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大雪 [季節]


 明け方に目が覚めると、まだ暗い窓の外では道路沿いの植え込みがうっすらと白くなっていた。

 2月8日(土)は東京23区を含めた関東南部も大雪になる。前日からテレビのニュースが繰り返しそう伝えていた。降り始めは土曜日の未明と言われていたが、窓の外の様子はまさにその通りだ。

 起き出したのは7時を過ぎた頃だったが、リビングルームも窓に近づくと外の寒さが伝わって来る。ベランダに出てみると、東京ではあまり見ることない粉雪が頻りに舞っていた。

 それから、家族と共に暖かい食べ物で食卓を囲む。一家四人、土曜日の今日もそれぞれ外に出る用事があるのだが、終日雪だというからなるべく早く帰って来よう。そんな話をしていた。

 私は午前中に神田末広町で一件だけ用事があり、10時過ぎに出かける。用件そのものはあまり時間がかからずに終わったので、そこから雪の都心を御茶ノ水駅まで歩くことにした。登山用の防寒具に身を固め、軽登山靴を履いてきたから足元も万全だ。粉雪が舞い続ける外を歩いても寒くはなく、むしろ体の中がホカホカしてきた。

 神田明神の前を通りかかる。御神殿の前に建つ朱塗りの随神門は、屋根から雪が落ちるからというので、早くも通行規制になっていた。元日の初詣には毎年欠かさず訪れている明神さまも、その雪景色を眺めるというのは、もしかしたら初めてかもしれない。
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 大通りを左に曲がると、その先は神田川にかかる聖橋だ。その手前の左側に、湯島聖堂へと続く道がある。雪を踏みながら階段を降りて行くと、聖堂はモノトーンの世界の中にあった。孔子像も、この雪の中ではさすがに寒そうだ。
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 正午を過ぎて帰宅。暖かいスープを飲みながら改めてネットのニュースを見てみると、東京の天気予報は「吹雪」とか「暴風雪」とか、今までに見たことのないような表現になっている。今日は一日中雪で、夕方からは風が強くなり、降雪のピークは午後9時頃から日曜日の未明にかけてだそうだ。ここまでの天候は、まだ序の口なのだろうか。
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(日本気象協会の天気予報)
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(Yahooの天気予報)

 私はそれから、静岡県に住む旧友のN君の携帯に電話をかけた。彼が勤める果樹研究所の一般公開イベントが明日の日曜日に予定されていて、高校時代の同級生4人で出かけることにしていた。柑橘類が専門の研究所で、世にも珍しい種類のものを幾つも見学できるそうだ。

 N君はその前は広島県にある研究所に長くいて、ブドウやカキの栽培に携わってきた。そんな風だったから、私は高校を卒業後、N君とは殆ど会っていない。だから明日の機会を楽しみにしていたのだが、東京では今夜もずっと雨が降り続き、明日の午前中まで強風が続くとなると、新幹線を含めた交通機関にも今日以上に影響が出るのではないか。そう考えると、非常に残念だが明日の静岡行きは見送りにした方がよさそうだ。彼に電話をかけたのは、そのことを伝えるためだった。

 電話の向こうからは、学生時代と少しも変わらないN君の快活な声が返ってきた。
 「東京は雪すごいみたいだね。明日は電車動かないかもしれないよ。無理することないんじゃない?」

 彼が清々しくそう言ってくれて、私は救われた気分になった。この果樹研究所の一般公開イベントは年に一回だけだから、また来年のこの時期を待たねばならないが、次回こそは是非とも実現させたいものだ。その時の再会を期して、N君との短い会話を終えた。

 午後3時半を過ぎた。窓の外は、予報通り風が出てきたようだ。粉雪が真横に流れて行く。暗くなる前に、もう一度外の様子を見て来ようか。

 家から最寄りの地下鉄の駅へ向かう。その駅は半地下構造になっていて、ホームの東側は地上に出ている。その先には車両工場を兼ね備えた基地があり、その様子を橋の上から眺められる場所がある。だいぶ雪が降り積もったためか、この日は保線の職員が線路に出ていた。
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 駅前に出て大通りを渡ると、昔の東京教育大学の跡地が公園になった場所がある。「教育の森」と名付けられたその公園は緑豊かで、私は散歩に行くことがよくあるのだが、この雪ではさすがにひっそりとしている。いつものベンチもすっかり雪が積もり、山手線の内側の景色とはちょっと思えないほどだ。
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 そして、そこから更に奥へ入っていって坂を下ると、占春園という庭園がある。細長い池があるのだが、夏ともなると鬱蒼とした緑に覆われて昼間も薄暗い。その池は、降りしきる雪の中で冬の姿を見せていた。
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 立春を過ぎて、今は午後5時を過ぎてもまだ明るい。結局、午前中の行動に加えて、午後も雪の中を二時間近くも歩き回ることになった。だが、その間に風はどんどん強くなり、最後はビニール傘が壊れかけるほどだった。

 この日の24時間の気象データを確認してみると、やはり午後から次第に風が強まり、日没の頃から積雪量が多くなっていったことがわかる。結局、東京都心の積雪量は27センチに達し、1969(昭和44)年3月12日に30センチを記録して以降、この45年間で最大になった、
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 一夜が明けて、9日の日曜日は午前中に青空を取り戻し、太陽が輝いて案外と気温も上がったので、街中の雪は急速に姿を消していった。それでも交通機関は乱れ、特に高速道路は各地で閉鎖が続いている。予定していた静岡行きを断念した私は、都内の実家へ行き、玄関前の雪かきで半日を過ごす。そうしたことに時間を取られた人が多かったのか、都知事選挙も投票率は低調だったようだ。

 某鉄道会社の広告のキャッチコピーが、どこからか聞こえてきそうだ。
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鬼は外 [季節]


 一週間前の週末に京都にいて、産寧坂を歩いている時に、あるお店のショーウィンドーがふと目にとまった。日没に近い時刻で、外がたそがれて行くにつれて、控えめな照明を受けたウィンドー・ディスプレイが少しずつ浮かび上がって行く頃だった。

 窓の内側に横長に置かれていたのは、桝一杯に盛られた大豆と、柊の葉、そして鬼の面。そうか。年明け以来、自分は目の前のことにばかり気を取られていたが、今日は1月25日だから、あと9日で2月3日の節分なのだ。
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 日本には二十四節気があるから、凡そ15日毎に次の季節がやって来る。だから、巡り来る次の季節を先取りし、その兆候を鋭敏に感じ取りながら「旬」を楽しむ、そういう研ぎ澄まされた季節感を、我々の祖先たちは何よりも大切にしてきた。その感覚は、21世紀を生きる私たちにも受け継がれている。節分の翌日は立春。真冬の寒さが続く中にも、太陽の輝きに微かな春を見つけたくなる頃だ。

 そして、私がその節分のディスプレイを眺めた日から6日後の1月31日に、アジアの国々では旧正月(旧暦の元旦)を迎えた。会社の中でも、中国を相手にしている部署は、今週後半からはずいぶんと静かになった。

 立春と旧正月。私たちはこの二つを混同してしまいがちだが、前者は太陽の位置で、後者は月の満ち欠けで決まるから、全く別箇のものである。

 立春は冬至と春分の中間点だ。例年、冬至は12月21日か22日、春分は3月20日か21日だから、その中間点といえば、殆どの年は2月4日で、たまに3日や5日になったりする。これは太陽の位置で割り出されるから、毎年変わらない座標軸のようなものだ。これに対して月の満ち欠けは1サイクルが29.5日だから、新月の日を毎月1日と定めても、太陽暦の座標軸に対してはその位置がどんどんずれて行く。
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 そこで、二十四節気では一年を12の中気と12の節気に分け(個々の中気と節気は半月ずつずれている)、陰暦のずれを補正するために、立春の次の「雨水」を含む(或いは立春から啓蟄までの節月を含む)、新月から次の新月の前日までの1サイクルを「正月」と定めた。「二月」以降も同様の定義をして、月の満ち欠けがその定義に当てはまらなくなった時には、閏月を設けた。

 現代の私たちは常に太陽暦で物事を見ているから、今年の旧正月は1月31日だとか、それが去年は2/10であったとか、そういう言い方をしているが、それとは逆に旧暦の方を座標軸にしてみると、どんなことになるだろうか。

 日本史上、旧暦で最後の正月を祝ったのが明治5(1872)年である。そこから遡ること50年の間に、立春が旧暦の何月何日に訪れたのかを示したのが、以下の図である。これを見ると、立春が最も早いケースは12月15日、最も遅いのは1月15日で、ちょうど一ヶ月の幅がある。
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 (ふる年に春立ちける日よめる)
 「年のうちに春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ」

 『古今和歌集』の巻頭を飾る在原元方のこの歌は、元旦よりも先に立春が到来した年のことを謳っているのだが、ではそれは珍しいことなのかというと、決してそうではない。先ほどの図で見た通り、例えば1823~72年までの50年間に、在原元方が詠んだような「年内立春」は27回起きている。そして、立春と元旦が重なるケース(「朔旦立春」という)が2回、「新年立春」が21回だから、むしろ年内立春となる年の方が実際には多いのだ。

 大政奉還、龍馬暗殺、王政復古の大号令など、幕末日本の歴史が大きく動いた1867(慶応三)年は年内立春で、旧暦では前年(1866年)の12月30日が立春だった。その5日前、つまり12月25日に孝明天皇が36歳で崩御している。(痘瘡が原因と言われるが、一旦快方に向かった病状が24日に急変していることから、毒殺説が絶えない。) そして、朝廷が大喪を発表したのは12月29日、ということは立春の前日だから節分の日であったことになる。

 そしてその翌年、いよいよ明治改元となる1868年は新年立春の年で、旧暦の1月11日に立春がやって来た。この年は正月早々の1月3日に鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まり、1月6日には徳川慶喜が軍艦で大坂を脱出。節分の日にあたる1月10日、新政府が征討大号令を発して、慶喜と松平容保の官位剥奪を決めている。「鬼は外、福は内」という掛け声も、それが何を意味しているのかは、日本の中でも二つに分かれていたのではないだろうか。

 2月2日の日曜日、東京では正午近くまでは小雨がぱらつくような空模様だったが、午後には急速に青空が広がり、ポカポカ陽気になってきた。薄着で外に出てみると、我家の前の桜並木に一本だけ植えられた河津桜が、その花を開き始めていた。
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 天気予報によれば、明日の節分はずいぶんと暖かくなるようだが、その翌日の立春の日には再び寒気がやって来て、前日比で10度ほども気温が下がるという。まさに「春は名のみ」で、寒さの季節はまだまだ続くのだろうが、それでも日は少しずつ長くなり、太陽の光も力強さを増している。

 明日は、家族四人が揃うのは夜遅い時刻になりそうだが、いつものように、皆で元気に豆捲きをしよう。

一の酉 [季節]

 三連休二日目の日曜日。朝から曇で、時折薄日が差している。雨が降ることはなさそうだが、「文化の日」にしては少し気温と湿度が高い。

 昼前から家内と二人で都内の実家に顔を出し、年老いた母の相手をして二時間ほどの時を過ごす。先月に82歳の誕生日を迎え、何をするにもゆっくりゆっくりだが、まずは穏やかに暮らしているようで、何よりだ。

 母と家内が和服の整理に取り掛かっていた間、私は庭掃除や垣根の様子を見て回ったが、庭の花水木の紅葉が始まり出していた。少し郊外にある分だけ、都心のそれよりも色付きが進んでいるようだった。
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 この日は、今年の暦では「一の酉」にあたる。二の酉は15日、三の酉は27日でいずれも平日だから、祝日の今日、この後にでも行ってみようか。

 開運招福・商売繁盛を願うお祭で、江戸時代から続く年中行事の一つ、酉の市。海外赴任から帰ってきて、この十年、家内と二人でなぜか毎年足を運ぶようになった。この日だけ買うことができるシンプルな熊手のお守りは、我家の玄関先に置かれるインテリアの一つである。

 埼京線に乗って恵比寿で降り、メトロに乗り変えて一駅東へ行くと、広尾だ。午後4時少し前。地上に出て有栖川記念公園の方向に歩いて行くと、周辺の店のオープン・テラスは多くの外国人たちで賑わっている。近くには大使館も多いから、その関係者もいるのだろうか。私たちに比べればだいぶ薄着で、欧米人にとって東京の11月は温暖なものなのだろう。

 有栖川記念公園を左手に見ながら、道は上り坂になった。南部坂という名前のつく坂道である。

 「今は港区とひとくくりにされているが、昭和22年(1947)に現在のかたちとなるまで、港区の区域は芝区、麻布区、赤坂区の三区に分かれていた。この旧三区の地形は対照的である。いちばん東に位置する芝区は、おもに台地の縁から東の低地沿岸部を占め、いちばん西側の赤坂区は大部分が台地上なのである。
 芝区と赤坂区にはさまれた麻布区は、台地の中に深い谷がいくつも入り組み、都心部で一番複雑な地形を呈していた。現地を訪ねると、たしかに麻布は坂だらけの町だと実感する。」
(『地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇』 竹内正浩 著、中公新書)

 その通りで、家内と二人で歩き始めた南部坂は、広尾側からみた麻布の入口である。

 国土地理院のHPには1/25,000の「デジタル標高地形図」が掲載されており、5mメッシュの標高データが色分けされているので、地表の地形をビジュアルに理解することができる。それを使って麻布の界隈を眺めてみよう。
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(麻布の高台を上り下りする散歩道)

 ♪春の小川はさらさらいくよ♪ という唱歌のモデルになったという渋谷川。今では暗渠になっている箇所も多いので、その流れを意識することもないのだが、明治通りに沿って、渋谷橋のあたりからはほぼ真東に流れている。それが、古川橋で90度左に曲がって北を向き、麻布十番に近い一の橋で90度右に曲がって再び東を向く。要するに、渋谷から広尾や麻布の高台の南側・東側をぐるっと回るようにして、東京湾へと流れ出ているのだ。広尾と麻布の間を北に向う谷、今では外苑西通りが西麻布交差点を経て青山墓地の西側へと走るその谷も、渋谷川の支流が刻んだ地形であるように見える。

 さて、その麻布の高台に取りかかる南部坂。この地名は、現在は有栖川記念公園になっている場所が、江戸時代には南部藩(陸奥盛岡藩)の下屋敷だったことから来ているという。公園の名前の由来は、言うまでもなく有栖川宮だ。元々は皇女和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁(たるひと)親王が、維新の際に「官軍」の江戸進撃の「東征大総督」に自ら願い出て就任。その御殿が威仁(たけひと)親王の時にこの地に移転となったという。要は、「賊軍」の屋敷が明治政府によって取り上げられ、後に御用地になったということだろう。
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 坂道を登りきり、しばらく道なりに進むと、程なく「仙台坂上」という信号のある不規則な形の四つ角に出る。そこからは下り坂だ。この仙台坂も、同様に仙台藩の下屋敷が坂の途中にあったから名がついたものだ。今ではその場所は韓国大使館になっているので、坂のあちこちに警察官が待機している。
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 文久元年(=1861年)に作成された『東都麻布絵図』という古地図がある。そしてその地図上には、仙台藩下屋敷から坂を隔てて北側にある善福寺の境内が大きく描かれている。「麻布山入口」という交差点で仙台坂を左に折れると、その善福寺の参道が左手にある。
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(筑波大学付属図書館のHPよりDBを利用)

 弘法大師によって開かれ、後の時代には親鸞とも所縁があるという善福寺は、幕末の開国時には境内に米国公使館が置かれたことがあり、公使のタウンゼント・ハリスもここに住んでいたという。福沢諭吉の墓があることでも有名だ。先ほどの5mメッシュの標高地形図でその場所を確認すると、ちょうど麻布の高台の縁に境内が広がっており、ビルが立ち並ぶ以前の景観をそこから想像すれば、「麻布山」善福寺という山号も、それほど大袈裟でもないのかもしれない。

 その善福寺の前を通り過ぎると、程なく麻布十番の商店街が現れる。東側が緩やかに下がった地形になっていて、それを下って行けば、東京メトロ南北線の麻布十番駅のある一の橋付近だ。幕末の「策士」清河八郎が幕府の刺客によって討たれたのが、渋谷川の流れが大きく変わるこの場所である。(将軍上洛の警護のために幕府が集めた浪士隊を、清河は尊王攘夷の挙兵に使おうとした。)

 今日はそこには寄らずに北へ向かって進もう。やがて、新一の橋から来る広い道路を渡ったところが十番稲荷神社である。午後の4時半を過ぎて周囲はもう薄暗くなったから、酉の市を示す提灯がよく目立つ。が、神社そのものは小ぶりなものである。
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 鳥居のある短い階段を上り、家内と並んで二礼二拍手一礼。今の会社を巡る環境はなかなか厳しいので、私は祭神の日本武尊に「難局打開」をお祈りする。家族の安寧を願う家内の祈りに耳を傾けて下さるのは、もう一体の祭神である倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)であろうか。前者は第12代景行天皇の皇子であり、第14代仲哀天皇の父でもあるというから、皇族だ。そして後者は、この神社が十番「稲荷」神社であるように、いわゆる稲荷神のことである。
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 戦後になって二つの稲荷神社が「合併」して出来たという十番稲荷神社。場所もその時に現在の地になったというから、古地図には見られないものだ。本来は大鳥神社で行われる酉の市がここでも開かれるようになったのは、大正13年からだそうだ。そして、昭和8年からはお正月の「港七福神」のスポットにもなっていて、ここは「宝船のお社」なのだそうである。

 元よりお稲荷さんと日本武尊を祀っていたというから、新たに神様を勧請して来た訳ではなく、酉の市や七福神などの行事を後から呼び込んだことになる。それが大正以降のことだとしても、今こうしてこの神社の年中行事として根付いているのは、日本人にとって、季節感というものが何よりも大事なものだからではないだろうか。それによって季節を感じるイベントが、きっと何か欲しいのだ。

 「春を待つ ことのはじめや 酉の市」 (宝井 其角)

 一の酉にしては何やらまだ暖かく、関東では「木枯らし一号」もまだ吹いていないが、今年の残り時間と「今年中にやるべきこと」のリストとを見比べる時期が、いよいよやって来た。

夏を涼しく [季節]

 「言うまいと思えど今日の暑さかな」

 7/6(土)に関東甲信地方の梅雨明けが発表され、まだセミも鳴いてないのにいきなり猛暑が始まってから一週間。例年より半月ほども早い梅雨明けだから、私たちはどうもまだ今一つ、体の準備と覚悟ができていなかったようだ。今週の突然の暑さは、ちょっとこたえた。

 海の日の三連休も、一泊ぐらいでどこかへ出かけようかという話を家内としてもいたのだが、関東以西はどこへ行っても猛暑で、北日本は雨続き。まあ無理に遠出をすることもないかと思って、結局は都心でなるべく涼しく過ごすことにした。

 土曜日の夕方、日中のそれぞれの予定をこなした家内と私は、久しぶりに外で食事をするために、エアコンの効いた電車で恵比寿へと向かう。駅を出てからは10分近く歩くのだが、外は昼間の暑い大気がまだ澱んでいるから、いつもの早足はやめて、今日はゆっくりと歩こう。まだ日没までにはだいぶ間がある、夏の土曜日のこんな時間帯は、何事ものんびりしていて悪くない。

 お目当ての店に着くと、いつものカウンターではなく、階段を上がったメゾネットのような小さなスペースに案内された。そこは茶室のような造りになっていて、小さな床の間があり、障子には月明りに見立てた照明が施されている。隠れ家というほどの密室性はないが、二~三人でちょっと気分を変えるにはいいスペースだ。

 私がわりと気に入っているこの店は、基本的にはワインを楽しむ場所なのだが、食材や食器に和のテイストをさりげなく取り入れているところに特徴がある。それも何か薀蓄がある訳ではなくて、普段ワインのツマミに出て来るようなメニューの中に、ふと気がつくと和のセンスが取り入れられている、そんな感じだ。そして食器の使い方にも、一見洋風のメニューもなるほどこんな風に和食器に盛ることが出来るんだ、と気づかされることが多い。
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 例えば、ここの名物のオードブルは「おばんざい」の取り合わせ。プチトマトとマッシュルーム、それにブラック・オリーブのマリネは、見た目は洋風でも味付けにはどこか和風の要素があるし、ラタトゥーユのような一品はきんぴら炒めのゴボウとオクラだ。キッシュもパイ生地を使わず、和風の卵焼きの外側をカリッとさせてパイ生地のように見せている。そして、どれも実に美味だ。茶室風のしつらえの中で、ワインと共に楽しむ和のテイストは、視覚的にも味覚的にも私たちに涼しさを与えてくれている。

 続いて私たちが楽しんだ生野菜のバーニャカウダも、大きな陶器の鉢に涼しげに氷が敷き詰められ、和洋様々な野菜のスライスが並ぶ。そして、別の陶器の中で温めたバーニャカウダ・ソースをそれにつけて食べるのだが、ソースはかなりあっさりとした味付けで、ニンニクも控えめ。どこか日本伝統の「舐め味噌」を思い出す。しかもそれは、生野菜に味をつけるというよりも、生野菜が持つ本来の甘味・旨味を引き出すために用意されているかのようだ。
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 この店のように、外国の食文化に和のテイストをマッチさせるような試みは、特に珍しいものではない。そもそもこの国の歴史自体が、舶来の文物に触れた時にそれをしなやかに受け止めた上で、くるりと技を返して別物に仕立て直し、この国の風土に合ったものにしてしまう、そうしたことの積み重ねであったとも言える。芥川龍之介が言うところの「造り変える力」が、まさにそれだ。

 ミシュラン・ガイドの星の累計で東京が世界最多の街になったというのも、むべなるかな。舶来の食文化をこの国の風土の中で美味しく楽しむことは、日本人が昔から得意として来たことなのだから。

 恵比寿で美味しい食事を楽しんだ翌日の日曜日。家内と私は丸の内の三菱一号館美術館へ浮世絵の展覧会を見に出かけた。

 「珠玉の斉藤コレクション」と題されたこの展覧会は6月の後半から始まって9月8日まで、三期に分けて多数の浮世絵が展示されるという。第一期を見られるのは7月15日までで、「浮世絵の黄金期」として鈴木春信や喜多川歌麿の作品を数多く楽しむことができる。
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 江戸時代の初期、17世紀の後半にはまだモノクロ(墨摺絵)だった木版画が、それから百年ほどの年月をかけて、赤い顔料で塗りを加えた丹絵・紅絵となり、三色の紅摺絵へと発展。それが18世紀後半の明和期になると、多色刷りの錦絵が登場して大きく開花した浮世絵。鈴木春信の美人画が江戸中で人気を集め、伝説の名プロデューサー・蔦屋重三郎によって喜多川歌麿や東洲斎写楽の絵が世に送り出された。今回の第一期の展示はそこまでの期間のものだ。

 この美術館は、エアコンがよく効いていて実に涼しい。そして、改めて感じたのだが、浮世絵の淡い色彩が日本の今の季節に向いている。さらりとした色合いが視覚的にとても涼しげなのだ。これぞ、この国の風土に根ざしたこの国の文化というべきか。

 「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居は、堪へ難きことなり。」

 『徒然草』の有名な一節にあるように、この国は夏の暑さとどう折り合っていくかが、遥かな昔から大きな課題であったようだ。日頃はついついエアコンに依存しがちだが、私も少しは先人の残した工夫、和のテイストを活用しながら、暑い夏と向き合ってみようか。

 来週の火曜日は暦の上の「大暑」。東京の最高気温は32度との予報が出ている。

メイフラワー [季節]

 前夜は音を立てて降っていた雨が明け方までに上がり、5月の第二日曜日の東京は、光のまぶしい朝を迎えた。ベランダに出てみると、この春に植えて我家の一員になった草花が早朝の斜めの光を浴びて、今日もみんな元気そうだ。
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 日曜日にしては少し早めの朝食を簡単にとった後、私はクルマを飛ばして都内の実家に向かい、9時半頃から母を連れ出して外に出た。母は80を超えてさすがに足腰も弱ってきたので、最寄りの駅へ出るにも、まずはゆっくりゆっくりだ。無論私はそういうつもりで来たから、途中にある小さな公園のベンチで一休みしてもらったりしながら、母のペースに従って歩く。よく晴れて太陽がまぶしく、住宅地の花と緑が素晴らしい季節だから、ゆっくり歩くのも悪くない。

 駅に着いてエスカレーターを上がると、ちょうどタイミングよく下りの急行電車がやって来た。日曜日の朝10時頃の下りだから、急行といっても十分に座れる。それから20分ほど電車に揺られ、西所沢で向かいのホームから出る電車に乗り換えて、西武球場前の駅に10時半過ぎに着いた。野球の試合がある日ではないが、今日はこの駅まで池袋から臨時の特急も出ているようで、大勢の乗客が駅を出て球場に向かっていく。皆のお目当ては、球場の中を埋める五月の花である。
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 「第15回国際バラとガーデニングショウ」が、昨日からこの球場内で開かれている。世界中からやって来た1000種、100万輪のバラの花が会場を埋め尽くしているのだそうだ。
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 バラの花が好きな母は、以前にも何度かこのイベントに足を運んだことがあるそうだが、歳をとったせいもあって、この数年は行くこともなかったという。父の晩年は何かと母も振り回されていたから、それどころではなかったのだろうか。その父が、一昨年に他界。直後に母も病に倒れたりしていたのだが、その後の生活もようやくペースが安定してきたようで、今年は展示会を見に行く余裕ができたのかもしれない。

 実家の庭の一角に育つ白いバラの隣に場所が空いているから、そこに異なる色のバラの新しい苗を植えて育てたいと母は言う。今日の展示会は、バラの愛好家たちが自慢の花を持ち寄って作った長い長いバラの回廊があるので、そこを眺めて気に入ったバラがあったら、それと同じ品種の苗を会場内の販売店で買い求めることができるそうだ。「母の日」といえばカーネーションだが、今日は好きなバラの苗を母に選んでもらう、その手伝いをするのが私にとっての「母の日」の奉公になりそうである。

 好天の日曜日とあって、会場内は大変な賑わいである。そして、花の展示の方法にもずいぶんと力が入っている。バラの鉢が展示されているだけでなく(それだけでも相当な数だが)、米国の絵本作家・ターシャ・テューダーの庭や、オードリー・ヘプバーンが愛した英国庭園などが再現されていて、本当にこれがドーム球場の中?と思うほどだ。子供の頃によく見かけた日本の町中の垣根の風景などには、多くの人々がカメラを向けていた。
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 さて、母のお目当てのバラは、ようやく決まったようだ。バラの回廊の中に展示されていた、発色のいいサーモン・ピンクが印象的な、ふんわりとした形の花で、品種は「ジャルダン・ドゥ・フランス」というのだそうだ。私が展示品をデジカメで撮ったものを会場内の園芸店で見せると、同じ品種の苗が置いてあるという。それを買い求め、出口で宅配便の手続きをすれば、今日の目標は達成だ。
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 会場内の無数の花に囲まれて過ごした二時間。あっという間だったような気もするが、年老いた母をあまり長時間歩かせる訳にもいかない。外に出てまぶしい光の中を再び駅までゆっくりと歩く。炎天下ともいえるような初夏の陽気になったので、脱水症にならないようにしっかり水を飲んでもらい、トイレを済ませ、座っていけば乗り換えなしで実家の最寄駅まで行ける各駅停車を選んで母を乗せた。最寄駅まで行けば、駅前からのバスで実家の近くまで行ける。

 母のペースで行くのだから今日は時間を気にしないと決めてはいたが、それでも13時半には実家に戻って来られたのだから、順調に行った方だろう。母が用意してくれた軽食を二人で食べ、明日届くバラの苗を植える場所に私が穴を掘ったりしながら過ごして、15時前に実家をクルマで出ることになった。

 途中、母の依頼で妹夫婦の家に届け物をして、私は16時に帰宅。二人して出かけていた家内と娘も程なく帰って来たので、それから簡単なオツマミ類を作り、キャンプ用のベンチを出してきて、私たち三人は日没までの時間をベランダで過ごした。

 5月12日の東京の日の入りは18時36分だから、夕方はいつまでも明るい。一日続いた晴天。この時間になってもなお空は澄みわたり、吹く風が心地よい。眼下の緑とベランダの花を眺めながら赤ワインを楽しむ至福の一時。いい季節になった。
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 1620年の秋に、英国南西部のプリマスから新大陸を目指した102人の清教徒たちが乗った船は、メイフラワーという名の貨物船だった。既に何年も前から就航していた船だったようだから、メイフラワー号がその清教徒たちを載せることになったのは全くの偶然だったのだろうが、信仰の自由を求めて新天地を目指した人々にとって、「五月の花」とは「希望」の代名詞であったのかもしれない。

 それぐらい、五月の花は素晴らしいものである。

春の嵐 [季節]

 新年度に入って最初の金曜日、4月5日は二十四節気の「清明「」にあたる日になった。

 「万物がすがすがしく明るく美しい頃」という意味だそうで、改めて周囲を見渡せば、桜に続いて様々な花が咲き、木々の緑も日々勢いを増している。中華文化圏ではこの清明節に先祖の墓参りをするのだそうだが、名目は何であれ外に出かけるにはいい季節なのだろう。

 だが、清明という語感とは裏腹に、日本の春は風が強くて埃っぽい日が案外と多いものだ。この週末もまさにそのパターンで、東シナ海で発生した二つ玉の低気圧が、急速に発達しながら東へと移動。日本列島は風の強い日が二日続いた。(いや、北日本ではまだ続いている。)
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 金曜日の時点での天気予報では、東京地方には土日とも傘マークが付いていた。確かに土曜日は午後からずっと雨で、昼頃は一時風も強かったので、なるほど予報通りなんだなあと思っていたが、日曜日の朝早く目が覚めると、窓の外は光が眩しい。カーテンを開けると、街路樹は風に揺れているが、空は真っ青に晴れ上がっている。そうなると、じっとしている手はない。

 今日は家族それぞれに予定があるので、私は一人、11時前から散歩に出かけることにした。このところ体を動かす機会も限られていたから、今日はせっせと歩くことにしよう。強い南風のために気温はぐんぐんと上がり、この時点で既に20度を超えていた。初夏のような陽気で、Tシャツ一枚でも歩けそうだ。
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 家の前の並木道では既に桜吹雪も終わり、いつの間にか緑が濃くなり始めた。紅白のハナミズキも、サクラに誘われたのか、4月のまだ上旬だというのにもう花を開いている。
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 強風が大気中の塵を吹き飛ばしてくれたのか、とにかく今日の空は青い。遠くはどこまで見えるのか、後楽園の駅前にある文京シビックセンター25階の展望ラウンジへと上がってみると、新宿副都心の高層ビルの左奥に丹沢の大山がしっかりとその姿を見せている。眼下の緑は小石川後楽園だ。他にも大菩薩嶺や奥多摩の雲取山、東の方には筑波山もはっきりと見えていて、何だ、これなら山へ行っていればよかったかと思ってはみたが、まあ今日の場合は都会から山を眺めている方がいいだろう。
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 緑の中を歩きたい私は、それからメトロに乗って青山一丁目へ。青山通りを渡って東へ向かえば神宮外苑だ。名物のイチョウ並木は、初々しい緑が始まったばかり。そして、この広い緑地の中では八重桜がまさに見頃になっていた。だが、風が強い今日は草野球のグラウンドから土埃が上がるので、この付近の散歩はちょっといただけない。
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 外苑から更に表参道に出ると、ここでも姿を見せ始めた街路樹の緑が鮮やかだ。この陽気に誘われて人々が出て来たので、歩道は大変な混雑。それも、洋の東西を問わず外国人が多い。
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 表参道を下り、明治神宮の境内に足を伸ばすと、さすがに原宿駅前までの喧騒が嘘のようだ。そして、ここに来たら拝殿に参拝して終わりでは勿体ない。拝殿から更に代々木側の宝物殿のある緑地へ行ってみよう。そこでは驚くほど豊かな都心の緑を楽しめるのだが、訪れる人は少ない。
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 私が渋谷区立の小学校に通っていた頃、毎年5月の天気の良い日に、図画工作の授業の一環としてこの明治神宮での校外写生会があった。いつもこの宝物殿前の芝生まで皆でやって来て、周囲の景色を描くのだが、その時に、子供心にも明治神宮の新緑は爽やかで気持ちがいいなと思ったものである。そんな遠い記憶が大人になっても体の中に残っているのか、私は新緑の頃の散歩がこの上なく好きだ。
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 久しぶりに外をたっぷり歩いた日曜日の午後。やがて家族もそれぞれの出先から帰って来て、その日の夕食には、今が旬の食材が並んだ。山ウド、コゴミ、ホタルイカ、空豆。そして家内が筍ご飯を炊いてくれた。嬉しい季節だ。その頃には、一日強く吹き続けた外の風も、だいぶおさまっていた。

 「春嵐」や「春疾風」はこの時期の季語だ。「メイ・ストーム」というのも、実は和製英語であるらしい。そして、二十四節気の「清明」の次は「穀雨」だから、雨も降りやすい。まさにお天気次第ではあるのだが、今年もやってきた清らかで明るい季節を精一杯楽しみたいと思う。

咲いた 咲いた [季節]

 三月も半ばを過ぎた。東北・北海道では猛吹雪が続き、積雪量が観測開始以来の最大値を更新するような地域がいくつもあった一方で、日本列島の南半分では春の訪れに加速がついたかのようだ。

 東京では3月8日から10日まで、三日連続で最高気温が20度を超え、中でも10日の日曜日は25.3度と、今年初めての夏日にさえなった。そして二日後の13日には再び20度超え。「お彼岸までまだ一週間ほどあるのに、今年は暖かくなるのが早いなあ。」などと話していたら、「福岡市で桜が咲いた」というニュースが飛び込んできた。

 えっ、もう咲いたの?と誰もが驚いたことだろう。

 桜の開花予想は、気象庁自体は発表をしなくなり、民間の三業者が行っているが、例えばその中でも日本気象協会によるものによれば、第1回の2月7日発表分では、東京の桜の開花は「平年並みの3月25日頃」というものだったからだ。第2回は2月27日、直近では3月6日発表の第3回予想では若干繰り上がって3月23日となっていた。

 例年、福岡と東京では桜の開花日は4日ぐらいしか違わない。ということは、福岡で13日に咲いたのなら東京は17日頃か。案の定、日本気象協会はこの日、東京の開花予想を6日繰り上げて3月17日(日)と改めて発表することになった。
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 3月16日の土曜日。この日の朝の東京は曇っていた。予報では午後から晴れとのことだったが、昼を待たずに空はみるみる晴れて行き、日差しがまぶしい。風ややや冷たいが快適な天候だ。私は午前中に家の用事を済ませ、正午を過ぎてから外を散歩中に何気なくスマホでインターネットのニュースを見たら、「気象庁が本日午前、ソメイヨシノの開花を発表」というヘッドラインが目に止まった。直近の予想から更に一日早まっての開花だった。

 東京の桜の開花日が週末にやって来るというのは、そうあることではない。しかも自分は散歩中だ。そして、確か東京の場合は、靖国神社の境内のソメイヨシノを標本木として気象庁が開花を宣言することになっている。せっかくだから、その標本木を実際に見てみようではないか。私はそれから地下鉄で(途中で乗換が必要になるが)二駅先の九段下まで行ってみることにした。

 九段下の駅から地上に出て靖国神社に向かっていくと、空が広い。それも今日は真っ青な空だ。見上げるような高い台座の上に立つ大村益次郎の銅像も、今日はさぞかし気分のいいことだろう。
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 第二鳥居を過ぎ、一礼をして神門をくぐると、正面の拝殿に向かって並ぶ人々とは別に、右手の能楽堂の前で一群の人々が一本の桜の木の前でカメラを向けていた。それが、気象庁の標本木とされているソメイヨシノの木なのだろう。枝先を見上げてみると、確かに何輪かがきれいに花を開き、風に揺れている。なるほど、「開花」とはこういう状態を指すのか。
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 その日、家に帰ってから少し調べてみると、気象庁天気相談所が記録した、1927(昭和2)年から昨年までの毎年の桜の開花日(東京都心)のデータを見ることが出来た。昭和19年から24年までの、終戦を挟む6年分だけはデータが欠落しているが、今年を加えて81年分のデータだ。「5~6輪が咲いた状態」という、人間の目による観察がベースであるとはいえ、Nが81個もあれば統計としては相応に意味を持つものだろう。
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 これを眺めてみると、桜の開花日が年によって異なる、その振れ幅は案外大きいことが改めてわかる。実は、今年の開花日の3月16日は2002(平成14)年と並んで、この記録を取り始めて以来最も早い開花日なのである。他方、昨年の3月31日というのは、この10年ほどの中では最も遅い部類であった。一番遅かったのは1984年の4月11日だ。

 もう一つ言えるのは、長期的に見て桜の開花日が少しずつ早くなり、特に直近の20年で見ればその早まり方に拍車がかかっていることだ。また、年による振れ幅も昭和の初めより最近の方が大きくなっている。それは、いわゆる「地球温暖化」と関係しているのだろうか。

 実際に年による寒暖の違いが桜の開花日に影響を与えているのかどうか。或る気象予報士の方がコラムに書かれていたことに倣って、元日以降の毎日の最高気温を加算していった、いわゆる積算温度の概念で何年かのデータを比較してみた。(積算するのは毎日の最高気温なのか、平均気温とすべきなのか、また積算する場合に毎日のデータの足切りを行うための基準温度を設けるべきなのかどうか、私にはわからない。あくまでも自分の興味の対象として、専門家が書いていたことに倣ってみただけである。)
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 これを見ると、ここ10年で桜の開花が最も遅かった2012年や、過去最も遅かった1984年は、やはり積算温度が平年を下回ったまま春になった年だ。他方、早咲きのトップ・タイとなった2002年と今年を比べてみると、2002年は明らかに平年より暖かい冬が続いた年だったが、今年は3月5日頃まではほぼ完璧に平年並みだ。その後の10日ほどで急速に暖かくなっている。両者の積算温度の推移はずいぶんと違うように見えるが、開花日は同じだった。

 桜の花芽は、晩秋以降の「休眠」、真冬の寒さによる「休眠打破」、春先の「生成」というプロセスを経て「開花」に至るそうである。例えば上記のような積算気温の概念を用いながら、秋の終わりから春の初めまでの季節の進行状況をより詳しく分析していくことが、開花日を言い当てるためには必要なのだろう。そして専門家の人々は、そうした作業を昔からコツコツと積み上げてきたはずである。

 にもかかわらず、実際の気象は生き物だ。一つとして同じ年はない。今年のように、直前になって開花日予想日が一週間も繰り上がったりするぐらい、桜の開花メカニズムの解明は難しいということだろう。だが、もしそれが100%解明されてしまったら、日本の春もいささか趣を欠くことになるような気もする。21世紀の今もなお、桜の開花日は間際にならないとわからない。だからこそ待つ楽しみがあり、そして花が開いた時の喜びがあるのだろう。

 思い起こせば2年前、東日本大震災の余震に怯え、原発事故の行く末に日本中が固唾を飲んでいた時にも、桜が咲いた。平年より少しだけ遅れたが、いつもと同じ木に桜が咲いた。そのことに私たちはどれほど元気をもらったことだろう。

 メカニズムはまだわからないけれど、それでも花の季節は確実にやって来る。その奥ゆかしさが、いいのだ。やはり、「秘すれば花」である。

 春生まれの私は、春になると妙に体を動かしたくなってしまう。幸いにして今のところは花粉症にもかからずにいる。桜の開花が当初予想よりも10日近く早まってしまったから、これからは忙しいことになりそうだ。

北風と花 [季節]

 私の部屋の壁に掲げた山のカレンダーを見ると、2月16日は「天気図記念日」と書いてある。

 1883(明治16)年のこの日に、当時の東京気象台で手書きによる日本初の天気図が作成されたという。ドイツ人のお雇い学者から指導を受けての作成だったようだが、以後天気図は毎日1回作成されるようになり、この年の夏からは新橋と横浜の停車場にも掲示されたそうである。

 その天気図記念日から昨日でちょうど130年。この国のとりわけ複雑で微妙な気象を解明する天気図は、今や私たちの日々の生活には欠かせないものになっている。特にインターネットが普及してからは、最新の天気図へのアクセスが飛躍的に便利になった。

 その2月16日(土)は、前日に関東周辺に雪をもたらす可能性もあった南岸低気圧が東へ去った後に、西高東低の強い冬型の気圧配置になり、関東では強い北風が吹きつける一日になった。
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 気象庁のHPから東京都心部の気象データ(気圧と風速)を拾ってみると、金曜日に南岸低気圧が通り過ぎ、日付がかわる頃から高気圧が張り出してきて急激に風が強まったことが、如実に表れている。強風のピークは土曜日の午前11時頃で秒速10mを超えていた。その時間帯に私は用事があって都心へ出ていたが、空がごうごうと鳴り、ビルの間を吹き抜ける寒風は何とも強烈であった。沿岸部を走る鉄道には一部に遅れが出たようだった。
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 用事を済ませて昼過ぎに帰宅。その後の家内との約束までに少しだけ時間が出来たので、私はもう一度ダウンジャケットを着込み、近所の植物園へと行ってみることにした。外は寒いが、梅が咲き出した頃である。今週になって、山登りの先輩方から都内各地で梅が開花したとのメールをいただいていたこともあった。(気象庁の発表では、東京で白梅の開花を観測したのは2月3日(日)で、平年より8日遅く、昨年より7日早いそうである。)

 植物園に入って丘を登ると、薬草園の先にある寒桜の木が花を開き始めていた。本格的な春を先取りするような眺めが楽しみで、毎年この時期にこの木を目当てに訪れることになるのだが、今年はなかなかいいタイミングになった。
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(寒桜)

 吹き付ける北風は昼前ほど激しいものではなくなったが、園内はやはり寒い。背の高いズズカケノキやユリノキの枝が大きく揺れている。その、武蔵野の面影を残したような雑木林を抜けて、日本庭園へと坂道を下りていくと、その一角に梅園がある。日本最古の植物園だけあって、ここに植えられている梅は約50種、計100株に及ぶという。今日の時点で開花しているのはまだ半分にも満たないが、それでも白、紅、そして桃色の花が寒空の下で風に揺れながら、かすかに芳香を放っていた。
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「鶯の谷」
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「寒紅梅」
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「扇流」

 気象庁によれば、梅の開花日というのは、白梅を対象に、標本木に5~6輪の花が咲いた状態を指すのだそうだ。そうした統一基準によって、全国の気象官署で季節観測が行われている。それは、ウメ・サクラ・アジサイの開花、カエデ・イチョウの紅葉といった植物の季節観測に留まらず、ウグイス・アブラゼミの初鳴日、モンシロチョウ・ツバメ・ホタルの初見日など、動物の季節観測も行われているという。季節の移ろいが細やかな日本らしい仕事ぶりである。

 因みに、早春といえば「梅にウグイス」だが、南関東では梅の開花日の平年値は1月末である一方、ウグイスの初鳴日の平年値は3月に入ってからだから、梅の花の方が一月以上も早いことになる。
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「未開江」

 他に先駆けて春の兆しを告げる梅の花は、古くから人々に愛されてきたようだ。平安時代の『古今和歌集仮名序』には、
 
 「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

という歌が収められている。

 「難波津に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、今はもう春になったので、咲いたよこの花が。」

という内容のこの歌の「咲くやこの花」には、「梅の花を言ふなるべし」と、編者の紀貫之が注釈を付けているそうである。

 この歌の作者は,、百済からの渡来人で日本に初めて漢字を伝えたとされる王仁(わに)博士だというから、平安時代どころではない。仁徳天皇の即位を寿ぎ、王仁博士が梅の花に添えて奉ったのがこの歌だというから、古墳時代のことになる。古代人にとっても、寒風の中に梅が咲き始めることは春を待つ楽しみの一つだったようだ。

 後に禅宗が日本に入ってくると、寒さの中で真っ先に花を咲かせる梅は悟りの象徴になる。確かに、禅寺へ行くと梅の木が植えられていることが多い。

 「あえて清きを誇らず、薫(かん)ばしきをも誇らない。」
 「じっと世尊が眼をつぶれば、雪中に一枝の梅華がかおる。いまはいずこも茨ばかりだが、やがて春風に繚乱として咲こう。」
 「梅は早春をひらく。」
 「梅の花は古い枝にいっぱいじゃ。」

 道元禅師が宋に学んだ頃の師匠で、梅の花をこよなく愛した天童如浄のこうした言葉に含まれた禅味は、私たち日本人の心にも素直に響くものではないだろうか。
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「長寿」

 高気圧の張り出しは2月17日(日)までで、翌18日は再び気圧の谷がやって来るので、関東地方は雨になるという。奇しくもその18日は、暦の上では「雨水」である。

 私はその日から、仕事で一週間ほど仙台近郊に滞在する予定にしている。咲き始めた梅を愛でている関東とは季節感のだいぶ異なる地域だが、寒さの中にも北国らしい春の兆しを見つけることが出来たらと思っている。

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つかの間の春 [季節]

 目が覚めたら、時計は朝の7時半に近かった。土曜日の朝とはいえ、私にしては寝坊をした方だ。前夜は職場の同僚たちと前からの約束があって、案外飲んだ。帰って着たらバタンキューだった。

 窓の外では、未明に降った弱い雨が上がったようで、道を行く人々は傘をさしていない。そしてコートを着ずに歩いている。ベランダに出てみると、気象予報士が言っていた通り空気が暖かく、これまで続いていた厳しい冬が急にどこかへ行ってしまったかのようだ。

 前日の金曜日から、日本列島は次第に気圧の谷に入りつつあった。低気圧が朝鮮半島から日本海を渡って北海道の北を通過するパターンで、その低気圧の南西側に出来た停滞前線が、これから土曜日にかけて本州の南岸を、ちょうど海岸線に沿うようにして通過するとの予報だ。南風が吹き始めた前日の午後からは気温が上がり、夜の飲み会が終わった後は、コートを脱いで腕に抱えながら家路についたのだった。
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 朝の8時を過ぎて、家族との朝食が始まる。新潟で独り暮らしをしている息子が所用のために木曜日の夜遅くに帰って来ていて、日曜日の昼まで滞在予定だ。正月からちょうど一ヶ月ぶりだが、やはり家族が揃うのはいいものだ。向こうでの息子の暮らしぶりを話題の中心にしながら、四人でなごやかな一時を過ごすことになった。そして、その頃には外の気温は15度に近くなっていた。

 私はその後、昼前に外で一つだけ用事があった。気温は更に上がっている。出かける支度をして外に出ると、雨が上がった後の曇り空で、実に奇妙な暖かさだ。道を行く人々の薄着の度合いが私自身を含めて様々なのは、やはり突然の暖かさに誰もが戸惑っているからなのだろう。

 用事は二時間ほどで済み、帰り道に少々の買い物をして家に向かうと、外はもう青空が広がり始めていた。先週まで続いていた硬質ガラスのような冬の青空とは違って、今日の空は何とも柔らかい色をしている。木々はまだ裸のままだが、背後の空の色が違うだけで木々の様子までどこか春めいて見えるから不思議なものだ。
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 午後3時。その数字は後から知ることになったのだが、この時点で東京都心部の気温は20度を超えていた。東京で2月にこのような暖かさがやって来たのは、1969年の2月13日以来のことで、実に44年ぶりのことだという。そう聞いて、「そうだ、確かにそうだった。」と、私は一人で頷いた。それは私が小学校6年生で、中学を受験する直前のことだった。突然春が来たような、光あふれる暖かな一日。あと数日で受験も終わるというタイミングの中で、外へ遊びに出たい気持ちを封じ込めていたことを、ちょっぴり懐かしく思い出した。

 午後5時。二人仲良く散歩に出かけていた家内と娘が、ご機嫌で帰って来た。地下鉄で二駅ほど先まで行って、そこから歩いて戻ってきたらしい。暖かくて何だか嬉しかったという。そして、或る文献を探しに図書館へ行っていた息子も、そのうちに戻ってきた。再び四人が揃ったから、夕食を作り出しながらオツマミもして、賑やかに夜を過ごそうか。春の気分を少し先取りしようと、安物ではあるがロゼ・ワインを冷やしてあったから。

 後付けで気象データを眺めてみると、ちょうどその頃に東京は気圧の谷から抜けきって、また少しずつ気圧が上がり始めていたことがわかる。
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 翌日の日曜日は節分。朝は再び空気が冷たかったが、その後は案外と気温が上がり、穏やかな日曜日になった。正午を過ぎて、息子はこれから新潟に帰る。つかの間の春が通り過ぎて、向こうは今日から再び曇と雪のマークだ。東京駅まで一緒に出て、JRの改札口で息子を見送る。「それじゃ!」と言って、本人は人混みの中に消えて行った。実にあっさりとしたものだが、現地では楽しく、そして張り合いを持って過ごしているようで何よりだ。春の訪れはこちらより遅いのかもしれないが、頑張って暮らしていって欲しい。

 家内と私は、それから都心で美術展を見に行って、日曜日の午後をのんびりと楽しんだ。

 明日は立春だ。だが、水曜日は再び雪のおそれがあるという。そうした寒さはまだ続くのだが、それでも日時計は着実に春へと向かっていくことになる。実際に、日々の日射量は二月に入るとぐんと上がっていくから、「光の春」という言葉はまさに言い得て妙なのである。
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 一週間後には旧暦の春節がやって来る。そして、次の二十四節気は「雨水」だ。春に向かって、仕事も私生活もしっかりとやって行こう。

雪化粧 [季節]


 午前4時に仕掛けておいた携帯電話のアラームで、目が覚めた。今朝はこの後、家内をクルマで池袋駅まで送り届けないといけない。

 成人の日の今日は、着物の着付けが朝早くからラッシュになる。この二年ほど着付けを学んできた家内は、今日のような時に着付けの補助を行うような立場になって、今朝は5時の始発電車で会場に駆けつける必要があった。

 支度が整ってマンションの駐車場に出ると、外は雨が音をたてていた。それほどの寒さもないから、今日はこのまま雨が続くのだろうか。祝日の早朝、それも日の出の2時間以上も前だから道路は閑散としている。沿道で灯りがついているのはコンビニぐらいのものだ。雨粒に滲むそんな光をワイパーが次々に拭き取っていく。
 「成人の日にこの雨はお気の毒ねえ。」
家内がそう呟いた。

 家内を駅まで送り届けて家に戻って来ても、まだ5時を過ぎたばかりだ。私は横になって、読みかけの本を読み始めたが、いつしか眠りに落ちてしまい、次に目が覚めたのは8時を過ぎていた。窓の外は、降り方が少し弱くなったようだが、まだ雨だった。ひとしきり新聞を読み、それから簡単な朝食の用意をして、娘と食卓を囲む。その時にはもう、雨の代わりに風に舞う白いものがちらちらと見えるようになっていた。寒気が入り始めて気温はどんどん下降していたのだった。
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 食後のお茶でくつろぎ、私は読書の続きだ。今日はこんな天気だから、晴耕雨読の後ろ二文字を決め込むとするか。

 それから二時間ほどが経っただろうか。もう一度窓の外を見ると、雪の降り方がすごい。それも、強風で横殴りの雪だ。道路脇の植え込みはもう真っ白で、木々の枝にも雪が積もっている。今日は交通量が少ないので、車道もだんだんと白くなり始めた。これは案外大雪になりそうな気配だ。

 東京でも一冬に何度か雪の日があるが、休日の昼間が大雪というシチュエーションは久しぶりのような気がする。それならば、家の中でじっとしているなんて勿体ない。私はすぐに防寒着に身を固め、正午からスノー・ハイクのつもりで外を歩き回ることにした。

 徳川将軍家の菩提寺の一つ、小石川の伝通院。普段から静かな境内がすっかり雪化粧をして、何やら時代劇を見ているようだ。
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(小石川伝通院)

 伝通院から安藤坂をそろりそろりと下る。幕末期の老中・安藤信正で知られる安藤家(飛騨守)の上屋敷があったことが地名の由来となったこの坂道は、案外と急である。坂を下りて左の路地に入ると、源頼朝ゆかりの牛天神北野神社。このあたりは人の往来が少なく、踏み跡のない雪の上を歩き続けることになる。
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(牛天神北野神社)

 牛天神から更に商店街を抜けて大通りを渡ると、道はJR飯田橋駅へと続く。休日は午後からホコ天になる神楽坂通りは、クルマが通らない分だけこんな日は雪が積もりやすい。これも案外と傾斜のある坂道なので、人々は足元を気にしながら歩いていた。
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(神楽坂)

 神楽坂下の交差点に立つと、東京にしては久々の大雪が始まっていることが実感出来る。すぐそばのJR飯田橋駅の前から線路を見下ろすと、走って来るE231系の通勤電車もすっかり雪化粧で、いったいどこの鉄道路線か?といった風情である。
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 飯田橋から地下鉄で二駅。降り立った護国寺も雪の中だ。音羽通りと不忍通りのT字路では交通渋滞が始まっている。大塚三丁目へと上がっていく不忍通りの坂道が、もはやノーマルタイヤでは上がれない状況になっていたのだ。その騒ぎを尻目に護国寺の境内に入ると、これまた江戸時代に戻ったような雪景色。石段に積もった雪は10センチ近くあっただろうか。
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(護国寺)

 それにしても大雪になった。街中の見物はこれぐらいにして、実家の母の様子を見て来よう。そこから電車を乗り継いで、私は都内の実家へと向かった。地下鉄とは異なり、地上を走る私鉄には電車の遅れがだいぶ出ていて、普段よりも時間がかかったが、ともかくも午後4時前には実家に到着。ザックに入れておいたゴアテックスの登山用雨具を着て、家の前の雪かきに取り組んだ。

 今は独り暮らしをしている年老いた母。こういう時の雪かきは近所の方々のお世話になっているようだ。平日だと私は手伝いに行けないが、幸い今日は休日である。ちょうど私が作業を始めた直後から、お向かいやお隣から人が出て来たので、四軒ほどで共同での作業となった。こんな時はお互いさま。ご近所とそんな関係でいられるのはありがたいことである。

 晴耕雨読のつもりが、正午からは案外と体を動かすことになった雪の一日。結果的には、寒気が入って東京の気温が一番低かった時間帯に、私は外に出ていたことになるが、スノー・ハイクと雪かきの軽い疲労感が心地よい。午後6時過ぎに自宅に戻ると、着付けの補助の仕事を終えて一足先に帰宅していた家内が、夕食を並べ始めているところだった。

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