とすれば、それは彼が牧荘の庵で求道生活を送っていた頃のエピソードの一つなのだろう。

 彼が塩山に恵林寺を創建するのは、それから20年近く後。高時の招きで住職となった円覚寺を一年で離れて再び甲斐にやって来た時のことだ。それは幕府滅亡の3年前。疎石も当時の鎌倉の情勢に何かを感じ取っていたのだろうか。

 疎石が牧荘で座禅三昧だった1311年。その頃の甲斐国がどのように治まっていたのか、或いは乱れていたのか、私には想像がつかないが、彼が座禅を組んでいたであろう国師ヶ原から眺めた乾徳山は、その隣の小楢山は、そして山々の彼方に聳えて噴煙を上げていたはずの富士山は、疎石の目にはどのように見えていたのだろうか。甲斐の峻嶮な山々の姿は、私にとっては禅のイメージと重なり合うものがあるのだが。
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12:20 小楢山 → 12:40 小楢峠 → 13:32 「母恋し道」分岐 → 14:15 登山口駐車場

 のんびりと昼食を楽しんだ後、私たちは小楢山を出発。山の北側の一杯水という湧水のある場所を経由して、元の山道に戻ることにした。(その一杯水は涸れていたのだが。)

 山道は反時計周りに一周する形で小楢峠に戻り、後は今朝登ってきた緑の中の登山道を降りるだけだ。昼食で元気を取り戻した私たちは、足取りも軽く山を下りる。緑は深く、私たちまでもがその色に染まってしまいそうだ。
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 傾斜の緩い道なので下りに苦しむこともなく、順調に下山。「母恋し道」が終わって林道に出るまで、小楢峠から1時間もかからなかった。
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 林道に出た時点で、当初の計画より1時間早い。この調子で頑張って下り、温泉での入浴を手短に済ませれば、塩山を15時40分に出る特急「かいじ」で17時過ぎに新宿へ帰れる。それなら全員で一杯やる時間も取れるだろう。もっと遅い到着のつもりだった私たちは、俄然元気が出て林道を足早に下り始めた。色々な意味で、人間にはモチベーションが大事なのだろう。今日は蒸し暑い天候で、ずいぶんと汗をかき、喉も乾いた。

 夢窓疎石のような悟りの境地になれない私たちは、もう頭の中が温泉とビールのことばかりになりながら、馬車馬のように、林道終点の駐車場を目指した。




「山へ行く」ということ [山歩き]


 5月3日(土)・4日(日)と初夏の陽気を迎えた東京も、5日(月)は一転して雨交じりの曇り空になり、シャツ一枚では少し肌寒いほどになった。

 昼過ぎに家内と二人、電車で恵比寿に向かう。目的地は恵比寿ガーデンプレイス内の東京都写真美術館。その二階展示室で行われている『黒部と槍 冠松次郎と穂刈三寿雄』という写真展の招待券を旧友が送ってくれたので、この連休中に見に行くことにしていたのだった。というより、3月から始まっていたこの写真展は明日の6日が最終日だから、連休中に行かなければ終わってしまうのである。
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 冠松次郎(1883~1970)穂刈三寿雄(1891~1966)。いずれも明治後期から大正時代全般にかけて活躍した著名な登山家である。前者は黒部峡谷の美に魅せられてその遡行を繰り返し、後者は北アルプスの槍ヶ岳に初の山小屋を開いた。その二人が残した貴重な写真の数々を一同に集め、彼らのパイオニア・ワークを振り返ろうというものだ。山好きにはこたえられない企画で、入場者は何となく「××と煙は・・・」が顔に出ているような人たちである。(他人のことは言えないのだが・・・。)

 冠松次郎は、明治16年に東京・本郷の裕福な家庭に生まれ、17歳の頃から登山に目覚めたという。20代に日本アルプス各地の踏査を始めたが、明治44年(28歳)に白馬岳から祖母谷に下り、黒部峡谷の美しさに魅了される。そして大正9年(37歳)からは、黒部峡谷の「下ノ廊下」と呼ばれる個所の遡行に繰り返し挑むようになった。写真展の会場に入ると、その「下ノ廊下」の断崖絶壁を映し出した大きなモノクロ写真に、最初から圧倒されてしまう。
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(仙人谷から南が「下ノ廊下」)

 剱岳の南側の剣沢を下り、途中から仙人山の尾根を登って仙人池まで上がり、そこから仙人谷を下ると、黒部川に出た所が現在の仙人ダムだ。一般にそこから上流、現在の黒部湖を2/3ぐらいまで進んだ平(たいら)という場所までが「下ノ廊下」で、「S字峡」や「十字峡」など、黒部峡谷でも最も険しい断崖絶壁が続く所である。その十字峡を発見したのが冠松次郎だった。

 仙人谷から黒四ダムまで、発電所の建設資材を運ぶために、下ノ廊下の断崖絶壁を穿って「日電歩道」という細い道が拓かれたのが、大正14年から昭和4年にかけてのことだ。冠松次郎はそれよりも早い時期から下ノ廊下に入っている訳で、そのパイオニア精神には脱帽する他はない。もちろん、宇奈月温泉・欅平間の黒部峡谷鉄道(当初は日本電力㈱の専用鉄道)が建設される以前の時代である。

 その一方、平から更に上流は「上ノ廊下」と呼ばれ、それまでとは対照的に断崖絶壁は姿を消して、丸い形をした岩を渓流が食む穏やかな沢の景観となる。現在の黒部湖が出来るずっと以前の上ノ廊下の景観を記録した冠松次郎の写真は、極めて貴重なものというべきだろう。このような時代に多くの人夫を雇い、大きなカメラを持って毎年のように黒部渓谷を遡るというのは、裕福な家庭に育った彼だからこそ出来たのだろうが、それにしてもよくこれだけの記録を残してくれたものである。
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 もう一人のパイオニア、穂刈三寿雄は冠松次郎より8歳若い明治24年生まれで、松本に生まれ育ったために子供の頃から山に親しんでいたという。16歳の年に初めて上高地に入り、23歳で槍ヶ岳に登る。この時の経験から槍ヶ岳に山小屋を開くことを決意し、3年後の大正6年に槍沢小屋(現在の槍沢ロッジ)を開業。他方、松本市内に写真館を開き、そこで生計を立てると共に写真の撮影技術を磨き、大正時代から昭和初期にかけて、数多くの山岳写真を残した。
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(槍ヶ岳周辺)

 会場の後半部分は、この穂刈三寿雄の手によるモノクロ写真に、彼の長男・貞雄氏によるカラー写真を交えてのコーナーになっていて、槍・穂高、笠ヶ岳をはじめ、立山・剱岳、燕岳、後立山連峰、蝶ヶ岳などを題材とした写真を数多く楽しむことができる。

 昭和10年の写真に、針ノ木峠の山小屋の様子が写し出されていて、ちょっとびっくり。そんなに早くからやっていたのか。後で調べてみたら、針ノ木小屋の開業は実に昭和5年なのだそうで、その頃にはもう針ノ木峠に山小屋のニーズがあったのだろうか。
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 それにしても、人はなぜ山に登るのだろう。

 「ヨーロッパの近代は科学技術の成立と、山登りでもってはじまる――レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯が示しているように。
 そしてジェームズ・ワットの蒸気機関の完成、カートライトの力織機の発明と、アルプスの最高峰モン・ブラン(4807m)の初登頂(1786年8月7日)とは、同時であった。それはいずれも――科学技術も、山登りも、人間のデモーニッシュな活動の両極を代表しているからである。」
(『山の思想史』 三田博雄 著、岩波新書)

 確かに、西欧で近代アルピニズムが始まるには、その前に啓蒙主義の時代が必要だった。山は魔物が住む場所として長らく恐れられていたからだ。啓蒙主義の始まりを17世紀後半のイングランドとすれば、「ブロッケンの妖怪」が出ることで恐れられたブロッケン山にゲーテが1777年に登るまでに、百年ほどの年月が必要だったことになる。

 それに対して、日本における「近代アルピニズムの父」とされる、英国人宣教師ウォルター・ウェストンが日本に滞在し、富士山や穂高岳をはじめとする高山を目指したのは1888(明治21)~1895(同27)年のことだ。同じ頃に、日本の風土の美しさを讃えた志賀重昴の『日本風景論』が登場している。そして、近代登山を目指す機運は急速に高まり、日露戦争をまだ戦っていた1905(明治38)年に、小島烏水(1873~1948)らを発起人とする日本山岳会が設立された。ペリー提督の黒船来航から50年ほどで、日本の近代登山はその黎明期を迎えたことになる。

 小島烏水らと共に名を連ねた日本山岳会の発起人の一人に、木暮理太郎(1873~1944)がいる。彼は明治6年、上州・太田市の農家の生まれだ。士族の出身ではなかった彼が、こんなことを言っている。

 「私の村には富士講と御岳講とがあって、私の家は御岳講でした。」

 「私の小さい村での山巡りの流行――これも少し適切を欠いた言葉かも知れません――が私の登山心を助長するに、少なくとも夫れを示唆するに与って力のあったことは否めないのであります。」

 「毎年八月の農閑期になると、富士、御岳、八海山へは必ず二十人乃至三十人の講中が繰り出し、其外一人のこともあり、二、三人或は四、五人のこともあるが遠い処では出羽の三山、大和の大峰あたり、更に遠くは南部の恐山さへ出懸けた人もあります。近い処では三峯、庚申、男体などもありました。」

 「茲に注意す可きことは、比等の登山は殆ど平民に限られてゐたことで、都の殿上人や歌人などが富士山を見物するのにさへ大騒ぎをしてゐる間に、平民はどんどん諸方の山に登ってゐたのであります。」
(引用前掲書)

 西欧とは大きく異なる、このような精神風土が明治以前から培われていた日本では、山に対する恐怖心を啓蒙思想によって克服するプロセスは特に必要ではなく、ウェストンによる近代アルピニズムの導入は、或る意味では技術と装備の問題であったのかもしれない。以後の日本の登山史を年表風に要約してみると、実に短期間に国民が近代登山を自分のものにして行ったことがわかる。
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 明治38年に日本山岳会が設立された頃は、国防上のニーズもあって、日本アルプスの未踏峰に登ることが中心だったようだ。映画にもなった新田次郎の小説『剱岳 点の記』にも描かれたように、北アルプス・剱岳(2999m)の「初登頂」を日本山岳会と争った陸軍の陸地測量部が、苦難の末にそれを成し遂げたのは、明治40年7月のことだった。

 続いて明治44年に、当時来日中のオーストリア陸軍・レルヒ少佐によってスキー術が伝授されると、それは積雪期の登山技術の幅を広げることになる。他方、岩登りも活発になり、大正時代に入ると早くも海外遠征が始まった。大正10年には慶大出身の槙有恒(1894~1989)が、アイガー東山稜の初登攀という快挙を成し遂げる。それは、ウェストンの来日から僅か33年後のことだった。

 そして、時代が昭和に入る頃からは、登山が大衆化の時代を迎える。その象徴が昭和5年に登場した雑誌『山と渓谷』だろう。先に述べた北アルプス・針ノ木小屋の開設もこの年であったのは、まさにこうした時代を反映しているのではないだろうか。明治38年に生まれ、大正12年(18歳)頃から本格的に登山を始めて、積雪期の日本アルプスで数々の単独登頂を果たし、昭和11年に冬の槍ヶ岳・北鎌尾根で30歳の短い生涯を閉じた「孤高の人」加藤文太郎は、まさにこうした時代の申し子であるのかもしれない。
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(今では創刊号の復刻版が文庫本として出ている)

 こんな風に俯瞰してみると、冠松次郎と穂刈三寿雄にとって、日本の近代登山の黎明期から大衆化までの時期はまさに同時代史だった訳だ。
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 私が卒業した高校は、師範学校の尋常中学科としての明治21年の創立になる。明治29年頃から学内ではスポーツが盛んに奨励され、各種の運動部が設立されたという。山岳部もその中の一つだから、日本山岳会の設立時期と似たり寄ったりで、日本の高校山岳部では最も古い部類になるのだろう。私の高校時代は1970年代前半の三年間だが、山岳部の活動の端々に、その長い伝統を感じたものである。

 「山の好きな人って、みんなこんな風に地図に色々なことを書き込むのよね。大学時代も、そんな人が周りに結構いたなあ。」

 ガラスケースの中に展示された、冠松次郎が自筆でルートを書き込んだ陸地測量部作成の地図を覗き込みながら、家内が呟いた。そういえば、私にもそんな時代があったなあ。

 今は万事デジタルな時代になり、自分の手で何かを記録することが極端に少なくなってしまった。一昔前には考えられなかったほど便利になったが、その分だけ落とし穴も増えたのではないだろうか。この連休中も、山ではずいぶんと遭難事故が起きた。登山の超・大衆化の時代になったからこそ、私たちは自分の身の丈をよくわきまえ、適切な判断と行動が出来るよう、精進していかなければならない。

 それにしても、写真展「黒部と槍」は、季節がこれから初夏に向かう中、夏山への想いを掻き立てるには十分だった。私たちも、そろそろ今年の夏のことを考えることにしようか。自分としては、山の上から、久しぶりにあの剱岳を眺めてみたいのだが・・・。

みどりの日 - 九鬼山 [山歩き]

 5月4日(日)、快晴。早朝に新宿駅から乗った中央特快の車窓からは、青空の向こうに真っ白な富士山がよく見えている。

 大勢の登山客で混み合う高尾駅のホームで今日の山行のメンバー10人が揃い、7時46分発の河口湖行き普通列車に乗車。電車が小仏トンネルを越えて西へ向かうにつれて、車窓は柔らかな緑に包まれていった。この季節の中央本線は、それが本当に楽しみだ。

 8時25分、定刻通りに猿橋駅に到着。駅前にはちょうどうまい具合に三台のタクシーが待っていたので、私たちはそれに分乗して南へと向かう。県道509号線の終点、朝日小沢バス停付近まで行って、そこから先に続く林道を歩いて登る予定だったのだが、その先の林道も車が通れるという。それならばと、登山道が始まる鈴ヶ音(すずがね)峠まで一気に上がってもらうことにした。
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 人の住む集落は既に終わり、幅が細く、曲がりくねった林道はぐんぐんと高度を上げて行く。そして、大きな左カーブの途中で山の尾根を横断するような地形になり、道標が立っていた。そこが鈴ヶ音峠だ。猿橋駅から30分弱、一台3,600円ほどだった。
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09:00 鈴ヶ音峠 → 09:24 桐木差山 → 09:34 高指 → 10:17 871mピーク(ヒノキ林)

 9時ちょうどに鈴ヶ音峠を出発。ここまでタクシーで上がれたから、当初の計画より45分も早い。これなら道中もゆっくりと山を楽しめそうだ。道標の示す方向に山道を歩き始めると、途端に私たちは、頭の上から足元まで、あたり一面の新緑に包まれ、別世界へと入り込むことになった。
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 標高700mちょっとの鈴ヶ音峠から始まるこのルート。登山者は少ないが、山道はかなり明瞭だ。但し、私たちの顔の高さに両側から木々の枝が張っていたりするので、それらを多少掻き分けて進む必要はある。これから更に夏場に向かえば、藪はもう少し深くなるのだろう。
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 緩やかな登りが続き、9時24分に最初のピークである桐木差山(きりきざすやま)を通過。樹林の中のひっそりとしたピークだ。木々の緑の向こうに道志の山々が連なっていて、この時期の低山にやって来たことを改めて実感する。場所によっては富士山の姿も確認できるのだが、木々の枝が重なって全容は見えない。
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(桐木差山の道標)

 前週の土曜日に、私は生藤山から陣馬山までの山歩きを一人で楽しんできたのだが、そのルートと標高が似たり寄ったりの今日の山道は、その時に比べて新緑のボリュームが圧倒的に違う。あの日から僅かに8日。その間に山の春は驚くほどの速さで山肌を駆け上がったのだろうか。開花したヤマツツジもきれいだ。
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 9時34 分、次のピークの高指(たかざす、860m)を通過。これはほぼコースタイム通りだ。
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(高指の道標)

 そこからは、山道は西へ向かって案外と下りてしまう。標高差にして100mほどのものなのだが、それだけ下りたということは、それ以上の登りが待っていることになる。まあ、尾根歩きとはそういうものだ。今日のメンバーの大半は今年58歳になる同級生たちだが、この歳になると、山歩きと人生にはどこか似たものを感じるようになる。
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 下りが終わり、次の830mピークに向かって再び登りが始まると、私たちはつい足元を見ながら歩みを進めるようになる。他の季節なら、それは黙々とした単調な作業なのだが、今日は足元にも花が多く、私たちの目を楽しませてくれる。やはり、春の低山歩きは素敵だ。
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(ヒトリシズカ)
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(この山域にはスミレも多い)

 830mピークを過ぎて山道が南から西へと回り込むと、やっと富士山をすっきりと眺められるスポットに出た。まだたっぷりと雪を残した5月初旬の富士。その手前に聳える鹿留山(ししどめやま、1632m)のピークが案外と尖って見える。
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 そこから、ヤマブキが茂る斜面を一登りすると、北から東にかけての展望の良い場所に出た。昭文社の山地図では「ヒノキ林」と表記されている871mピークの肩の部分だ。鈴ヶ音峠から1時間20分ほど、殆ど止まらずに歩いて来た。眺めの良い場所だから、ここで少しゆっくりしようか。私たちは腰をおろし、鮮やかな緑を楽しむことにした。
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 小休止を取っているこの場所から、今日の目的地である九鬼山のピークがよく見える。あそこまで、あと1時間ほどだろうか。
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10:32 871mピーク → 11:17 杉山新道分岐 → 11:27 九鬼山

 871mピークから先は、山道が一旦南西へと向かい、そこから時計回りに北西へと向きを変えながら次の914mピークを目指す。その間にも細かなアップダウンが続き、ちょっとした縦走路の風情がある。お昼に近くなり、気温も上がってきた。今日は湿度の低いカラリとした晴天だが、日差しは強く、さすがに暑くなった。私たちは汗を拭き拭き、緑の中を登り続ける。
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 やがて山道の傾斜が緩くなると、行く手に道標が見えて来た。杉山新道との分岐で、ここまで来れば九鬼山はすぐだ。山頂直下の富士見平に出てみると、名物の富士の眺めは残念ながら半分が雲の中だ。今日はそれよりも北の空の方が晴れているから、昼食は九鬼山頂で楽しむことにしよう。

 そして、11時27分に九鬼山頂に到着。そこからは小金沢連嶺から東京の三頭山までが一望の下だ。タクシーで鈴ヶ音峠まで上がれた分、当初の計画よりも1時間13分も早く着くことになった。元々は昼食休憩に30分程度しか見込んでいなかったが、余裕が出来たからもっとゆっくりすることにしよう。
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 それぞれに持ち寄った物を披露しながらの、山頂での楽しい昼食。今日は高校山岳部OBのI先輩が差し入れて下さった、甲州産の上等な赤ワインもある。5月の青空と鮮やかな緑を愛でながらの昼食。何とも贅沢なものである。
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 今日のルートで九鬼山に登るのは、元々は今年の2月初旬に計画していたものだった。それが悪天候で一度延期になり、その後は二度の大雪があった。特に「バレンタイン豪雪」では山梨県下の被害が大きく、今朝タクシーで猿橋駅から走って来た県道509号は、車の通行が再開するまでにかなりの日数がかかったようだ。そして、九鬼山自体も積雪量が極めて多く、都留市のホームページには、登山を控えて欲しいとのメッセージが4月になっても残されていた。

 その計画が、当初の予定から3ヶ月遅れで、「みどりの日」の今日、やっと実現することになった。そして、待った甲斐があって、神様は鮮やかな山の緑という素晴らしいプレゼントを今日の私たちに下さった。

 山頂から眺める奥多摩の山々。左手に立つ桜の木は、10日ほども前までは白い花を開いていたのだろう。一言に「山の緑」といっても、個々には実に多彩で、それらが一斉に産声を上げているかのようだ。山の上からそんな様子を眺めながら、10人の仲間と共に文字通りの「みどりの日」を楽しんでいる私たちは、何という幸せ者なのだろう。
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(九鬼山頂から奥多摩方面。中央奥の一番高い山が雲取山)
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12:20 九鬼山 → 杉山新道 → 13:24 舗装道出合 → 13:40 古川渡交差点

 山を下る。先ほどの分岐まで戻って杉山新道へ。最初の下りが少し急で、山道が北に向きを変えて尾根上に出た所で、高川山の彼方に笹子雁ヶ腹摺山の方面が見えるスポットが一箇所だけある。2月の「バレンタイン豪雪」の一週間後に、登山口で2mという積雪量の中を登った高川山が、今は萌えるような緑に覆われている。そして、笹子雁ヶ腹摺山の遥か後方には、甲斐駒ケ岳の鋭鋒がうっすらと見えていた。
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(中景が高川山。その後方が笹子雁ヶ腹摺山)

 杉山新道に入れば、大きなつづら折れ状に山をぐんぐんと下りて行く。午後も晴天が続き、日差しは強い。山の緑を愛でつつも、汗を拭き拭き山道を下る私たちの脳裏には、さすがに下山後の温泉やビールのことが浮かんでいる。
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 それまでの雑木林の多彩な緑に代わってヒノキの植林が始まると、山道も終わりに近い。歩き始めて1時間ほどで舗装道路に出た。後は駒橋発電所の煉瓦作りの水路をくぐり、朝日川の橋を渡って国道139号に出て、富士急の禾生駅の近くでタクシーを呼ぶことにしよう。「芭蕉月待ちの湯」までは15分ほどだ。

 振り返れば、今日登って来た九鬼山が穏やかな姿を見せている。朝の9時に鈴ヶ音峠から山道に入って以来、4時間半ほどを山の緑という異次元の時空で過ごしてきた私たちは、クルマの行き交う現実社会に再び舞い戻った。名残惜しいが、だからこそ、また次の山が楽しみだ。
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 前週末の生藤山・陣馬山に引き続いて、春の低山歩きがまた一つ好きになった一日だった。

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