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ワルツと戦争 [歴史]


 2018年を迎えた。

 元日の朝、自宅マンションのベランダに出てみると、例年通り午前7:04頃にビルの右肩から新年初めての陽が昇る。大晦日は曇り空の一日だったが、今朝はすっきりと晴れている。こうして初日の出を眺めるのは、やはりいいものだ。
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 毎年元日は、午後に我家と妹の一家が都内の実家に集まり、母と早めの夕食を共にしている。今年は姪が年末からNYへ転勤になったので一人欠けたが、それでもこれまでと同じように母を囲んで賑やかに一時を過ごすことができた。

 共に23区内に住んでいて、クルマを使えば実家まで我家からは約40分、妹の家からは30分足らずなのだが、母にとって4人の孫たちはいずれも社会人になっているから、母の前に全員揃った姿を見せることが出来る機会は、一年の中でも滅多にないことだ。それだけに、独り暮らしの母にとっては元日の集まりを最も楽しみにしているのだろう。今年も元気で、心穏やかに過ごしてくれればと思う。
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 実家での元日の集まりを終えて帰宅すると、これも例年と同じようにウィーン・フィルハーモニーの「ニューイヤー・コンサート」のライブ中継が始まっている。今年の指揮者はイタリア人のリッカルド・ムーティー。私の学生時代、彼はまだ30代の後半で、フィルハーモニア管弦楽団で指揮をとる実に颯爽とした姿が印象的だったのだが、そのムーティーが今年喜寿を迎えるとは・・・。私も同様に歳をとる訳だ。

 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートといえば、演奏プログラムのトリはヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」、そしてアンコールは彼の父親であるヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」と決まっている。毎年変わらないのに、会場内は割れんばかりの大拍手。特にラデツキー・マーチに合わせて聴衆が手拍子で参加する時の場内の盛り上がりは元日の名物だ。いつになっても伝統を守り続ける、その「変わらなさ」が、世界が認めるウィーンの音楽文化の価値なのだろう。
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 このラデツキー・マーチは1848年の出来事に由来する。ナポレオン戦争後のウィーン体制に対して民族主義・自由主義を求める政治運動が欧州各地で激化し、「諸国民の春」と呼ばれた1848年、当時オーストリア帝国の領地であった北イタリアで起きた革命運動を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキー将軍の軍功を称えて、ヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。興味深いことに、その時に23歳の若者だった息子のヨハン・シュトラウス2世は市民革命側が優勢と考え、革命勢力を支持する作曲活動を行ったために宮廷との間に距離が出来てしまったという。(その後、彼は革命運動に嫌気がさして宮廷との関係を再構築するのだが。)

 この、明るく躍動的なラデツキー・マーチとは対照的に、優雅で気品のあるウィンナー・ワルツの「美しき青きドナウ」。だが対照的なのはその曲想だけでなく、実は時代背景も正反対なのだ。それは1848年の革命運動から18年後、オーストリアがプロイセンとの戦争に敗れた1866年の普墺戦争に由来している。

 神聖ローマ帝国の名の下で国土が小さな領邦国家に分かれ、国家統一が遅れていた現在のドイツ。その統一をオーストリア帝国内のドイツ人居住地域まで含めるのか、そうではないのか、そのあたりの路線を巡ってプロイセン帝国とオーストリア帝国が対立。両者が共同で戦ったデンマーク王国との戦争で勝ち取った北方の州の管理方法を巡って、遂に両者は干戈に及ぶのだが、1866年6月15日に始まったこの戦争は「鉄血宰相」ビスマルク率いるプロイセンが大勝し、8月23日には休戦。以後はプロイセンがドイツ諸邦の盟主として国家統一へと突き進んで行くことになる。

 ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」が世に出たのは、この屈辱的な敗戦の翌年の1867年だった。ウィーン男性合唱協会からの依頼に基づく合唱曲で、「プロイセンに敗れたことはもう忘れて、楽しく愉快に行こう!」という趣旨の歌詞が用意された。そして、どういう経緯からなのか、その歌詞の内容とは全く無関係な「美しき青きドナウ」という題名が付されたという。だが、合唱曲としての評判は今一つであったようで、ヨハン・シュトラウス2世は程なくオーケストラ演奏のみのバージョンを発表。これが大成功を収め、後に「オーストリアの第二の国歌」と称されるまでになった。宮廷での華やかな舞踏会をイメージするような優雅なこのワルツだが、作曲された背景には、峠を過ぎて坂道を転げていくハプスブルク帝国の姿があったのだ。
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 1867年といえば、その年の秋の日本では、旧暦の10月14日に「最後の将軍」徳川慶喜が京都の朝廷に大政奉還を奏上。これに対して薩長の巻き返しによる王政復古の大号令が12月9日に発せられ、年が明けた1868年の1月3日には鳥羽・伏見で遂に戊辰戦争が始まる。薩長軍が掲げた「錦の御旗」によって戦意を失った慶喜は軍艦で江戸に逃げ帰り、そこから先は「勝てば官軍」の展開となって、3月13日には西郷と勝が会談。おかげで江戸の街は戦禍を免れ、9月には明治改元。そして明治天皇が京都を離れて江戸へとやって来る。要するに、大政奉還から一年足らずの内に日本は大変革を経験することになったのだ。ちょうど今から150年前のことである。
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 その時代から50年後の1917年、日本は大正時代の半ばに差しかかっていたのだが、ヨーロッパは再び大きな動乱期を迎えることになる。

 その時点で、1914年のサラエボ事件(オーストリア皇太子暗殺事件)に端を発した第一次世界大戦の勃発から足掛け4年。近代国家同士がそれぞれの全国民を巻き込んで総力戦を戦うという史上初めてのスタイルの戦争。しかも戦車や航空機、毒ガス等の新兵器が登場して膨大な戦死者・負傷者を出すことになった。こんな戦争を4年も続ければ、どんな国でも疲弊してしまい、厭戦気分が高まろうというものだ。事実、この年の3月にはロシアで革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位を余儀なくされてしまう。その後、この革命はレーニンの指導によって更に先鋭化し、11月には共産主義に基づくソヴィエト政権が樹立される。史上初の共産主義国家の誕生である。他方、1914年の開戦以来大陸の戦争には不介入方針を続けてきた米国が、この年の4月にドイツに対して宣戦を布告。戦局はドイツ・オーストリア側にとって急速に不利になっていく。
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 明けて1918年の1月、ウィルソン米大統領が「14箇条の平和原則」を発表。後のパリ講和会議の基調とすべき事項を早々と宣言して、戦後の国際秩序を米国が仕切ろうとする姿勢を見せる。そして11月にはドイツ国内でも兵士の反乱から革命が起きて、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。ドイツは遂に休戦を宣言し、ここに第一次世界大戦がようやく終結。その翌日にはオーストリアが共和制へと移行し、ハプスブルク王家による支配は遂に終焉を迎えた。

 この年の7月にはロシア前皇帝のニコライ2世とその家族がソヴィエト政権によって処刑されていたから、前年11月のソヴィエト政権の誕生から僅か1年の間にロシア、ドイツ、オーストリアの三国で帝政が姿を消してしまったことになる。そして、ともかくも戦争は終わったが、疲弊した英国に代わって世界の中心に踊り出たのは米国だった。1867年から68年にかけての日本と同様に、1917年から18年のヨーロッパでは、何かのきっかけで始まり出した変革が驚くほどの速さで欧州各地を一気に駆け巡ったのだ。
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 因みに、第一次世界大戦といえば日本にとっては対岸の火事であったと受け止めてしまうことが多いのだが、実は日本も少なからずその影響を受けている。何といっても大戦景気が続いたために物価が上がり、しかも米英から頼まれてソヴィエト政権への干渉、すなわちシベリア出兵を行うことになったために米価が更に高騰し、それが富山県を震源地とする「米騒動」を誘発することになった。そうした事態に的確に対処出来ず、大きな批判を浴びた寺内正毅内閣はやむなく退陣。そして「平民宰相」原敬に組閣の大命が下り、陸相・海相を除く全ての大臣が立憲政友会の党員という初の本格的な政党内閣が誕生。以後、五・一五事件が起きる1932年までの間、日本は従来の藩閥政治に代わる政党政治の時代を迎えることになった。これも、1918年のヨーロッパがもたらした大変革の1ピースと捉えるべきなのだろう。
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(陸相・田中義一、海相・加藤友三郎以外は政党人だった原内閣)

 それでは、日本の明治維新から150年、そして第一次大戦終結前後のヨーロッパの大変革からちょうど100年、明けたばかりの2018年はどのような展開を見せるのだろうか。

 既に過去形で語ることになった2017年。振り返れば、シリア情勢に端を発した難民問題と、それを排斥する極右思想の広がり、無差別テロの横行、揺れ動く中東情勢、太平洋を挟んだ米中の派遣争い、そして北朝鮮問題など、何れも2016年から抱え続けて解決の方向性が見えないままになっていた世界の諸問題が、年初からの「トランプ旋風」によって一層ややこしくなってしまった、そんな一年ではなかっただろうか。

 その一方で世界レベルでの歴史的な低金利が続き、この何年か巨額の緩和マネーが供給されてきたこともあってか、世界経済は総じて底堅く、IoT(物のインターネット)やAIをはじめとするITの世界は着実に進歩を続けており、政治面での国際情勢がどうであれ、ITを通じた第四次産業革命は今後も一段と加速しそうな勢いである。けれども、行き過ぎた株主資本主義や経済のグローバル化がもたらした格差の拡大は社会の分断をもたらし、「資本主義の限界」が指摘されている。

 加えて吾々が決して目を逸らしてはならないのが、人類の経済活動が自然環境に与え続けて来たインパクトの深刻さだ。世界各地で今までに例を見ないような規模の自然災害が相次いで発生しているのは、決してそのことと無縁ではないだろう。
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 それらを踏まえて2018年を展望する時、先に述べた今から150年前の日本、そして100年前のヨーロッパの史実が示唆するものは、旧制度がもはや存続不能な状態に陥ると、それが崩壊して大変革が起き、周辺国を巻き込んでいく、そのスピードは私たちが一般に想像するよりも遥かに速いものだ、ということではないだろうか。

 来年の元日にウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを再びテレビ鑑賞する際に、きっと変わることなく演奏されるであろう「美しき青きドナウ」を、私たちはどのような気分で聴くことになるのだろうか。少なくとも、「あの戦争の惨禍を忘れよう」という150年前のスタイルは御免蒙りたいものである。

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感謝 [自分史]


 12月28日、木曜日。会社が御用納めになるこの日の東京は、朝からくっきりとした冬晴れの空が広がっていた。朝の通勤電車の窓から見えた富士山の姿には、まさに「屹立」という言葉が相応しい。山の南東側には雲が渦巻いていたから、強い北風が吹きつけているのだろう。いよいよ真冬の到来である。

 朝から机の周りの片づけに取り組んでいた私は、昼前に会社を抜けて再び電車に乗り、途中の駅で家内と落ち合う。そして東京湾岸の駅に降り立ち、地上の改札口を出ると、硬質ガラスのような冬の青空の下にいつもの病院の建物の姿があった。

 「これはこれでなかなか美味しいじゃない。」

 野菜カレーを口に運びながら家内が微笑む。再診受付と血液検査を済ませた私は、院内にあるレストランで家内と昼食をとっていた。丸の内のお堀沿いに本拠を持つ有名レストランがこの病院の中にも店舗を出している。この病院にお世話になることになったのが今年の4月。それから既に9ヶ月の月日が流れたことになるのだが、このレストランで食事をしたのは今回が初めてだった。

 「ここでこんな風に普通の食事が出来るなんて、入院していた頃は想像も出来なかったからなあ・・・。」

 讃岐うどんをすすりながら、私もちょっとした感慨に囚われていた。そもそもこの病院にお世話になること自体が、今年の春を迎える前は想像すら出来なかったことだったのだから。
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 今年の4月5日に、高校時代の同級生S君が院長を務める都内の消化器内科クリニックでたまたま胃カメラを吞んだ時、前後して行われた超音波エコー検査で膵臓に病変らしきものがあることが判明。初期の膵臓がんが疑われ、S君がこの病院への入院と手術を大急ぎで手配してくれて、4月25日に開腹手術を受けることになった。そのイキサツと以後の経過については、既に何度かこのブログにも記載してきた。

 術後は延べ25日ほど入院し、7月中旬からは、今後のがん転移の可能性をゼロに近づけるために抗がん剤服用を開始。二週間服用して一週間は休み。それを8サイクル繰り返すというプログラムで、それが先週の12月21日で終了。その前日の20日にCT検査を受け、今日は主治医からその結果の説明を聞く予定になっていた。13:30から執刀医で消化器外科のA.S.先生、続いて14:00からは抗がん剤治療の指導をしていただいた消化器内科のT.S.先生の診察予定なのだが、年内最後の診療日とあってか院内は普段より混雑しているから、なかなか時間通りには行かないだろう。
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 「膵臓がんを疑う」という所見をS君から聞いたのは、もちろん私にとっては思いも寄らぬことだった。自覚症状が何もなかったから仕方がないのだが、膵臓がんというのはそういうものだそうで、だからこそ発見が遅れ、しかも進行が速いために、判明した時には手遅れで手術も出来ないというケースが非常に多いという。「がんが見つかってから半年ほどで亡くなってしまった」というような話は膵臓がんであることが多い。ところが私の場合は、全くの偶然ながら比較的早い段階で見つかったので、今なら手術が出来るという。事態の重大性が自分でもまだ十分飲み込めていないが、ともかくも旧友S君や執刀医A.S.先生の所見に全面的に従って、私は開腹手術を受けることにした。5月の連休に入る直前、新緑のきれいな頃だった。

 膵臓の半分と脾臓、胆嚢、二つある副腎の片方、そして周囲のリンパ節を切除した上で、膵臓の切除面に小腸を被せるように繋ぎ替えるという、5時間にわたった開腹手術。問題の膵臓がんはステージ2で、切除した部位の中のチェックポイント68箇所中、2箇所に転移があったという。従って、術後2ヶ月ほどが経過した頃から、今後の転移の可能性を極力ゼロに近づけるべく、抗がん剤の服用を一定期間続けることになった。そして、一般論として膵臓がんは予後も良くないケースが多いということも言い含められた。

 還暦になってから初めてこのような手術を経験することになった私にとって、開腹手術とは想像以上に体への負担が大きいものだということを、私はそれから思い知らされることになる。特に小腸をいじれば必ずそうなるとのことなのだが、手術以降なかなか下痢が治らず、当分の間は食欲も湧かず、カステラと牛乳ぐらいしか喉を通らない。加えて季節は次第に暑くなる時期だから、体は汗をかく。6月8日の退院後から比較的早く職場に復帰はしたものの、栄養失調と脱水症状で体が思うように動かず、正直言って電車の中で立っていることさえ辛いような状態だった。

 しかも、そんな状態が続く中で7月中旬から抗がん剤の服用が始まると、その副作用の辛さが上乗せになる。私の場合は抗がん剤の量を調整することで副作用はそれでも軽い方だったのだが、味覚障害が最初の頃は激しく、何を食べても美味しくなく、それでなくても細い食が更に細くなってしまう。手術から3ヶ月の間に体重は14kgほども減ってしまい、体から筋肉が随分と失われてしまったことに気分が落ち込んだ。

 こんな状態がいつまで続くのか、回復することはあるのか、いずれは歩くことさえ出来なくなってしまうのではないか・・・。先の展望がなかなか見えなかった7月末頃が、自分にとっては一番辛い時期であったと今にして思う。がんの宣告を受けてもつとめて深刻には受け止めず、「それもまた運命。ジタバタしても仕方がない」と考えてきたつもりだった私も、次第に「遠からずやって来る死」を意識し始めることになる。エンディング・ノートを作らねばならないかなと考えるようになったのも、この時期だ。そして、頻りにバッハのオルガン曲を聴くようになっていた。
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 体調が少しずつ安定の兆しを見せたのは、8月のお盆の時期を過ぎた頃だった。抗がん剤の副作用としての味覚障害は続いているものの、食欲がそれなりに回復し始めていた。まだ思い出したように下痢が起きたりはしていたのだが、オフの時間に起き上がって何かをすることが以前よりも楽になり始めてもいた。そして、自分にとって少し自信がついたのが、8月最後の日曜日に上毛電鉄の名物電車デハ101を見に、北関東まで半日の乗り鉄&撮り鉄に一人で行けたことだった。
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 これぐらいの時期に体力の回復が始まることを見越してのことだと思うのだが、三週間に一度の経過観察の時に、内科医のT.S.先生から「そろそろ適度な運動を行うことも心掛けて下さい。」とアドバイスを頂くようになった。それに従って、おそるおそるジョギングを始めてみる。最初はまず2km、次は2.5km、問題がなければその次は3km、という風に徐々に距離を伸ばしていった。始めてみると、痩せて体が軽くなった分だけ走りやすい。まだ残暑の続く頃だったが、体を動かして汗をかくことの爽快さを私は久しぶりに思い出していた。そして、9月下旬には2泊で東北地方にある我社の工場へ出張。10月最初の日曜日には、山仲間のH氏が付き添ってくれて、高尾山を徒歩でゆっくりと往復することが出来た。毎日の通勤電車で座る席を探す必要もなくなり、立っていることには問題がなくなっていた。
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 会社の仕事が俄かに忙しくなり始めたのも、この秋になってからのことだった。11月の上旬には社長と共にドイツへ一週間の出張。今のビジネスクラスはフル・フラットの座席なので、往復のフライトも特段辛いことはなく、現地でも(食べ物には用心する必要があったものの)大きな支障はなかった。そして、日曜日の日帰りの山歩きにはその後2回ほど出かけることになる。抗がん剤の服用は続いていたが、自分ががん治療中の身であることをあまり意識しなくなっていた。
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(ロンドン・ヒースロー空港)

 もっとも、術後をこんな風に過ごすことが出来たのは、何といっても家内が全面的にサポートしてくれたことのおかげである。手術によって膵臓の半分を失った訳だから消化能力は落ちており、私にはなるべく脂質の少ない食事を続ける必要があった。そうなると、特に最初のうちは食べられる物が限定列挙されるような状態なのだが、家内は色々と工夫を凝らして、私の体に極力負担のない、それでいて単調なメニューにならないよう配慮を重ねてくれた。そして、社食では揚げ物などが多くて心配だからと、毎日の弁当も用意してくれた。更には、三週間に一度の経過観察にも必ず同行してくれたので、医師のコメントを常に二人で共有することが出来た。

 実父を胃がんで失っている家内は、私が膵臓がんの宣告を受けたことを当の本人よりもずっと深刻に受け止めていた筈で、きっと多くの不安を抱えて来たことだろう。それでも、二人の子供たち共々、私の前ではつとめて明るく振る舞ってくれた。そのことには何と言って感謝したらいいのだろう。私の体調がなかなか安定せずに苦しんでいた頃も、家内には決して我儘は言うまいと、私は心に決めていた。
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 時計は既に14:00を回っている。しかし、首から吊り下げている呼び出し用の機器は沈黙を続けたままである。今日は診察が終わったら会社に戻り、17:00からの納会で社員に向けて一言述べた上で乾杯の発声をしなければならない。ここから会社までは一時間近くかかるが、はたして間に合うだろうか。そんなことが少し気になりだした14:30過ぎに、呼び出し機が震えて「診察室51-7へお入り下さい。」というメッセージが小さな液晶画面に表示された。予約の順番とは異なり、消化器内科の診察が先になったようだ。

 「今日はA.S.先生の診察が遅くなっているようなので、私の方から先に説明しちゃうことにしました。」

 いつもの穏やかな語り口で、内科医のT.S.先生の診察が始まった。机の上のモニターには、先週の水曜日に受けたCT検査の画像が映し出されている。

 「A.S.先生からもあらためて説明があると思いますが、CTの画像からは、がんの転移は見られませんね。特に心配なところもありません。今日の血液検査の結果にも特に問題はありませんから、TS1(抗がん剤)による治療は予定通りこれで終了になりますね。後は今後の経過観察のタイミングについて、A.S.先生からお話があるでしょう。」

 「食事については、今後も脂質の多い物や甘い物(果物を含む)を摂り過ぎないよう注意することと、消化器の動きを活発にする意味で、適度な運動には積極的に取り組んで下さい。」

 今年の7月以降、三週間毎に経過観察の診断を受けて来たから、T.S.先生も私たち二人の様子はよくわかっておられる。

 「まあ奥様の前ですから、アルコールは一応その・・・、飲まないに越したことはないですが・・・、お屠蘇ぐらいなら・・・。」

と、ニコニコしながら慎重に言葉を選び、「まあ、上手くやって下さい。」ということを言外に匂わせていた。

 こういう内容だったので、T.S.先生の診察は10分ほどで終了。この夏以来お世話になったことへの心からの謝礼を述べて、私たちは診察室を出る。それから15分ぐらいして再び呼び出し器が震え、今度は消化器外科で私の手術をして下さったA.S.先生の診察室へ。膵臓がんの手術では日本で最も多くの数をこなしておられる外科医のお一人である。

 検査結果の説明内容はT.S.先生と同じで、今後は4~6ヶ月毎に経過観察を行う旨のお話があり、次回は来年6月21日に決まった。血液検査とMRI検査を行い、検査に続いてA.S.先生の診察を直ぐに受けられるそうだ。今回の件で文字通り私の命を救って下さった先生に深々と頭を下げて、私たちは病院を後にした。
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 現時点でがんの転移はみられず、抗がん剤治療がひとまず終わった。今後は4~6ヶ月毎の経過観察。朗報である。それを聞いて確かにホッとしたことは事実だ。けれども、そのことに飛び上がって喜ぶというよりも、寧ろかえって身の引き締まる思いがした、というのが私の偽らざる心境だった。

 私が膵臓がんの宣告を受けて以来、本当に多くの方々に助けられ、支えられて、ここまで来ることが出来た。何といっても、病変の早期発見とその後の処置に尽力してくれた旧友S君、入院の前後から幾多の心遣いをしてくれた山仲間のH氏とT君、日曜日の礼拝のたびに私の回復を神に祈ってくれたという旧友Y君をはじめ、私のことを心配していただいた全ての皆さん。そのご厚意の数々があらためて胸に沁みる。仕事を通じて親しくなったドイツの設備メーカーの機械技師のPさんは、クリスマスイブの日曜日にわざわざメールを送ってくれた。
 We wish you for the next year all the best and especially the most important “health”.
そして、きっと大きな不安を抱えていたに違いないのに、常に明るく振る舞ってくれた私の家族・・・。私は何と幸せな環境にあるのだろう。

 これらの御恩に報いるために私がこれから行うべきことは、自分に与えられた命が続く限り、曲がったことをせずにしっかりと生きて行くことだろう。目先の検査結果はともかく、大事なのはこれから先のことである。多くの皆さんに支えられて来たことを背広の内ポケットに大切にしのばせて、前を向いて行こう。

 病院の外に出ると、15:30の太陽はもうだいぶ傾いていたが、鮮やかな冬晴れは続いている。この春以来何度も通った駅までの道を、もちろん家内と手を繋いで歩いた。

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難を転じて - 生藤山・陣馬山 [山歩き]


 「おっ、ようやく朝日が出たな。」

 山仲間のT君が電車の窓の外を眺めながら呟いた。

 12月10日、日曜日。東京の日の出は午前6時39分だ。その日の出の17分前に新宿から乗った中央特快に揺られ、私たちは山を目指している。今朝5時半過ぎに家を出た時、もちろん外は真っ暗で、下弦の月が空高く昇っていた。冬至まであと12日。一年で最も夜明けが遅い時期である。

 途中の国分寺でK氏が合流。そして立川で大月行の普通列車に乗り換える時に、鎌倉から長駆やって来てくれたK女史が合流して今日のメンバーが揃う。上野原駅で下車し、タクシーで石楯尾(いわたてお)神社の前に着いたのが7時45分頃。あたりの集落では東向きの里山にようやく朝日が当り始めた頃で、さすがに冷え込みが厳しい。畑は霜にびっしりと覆われていた。
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 生藤山(990m)への登山口へと向かう舗装道の両側には、やけにシュールな案山子が立っている。まだあたりが多少薄暗いこともあって、私は本物の人影かと一瞬思ってしまったほどだが、カラスもなかなか賢いから、これぐらいのことをしないと追い払えないのだろうか。
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 やがて舗装道が里山への入口に差し掛かったところで生藤山への山道が左に分かれ、植林の中を佐野川峠まで標高差にしてちょうど300mほどの登りが始まる。地形としては西向きの谷の中を上がっていくので、今の季節だとほぼ一日を通して太陽を拝めない場所だ。それだけに寒さは一段と厳しく、手先が何とも冷たい。
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 今日はこれから佐野川峠へ上がり、その後は尾根伝いに三国山(960m)・生藤山(990m)・陣馬山(857m)を経て陣馬の湯(陣谷温泉)まで約12.5km、標高差が上り約1,300m、下り約1,400mのコースを歩く。もう何度も歩いたことがあるので様子はわかっているのだが、今年の4月25日に膵臓がんの手術を受けて以来、私にとってリハビリを兼ねた山歩きは今日が3回目。前回(11月3日)は相模湖方面から小仏城山・景信山を経て小仏バス停へと下りる8km程度のものだったから、今回は私にとってハードルを一段上げたことになる。このところの体調から考えれば歩き通せると確信はしているが、ともかくも自分の体の様子を注意深く確認しながら歩くことにしよう。
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08:06 登山道入口 → 08:37 佐野川峠 → 09:00 甘草水 → 09:23 三国山

 佐野川峠を目指して山の斜面をつづら折れに登って行く山道。最近になって植林に手が入れられているのか、以前よりも谷の中が幾分明るくなったような印象がある。傾斜はわりと一定していて、ともかくも植林の中を黙々と登って行く道だ。今日、私は4人パーティーの先頭を歩かせてもらうことにして、自分のペースで登る。山へ行く時はいつも同じで、歩き始めは体が慣れるまで登りが少し辛いが、しばらく我慢すれば自分なりの「巡航速度」が出来てくる。特に息が上がることもなく登り続け、頭の上に見えていた山の尾根が右手から近づくと、佐野川峠はすぐ先だ。

 日陰の寒い谷を登り続け、日の当たる尾根に上がったとたんに体一杯に感じる太陽の暖かさ。懐かしいその感触は、学生時代に本物の冬山をやっていた頃を思い出させてくれる。その当時とは山のグレードを比べるまでもないが、あれから40年ほどが経った今もなお山を歩いていることの幸せを、改めて思う。
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 尾根に上がれば一転して山道の傾斜も緩くなり、太陽の暖かさも手伝って私たちの会話も弾む。談笑しながら歩くうちに桜の名所でもある甘草水のベンチに到着。ここからもお目当ての富士山が見えるのだが、藪を通しての眺めだったのでごく短い休憩にとどめ、更に20分ほど登って三国山の山頂に出た。

 春や秋ならば三国山の山頂は多くの登山者で賑わっているが、今日は師走の第二日曜日。それに上野原からの路線バスに乗った場合よりも30分早く登山を始めたので、山頂には私たち以外に二人ほどしか登山者がいない。そのひっそりとした山頂で、今までにこの場所から眺めた中で最もクリアーな富士山の姿を、私たちは見つめ続けた。
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 青く澄んだ冬空の下、西の方角には雪を抱いた南アルプスの悪沢岳(3,141m)、赤石岳(3,112m)、そして奥聖岳(2,979m)が見えている。こんなに素晴らしい天気になるなら、もう少し山梨県の中央部に近い山から南アルプスを眺めてみたかったな。そして、こんな日に限って望遠レンズを持って来なかったことを、私はいささか後悔していた。
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09:33 三国山 → 09:41 生藤山 → 10:32 山の神 → 11:35 和田峠 → 12:10 陣馬山

 三国山からの富士山の眺めは実に素晴らしいのだが、じっとしていると再び手がかじかんで来る。先を急ぐことにしよう。山道を進むと、すぐ先に生藤山のピークに上がる道と巻き道とが分かれている。ここから先はさしたる展望もないピークが幾つか続くアップダウンの大きな箇所で、それらを全部巻き道でパスしてしまってもいいのだが、「生藤山には行ってみようよ。」とT君が言うので、今日のコースの最高峰に敬意を表して直登コースを選ぶことにした。ここだけはちょっとした岩稜になっていて面白いのだ。

 そして、生藤山のピークに上がって後ろを振り向くと、ちょうど富士山の方角だけ展望が開けていた。私たちは再び、富士の眺めにしばし見とれる。「〇〇と煙は・・・」と言われそうだが、やはりピークには上がってみるものなのだ。
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 生藤山から先しばらくの間は、細かなアップダウンはあるものの概ね水平な山道だ。このあたり、春先は新緑が目にも鮮やかで私はとても好きなコースなのだが、日陰になる箇所では先週あたりの雪がまだらに残っていて、寒々とした冬景色だ。それでも山道が南側に回り込めば角度の低い日差しが眩しい。落葉を踏みしめながらのんびりと歩き続けたい道である。
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 連行峰という名のピークを巻き道でやり過ごすと、山道は大きく下降を始める。それを概ね下りきったところで生藤山からほぼ1時間を経過したので、小休止。今日は日本海の低気圧に向かって弱い南風が吹くパターンなので、関東南部は小春日和。山の上も日なたは随分と暖かい。小休止の間に眺めた落葉樹の森も、初冬というよりは晩秋の佇まいだ。
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 そこから先は和田峠まで、何ともとりとめのない森の中のコース。特にカメラに収めたくなるような眺めもない。独りで歩く時はトレール・ランニングのようにすっ飛ばして行きたくなる箇所なのだが、今日の私はまだリハビリ第3弾の最中だから、それは止めにして引続き巡航速度で歩く。

 11:35に和田峠に到着。小休止の後は、陣馬山のピークへ今日最後の登りが待っている。距離は700mほどのものなのだが170mほどの標高差があり、その取り付きから急な階段が始まる。まあ、それでも30分足らずの我慢だ。
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 三ヶ所に分かれた階段を登りきると一気に展望が開け、草原状の陣馬山頂への最後の登りになる。振り返れば奥多摩の大岳山(1,267m)がだいぶ大きくなってきた。
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 今朝、そこから富士山を眺めた生藤山が、広い谷を隔てた向こう側に見えている。私にとってのリハビリ第3弾の今日の山歩き。ここまで特に問題もなく歩いて来られたのは何よりだ。
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 山頂の茶店のそばに、ちょうどテーブルが一つ空いている。私たちは荷物を降ろし、用意してきたオニオン・スープを温めて昼食を楽しむことにした。明るい太陽に照らされて、背中は暑いぐらい。ここまで気温が上がれば、富士山はムクムクと沸き上がる雲に隠れてしまってもおかしくないのだが、今日はすこぶるご機嫌がいいようで、正午を回った今もその堂々としたピークを見せてくれている。何とも良い山日和になったものだ。
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13:05 陣馬山 → 14:20 陣谷温泉

 山を下る。今日のコースがありがたいのは、下山ルートが比較的短くて、降りれば温泉が待っていることだ。陣馬山頂から景信山方向へ山道を少し進むと、栃谷尾根を下る山道が直ぐに右に分かれる。瞬く間に階段状の下りが始まり、とんとん拍子に降りて行く。私たちも、ここまで来たからには早く温泉に入りたいという思いが既に頭の中を占めているので、4人とも快調に山道を下った。

 山頂から40分ほどが経過したところで、植林の中を下る山道が終わり、茶畑や柚子の木が並ぶ集落の上部へと出た。奥多摩から奥高尾・陣馬あたりの山歩きは、山から下りて来て出会う山里のどこか懐かしい風景に出会えることが嬉しい。
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 今年4月25日に私が膵臓がんの手術を受けてから、今日で7ヶ月半。医師から示されている予定では、夏から続いた抗がん剤の服用によるいわゆる化学療法も、残すところあと10日余りとなった。幸い、秋を迎えてから体力が目に見えて回復し、今日のようなコースを特に問題なく歩くところまで何とか漕ぎつけることが出来たのだが、それを待っていたかのように仕事も忙しくなって、先月は結果的に月の半分を国内外へ出張していた。

 「大きな手術を受けた身なんだから、これからは健康第一。仕事は程々にね。」

 多くの人々がそう言ってくれるのだが、マンパワーが決して潤沢ではない会社の実情は何も変わっていないのだから、現実的には自分が責任を持つことからそう簡単に手を抜けるものでもない。先週あたりは根を詰めたパソコン作業を続けたことで、肩や背中の張りが結構辛くなっていた。

 それがどうだろう。今日こうして同い年の山仲間たちと初冬の低山を楽しく歩き、遥かな富士を眺め、そして山里の懐かしさに包まれながら和やかに半日を過ごしただけで、このところ溜め込み始めていたストレスはもうどこかへ行ってしまったようだ。肩もすっかり軽くなっている。やはりそれが山歩きの効用と言うべきものなのだろう。最良の時間を与えてくれた穏やかで美しい日本の国土と、いつも心優しい山仲間たちに、改めて感謝を捧げたい。
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 山里を更に下って行くと、民家の石垣に南天が鮮やかな紅の実を結んでいた。

 その読みが「難を転ずる」に通じることから、縁起物として用いられて来た南天。がんの手術を受けた私などは、特に良く拝んでおくべきものなのかもしれない。

 確かに、自分にとって今年の4月以降は大きな試練ではあったが、以前と比べてスリムになったことで体を動かしやすくなってはいるし、膵臓が半分になってしまったものの、家内のサポートを受けて日々の食事に大きな注意を払いながら過ごして来たことは、以前よりもずっと健康的な生活に繋がっている。知人・友人たちと飲み歩くことがなくなったことには淋しさがあるものの、逆にそれが自分の時間の使い方の見直しにつながったことは前向きに捉えるべきなのだろう。

 南天の実にあやかって、来年もしっかりと生きていこう。

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ミッテルシュタント [世界]


 11月8日午前7時、デュッセルドルフの空はまだかなり暗い。

 東京の感覚でいうとこんなに暗いのは朝よほど早く起きた時だが、午前7時といえば当地でも普通に朝の通勤が始まっているから、ホテルの外の道路ではライトを点灯した車が数多く行き交っている。スマートフォンで調べてみると、この日のデュッセルドルフの日の出は7時40分15秒、日の入が16時54分49秒、従って昼の長さは9時間14分34秒だ。(因みに、デュッセルドルフは北緯51.2度と、日本の稚内(北緯45.2度)よりも北にあるから、この日の昼の長さは稚内よりも30分短い。)

 地球の自転は24時間で一周360度だから、経度15度ごとにちょうど1時間の時差が生まれることになる。ロンドン・グリニッジ天文台の真上を通る子午線が東経0度と定められているから、ロンドンから1時間時差という設定と、空が明るい・暗いという肌感覚とが最もフィットするのは(緯度の多寡で昼・夜の長さの違いは生じるものの)東経15度近辺に位置する地域ということになる。改めて地図を眺めてみると、ベルリン(北緯52.5度、東経13.4度)、プラハ(北緯50.1度、東経14.3度)、ウィーン(北緯48.1度、東経16.3度)、ローマ(北緯41.9度、東経12.5度)など中央ヨーロッパが、ロンドンから1時間時差と定めるには相応しい地域なのである。

 それから考えると、デュッセルドルフ(北緯51.2度、東経6.8度)は「中央ヨーロッパ」からはだいぶ東に寄っており、パリ(北緯48.8度、東経2.4度)に至っては経度が極めてロンドンに近いから、それと同じ時間帯にした方が肌感覚には合うような気もするのだが、そこはやはり中央ヨーロッパに時計を合わせ、英国とは一線を画することの方が大事なのだろう。
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 社長自らがハンドルを握るAudiのレンタカーに乗って、私たち3人はデュッセルドルフからアウトバーンを南下。朝霧が濃く、通勤ラッシュで渋滞気味だったケルン近郊までの幹線から離れ、東へと向かう路線に入ると、車窓はそれまでのライン川沿いの平地から一変して、緩やかな起伏を持つ丘陵地帯の真ん中を走り続ける緑豊かな風景となった。このあたりのアウトバーンは交通量も比較的少なく、速度制限もないから、私たちの車は時に180km/hに近い速度が出ていた。

 午前9時少し前、アウトバーンを下りてクロイツタール(Kreuztal)という小さな街に入る。ケルンから80kmほど東に向かった所だが、それでもドイツ全体では西端に近く、オランダやベルギーとの国境からは140km程しか離れていない。アウトバーンの出口からいくらも走ることなく、私たちは目的地のA社に到着。ここを本拠地として長い歴史を持つ機械メーカーで、今日はこれから打ち合わせと工場見学を予定している。午前9時のアポイントメントにぴったり間に合った。
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 私が今勤めている会社は戦後の設立で、今年が創業65周年。産業用の金属素材を製造する典型的なB to Bの会社である。元々は重たい産業向けが取引の中心だったのだが、パソコンやデジタルカメラ、携帯電話などの電子機器の時代が始まってからは、それらの中に搭載される小さな電子部品用の素材としてのニーズが年々高まり、スマートフォンの登場以降は素材の薄型化・高品質化が益々求められるようになった。そして、世界はいよいよEV(電気自動車)やIoT(物のインターネット)の黎明期を迎え、社会の至るところに小型のセンサーや通信機器などが散りばめられる時代が始まろうとしている。

 そんなことを背景に、昨年の夏頃から私たちの業界では製品への引き合いが急増してどこも生産が逼迫している。しかもそれは一時のブームではなく、中長期のトレンドとして今後も持続すると見られ、それどころか、IoTの時代になると私たちの業界にとっては何十年に一度の大きな環境変化、それもポジティブな方向での大変化が起きるのではないか。そうなると、将来の製品需要の方向性をよく見定めた上で、私たちは生産能力増強のための設備投資を急がねばならない。

 とはいうものの、20億円にもなろうかというような設備投資を決断することは、私たちのような中小企業にとってはまさに「清水の舞台」である。ましてその設備を外国企業から調達するとなると、そのプロセスに必要なやり取りをこなせる人材も社内では極めて限られてしまう。だが、世の中は待ってはくれない。ハードルは高いが、自分たちの力で、ともかくもやるべきことはやらねばならない。ドイツまでやって来て設備に関する基本的な仕様をA社と打ち合わせ、重要なポイントを一つ一つ確認する作業を進めながら、私はふと思った。軍艦を発注するために英国に赴いた明治の日本海軍も、もしかしたらこんな心境だったのだろうかと。
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(私たちが訪れたA社)

 A社からこの日、技術者たちと共に終始私たちの相手をしてくれたのは、齢70に達したオーナーのB氏だった。背が高くて恰幅の良い銀髪の紳士で、技術者たちは普段着だが彼だけは仕立ての良い背広に純白のワイシャツ、それに上品なストライプのネクタイという姿である。私たちが導入を考えている設備の仕様に関する打ち合わせでは細部にわたって説明をしてくれ、それに続く工場見学では時にA社の長い歴史に触れながら、実に丁寧に色々なことを教えてくれた。工員たちにも気さくに声をかけながら、まさに会社のdetailsまでしっかりと把握しているオーナーという印象だった。

 中味の濃い時間を過ごしていると、時計の針はあっという間に回転してしまうものだ。工場見学を終えた時には既に午後1時を過ぎていた。

「さあ、遅くなりましたが、食事にしましょう。」

 B氏はそう言って、私たち3人をA社のゲストハウスでの昼食に招いてくれた。それは工場の敷地から南へ少しだけ歩いた所にある、緑豊かな住宅街の一角にあった。元は歴代のオーナー一家の住居であったという。今はその一階部分が会食用のゲストハウスとして使われているのだった。
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(A社のゲストハウスの位置)

 食卓のある部屋の手前に談話室がある。その片隅のバー・コーナーで、食前酒用のショットグラス4個を並べ、ドライシェリーにベルモット、そしてカンパリをそれぞれに注いだB氏は、この建物の歴史をさりげなく語り始めた。

 「19世紀に建てられたこの屋敷には、父の代まで歴代オーナーの一家が住んでいました。従って、私も幼い頃はここで育てられた、その記憶は勿論残っています。」

 「昔はこのあたりに鉄の鉱山があり、近くで石炭も採れるので製鉄業が盛んでした。そのために第二次大戦でこの一帯は激しい空襲を受け、地上にあったものは完璧に破壊されてしまいましたが、この建物だけは奇跡的に戦禍を免れたのです。」

 「終戦後、この地域は英国が占領しました。そして或る日、英軍の将校がやって来て、この建物を将校用のカジノハウスとして使うために接収すると言い出したのです。他には建物らしい建物が残っていなかったので、いずれここは接収されると父は読んでいて、先祖代々の家具や調度品は予め別の場所に隠していました。そして、『カジノハウスに使うのはいいけれど、机も椅子もないので、工場から持って来るしかありません。』と答え、実際に工場からそれらを運び込んだのです。その結果、味も素っ気もない工場の事務机と椅子ではカジノの気分が出なかったのでしょう。そのうちに英軍はここを使わなくなりました。(笑)」

 なるほど、なかなか深い話だ。ショットグラスを皆が飲み干したところで、私たちは食卓へと案内され、昼食をご馳走になる。玉葱とキノコのクリームスープの後に、鹿肉を煮込んだ主菜がサーブされた。緑の丘陵が続くこの地方で捕獲された鹿だそうである。
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(歴史のあるゲストハウス)

 部屋の壁には、一枚の油絵。それは、A社がこの地で創業した頃の製鉄の姿を後世になって描いた想像画である。そのA社の操業とは実に1452年にまで遡るとB氏は語る。その当時、或る3人の兄弟がこの場所で鉄の鍛造を始めたのが起源で、熱い鉄を水車によって動くハンマーで鍛造して棒鋼に仕上げ、鍛冶屋向けに販売したという。(その棒鋼は各種の農機具や工具へと加工されたそうだ。)
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 そのビジネスは300年ほど続いたが、木炭の代わりに石炭を使って錬鉄を製造するパドル工程という手法が開発されると、旧工法による鋳造業は儲からなくなり、工場は1846年に現在のオーナー家に売却された。以後ドイツの産業革命の波に乗って、その工場は農機具や家庭用品向けから産業向けの鋳鉄品の製造へと急速に傾斜し、19世紀末には圧延機などに使われる各種ロールの製造に特化。20世紀にはロールだけでなく鉄用の圧延機全体の製造を開始して、鋳造品メーカーから機械メーカーへと変身を遂げた。
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 第二次大戦では、先ほどのB氏の話にもあったように工場も戦禍を受けたのだが、戦後は銅合金やアルミなど非鉄金属用の圧延機メーカーとして再出発し、その周辺機器の製造も手掛け、今やその製品は世界60ヶ国に輸出されるまでになった。それでも、オーナー家が株式を支配する構造は今も変わらず、株式の公開などはおよそ考えていない。人件費が高いからといって海外生産に転ずることもなく、地元で雇用を続け、生産技術はあくまでもこの創業の地に蓄積されて生産が行われている。「目の届く範囲での経営」とでも言えばいいのだろうか。
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(写真はいずれもA社のHPから拝借)

 そういえば、先ほどの工場見学の際に、高校に入ったばかりといった様子の若い男の子たちが工作機械の操作を学んでいる一室があったのだが、ドイツの多くの企業がそうであるように、この会社も将来の職人の道を選んだ地元の若者たちを研修生として受け入れており、彼らの8割は卒業後にA社に入社するそうだ。

 「私たちの製品の多くは海外にも輸出され、顧客の工場に据え付けるために多くの技師が海外へ出かけていますが、生産はこの地で続け、技術者はこの地に維持しています。それを世界各地に広げてしまうと、それぞれの拠点で技術力・品質を維持していくのは大変なことですからね。」

 「工場の敷地から道路を挟んだ向かい側に、古くなった工場の建屋を壊した土地があったのですが、そこを地域のためのショッピング・モールの場所として提供しました。地域に根差して何百年もやって来ましたから、地域のために還元するのは当然のことです。」

 その日、工場の一角には仮設のテントが張られ、ランチタイムが近くなると、エプロン姿の従業員たちが炭火を起こして沢山のソーセージを焼いていた。社員に対するその売上は障害を持った子供たちのために全額寄付されるのだという。グローバルな製品市場に確固たるプレゼンスを築きながらも、目線は常に地元にあるようだ。

 15世紀にも遡るというA社の歴史に始まり、歴代オーナーによる伝統的な経営哲学、地域活動。そして私たちが訪れた前週がドイツでは宗教改革500周年であったことからキリスト教にまつわる歴史など、昼食をいただきながらのB氏との会話は多岐に及んだ。何事にも紳士的で、歴史や文化に関する造詣が深く、終始穏やかに私たちと接してくれたB氏。単に会社の経営に留まらず地域に深くコミットしている彼の存在は、まるでヨーロッパの貴族を見ているかのようだ。

 その一方、私たちとの会話の中でただ一つ、温厚なB氏が語気を強めて批判していたのがドナルド・トランプ米大統領の存在についてであったことを、忘れずに書きとめておこう。

 「なぜあのように下品な男がアメリカの大統領に選ばれたのか。」

 「前言を平気で翻し、嘘もつき、自分の過ちを一切認めようとしない。あのような態度はヨーロッパの価値観からは到底受け入れられないものだ。」

 欧州には”noblesse oblige”(高貴なる者が背負う義務)という言葉があるぐらいだから、中世以来の貴族のようなB氏から見ると、超大国のトップに上り詰めた男が勝手気ままに振る舞う様子には我慢がならないのだろう。(B氏に限らず、今回の出張で出会ったドイツの人々の間ではドナルド・トランプの評判は散々で、彼を大統領に選出したアメリカという国そのものがバカにされているようにも思えたほどだった。)
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(この日の夜、街中のニュースエージェントで見かけた新聞の1面)

 半日の時間をかけて私たちに応対してくれたB氏に心からの謝意を述べて、私たちは帰路につく。車に揺られながら、私は行きの飛行機の中でたまたま読んでいた『ハーバード日本史教室』という新書本の一節を思い出していた。ハーバード大学で日本史に関する講座を持つ10名の教授にそれぞれインタビューを試みたものだ。その中で、渋沢栄一が理想として掲げていた「倫理的な株主資本主義」に注目するジェフリー・ジョーンズ教授がこんなコメントをしていた。

 「ドイツに『ミッテルシュタント』と呼ばれる中小企業群があるのをご存じでしょうか。どの企業も地域に根差したファミリービジネスからはじまっていますが、卓越した技術力を擁しています。もちろんドイツを拠点に輸出はしていますが、あくまでも拠点は創業の地。多国籍企業になるつもりもありません。むやみにグローバル化すると、それまで育ててきた職人や社員の技術を得られなくなってしまうからです。(中略)
 ローカルビジネスというのはとても重要です。国の雇用を支えているのは、地域ビジネスなのです。IT、金融、エレクトロニクス、消費財などに関わる企業であればグローバル化するメリットはありますが、ローカルのままでいたほうがよい企業もたくさんあるのです。」
(『ハーバード日本史教室』 佐藤智恵 著、中公新書ラクレ)

 今回訪問したA社は、こうしたミッテルシュタントの中ではやや大きめの部類に入るのかもしれない。だが、オーナーであるB氏の考え方は、まさにこの本が述べていることを裏書きしていた。

 中小企業というと、大手の系列の下で大手の下請けを安価で引き受けるという姿を日本ではイメージしてしまいがちだが、ドイツのミッテルシュタントは高い技術力を武器に決して安請け合いをせず、彼らがいなければ大手も成り立たない存在となって、しっかりと利益を上げているという。(逆に言うと、儲からない企業はさっさと退出させられるお国柄であるようだ。)しかも、ドイツは労働者の休暇取得に関する法制が厳しく、皆が一ヶ月の夏休みを取っている。それでも利益を上げているのだ。

 世界は今、行き過ぎた株主資本主義と貧富の格差の拡大が深刻な問題と化している。同じドイツでも、例えばフォルクスワーゲンのような大手の上場企業は、その行き過ぎた株主資本主義の中で無理を重ね、エンジンの燃費数値の改ざんに手を染めてしまった。(幾つかの日本企業も同様の問題で世間を騒がせている。)別の例を挙げれば、ビジネスのグローバル化が最も進んだ金融の世界では、あのドイツ銀行が投資銀行部門で巨大な損失を抱えて信用力を落とし、今は見る影もなくなってしまった。勿論そんな事例だけで物事の功罪を論じる訳には行かないが、そうしたことを見るにつけ、株主資本主義とは何か、グローバルな経営とは結局のところ何なのだろうかという思いに、私などはとらわれてしまう。

 私の会社は、ある特殊な素材のメーカーとして、日本では数少ないプレイヤーの一つである。かつては首都圏に工場を構えていたが、90年代以降は東北地方の一画に生産拠点を移し、今は全ての生産をそこで行っている。勿論、生産の現場で働いているのは地元の人たちだ。そこでの歴史が早くも四半世紀を超えている。

 日本を含む東アジア一帯が製品の主戦場だが、高品質の分野で戦っており、ボリュームゾーンで血みどろの安値合戦を繰り広げるつもりは全くない。他方、この分野で世界最高品質の製品を作るには、上流から下流までの全ての工程を一貫して日本の中で手掛けることが必須と考えているので、モノ作りは今後も東北地方の一画に留まり、引続きmade in Japanで頑張っていくつもりだ。人口減少で働き手の確保がこれから益々大変になるだろうが、だからこそ省力化を進め、技術に磨きをかけ、しっかりと利益を上げて、世界のオンリーワンを目指して行きたい。そして、儲かっても株式の公開はしないだろう。

 国内でモノ作りを続けるためには、工場が立地する地域にしっかりと根を下ろし、社員一人一人を大切にしながら、高いモチベーションを持って働いてもらう必要がある。技術面で地元の大学との連携も色々と可能性があるだろうし、特に若い社員たちには、知識や技術をしっかりと身につけてもらった上で是非とも海外を見る機会を与えてあげたい。そのあたり、ミッテルシュタントの在り方と重なり、彼らの生き方を参考に出来ることが私たちには幾つもありそうだ。

 「社長、今日は大いに勉強させていただきました。設備の導入以外にもやるべきことが沢山見つかりましたね。」

 「ドイツに来るたびに、本当にそう思います。我社もあんな風になれたらいいと思うことが多々ありました。我々にも出来ることを是非考えて行きましょう。」

 再び社長がハンドルを握る車は、午後のアウトバーンを軽快に北上していく。そして、帰り着いたデュッセルドルフの街には早くも夕闇が迫り、クリスマスのデコレーションが輝いていた。
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リハビリ第二弾 - 小仏城山・景信山 [山歩き]


 11月3日(金)午前7時45分、JR新宿駅12番ホームで中央特快の下り電車を待っていると、小田急デパートの向こうに青空が覗いていた。
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 今朝6時前に起きて自宅マンションのベランダから外を眺めた時には、まだ空全体が薄雲に覆われ、東京スカイツリーの先端は靄(もや)の中に隠れていたのだが、太陽が昇るにつれてそれは解消し、爽やかな秋空が広がるようになっていった。

 昨日まで日本列島を覆っていた移動性高気圧は既に当方海上に去り、次の高気圧はまだ中国大陸にある。朝鮮半島から北海道にかけて低気圧の前線が連なり、関東地方の南東には別の低気圧が北東方向へ移動中。日本列島全体が明らかに気圧の谷の中にあるような天気図を見せられた時、私の知識では一面の青空が広がるような天候は全く導き出せないのだが、天気予報のアプリを開くと、スマホの画面には晴マークが並んでいる。やはり文化の日は晴天の特異日なんだなあ・・・。
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 7時51分、高尾行きの電車が到着。4号車の前寄りのドアから乗車すると、山仲間のH氏とK女史が並んで座っていた。それぞれ大船・鎌倉から東京駅経由で今日の山歩きに参加してくれたのだ。(と言うより、そもそも今回の山行を企画してくれたのがH氏だった。)途中の国分寺駅ではKさんが乗車。そして高尾で乗り換えた小淵沢行の普通列車ではS女史とH君ご夫妻、そしてT君が待っていて、これで今日の8人のメンバーが揃った。

 考えてみれば、私がH氏以外のメンバーと顔を合わせるのは今年になって初めてのことだ。1~3月は忙しくて山へ行けず、4月以降は私が膵臓がんの手術を受けたことで山歩きは封印状態だった。10月最初の日曜日にH氏がごく軽いウォーキングに誘ってくれて、稲荷山コースから高尾山をゆっくりと往復。それが私にとって山歩きの初回のリハビリだったので、今日は第二弾ということになる。相模湖の東から東海自然歩道の山道で小仏城山(670m)に上がり、小仏峠へ降りてから景信山(727m)へ登り返し、小仏バス停へと下るコースで、距離にして7km弱。標高差の累計は上りが約720mで下りが約630m。私は何度も歩いたことがあるから、今日の自分の体調をチェックする上でもちょうどいい。
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09:20 城山登山口 → 10:30 小仏城山

 JR相模湖駅から路線バスで5分。千木良バス停で降りて、登山道の起点の所にある茶店で名物の草餅を買い求め、いよいよ出発。今日は高校山岳部の同期・T君がトップを歩き、リハビリ中ということで私は8人一列の真ん中を歩かせてもらうことになった。久しぶりに再会したメンバーがそれぞれに私の体調を気遣ってくれる。何ともありがたいことだ。
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 尾根に取りついた後、山道は杉の植林の中を黙々と登るコースになる。私のリハビリのために今日の計画は小仏城山までのコースタイムに10分を加えたものにしていて、先頭のT君は計算し尽くしたように計画通りのペースを作ってくれる。そのおかげで、慣れ親しんだコースを私は何の問題もなく登って行くことが出来た。
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 樹林の中から頭の上に広がる青空は一段と鮮やかさを増して完璧な快晴になった。尾根沿いに順調に高度を稼ぎ、南西側の展望が得られる所では、富士の高嶺が頭を見せている。このところの晴天続きで頂上付近にも冠雪はなく、何とものどかな富士の眺めだ。「いい天気だなあ・・・」 私たちは口々に今日の幸運を喜び合った。
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 登山口から小仏城山まで標高差470mほどの登り。山頂に近づくにつれて、始まり出した紅葉が私たちの目を楽しませてくれる。暖かい日差しに照らされたその優しい色合いに何と癒されることだろう。眺めているだけでも私にとっては最高のリハビリになりそうだ。
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 歩き始めてからちょうど1時間を過ぎ、樹林の中ながら空が広くなってきた。登りで息遣いが荒くなるようなことも全くなく、私は土の山道を踏みしめる感触の懐かしさを楽しませてもらっている。そして、草むらの中の最後の登りを過ぎると、いつものように小仏城山の山頂の片隅にポンと出た。左手に大室山を従えた大きな富士の姿も、これまたいつもの通りだ。お疲れさま!茶店のベンチでひとまず小休止を取ろう。
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 東京の街中では、ケヤキやハナミズキの葉が少し色付いて来たかなという程度だが、標高670mの城山山頂付近では鮮やかな紅葉がもう始まっている。同じカエデの樹でありながら、赤・黄・緑の葉が同時に並んでいるというのも不思議なものだ。15分間の小休止の間、私たちは今年最初の紅葉見物を決め込んだ。
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10:45 小仏城山 → 11:35 景信山

 小仏城山から先は、まず小仏峠まで標高差120mほどの下りが続く。北斜面なので日当たりが悪く、晴れた日でも山道がぬかるんでいることが多い。念のためスパッツを付けて降りていったのだが、今日はかなり乾いていて、歩くのに困ることは何もなかった。天候といい山道のコンディションといい、今日は何だか出来過ぎている。小仏峠まで下り切る前に、左手に富士山のビュースポットがあって、眼下の相模湖とセットになった眺めが素敵だ。このあたりの低山では風も殆どなくて実に穏やかな好天なのだが、富士山の宝永火口から上の左肩には雲が沸いているから、それぐらいの高山になると西風が強いのだろうか。
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 小仏峠からは180mほどの登り返しが始まる。距離は短いながら最初の登りが少し急なのだが、ここも今回は実に快適に登って行ける。トップのT君がペースを上げた訳ではないけれど、メンバーも皆しっかりと歩けるので、小仏城山を出てからの区間は計画よりも所要時間を短縮することになり、城山から50分で景信山に到着。東京地方では久しぶりに晴れの週末となった今日は、景信山の山頂も多くの登山者で賑わっていて、二つある茶店はいずれも大忙しだ。私たちは上の方の茶店でベンチとテーブルを確保し、45分間の昼食休憩を楽しむことにした。
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 膵臓がんという、放っておけば命に係わるような病気をしたのは、私の生涯で今回が初めてのことだ。その原因は、おそらく一つではないだろう。元々胃腸は滅法強い方だったし、風邪をひくことも殆どなかった。我ながら酒も飲み、食べることには人一倍の好奇心があることを自認していた。そして、自分が責任を持つ仕事にはつい夢中になってしまうタチでもあった。他方、自分の持つ「鈍感力」もまた自認するところで、うまくいかないことがあってもあまりクヨクヨせず、ストレスも溜め込まない方だと自分では思っていた。けれども、膵臓という、普段から声を上げることのない臓器に病変が起きたことについて自分なりに振り返ってみると、体への刺激が強い食べ物・飲み物を摂取することが多過ぎたり、或いは自覚することのないところで少なからずストレスを溜めていたりしたことがあったのではないだろうか。

 手術を受けた後しばらくしてから主治医の経過観察を受けた時に、「これからは二つのことを必ず励行して下さい。一つは、必要な睡眠を取ること。もう一つはストレスを溜め込まないこと。」と言われたことがあった。それ自体は極めて明快なことなのだが、現代の我々の生活の中ではそれを守れないことが案外と多いものだ。既に還暦を過ぎた私も、会社の経営に責任を持つ立場にある以上は仕方がないことながら、スケジュールに追われるような生活は嫌だなと思いつつも、例えば携帯電話が繋がらずインターネットにも接続出来ないような環境に放り込まれると逆に不安を感じるように、いつの間にかなってしまった。

 けれども、気のおけない山仲間たちと総勢8人で、こうして東京近郊の低山を歩き、身近な紅葉を眺めているだけで、間違いなく今の私は浮世のことから自由でいられる。そして何の損得もなく、山の中で一時を過ごしていることの幸せを仲間たちと共有できる。ただそれだけのことが何とありがたく、何と心穏やかになれることだろう。

 仕事優先の生活からは当分離れられそうにないし、仕事に責任を持つ以上、それはまだ頑張るつもりだ。しかしながら、そこをもう少し器用に立ち回りながら、親しい仲間たちと山へ行くことに私の中でもっと明確な意思を持ってプライオリティーを上げていくべきではないのか。景信山の山頂で皆がそれぞれに持ち寄った食べ物を楽しみながら、多分に我田引水ではあるが、そんなことを考えていた。
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12:20 景信山 → 13:05 小仏バス停

 山を下りる。東京方面の平地を見下ろす景信山からの広々とした眺めも、今はすっかり秋色になった。正午を回ったばかりなのに、秋の陽はもう微かに赤味を帯びている。
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 山頂から下り始めたところで、右手に丹沢山地の眺めが広がっていた。この奥高尾一帯は、晴れた日には丹沢の優れた展望台なのだ。いつまでも眺めていたかったが、遠からずまた来ることにしよう。
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 バスが走る道路まで標高差380mの下り。トップのT君のペースはいつの間にか上がっていて、20分ほども下った頃には山道が尾根の左を巻き、左下から中央自動車道を走るクルマの音が聞こえ始めた。そうなると下界も直ぐで、程なく舗装道路に出る。後はそれを下って行けばバス停は近い。結局、予定より30分早いバスに乗れることになり、高尾山口駅前に13:40頃に着いた。駅に直結する新しい温泉施設「極楽湯」は大変な混雑だったが、下山後の風呂はやはり有難いものである。

 同行のメンバーそれぞれの私への暖かい心遣いを噛みしめながら過ごした半日。おかげさまで、当の私は何らの支障なく今回のコースを楽しませていただいた。この先も決して背伸びすることなく、T君が語ってくれたように「慌てず、焦らず、諦めず」を旨として、私の山歩きのリハビリを続けて行こうと思う。

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願いと祈り [自分史]


 10月9日(月)、三連休の最終日の東京は前日に続いて季節外れの夏日となった。私は午前中から既に二つの用事をこなし、今は家内と二人で四谷の駅前を目指して歩いている。地表付近の天候がどうであれ、太陽の動きはきっちりと暦通りだから、午後4時に近くなると早くもその光には赤みが差してきて、その限りではいかにも秋なのだが、歩いていると半袖でも汗ばむような陽気とのミスマッチが何だか不思議だ。

 JR四谷駅の麹町側に出ると、目の前が上智大学のキャンパスだ。その駅寄りの角地に建つカトリック麹町聖イグナチオ教会。かつては主聖堂のクラシックな姿がこの辺りの景観のシンボル的な存在だったのだが、老朽化により1997年に取り壊され、1999年に現在の楕円形の建物になった。それからもう18年も経つのだが、旧聖堂が姿を消して以降、四谷の駅前を通りかかったことがなかった訳ではないはずなのに、今の聖堂を改めて見つめてみるのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。
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 その楕円形の姿がどこか音楽ホールのような主聖堂を左に見ながら敷地の中を進むと、正面に植え込みの緑が豊かな低層の建物があり、二階のテラスのような場所から旧友のY君が手を振りながらこちらを見ている。私もそれに手を振って応え、家内と共に外階段から二階へと上がる。そして、久しぶりにY君と握手。「元気そうでよかった。」と彼は再会を喜んでくれた。Y君の奥様にもお目にかかり、建物の中へと案内される。そこは、マリア聖堂。丸屋根の部分に据えられた円形の大きなステンドグラスは、旧聖堂から引き継がれたものだそうだ。
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(写真は教会のHPから拝借)

 Y君は大学時代のゼミの同期生である。卒業後、就職も同じ業界で、お互いの結婚式にも呼び合った仲だ。それに会社では共に国際部門を長く経験したので、以後も何かと連絡を取り合って来て、海外でも会ったりしたものだった。その彼が私のブログを見て見舞いのメールをくれたのが今年の7月末のことだった。私が膵臓がんの手術を受けてからちょうど三ヶ月が経過した頃である。

 「驚きました。(中略)ブログでは出社されているようなので少し安心しましたが、この人生の困難に立ち向かわれているのを知り、まずは貴兄への神のご加護を強く祈っております。以前お話ししたように私はカトリック教徒です。」

 そんな風に書かれていて、以後も毎週日曜日に教会で私のために祈りを続けてくれているそうである。彼からメールを貰った時期はまだ私の体調が安定せず、大幅に痩せて体力もすっかり落ちてしまった頃だったから、心の底から私のことを心配してくれたY君の友情が、言葉の真の意味で身に染みる思いだった。

 Y君は中学・高校時代を神奈川県のカトリック系の学校で過ごしている。その後、留学や駐在勤務でメキシコ・スペインといった国々を経験しているから、カトリックという信仰が深く根付いた社会の在り方をつぶさに見て来たはずである。そんな彼が日本に帰って来た後、思うところあってカトリックの洗礼を受けたというのは、私から見れば不思議なことではないのだが、それは何も知らない門外漢にはそう見えるというだけのことで、実際に入信するということは彼の人生の上では大きな決断であったことだろう。

 8月以降もY君と何度かメールをやり取りする間に、彼はイエズス会司祭の英(はなふさ)隆一朗という神父さんの存在を教えてくれた。英氏は聖イグナチオ教会で精力的に活動し、日曜日毎のミサはもちろんのこと、週二回のキリスト教入門講座なども開いていて、非常に多忙な方であるようだ。その英神父がインターネット上に立ち上げた「福音 お休み処」というブログの冒頭には、こんな記載がある

 「主イエスは次のように仰せになりました。

 『疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』(マタイ11章28節~29節)と。

 この聖句を読むたび、心がほっとします。現代社会の中で、重荷を負って、疲れ果てている方々がおられるのではないでしょうか。私自身も重荷に耐えきれなくなったり、疲れ果ててしまうことがたびたびです。しかしながら、イエスのもとで休み、イエスに学びながら、魂の安らぎを得て、また立ち上がる力をいただきます。

 このブログを通して、疲れた人や重荷を負っている人が主のもとで休みをとり、主から学び、また立ち上がって歩んでいく手助けをしたいと思っています。」 http://hanafusa-fukuin.com/

 このブログは彼が行った日曜日のミサの説教の音声ファイルやテキスト画面にもアクセス出来るようになっている。Y君にはこの英神父の講話を他の教会で聞く機会があり、「何か腹に自然に落ちる話をされる人」だと思ったそうだ。今の日本のカトリック教会において、こういう話が出来る神父さんは本当に少ないのだという。その英神父が祝日の10月9日(月)に「いやしのミサ」を聖イグナチオ教会で開くことになった。

 「このミサは、病気のいやしという特別な意向のためにささげられるミサです。ご自身が病気の方や、親族・友人のいやしを願われる方はどうぞご参加ください。いやしのミサの後に、個人的にいやしの祈りを祈る時間が設けられます。」

 Y君はこのお知らせを上記のブログで見つけ、わざわざ私に声をかけてくれたのだった。「貴兄の信条に反するかもしれませんが、祈りは呼びかけに結びつくかも知れません。彼は心に響くことを語れる人だと思います。」とも書かれていて、私自身の常日頃の考え方にも配慮をしてくれた上でのことだった。

 Y君ご夫妻に挟まれる形で私たち夫婦が聖堂内の椅子に着席。午後4時からミサは粛々と始まった。幾つかの讃美歌が歌われ、英神父が聖書の一節を読み上げ、一同が祈りを捧げる。そして信者の代表が聖書の朗読を行った後、いよいよ英神父の説教が始まった。

 病を得たということは、あなた個人にとっては苦しみではあるが、そのことによって逆に、病もなく日常を平穏に過ごすことの有難さに気づくことが出来る。そして、同じように病を得た人々の苦しみを理解することも出来る。それは神から与えられたあなたの役目なのだ。病を得た人はその治癒を願い、神に祈る。聖書の中でイエスは多くの病人をいやした後、「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。神が必ず救ってくださるという確信、神から力と恵みを与えられていると考える謙虚さ、病が治癒することへの希望、そして信仰。それらによって願いは真の祈りとなる・・・。

 ごく簡単に言ってしまえばそんな内容だったと記憶している。
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 今日、このミサに列席する機会を得るまで、正直言って私は願いや祈りというものをあまり深く考えたことがなかった。日本人だから多分に神道や仏教の考え方の影響を受けているのだろうが、それでも何かを神仏にお願いする・・・例えば浄土教のように、諸々の苦しみからの救済を求めてひたすら阿弥陀仏にすがる、というような考え方が好きではなかった。むしろ神道のようにこれからの自分の行動に誓いを立て、それを神様に見守っていただくと考えること、或いは禅宗のようにあらゆる執着を捨てて泰然と生きて行くことの方が、自分にはしっくりと来るものだった。神仏が万能であるとは信じておらず、それに頼ったりすがったりするのは人間として弱い考え方だとすら思っていたのだろう。

 今回、Y君は「いやしのミサ」に誘ってくれたことに加えて、英神父が書いた『祈りのはこぶね』という小さな本を私のために買っておいてくれた。100ページ足らずの分量で文章も極めて平易なので、一晩で読めてしまうものだが、英神父の当日の説教の内容とこの著書の内容とを合わせて復習してみると、今まで私が気づいていなかったことが明らかになった。それは、願いや祈りが本当に意味するところは何かということである。

 「願うことを嫌う人もいる、それは何か他力本願で、人間の努力を軽んじているように見えるからだ。
 本当の願う祈りは、他人任せや努力の放棄を意味していない。むしろ願う祈りには、懸命の努力が伴うものなのだ。例えば、病人がいやしを願っているとしよう。その病人がいやしを願いながら、薬も飲まず、医者の注意も聞かず、養生もしないなら、その人は本当に願っていると言えるだろうか。本当に願う祈りをしているならば、薬を飲み、養生して、自らの努力と実践を通して治ろうとするだろう。願う祈りとは他人任せにすることではなく、自分の全力を傾注して事に向かうことなのである。
 願う祈りは、自分の今の課題を示し、向かうべき具体的な方向を示してくれる。」

 『祈りのはこぶね』を読み始めると、早々にこんな記述が出て来る。参ったな、と私は思った。神仏などにはすがらないぞ、と思っている自分は、それではどんな努力をしているというのか。

① あなたの心の中に、どのような願いがありますか。願っていることを書き出してみてください。
② それがかなえられることをどれほど強く願っていますか。強く願っているものから順番に、番号をつけてみましょう。
③ そのためにどのような努力や実践をしているか、ふりかえってみてください。

 『祈りのはこぶね』の各章にはこんな設問も用意されていて、自分を客観的に見つめるためには、確かにそういう作業が必要なのだろうと考えさせられる。そして本書を更に読み進むと、祈りとは人々の願いや嘆きを具体化するものであり、今日がどんな一日であったかを思いおこすことであり、たとえそれが苦難に満ちたものであったとしても、願いに先立って感謝を捧げるチャンスであり、そして悔い改める機会でもあることが平易に説明されていく。
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 科学上の理屈だけから言えば、病気が治ることと願いや祈りとは直接の因果関係を持つ訳ではないのだろう。けれども、私が膵臓がんの手術を受け、今も定期的な経過観察に通っている病院では、現状を確認するための設問が20個ほど用意されていて、患者はタブレット端末を通じて回答を入力することになっているのだが、それらの設問の半分ぐらいはメンタルな事項に関するものである。今の体調が今の気分や人とのコミュニケーション、そして仕事への取組み姿勢などにどのような影響を与えているか、といったことを尋ねるものなのだ。

 「がん患者への最良の薬は、自分ががん患者であることを忘れることだ。」という指摘もあるぐらい、がん治療にはメンタルな部分のケアが重要なのだそうだが、考えてみれば、それは英神父が易しく説いてくれる願いや祈りにも繋がるものであるのかもしれない。

 既に述べたように、今までの私は願い事が叶うよう神仏にすがるという考え方を好まず、祈るということをあまりして来なかったように思う。願っていることが実現するよう自分が努力するのは当たり前のことだが、そこから先はなるようにしかならない訳で、それがどんな結果であっても泰然として受け止めるのが男のあるべき姿だと思っていた。

 自分の機嫌の良し悪しで人との接し方を変えたり、人に愚痴をこぼしたりするのは嫌いだったし、仮に何かの不幸に襲われた場合にも他人からの慰めは不要で、結局は自分自身で悲しみ・苦しみを呑み込み、乗り越えて行くしかないと思っていた。そして、その過程で溜まったストレスは、例えば親しい友人たちとの酒の席や、時に山歩きをすることで自分なりに発散していたつもりだった。

 けれども、自分がこうして病を得るという経験をしてみると、色々なことを独りで呑み込もうとするのではなく、逆にそれらを素直に吐き出してみることで自身を客観的に見つめることが出来るのではないか、ということを考えさせられたように思う。言い換えれば、粋がらず自分の弱さにもっと正直になれ、ということだろうか。そんな悩みや苦しみを素直に吐露すれば、自分の周りにはそれを一緒に聞いてくれる家族や友がいてくれる。そして、そうした悩みや苦しみのない日々の到来を願い、祈り、その実現に向けて努力を続ける時、私たちの背後には神の存在がある、と考えるのが信仰というものなのだろう。
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 最後の讃美歌が歌われ、「いやしのミサ」の一連の進行が終わったところで、個人的にいやしの祈りを行う場が設けられ、希望者が英神父の前に二列に並び始めた。車椅子に座った人、杖を突く人々など様々だ。実は、Y君は私が膵臓がんの手術を受けた身であることを事前に英神父にメールしてくれていて、神父は私のためにも祈りを捧げて下さるというので、Y君ご夫妻に導かれる形で私と家内もその列に加わることになった。

 やがて私の番が回って来たので、家内と二人で英神父に一礼。私は次のように話した。

 「私は今年の4月に膵臓がんの手術を受け、今も抗がん剤の服用による治療を受けています。この先、がんの再発・転移が起こるのかどうか、今はまだ何とも言えませんが、たとえ何が起ころうとも、自分の命の続く限りは精一杯生きようと思っています。」

 頷きながらそれを聞いていた神父は、その両手を私の頭に置き、暫くの間何事かを唱えていたが、最後にこのように語ってくれた。

 「あなたの今の考え方は、神が一番喜んでおられると思います。是非それを大切にしてください。」
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 マリア聖堂の中でのミサを体験した一時。私のために様々な心遣いをしてくれたY君ご夫妻に改めて感謝しつつ建物から出ると、5時半に近くなった外はもうすっかり夕暮れを迎えている。私たち4人はそれから四谷駅近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、暫くの間なごやかに語り合った。

 思えば大学を卒業してから既に36年。時には青臭い議論も含めて本当に色々なことを語り合って来たゼミの同期生同士。それがお互いにこの歳になり、夫婦一緒に今日こうしてこのような時を過ごしていることの不思議さと有難さ。人間、歳をとるということにも大切な意味があるものなのだ。熱いコーヒー以上に、Y君ご夫妻の温かいご厚意がはらわたに深く染みた。

 午後6時を過ぎ、四谷駅でY君ご夫妻とお別れをして、私たちは地下鉄のホームへと歩く。Y君のおかげで、私にとって神様の存在が少し身近になったかもしれない。ともかくも、余計な肩の力を抜いて病と向き合い、自分自身の弱さをもう一度見つめながら、今ある生をしっかりと生き抜いて行こう。

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続・川を眺めた日 [散歩]


 このところ、我家の週末の散歩は何やら隅田川に引き寄せられているかのようだ。

 三連休の中日の10月8日(日)、日本列島は移動性高気圧に覆われているが、その東の縁にあたる関東南部は、北東風が吹き込むので雲の多い天気だ。けれども時折雲間から陽が射すと、これがまた結構暑い。従って、それなりに風が吹いて涼しい場所を散歩道に選ぼうとすると、結局は川沿いを歩くことになる。

 家内と二人、正午を少し過ぎてから家を出る。都バスと電車を乗り継いで京成関屋駅で降り、外の大通りを南方向へと私たちは歩き始めた。今日はこの少し先から隅田川の左岸に出て水神大橋で川を渡り、浅草を目指して川の右岸を歩くことにしている。
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 日曜日で車の少ない大通りをしばらく歩き続け、荒川と隅田川を繋ぐ水路を短い橋で渡ると、右手に隅田川が見えて来る。ならば次の信号で道路を渡り、川の方へ歩いて行こうか。すると、その信号機の背後にカネボウ化粧品の建物があった。そうか、この先をあと700mほども歩けば東武鉄道の鐘ヶ淵駅だから、このあたりはまさにカネボウの発祥の地なのだ。
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 明治時代末期の地図を見ると、たしかにこの一帯は鐘ヶ淵紡績會社の広大な敷地で、隅田川沿いに工場が立ち並んでいたことがわかる。原材料や製品の搬送には水運を利用していたのだろうか。
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(星印が、現在のカネボウ化粧品のビルの位置)

 この地図の時代から95年後の2004年、多額の債務超過に陥って経営危機に瀕した旧カネボウ株式会社は、その主力事業である化粧品部門を切り離して産業再生機構の支援を仰ぎ、それは2006年に花王株式会社の100%子会社となった。先ほどのカネボウ化粧品のビルの左隣には花王のロゴを掲げた建物が並んでいて、鐘紡発祥の地の新しい景観を形成している。20世紀末の金融危機を経て大手銀行がメガバンクへと再編され、巨額の債務を抱えた数々の企業にどのような審判を下すのかが問われていたあの当時、カネボウの企業再生は大きな注目を集めた事案だったのだが、あれからもう10年以上の月日が経ったことになる。私も歳をとるわけだ・・・。

 さて、私たちは隅田川の土手に上がる。対岸もかつては工場の煙突が並ぶ一帯だったのだが、それらが移転した跡地の再開発が進み、今は学校や高層住宅が建てられると共に、川沿いの土地には緑地や遊歩道が綺麗に整備されている。
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 そして、隅田川の河口の方向を眺めると、シンプルで大きなアーチが印象的な橋が架かっている。平成元年に竣工した水神大橋だ。
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 昔の地図でこのあたりを探すと、鐘紡の工場群の南隣に水神森という記載が見える。現在の隅田川神社の前身にあたる「水神社」の鎮守の森だったのが、この水神森で、小高い場所にあったために、隅田川が増水した時にも水没することがなかったという。そして、伝説によれば、平家追討の兵を挙げた源頼朝が1180年にこの地を訪れ、水神の霊験を大いに感じたことから、そこに社殿を建てたのが始まりなのだそうだ。(もっとも、現在の隅田川神社はかつての水神社から100mほど南へ移動しているそうだが。)

 戦前に荒川放水路(=現在の荒川)が掘削される前はたびたび洪水を引き起こしていた隅田川。その水難から逃れるということについて、昔の人々には切実な思いがあったのだろう。そんな時代の名前を受け継いだ水神大橋を渡り、私たちは隅田川の右岸へと向かう。その橋を渡り切った所には、かつての隅田川の堤防の一部がモニュメントして残されていた。なるほど、こういう堤防が河口まで延々と続いていたのだから、かつての隅田川遊覧船からの両岸の眺めが殺風景だったのも無理はない。
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 緑地と遊歩道が整備された右岸をしばらく歩き続け、次の白髭橋が見えて来たあたりで、私たちは一休み。少し晴れて来て日差しが暑いが、川っぷちだから吹く風は心地よい。ススキの穂もすっかり大きくなって、隅田川沿いもそれなりの秋だ。
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 さて、白髭橋までやって来ると、その西詰に一本の石碑が立っていた。見れば「明治天皇行幸對鷗荘遺跡」とある。その奥に用意された説明書きのプレートによれば、話はこうだ。

 明治6年の10月、いわゆる征韓論を巡って明治新政府の閣議は真っ二つに割れていた。その過程で、征韓派の意見が通らない場合の辞任をちらつかせた西郷隆盛の言を怖れた太政官にして議長の三条実美が、朝鮮への特使の即時派遣を一旦は決めたのだが、逆に大久保利通、岩倉具視ら征韓反対派の参議が相次いで辞任。そんなあれこれによる過度のストレスから、三条公は高熱を発して人事不省に陥ってしまった。その三条さんが寝込んでいたのが、この場所にあった對鷗荘という屋敷で、事態を憂慮した明治帝が直々に見舞いに赴いたというのである。
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 三条さんが倒れたことによる「議長の空席」は、征韓反対派に巻き返しの時間を与えることになり、太政大臣代理に就任した岩倉が事態を仕切ったため、逆に西郷ら征韓派が下野することになった、この明治6年の政変。幕末期には長州の攘夷派に担がれ、「七卿落ち」も経験している三条さんは、この時点で36歳だった。この場面を描いた歴史物のテレビ番組などでは、オロオロして倒れてしまう三条さんはもっと年上のイメージなのだが、実際にはまだ壮年だったのだ。一方、この時に国の命運を賭けて激論を交わした西郷は45歳、大久保は43歳。公家にしては珍しく体を張って征韓派に立ち向かった岩倉は48歳。そして、三条さんを見舞った明治帝に至っては弱冠20歳だった。幕末維新は随分と若い人たちが時代を動かしたんだなあ・・・。

 プレートの説明書きを読みながらちょっとした感慨に囚われている私を見て、家内がクスクス笑っている。
 「こういう話が本当に好きなのねぇ。」
 まあ、いいじゃないの。男は大体そういうものなんだよ。
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(錦絵に描かれた、征韓論をめぐる閣議の紛糾。丸印の人物が三条実美)

 心地よい風に吹かれながら隅田川テラスを歩いていると、頻りに甘い香りが漂ってくる。季節は10月上旬。この時期は一年に一度、金木製が輝くような存在感を見せる時だ。この川沿いの遊歩道にもその木が幾つも植えられていて、自らの季節を謳歌していた。
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 言問橋のもう一つ下流に架かる桜橋に近くなると、対岸の東京スカイツリーもだいぶ大きく見えて来る。この隅田川テラスを歩く人の数も多くなって来た。
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 川沿いの散歩はここまでにして、丘に上がる。街中を暫く歩くと、小高い丘の上に寺院が一つ。江戸名所の一つだった待乳山聖天(まつちやましょうでん)である。
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 ご由緒によれば飛鳥時代の昔に地中から突然湧き出た霊山だそうで、この地が大規模な旱魃に見舞われた時に、十一面観音菩薩が大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に姿を変えて現れ、人々を苦しみから救ったとされる。大聖歓喜天とは、吉祥天とか弁財天、韋駄天などと同じ部類に属するインド発祥の神様で、仏教を守護し、衆生を迷いから救って願いを叶えさせてくれるものとして信仰されて来たという。仏教を守護することにどの程度重きが置かれていたのかはともかくとして、現実的な諸々のご利益を願って人々は参拝を重ねたようだ。かつてこのあたりは、吉原で遊ぶ人々を乗せて隅田川を遡る舟が上陸した地点だったから、何かと賑やかな界隈であったことだろう。
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(歌川広重が描いた待乳山)

 この待乳山聖天というのは別称で、寺としては本龍院という名の、浅草寺の子院の一つだそうだ。それならば、今日の散歩の最後に浅草寺にも寄ってみよう。と言いながら、私たちは浅草寺への道の途中で店に入り、抹茶のソフトクリームで一休み。昨今の浅草には本当に多くの外国人観光客が集まり、今日も観光バスが続々と到着しては、中国語やスペイン語の騒々しい一団を吐き出している。

 京成関屋駅を起点にした隅田川沿いの今日の散歩。スマホのアプリが計測したここまでの歩行距離は約6.5kmだった。4月の下旬に私が膵臓がんの手術を受けてから約5ヶ月半。転移を防ぐための抗がん剤を服用しつつ、体力の回復に努める過程の中にいるのだが、このところは体調も安定し、今日も何の問題もなく家内と二人で散歩を楽しむことが出来た。浅草寺の観音様にそのことを報告し、感謝の気持ちと共に頭を下げる。

 観音様を背にして本堂の階段を下りると、賑やかな境内には引き続き様々な言語が飛び交っていた。

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四つのチェロの響き [音楽]


 金曜日の夜遅くに帰宅すると、A4サイズのごく軽い封書のような荷物が宅配便で届けられていた。封を切ると、内容物は1枚の音楽CDだ。それは、私がインターネットでHMVのサイトから8月22日に注文を入れたものだった。

 私のお目当ての物はその時点ではHMVに在庫がなく、取り寄せになるので出荷まで二週間程度の日数が必要とのこと。今年の7月にフランスで発売されたばかりの新譜だが、もう品薄なのだろうか。その「二週間程度」が過ぎた9月7日にHMVからメールが来て、商品をまだ手配中なので出荷が遅れるとのこと。そして9月23日にもう一度メールの配信があり、依然として手配中ということだった。

 確かに音楽のジャンルや企画の内容からすると、それほど多数の売上があるとも思えないから、これは気長に待つしかないのかな。そう思ってゆったり構えていたところ、10月5日になって「商品を発送しました。」というメールが入り、翌6日の夜までに配達されたのである。たかだか2,000円ぐらいのCD1枚の注文にこたえるために一ヶ月半ほどの時間をかけて、欧州と日本との間でいったい何人の人たちが動いてくれたのだろう。ネット通販で便利な世の中になったとはいえ、何だか申し訳ないような気持ちになってしまう。

 遅い夕食を簡単に済ませ、夕刊にもざっと目を通した後、私はベッドサイドのCDプレーヤーに届いたばかりのディスクを入れて、音量を小さめに調整し、大の字に寝そべって目を瞑る。流れて来たチェロ四重奏の気品に満ちた優しい響きは、忙しかった今週のあれこれを頭の中からデリートするには十分だった。

 男女二人ずつのチェロ奏者によって構成される、フランスのポンティチェッリ四重奏団。私が選んだのは、彼らがJ.S.バッハ『オルガン小曲集』を4台のチェロで演奏するという、ちょっと風変わりなアルバムである。
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 偉大な作曲家である以前に偉大なオルガニストでもあったJ.S.バッハは、その65年の生涯のうちに約250のオルガン曲を作曲したという。その圧倒的な質と量はまさに「綺羅、星の如く」と形容すべきバッハのオルガン曲の作品群において、45曲の小品によって構成される『オルガン小曲集』は些か地味で目立たない存在ではあるが、時にじっくりと耳を傾けてみると、これがなかなか味わいのある作品なのだ。いずれも教会でコラール(ルター派の教会で会衆によって謳われる讃美歌)を歌う前の前奏曲として作られたものである。

 ベルリンのドイツ国立博物館へ行くと、このバッハの『オルガン小曲集』の原本が保存されているそうだ。縦15.5cm x 横19.0cmというから、B5(18.2cm x 25.7cm)よりもまだ一回り小さいサイズで、全184ページの冊子。その最初のページには次のようにバッハ自身の言葉が記載されているという。

 「オルガン小冊子。修行中のオルガニストにコラールを展開するあらゆる技法の手ほどきをすると共に、ここに収録されているコラールをペダルを完全にオブリガートで演奏する事によって、ペダルの使用に習熟する事を目的としている。至高の神にのみ栄光あれ、また隣人はこれによって教え導かれます様に。作者は現アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」

 バッハのこの肩書からすると、彼がケーテンという小さな町に居住していた1717~23年の間に書かれたことになるが、これら45曲のかなりの部分は、それ以前に彼がヴァイマールで宮廷礼拝堂のオルガニストを務めていた1708~17年の間に作曲されたそうだ。その当時は、この『オルガン小曲集』の前文に書かれているような教育目的ではなく、おそらくは自分の仕事のために書きためておいたものではなかっただろうか。更には、ずっと後の1740年代、彼のライプツィヒ時代にも一部の作品に手を加えていたというから、足掛け30年以上の期間にわたって編集された作品群なのである。

 私はキリスト教徒ではないし、キリスト教への一般的な知識も極めて浅いから、これは今までに読んだ本の受け売りでしかないのだが、それによるとクリスマスの四週前の日曜日から、教会暦と呼ばれる一年間のカレンダーがスタートするという。そこには各日曜日の行事や様々な祝日が定められていて、例えばルター派の教会では、それぞれの日の礼拝時に歌われるコラールの数が全部で51曲。その他の様々な機会に歌われるコラールが全部で113曲。合わせると164曲のコラールがあるそうだ。

 バッハはその全てにオルガンによる前奏曲を作ろうとして、必要な数のページを『オルガン小曲集』の中に用意し、音符を書き込む五線を引いていたという。だが実際に作曲されたのは、日曜・祝日の礼拝用のものが35曲、その他の機会に使われるものが10曲、計45曲であった。(BWV(バッハ作品番号)でいうと599~644の46曲なのだが、633と634(最愛なるイエスよ、われらここに)が同じ作品の新旧バージョンなので、一般には全45曲とされている。)
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 教会暦に従えば、クリスマス前の四週間は待降節(アーベント)と呼ばれ、クリスマスの準備をしてイエス・キリストの降誕を待つ期間である。それが始まるのが12月の最初の日曜日(待降節第一主日)だ。バッハの教会カンタータ第61番 『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』(Num Komm, der Heiden Heiland) BWV61 はこの日の礼拝のために作曲されたもので、『オルガン小曲集』の第1曲もこれと同じタイトルを持つオルガン用の短い前奏曲BWV599となっている。

 バッハが従事していた教会では、まずオルガンでこの曲を奏でた後に61番のカンタータが始まったのだろう。大いなる祝祭気分はクリスマスに取っておいて、ここでは人々を慎ましくも厳かな信仰の世界に導き入れる、そんな曲想の前奏曲になっている。まずはパイプオルガンの演奏で原曲を聴いてみよう。(Helmut Walchaの演奏によるもの)


 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
(『マタイによる福音書』第24章37~44)

 さて、これに対してポンティチェッリ四重奏団の演奏はこんな風だ。

 教会の中の厳粛な雰囲気とは異なり、私たちにはもっと身近な、優しさと共に気品に溢れた音色。このアルバムは終始こうした味わいで、肩の力を抜いて聴くにはぴったりだ。HMVのサイトには「・・・これは癒されます。」と書かれていたが、今風に言えばそういうことなのだろう。そして、キリスト教の教義や教会行事に対する知識を抜きにして純粋に音楽として聴いてみても、更には当初の指定とは異なる楽器での演奏を試みても、バッハの作品の音楽性は少しも揺らぐことなく、むしろ驚くほどの包容力を見せる、そんなことを改めて認識させてくれるアルバムである。

 この『オルガン小曲集』の中で人気の高い第24曲、『おお人よ、汝の大いなる罪を嘆け』(O Mensch, bewein dein Sünde gross) BWV622 は私も大好きなので、この記事にもポンティチェッリ四重奏団の演奏の一端を貼りつけておこう。受難節に歌われるコラールのための前奏曲なのだが、その安らかなメロディーが何とも魅力的で、私の命が尽きる時にはこんな音楽に包まれていたいと思うほどだ。

 そして、このBWV622と並んで愛好される作品が『主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる』(Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ) BWV639だ。以前にもこのブログに書いたことがあるが、1972年公開のソ連映画『惑星ソラリス』のテーマ曲として使われたことで一躍有名になった前奏曲である。深い悲嘆や悔い、或いは諦念を思わせる重厚なパイプオルガンの響きとは趣の異なる、エレガントにして高い精神性を保つチェロの響きの重なりは、目の前のことにばかり囚われている私たちの頭の中を解きほぐし、目を閉じて静かに呼吸を整えることの大切さを教えてくれている。

http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2017-08-30

 注文を入れてから一ヶ月半ほどを待ち続けた甲斐があった。聴き込んでいくとバッハの音楽がまた一つ好きになること必至のアルバムである。

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再会(開)の秋 [自分史]


 「膵臓がんとは穏やかじゃない、大事(おおごと)じゃないですか。ショックです。(中略)日本へ帰国したら、とにかくご連絡します。何としてもお会いしたい。」
 
 中学・高校時代の級友だったA君からそんなメールを貰ったのは、9月13日の早朝のことだった。

 A君はもう30年以上もカナダのトロントで暮らしていて、日本とカナダの文化交流を深める仕事を一貫して担ってきた。私が今、高校クラス会の幹事をしていて、11月に開く予定のクラス会関係のメールを彼にも送った時、海の向こうからのA君の参加はなかなか難しかろうからと、今年の4月以降に私の体について起きたこともそのメールを通して伝えておいた、それに対して反応してくれたのである。彼はたまたま親御さんの介護の関係で9月27日から一週間ほど東京に滞在する予定にしており、その間に是非会いたいとのことだった。

 A君も私も、区立の小学校から受験をして同じ中学に入り、高校でも同じクラスだったから、長い付き合いである。電車通学が始まった中学時代、彼は五反田から、私は渋谷からそれぞれ山手線に乗って学校へと通った。だから、帰り道に渋谷まで一緒になることが多かった。A君は最近、故石岡瑛子のポスターの展覧会をトロントで手掛けていて、往年の渋谷PARCOに関連した作品に囲まれているうちに、私たちが共に通学していた頃を思い出したようだ。「ハチ公口の方へ下車していく貴兄の学生服の後ろ姿が石岡ポスターと重なるような気がします。」とも書かれていた。

 昭和40年代の半ばというと、東京五輪大会に続く高度経済成長によって渋谷の街の様相が一変した時代である。建設の槌音は絶えず、朝の駅の混雑は殺人的。その一方でPARCOに象徴されるような新しい消費文化も芽生えていたが、それとは対照的に、駅のガード下ではまだ傷痍軍人がアコーデオンを奏でていた。そんな風に時代の光も影も共に鮮やかで、独特のゴチャゴチャ感の中から絶えずエネルギーを発散し続けていたのが渋谷という街だった。私たちはそんな時代に中学・高校時代を共に過ごしたのである。
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 高校に進んだ時、A君と私は山岳部に入部した。やはり中学で同級だったT君も入部したので、山岳部の私たちの代は中学の同級3人になった。普段は学校の中でのトレーニングや装備の点検と扱い方の習熟などが部活動の中心だが、年に6回ほどあった合宿では山の中にテントを張って暮らす訳だから、山岳部とは一つの生活共同体であり、運命共同体とも同義語のようなものだった。そして、前述のように私たちの代の同期は3人だけだったから、この3人が喧嘩をしてしまっては共同体そのものが成り立たない。私たち3人の間ではそれぞれが最も力を発揮する領域を自ずと棲み分けるようになり、「三本の矢」ではないが私たちなりにバランスを保ちながら、山での運命を共にしていたのだった。今から思うと、山の中という非日常を舞台にして実に貴重な体験をさせてもらったものである。

 今回、そのA君をいたく心配させてしまったのは私が送ったメールのせいなのだが、ともかくも来日中に是非会いたいと言ってくれているのだから、これは是非T君にも声をかけよう。社会に出てからは随分と長い間、T君も私も山からは遠ざかっていたが、8年ほど前から他の同級生たちにも声をかけて度々一緒に日帰りの山に出かけるようになり、年に1回ぐらいは泊まりでも山へ行っている。その繋がりから、中学同級のOさんも紅一点でA君との会にジョインしてもらうことになった。

 9月30日(土)の夕刻。表参道から少し路地裏に入ったところにある少々隠れ家的な居酒屋に席を取り、私たち4人は三々五々集まった。

 「やあ、どうもどうも。」
 「久しぶり!元気そうで何より。」
 「変わらないねー。」
 「今回は心配かけて申し訳ない。」

 顔を合わせた時に第一声として何と発すべきなのか、事前にはそれなりに悩んでいたものの、会ってしまえば、そこからはもう成り行きに任せるより他に自分をコントロールしようがない。というより、旧知の仲間の間では儀礼など最初から無用なのだ。中学を卒業して今年でちょうど45年になるのだが、そんな時空を一瞬のうちに飛び越えて、私たちは昔の教室の中の私たちに戻った。

 Oさんも含めて私たち四人は、当然のことながら卒業後はそれぞれに異なる道に進み、異なる分野で人生を過ごして来て、還暦を過ぎた今も幸いなことにそれぞれの仕事を続けている。だからこそ、同じ話題一つをとってみても思考のアプローチはそれぞれに異なるし、そこには各自が歩んできた人生が自ずと裏打ちされている。まるで一つの山を四つの異なるルートから登っているようで、ああ、なるほど、そういう見方もあるんだということを教えられて、何とも刺激的なのだ。そして、そんな風に自由闊達に意見を交わし、異なる考え方を認め合うリベラルさが、私たちの学校の校風でもあった。「昔の教室の中の私たちに戻った」というのは、基本的にそういう意味である。
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 思い出話の中心は、何といっても高校一年の秋合宿のことだった。1972(昭和47)年の10月10日前後のことだ。私たちの高校は二期制だったので、前期と後期の間に一週間程度の秋休みがあった。例年その時期に高校山岳部は縦走合宿を組んでいたのである。その年の計画は、南アルプスの3,000m級の山を三つ越えるという野心的なものだった。

 前夜に中央本線の最終の長野行き普通列車に乗って、甲府で下車。予約していたタクシーに分乗して南アルプスの玄関口・広河原に到着。そこのコンクリート製の東屋に寝袋を敷いて短い仮眠を取り、早朝から山を目指した。二年生の部員が多かったので、引率のOBも含めて私たちは総勢14名ほどのパーティーになっていた。
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(1972年10月 高校山岳部秋合宿のルート)

 初日は極めて順調。好天の中、広河原から白根御池を経て日本第二の高峰・北岳(3193m)に登り、更に進んで北岳山荘の前で幕営(当時は「北岳稜線小屋」という名前だったはずだ)。25kgほどの大荷物を抱えながら、初日にいきなり標高差1,500mのルートを登り切ってしまった。勿論、山の上からの眺めは申し分なかった。

 第二日、この日も終日好天。二つ目の高峰・間ノ岳(あいのたけ、3189m)を越え、三峰岳を経て新たな尾根へと入る。仙丈ヶ岳(3034m)と塩見岳(3047m)を結ぶ「仙塩尾根」と呼ばれるこのルートは実に山深く、南アルプス北部では最深部といっていいだろう。素晴らしい秋の紅葉と豪華な山の眺めの中を私たちは歩き続け、北荒川岳(2698m)を越えた南側の尾根上に幕営地を選んだ。今では幕営禁止になっているはずの場所だが、少し下ると水場があったのではないかと記憶している。尾根の西側は崩壊の激しい地形だった。

 異変が起きたのは三日目の朝だった。二年生の一人が寝袋の中から起き上がらない。高熱を発して意識がなくなっていたのだ。山に入る前、冷え込んだ広河原で仮眠を取った時に風邪を引いたのを、そのまま登山を続けたために風邪をこじらせて肺炎を起こしたようだった。よりによって、ここは南北いずれも3,000m級の山が立ちはだかっており、意識のない病人を下山させる術は私たちにはない。直ぐに救援を求めねばならなかった。

 私たちは三日目に予定していた行動を中止し、救援を求めるための二人一組のパーティー三つを編成。それぞれが直ぐに出発した。第1組は塩見岳を越えて塩見小屋へ。第2組は少し戻って新蛇抜山から大井川の源流へ下り、池ノ沢小屋へ。そして第3組は前日歩いてきたルートを戻って熊ノ平小屋へと走る。総勢14名の所帯だからこそ、こうした手分けが出来たのだ。そして、極めて幸いなことに同行のOBの一人が医大生で、病人にずっと付き添い、水に溶かした解熱剤を意識のない本人の口にスプーンで入れる等の処置をして下さった。

 私は二年生のMさんと第3組として熊ノ平小屋へ急いだ。この日も終日好天で、真っ青な秋空の下、燃えるような紅葉に包まれていたはずなのだが、事情が事情だけにそれを楽しんでいる余裕はなかった。それでも、これは後から知ったことなのだが、結果的にはこの熊ノ平小屋から無線で農鳥小屋を経由してメッセージを伝えてもらったことが、下界への第一報になったようだ。

 第1組と第3組はそれぞれ山小屋への連絡を済ませて幕営地に帰還。第2組は池ノ沢小屋からそのまま沢沿いの山道を二軒小屋まで下り、静岡へ出ることになっていた。その日の午後、静岡県警のヘリが私たちの幕営地を目指して飛んで来て着陸を試みたが、無理だったようで引き返して行った。その夜は二人ずつ二時間交代で看病。医大生の先輩は殆ど眠らずにおられたのではなかっただろうか。
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(北荒川岳幕営地付近の地形図。星印が幕営地の位置)

 第四日の早朝、東の方角からヘリの爆音が聞こえて来た。皆がテントを飛び出すと、農鳥岳から南へ延びる山の尾根を越えて、一機のヘリが一直線に私たちの上空をめがけてやって来ようとしていた。ハイマツを掻き分けて高い場所に上り、皆で大きく手を振ると、ヘリは明らかに私たちを視認していた。そして、轟音を立ててテントの近くに着陸。それは陸上自衛隊のヘリだった。何と、茨城県の土浦から飛んで来てくれたという。中から乗員が現れて、燃料が限られているので素早く行動するよう求められ、私たちは寝袋に包まれたままの患者を急いでヘリの真下に運ぶ。すると、それはテキパキとした手順で収容され、ヘリは静岡市内の病院を目指してあっという間に飛び去って行った。

 物事の展開のあまりの速さに、私たちはしばらくの間茫然としていたのかもしれない。だが、少なくとも病人の救助は何とか叶った。私たちは笑顔を取り戻し、テントを撤収して行動を再開。その幕営地からよく見えていた塩見岳のピークを越えて、三伏峠の小屋の前で幕営。入山から四日目のこの日も奇跡的に好天が続いていて、やっと景色を楽しむ余裕が持てた私たちは、塩見岳からの山の眺めを胸に刻んだ。
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(塩見岳山頂から、越えて来た山々をふり返る ー カシミール3Dにて再現)

 翌日の第5日はさすがに雨。だが、この日は三伏峠からの下山だけである。山道が終わってからの8kmの林道歩きは辛かったが、ともかくも東京に帰り着くことができた。ヘリで静岡市内の病院に収容された先輩は、そこでしばらく療養されており、日曜日に皆で静岡までお見舞いに行ったことをかすかに覚えている。世の中の多くの方々のお世話になってしまったが、ともかくも全員無事のハッピーエンドを迎えられたのは何よりだった。そしてこの出来事への反省から、高校山岳部では山へ持って行く医薬品リストや応急マニュアルを整備し、部費を集めてトランシーバーを購入することになったのだった。無論、合宿場所の選定にあたっても、緊急の際のエスケープ・ルートなどが常にチェックの対象になった。

 あの時に患者への応急処置と私たちが取るべき行動について、一貫して的確な判断を下された医学生の先輩は、その後は大学病院に勤められ、日本における救急医学の第一人者になられた。そして、あの時に発病された先輩は、そのことがきっかけになったのかどうか、自らも医学部に進まれ(しかもその大学では山岳部に所属されて)、神奈川県で今も医師として活躍を続けておられる。当時高校一年生だったA君・T君・私の三人にとっても、この秋合宿での体験が色々な意味で人生の「肥し」になったことは確かである。

 思い出話は尽きないが、時間には限りがある。私たちは表参道の居酒屋での会をお開きにして、渋谷駅までゆっくりと歩いた。そして、制服姿で通学していた当時とはまるっきり変わってしまった渋谷駅のハチ公口で、再会を期してハグを交わす。生きている限り、この友情は大切にして行きたい。
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(あの幕営地からずっと見えていた塩見岳)

 翌10月1日(日)の朝8時前、京王線高尾山口の駅前で5ヶ月ぶりに山仲間のH氏と再会。昨夜のA君との会でも一緒だったO女史を含めた三人での軽い山歩きにこれから出かける。

 この春に私が膵臓がんの手術を受けることを知らせて以来、H氏には何かにつけて気遣いをしていただき、入院中も色々と励まされたものだった。退院後も7月末頃まで私は体調が安定せず、そもそも運動はまだ制限されていたのだが、8月の後半から次第に食欲と体力が回復し、ちょっとしたジョギングが出来るようにもなっていた。無論、週末の山歩きも術後は封印したままだったのだが、リハビリを兼ねてそろそろ軽いコースならどうか、ということでH氏が約3時間の高尾山往復に誘ってくれたのである。今日は朝から秋晴れのいい天気だ。

 平坦な舗装道とは異なり、形状の複雑な山道を歩くにはちょっとしたコツが要る。高尾山なんて何ほどのことはないと思いがちだが、こうして久しぶりに山に入ってみると、高尾山の稲荷山コースはこんなに木の根が張った山道なのだということを改めて認識することになった。
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 リハビリ目的だから、息が上がらないよう、とにかくゆっくりと歩く。今まではすっ飛ばすように歩いていた山道も、こうして一歩一歩踏みしめるように歩いてみると、あたりから聞こえて来る秋の虫の音や木漏れ日に輝く緑が何とも愛おしい。
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 コースタイムよりも若干ゆっくり目の計画を立ててはみたが、自然体で歩いていると、コースタイムほども時間はかからない。8時に高尾山口を出て、稲荷山で長めの休憩を取りながらも、9時40分には高尾山頂の少し先にあるモミジ台に着いてしまった。計画上、今日はここまで。私としてはまだ腹五分にも満たない感じではあるが、ゆっくりゆっくりと活動の幅を広げていくのがリハビリの極意であるようなので、初回はこの程度にしておくべきなのだろう。今日はよく晴れて、丹沢連峰の眺めが爽やかだ。標高600m近辺の低山でも、それなりの秋が始まっていた。
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 お目当ての富士山だけは何となく雲の中である。それに、まだ冠雪が始まっていないので、見えていたとしても少し迫力に欠ける。次に来る時にはその頂上付近の雪を眺められるだろうか。
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 モミジ台のベンチでフルーツを食べながら展望を楽しんだ後、どこかの動物園のような賑わいの高尾山頂を経て下山路へ。木曜日に降った雨が日陰ではまだ十分乾いておらず、下りは滑りやすいので、予定していた琵琶滝コースはやめて、舗装された薬王院の参道を下る。コンクリートを踏みながらの下山は味気ないが、それでも今の私には両側の山の緑がありがたい。手術を受ける前も、今年に入ってからは忙しくてずっと山に行けてなかったから、山歩きは実に10ヶ月ぶりのことになる。その分だけ、自分には山の緑への飢餓感があったのだろう。年間3百万人が訪れる今や一大観光地の高尾山だが、目を向けてみればまだまだ緑は豊かだ。そんな緑に久しぶりに触れた半日。今日はH氏に感謝である。
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(混雑する高尾山頂にも、それなりの秋が。)

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 膵臓がんの手術を受けてから5ヶ月と一週間。今現在は(メニューは選ばざるを得ないものの)概ね人並みの量の食事が摂れるようになり、それなりに体力も回復して、会食や国内出張、そして今日のように軽く体を動かすイベントにも参加出来るようになった。この春以来会えなかった人々、出来なかったことに対して、この秋は私にとって「再会」、そして「再開」の時である。オーバーペースにならないよう、自分の体を客観的に見つめながら、人々や物事とのご縁を大切にして行こう。

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北の守り神 [散歩]


 JR仙台駅から、車体に石ノ森章太郎の懐かしいアニメ・キャラクターが描かれた電車に揺られること30分。本塩釜駅で高架のホームに降り立つと、午後の爽やかな秋空が広がっていた。

 出張先での仕事が早めに終わり、後は東京に帰るだけ。自分一人だし、日暮れまでにはまだ少し時間があるから、折角ならばそれを利用して宮城県の地理にも親しんでみようか。そう思い立ったが吉日、私は仙石線の電車に飛び乗ってここまでやって来た。駅の直ぐ先には港も見えて、ちょっと遠くまでやってきた気分になる。
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 塩釜という地名は、製塩用の「かまど」を意味する普通名詞から来ているそうだが、それならば漢字は「釜(かま)」ではなくて「竈(かまど)」のはずだ。現に自治体の名前は塩竈市だし、私がこれから訪れる予定の神社は鹽竈神社という更に古風な表記になっている。人間が生きて行くために不可欠な塩。この地域に限らず、かつては日本の津々浦々に「塩竈」が見られたことだろう。(因みに、英語の”salary”(給与)の語源はラテン語の”salis”(塩)なのだそうだ。)

 名勝・松島の島々を抱く内海に面した塩竈はもとより平地の少ない所で、埋立地がつくられる以前は数々の丘陵が海に迫る地形だった。古代に東北地方南部(福島県・宮城県・山形県の一部)を陸奥国と呼んで支配を広げつつあった畿内の中央政権は、政治・軍事上の拠点として多賀城国府を建設(724年)。塩竈はその国府の外港(国府津(こうづ)と呼ばれた)としての役目を担い、その海に向かって西側から岬のように突き出した丘陵の上には、創建の年は不明ながら陸奥国の守護神として鹽竈神社が置かれた。(国府から見て鬼門の方角に神社が置かれているのが興味深い。)この神社(宮)と国府(城)が「宮城」の地名のもとになったと言われるぐらいだから、今回私が訪れている地は、宮城県のルーツと言ってもいいのだろう。
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 そんな経緯があるので、鹽竈神社は陸奥国一宮である。諸国一宮の中で、東北地方太平洋側ではこの神社が最北なのだ。機会があれば是非一度訪れてみたいと思っていた。
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 本塩釜駅から西方向へ400mほど歩くと、道路の北側に大きな鳥居が現れた。それが鹽竈神社の東参道の入口で、参道はそこから丘陵の尾根を緩やかに登っていく。平安時代に奥州藤原氏の三代目・秀衡が開いたとされる道で、敷石は石巻から運ばれたという。平日の午後だから、あたりは実にひっそりとしたものだ。草むらではヒガンバナの赤色が鮮やかなアクセントを見せている。
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 やがて正面に再び大鳥居が。シンプルながらも品格のある扁額を見上げて、思わず一礼。やはり陸奥国一宮は鳥居からして違うなあ。
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 その鳥居を潜って直進すると、やがて左側に手水舎(てみずや)があり、そこで手と口を清める。そして鹽竈神社へと上がる階段の手前には「皇族下乗」の立て札が。そういえば、先ほど乗って来た仙石線には、本塩釜の二つ手前に「下馬(げば)」という名前の駅があった。それは、鹽竈神社へのかつての参道を行く人は、そこで馬を降りて歩かねばならなかったことに由来するのだそうだ。それほどの参拝客を集めた陸奥国一宮は、王政復古を迎えた明治の世になっても皇族に下馬を求めたということか。
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 そこから更に鳥居を潜り、向かって右の唐門を経て鹽竈神社の境内へ。まずは正面の左右宮拝殿へと向かう。お祀りするのは左が武甕槌(タケミカヅチ)神、右が経津主(フツヌシ)神。いずれも「出雲の国譲り」で大国主命(オオクニヌシノミコト)と談判をした武勇の神様だ。後に神武東征の際にも天皇を補佐し、更には蝦夷(東北地方)平定も行ったとされる。
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(二神を祀る左右宮拝殿)

 中央政権側で武威をふるった二神それぞれに頭を下げた後、この拝殿の右側、それまでとは90度右の方向に建つ別宮拝殿へ。別宮というと、何だか本館に対する別館のような響きがあるが、実はこちらの方がメインの神様、すなわちこの神社の主祭神である鹽土老翁(シオツチオヂ)神と向き合う場所なのだ。

 この神様は高天原から降りて来た瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に自らの国を早々に差し出したとされ、他方では海幸彦から借りた釣針をなくして途方に暮れた山幸彦の前にも現れている。また、この神様が「東に良い土地がある」と述べたことが神武東征のきっかけになったとされ、武甕槌神・経津主神による蝦夷平定にあったてはその先導役を務め、その後もこの地域に残って人々に製塩業を伝えたという。
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(別宮拝殿)

 「塩」=「潮」ということからなのか、鹽土老翁は潮流を司る海路の神様ともされていて、海に囲まれたこの国の風土にいかにも適した国津神(くにつかみ)である。そして、山幸彦や神武天皇に因むエピソードから考えると、海路に限らず物事を進めるための正しい道へと導いてくれる神様であるようだ。今の日本では突如として衆議院選挙が行われるようで、与党も野党も右往左往しているが、こんな時にこそ鹽土老翁神の御導きがないものだろうか。

 塩竈神社への参拝を終えて再び「皇族下乗」の立札まで戻ると、鹽竈神社の境内に隣接してもう一つ別の神社がある。それが志波彦神社だ。ご祭神は志波彦(シワヒコ)神で、これは記紀に登場するような神様ではなく、農耕や国土開発を司る地元の神様。要するに鹽土老翁よりももっとローカル色の強い国津神なのだろう。この神もやはり武甕槌神・経津主神による蝦夷平定に協力したとされるが、実際には平定(or征服)された地域の人々を代表する「地霊」のような存在であったのかもしれない。
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(志波彦神社拝殿)

 志波彦神社は、元々は岩切という、もっと内陸部に建てられ、927年に完成した延喜式(律令の施行細則)にも名神大社として記載があるという。だが中世には廃れてしまい、火災にも遭って、江戸時代には他の神社に合祀されるほどだったという。それが明治4年に突然国弊中社に格上げされ、社殿を造営しようにもスペースがないので、明治7年に陸奥国一宮・鹽竈神社の東隣に遷祀されるという、何とも破格の処遇を受けることになった。そして、終戦後に社格制度がなくなるまで、「志波彦神社・鹽竈神社」を一体のものとして国弊中社というステータスが与えられていたのである。

 以前にもこのブログに書いたことがあるが、この志波彦神社が鹽竈神社の隣に遷祀された翌々年の明治9年に、明治天皇による東北・函館巡幸が行われている。明治初年の戊辰戦争に加え、版籍奉還や廃藩置県、地租改正などの大改革が続いたこの時期に、明治天皇自らが民の前に姿を現し、働く人々を慰撫して回ることは、生まれたばかりの近代国家に安定をもたらす上で極めて重要なイベントであったのだろうと、私は想像している。だとすれば、地元を代表する志波彦神を祀りながらも他の神社に「居候」せざるを得ないほど廃れていた志波彦神社に社格を与え、陸奥国一宮と同格に扱うという施策が明治天皇の巡幸前に行われたことにも、そうした政治的な配慮があったのではないだろうか。

 鹽竈神社では、かつて東北を平定したとされる武甕槌神・経津主神の二神が概ね鬼門の方角を背にしており、主祭神の鹽土老翁神は東側の海を背にしている。国の中央から見た場合に、それがまさに陸奥国の守護神たる構造なのだろう。そして明治7年に造営された志波彦神社では、ご祭神が北北西を背にしている。中央の神様と地域の神様が横に並んで共に北を守るという構造。このあたりにも、戊辰戦争を経た後の明治新政府の思いが表れていると言ったら考え過ぎだろうか。
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 私たちが神社を訪れて拝殿に向かった時には、10円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手の後にありったけのお願い事をするのが普通のパターンだ。しかしながら、参拝というのはお願い事をするものではなく、本来は神様に対して誓いを立てることなのだそうである。確かに、日本の神様は何かお願いごとを叶えてくれるのではなく、神前で誓いを立て、自らを律しながら生きていく私たちを、姿は見えないけれどいつも近くで静かに見守って下さる存在なのだろう。
 
 私はこの春に病変が見つかり、生涯で初めての大きな手術を受けた。現在もまだ治療中であるし、この先の余命がどうなるかも、今はまだ何とも言えない。そして家族や友人、会社の同僚をはじめ、多くの人々に心配をかけ、多くの人々のお世話になってしまった。そうであれば、今日こうして二つの神社を訪れた私がご祭神に対して行うべきことは、自分の延命や病気快癒のお願いではない。自分に残された命が続く限り、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当に生き、人々との繋がりを大切にし、何よりも家族をしっかりと守って行くという誓いを立てることだろう。そして、その通りに出来るかどうかを神様に見ていただくしかないのである。そんな神々が神社だけではなく、森の中の大きな木立にも、清らかな沢の流れの中にも、更には家々の竈の火の中にもおわす私たちの国は、何と恵まれていることだろう。

 志波彦神社の境内を後にすると、遠くに松島方面の海の眺めが広がる一角があった。1689(元禄2)年の春、門人・河合曾良を伴って「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、5月8日(現在の暦では6月24日)にこの鹽竈神社を訪れている。その当時、志波彦神社はまだここにはなかったはずだが、松島の方向には今と同じ眺めがあったのだろうか。丘の上だけあって、よく晴れた今日も風が涼しい。
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 さて、志波彦神社から鹽竈神社の南側に回ると、急な坂を202段の石段で降りて行く道がある。これは下界から見ると、丘の斜面を直登して鹽竈神社の境内へ最短距離で上がるルートで、表参道と呼ばれている。その急登ぶりは何やら東京・芝の愛宕神社にある「出世の石段」のような趣で、今では鹽竈神社で一番の「パワースポット」などと呼ばれているようだ。しかし、手水舎も通らず境内に直接上がってしまうルートを表参道と呼ぶのはいかがなものだろうか。
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(表参道の急な石段)

 そのパワースポットの石段を一気に降りて道路に出る。後は本塩釜の駅へ戻るべく、のんびりと歩いて行けばいい。途中、味噌・醤油の醸造元の店先に小さな石碑があり、6年前の東日本大震災の時に津波がここまで押し寄せたことを示している。多島海の構造を持つ松島湾があるために、塩釜は津波の勢いがだいぶ緩和された地域ではなかったかと想像するのだが、それでもこんな所まで津波が達したとは。
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 駅に戻る前に、大通りを少し外れて塩釜の街中を歩いていた時に、興味深いものに一つ出会った。

 陸奥国一宮として人々の信仰を集めて来た鹽竈神社。その麓には神社の別当寺として室町時代に法蓮寺という寺が創建され、江戸時代には大いに栄えていた。先ほどの東参道入口の鳥居を潜ったすぐ先に位置していたようで、芭蕉や曾良もそこに宿泊している。ところが、明治の初年に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に、この法蓮寺は廃され、幾多の破壊を受けて仏像や仏具類も散逸してしまった。当然にして諸堂も打ち壊されたのだが、その内の本堂の向拝(本堂の正面階段上に屋根がせり出した部分)を多賀城にある寺が譲り受け、本堂の玄関として長年使用して来たところ、2006年になってその本堂も建て替えの対象となり、向拝も一緒に解体・廃棄の運命にあった。それに対して、塩釜の市民グループなどによって向拝の保存運動が起こり、2008年に塩釜の酒造会社の新社屋の玄関として使用されることになったというのである。
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(見事に保存された法蓮寺の向拝)

 因みにその酒造会社とは、江戸時代中期から御神酒(おみき)酒屋として鹽竈神社との関係が深かった、あの浦霞を造る佐浦酒造である。新社屋の隣にはレトロな姿をした浦霞の販売店もあった。折角だから中を覗いて行きたいところだが、私は病気治療中のため、もうしばらくはアルコールを控えねばならない。店に入るとロクなことにならないから、今回はその外観だけを楽しませてもらうことにした。
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 本当にその日に思い立って、仙台から電車で30分だけ足を延ばしてみた塩釜の街歩き。小さな街にもなかなか深い歴史があることを、改めて思った。

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